コラム
丸善ジュンク堂のPR誌 書標(ほんのしるべ) 2018年9月号
今月の特集は
『あまりに○○な』
『柄谷行人書店』
丸善ジュンク堂のPR誌 書標(ほんのしるべ)。今月の特集ページを一部ご紹介致します。
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今月の特集(一部抜粋)
『あまりに○○な』
一九一六年、「ニイチェ全集」の中の一冊として、生田長江訳『人間的な、余りに人間的な』の上巻が新潮社より刊行された。下巻の刊行は、翌一九一七年である。
この本の原書は一八七八年に刊行されたMenschliches, Allzumenschlichesで、一八八六年に第二版となった際に「さまざまな意見と箴言」を第一部、「漂泊者とその影」を第二部とする第二巻が合わせて刊行された。また、全二巻共通のサブタイトルとしてEin Buch fuer freie Geisterが付されている。一八八六年初版の第二巻が、邦訳の下巻に相当する。
生田長江による翻訳は同じ新潮社から刊行された「ニイチェ全集」に一九二三~二四年に再び上下巻で収められ、一九 三五年には日本評論社から刊行された「ニイチェ全集」にやはり二巻本で収録されているが、タイトルは同一である。
一九三七年の戸田三郎訳による岩波文庫版では『人間的余りに人間的』と「な」が省かれ、生田訳では「自由思想家のための書冊」であった副題が「自由精神のための書」と変更された。
一九四三年の石中象治訳(創元社)は『人間的な余りに人間的なもの』。一九 五〇年の阿部六郎訳(「ニーチェ全集」、新潮社)は『人間的なあまりに人間的な』。ただし、函と帯には「余りに人間的な」と記載されている。『人間的なあまりに人間的な』は奥付の表記である。
一九五二年の浅井真男訳(角川書店)は『人間的な、あまりにも人間的なもの』で、副題は「自由な精神のための書」。一九六七年の池尾健一訳(理想社)は『人間的、あまりに人間的』。なお、現在ちくま学芸文庫に収録されているのは、この池尾訳である。
一九八〇年の浅井真夫訳(白水社)は『人間的な、あまりに人間的な』で、副題は「自由なる精神のための書」。
見てきたように邦訳の数は多く、タイトル/サブタイトルともに、漢字/仮名表記、読点の有無、助詞の有無などに細かな差異はあるものの、すべて原題に忠実に訳されてきたと言ってよい。
一九二七年、雑誌「改造」四月特別号に、芥川龍之介は「文芸的な、余りに文芸的な」を発表した。このときサブタイトルとして、「併せて谷崎潤一郎氏に答う」が付されている。その後同誌五月号、六月号、八月号にも掲載されたが、この年の七月二十四日に芥川は服毒自殺した。死後四年を経た一九三一年になって、岩波書店から単行本化されている。
「文芸的な、余りに文芸的な」はもともと、「新潮」に掲載された合評会で芥川が谷崎の小説「日本に於けるクリップン事件」などに批判を加えたのに、谷崎が「改造」連載の「饒舌録」で反論、それに対する再反論として書かれたものである。
以降芥川の死まで、「筋のない小説」をめぐって、あるいは文芸なるものの本質をめぐって二人の応酬は続いた。二〇一 七年に刊行された『文芸的な、余りに文芸的な/饒舌録ほか』(講談社文芸文庫)には、発端となった谷崎の小説から「新潮」の座談会、両氏の評論、さらには谷崎による芥川の追悼文までが収められており、昭和初期の文壇の耳目を集めた両大家の論争の全貌を見ることができる。
そして、『人間的な、余りに人間的な』と『文芸的な、余りに文芸的な』以降、「あまりに○○な」という言葉は、人文書・文芸書・芸術書などの分野で一種のテンプレートのような役割を果たしてきた。
「愛書家の楽園」では今月、この「あまりに○○な」というタイトルを持つ書籍を集めた特集を行なう。
・・・・つづく
2018/09/01 掲載
