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ジュンク堂書店 難波店書店員レビュー一覧

ジュンク堂書店 難波店書店員レビューを27件掲載しています。120件目をご紹介します。

検索結果 27 件中 1 件~ 20 件を表示

ジュンク堂書店 難波店店員

書店員:「ジュンク堂書店難波店」のレビュー

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女、今日も仕事する 大瀧 純子 (著)

女、今日も仕事する

仕事と人生を自分らしく「重ねる」

男性と真っ向勝負でキャリアをあげていきたい!
という女性にはおすすめしませんが、
働き続けているけれど、なんだかあちこちしっくりこない、
ちいさな不満がこころにいっぱい溜まってしまう、という女性は、
1時間ちょっとだけ、この本にお付き合いください。
特に、30代半ば以上の方におすすめします。
ひとことで表わすとしたら、
「女性のための仕事術」とくくられる本ですが、
思いがけず心地よい読書の時間となることでしょう。
著者は、パートタイムで在宅勤務ができるという条件で選んだ会社で、
雑談中にちょっと提案したことがきっかけで、手探りでサプリメント開発を始め、
今や、オーガニックハーブサプリの会社を経営するにいたった女性。
飾らない口調で語られるエピソードに、同感したり、思わずくすっと笑ったりしながら、気持ちよく働くためのキーワードと前向きな気持ちがもらえます。
批評家・思想家の若松英輔さんのファンも一読の価値がある、、、
かもしれません。

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本の底力 ネット・ウェブ時代に本を読む 高橋 文夫 (著)

本の底力 ネット・ウェブ時代に本を読む

アンカー(錨)としての/文化としての本

猛烈なスピードで拡大していくインターネット空間において、情報は無際限に集積していく。世界は、情報によって徹底的に制御され、リアルとヴァーチャルの境目は今や無い。
一方、コミュニケーションツールとしてのデジタルメディアの進化、人間社会への浸透は、人間の生活時間を占拠し、「ネット依存症」を蔓延させている。
情報量の極端な増大は、それらがもはや情報ではなくなるという逆説的結果に至る。最適な情報に速やかにアクセスできるという保証がなくなるからだ。人気による情報のランキングでは追い付かなくなり、検索エンジンはアクセス者自身のデータを解析して最適解を与える「パーソナル化」をはじめた。今や、人によって検索結果は大きく異なる。しかし、それではアクセス者は自分の身の丈にあった情報しか得られず、知らない世界や、自らを変えてくれる情報に出会うことも出来ない。いったい、何のための情報か?
書物とは、そもそも世界に満ち溢れた情報を繋留するものであった。本の重みは、世界大に拡がりあてどなく浮遊する情報たちのアンカー(錨)たらんがため、文字通り、本の「底力」なのだ。
著者はデジタルメディアを「文明」、活字メディアを「文化」と見る。「文明」は汎用性、効率性、画一性を、「文化」は制約性、独自性、個別性を属性に持つ。
かつて「文化」を逃れ何もないところから始まったアメリカ「文明」による「グローバリゼーション」という名の世界支配に向かって、いま本が反撃の狼煙を上げるならば、その引き当ては正しい。

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歎異抄の近代 子安 宣邦 (著)

歎異抄の近代

多層な読みに浮かび上がる親鸞の〈信〉

近代日本の知識人たちの多様な「親鸞」体験に、思想史家子安宣邦が対峙する。本書は、実に多層的で立体的な読書体験を与えながら、そこに浮かびあがってくるのは、やはり親鸞の〈信〉であった。
 蓮如が封印したといわれる『歎異抄』を現代に再生したのは、暁烏敏である。だが、『歎異抄』の「悪人正機」を強調する暁烏の読みは、己れの罪悪を徹底的に許されるものとして恐れない〈悪人ぼこり〉に陥っており、親鸞の〈信〉とは違う、と子安は言う。
暁烏の〈悪人ぼこり〉の元となっているのは、性欲に由来する罪悪感であり、それは、暁烏の『歎異抄』を読んだ倉田百三の『出家とその弟子』を経て、丹羽文雄の〈愛慾〉小説へと繋がっていく。
 戦後になると、野間宏は〈民衆とともに生きる親鸞〉を書き、〈大衆の原像〉を唱え続けた吉本隆明は、「ただ還相に下降する目をもって〈衆生〉のあいだに入り込んでゆく」親鸞を語った。
 子安は、処女作に『パスカル』、遺稿として『親鸞』を持つ三木清の「親鸞」体験を評価、「弥陀の本願は親鸞一人がためなりけり」に「弥陀即凡夫」の〈根源的な事実〉を見い出す滝沢克己のインマヌエル(神われらとともに在す)哲学に、自らの「親鸞」体験と同じ「重さ」を感じ取る。イエスと親鸞の邂逅である。
 子安の「歎異抄の近代」研究の出発点は、古書展における石和鷹の小説『地獄は一定すみかぞかしー小説暁烏敏』との出遭いだったという。そして、同じく古書店で滝沢克己の『「歎異抄」と現代』を買い求めたことが、最終章に到達させた。『歎異抄』は、そこで子安を待ち構えていたのだ。

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民主主義って本当に最良のルールなのか、世界をまわって考えた 朝日新聞「カオスの深淵」取材班 (著)

民主主義って本当に最良のルールなのか、世界をまわって考えた

民主主義とは、カオスを引き受ける覚悟を言う

チャーチルの有名な言葉、「民主主義は最悪の政治形態らしい。ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話であるが」は、今日益々至言であると思われてくる。
「民主主義
が、命綱ともいえる民意をうまくすくい取れなくなっているのではないか、そんな問題意識をもって朝日新聞の取材班が日本を含めた世界に取材したシリーズ「カオスの深淵」が一冊にまとめられたのが『民主主義って、本当に最良のルールなのか、世界をまわって考えた』(東洋経済新報社)である。
「民主主義」とは、ある国、ある地域に生きる人々が等しく政治的決定権を持つ、文字通り「民が主
の制度である。ただし、古代ギリシアの都市国家と比べ地域の単位も広がり、人口も増大した今日にあっては、往時の「直接民主制」ではなく、「代表民主制」を取らざるを得ない。その時、一人ひとりの意志と決定権は、選挙によって表明され、実現される……筈だ。だが、実際には、選ばれた政治家や行政に問題を丸投げにする「お任せ民主主義」に陥っていることが多い。
「民意」は、一枚岩ではない。「主」である「民」同士で利害が全く対立、衝突することも珍しくはない。それらの対立、衝突がさらに重なりあい、複雑な様相を示すのが通常である。丁寧に議論すること、一人ひとりの権利は平等ということを前提にして解決を図るのは、余りにまだるっこしい作業で、おそらく不可能であることも多いだろう。挙句、「民主主義」である筈なのに「お上」に丸投げすることになりがちとなる。
選挙が盛り上がることも、ある。ただし、それは多くの場合、ポピュリスト的な候補者が勢いづいた時で、主権者同士の議論が活発化したからではない。むしろ、「丸投げ」が更に進んで「強いリーダー」が待望される、というべきだ。
そうした「代表民主制」への反動もある。「選挙じゃない、占拠だ!」と民衆が動いたエジプトのタハリール広場、ウォール街、マドリード・プエルタ・デル・ソル広場の占拠など・・・、そして日本でも、原発への異議を表明する官邸前を中心とした全国的なデモがある。だが、それらが「代表民主主義」を覆したわけではない。
グローバル化した「新自由主義」経済のもと、マネーは利益を求めて世界中を飛び回り、さまざまな国家財政を食い物にする。「民主主義」の制度は、基本的には国家止まりだから、グローバルな市場を左右、規制することはできない。“市場の速さについて行こうとすれば民主主義は制限される。民主主義を尊重しようとすれば市場が社会を窮地に追い込む。民主主義はわなにはまったように見える。”「借金が民主主義を支配する」と言われる所以である。
「国家破綻」を宣告された国は借金返済を最優先させられるが、そもそもその借金は、誰が誰から何のためにしたものなのか?多くの国民にとって、与り知らぬことだろう。それでも、借金の返済は一人ひとりの国民が納めた税金によってなされる他ない。グローバリゼーションの時代には、税率を上げると企業は国外に逃げていくから、なおさら残った国民一人ひとりの負担は重くなる。
そもそも税金こそが市場を支えているのだと、萱野稔人は言う。国民が税によって国の財政を支えることによって、グローバル化した市場に不可欠な紙幣の流通を担保しているからだ。リーマンショック後、金融機関を救い、市場を守ったのも税金であった。
国が税金をどうつかうかを監視し、間違った場合には異議申し立てして軌道修正するのが、主権者たる「民」の大きな役割である。〇か×かを宣告する方法は主に選挙であるが、その選挙が本来の役割を果たしていない。むしろ、選挙があるから重要な政策が決まらず、TPP、原発放棄など大きな問題が敢えて選挙で正面から争われることはないというのが現状である。「蚊帳の外」に置かれた選挙民は、失態を犯した指導者や政党へのバッシングによって溜飲を下げるだけに終わっている。
ハンガリーでは、子育て中の母親は、選挙で2票もてるようにするということが真剣に検討された。常識的には「ありえない」話だが、高齢化社会が進む日本では、将来世代への責任を考えればむしろ合理的で、少なくとも「先送り」政策には大きな歯止めがかかるだろう。一票の格差をずっと取り沙汰してきた日本でこそ、採用されるべき制度かも知れない。
ヘーゲルは、近代市民社会を「欲望の体系」であると喝破した。市民一人ひとりの欲望には相互の整合性などはなく、社会主義計画経済が失敗せざるを得なかったのはそのためだと言える。「欲望のカオス」というべきか。だとすれば、「民主主義」とは、そのカオスを引き受ける覚悟を言うのではないか。そして、出版とは、カオスの中で諦めることなく続けられる真摯な模索に資する議論を供給する営為ではないだろうか?
だからこそ、問いたい。東洋経済新報社は、何ゆえ本書のタイトルを、朝日新聞連載時の「カオスの深淵」から「民主主義って、本当に……」という冗漫なタイトルに変更したのか?
そもそもこの本の出版元が、どうして朝日新聞出版ではないのか?

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メディアとしての紙の文化史 ローター・ミュラー (著)

メディアとしての紙の文化史

メディアとしての紙の、多様で豊穣な役割

夢中になって本を読んでいるとき、人はその素材である紙の存在を忘れている。コンテンツの背景として意識されない度合いが大きいほど、出版用紙の品質は高いと言える。
同様に、メディア史の研究においても、紙は背景に退いていた。メディア史の画期は、常に15世紀のグーテンベルク印刷機の発明であった。
だが、『メディアとしての紙の文化史』(東洋書林)の著者ローター・ミュラーは、はっきりと断言する。“紙の歴史こそは、デジタル技術を応用した蓄積・流通メディアの先史なのである。現在、電子メディアの発達とデジタル化の急速な進展によって変化しつつあるのは、「グーテンベルクの世界」ではなく、紙の時代そのものなのである。”
ミュラーは、“13世紀以降のヨーロッパの製紙技術こそ、活版印刷の普及のための条件であった”という。即ち、活版印刷の誕生のかなり前に、紙の需要は高まっていたのだ。
紙は、素早く書き込むことができ、書いた文字が読みやすい。そして、書いた文字を、パピルスのように洗い流したり、羊皮紙のように掻き落とすことができず、偽造の危険が非常に低かった。そのため、行政・司法においても、通商においても紙は重用された。スペインのフェリペ2世は、領内各地と書類をやりとりによる統治を試み、ジェノヴァの製紙業は、貿易業や金融業と深く結びつく。紙の用途は多様で、14世紀のドイツでは、針や留め金といった製品を包装するための紙が、製紙所への注文の主要部分を占めていたという。
歴史の長きにわたり、そして現在に至るまで、紙の重要性を最も容易に実感できるのは、紙幣であろう。紙幣としての紙は、「黄金の代用物」であり、市場経済にとって不可欠のメディアであり続けているからだ。他にも、郵便制度の発達と結びついた頻繁な書簡のやり取り、近代において新聞の果たした役割……。“紙は、新しい形式や文化に適応する能力に優れたメディアであり、だからこそ近代文明における重要な地位を確保することができた”、とミュラーは言う。
その一方で、次のようにも言われている。“紙は、新しい生活様式を生み出すのではなく、既存の生活様式のなかに入り込んで、それを安定させ、発展させるのを得手とするメディアである。みずからデータを生み出すよりも、データを蓄積し流通させることに適したメディアなのだ。紙がメディア革命の主役にしてもらえないのはそのせいだ。“
というよりも、「メディア」とは、そもそも「みずからデータを生み出すよりも、データを蓄積し流通させるもの」をいうのではないか?だとしたら、デジタルメディアもまた、「新しい生活様式を生み出すのではなく、既存の生活様式のなかに入り込」んできたのではないか?だからこそ、電子書籍が、90年代にさまざまな「本のかたち」の可能性を言われながら、21世紀に入って、むしろ、どんどん「紙の本」に近づこうとしてきたのだ。
紙幣→電子マネー、手紙→電子メール、新聞→インターネット報道、戸籍謄本→電子政府と、近代において紙が担ってきた様々なコミュニケーションツールが、デジタルに置き換わっているが、基本的には生活様式そのものが革新されたわけではない。
だが、かといって、「安定」させたとも言えないのだ。電子マネーが世界を駆けめぐることによって発生した国家的更には世界的な経済破綻、電子メールによる攻撃・束縛やインターネット上の炎上、プライベート情報の大規模な流出など、紙の時代には考えられなかった事件が、日常的に起こる。それらは、デジタルメディアが大量の情報を瞬時に何処までも伝送することが出来るようになった結果と言える。メディアが覆う時空間が、人間の身の丈に合う範囲を大きく超えて、拡大してしまったのである。
もちろん、ぼくはデジタルメディアのメリットをも、大いに認める者である。データやコンテンツの無限の蓄積可能性、そしてそれと表裏一体をなす検索、抽出、計算機能は、大変ありがたく、有用である。だが、そのメリットが、その能力が、諸刃の剣となる。
電子メールは執拗な攻撃や束縛のツールとなるし、インターネットは時に「炎上」と呼ばれる集団いじめの舞台となる。大量の個人情報が流出して多数のプライバシーが脅かされたのも、それらがデジタル化して保存されていたからだ。
デジタルメディアは、まだ「新しい生活様式」を生み出せているとは言えないし、メディアの中心として安定的に働く環境も整っていない。デジタルが紙に取って代わることは自明ではないし、得策かどうかも分からない。
ミュラーは言う。“われわれには、できるだけ多くの現象を、できるだけ早く、直線的な時間軸の上に整理してしまおうとする傾向がある。何にでも、「過去」とか「衰退」といったレッテルを貼っていく癖がある。だが、かつて印刷機の登場によって〈印刷されたもの〉と〈印刷されないもの〉の共時的な緊張関係が生まれたのと同じで、現在生じているのは〈アナログ的なもの〉と〈デジタル的なもの〉の共時的な緊張関係にすぎないのである。”
そして問いかける。“電子的な記憶装置が不可欠だとの見地から、紙はなくてもよいという結論が使われるだろうか。また現代人は本当に「紙から、紙を使わない記憶装置へ」のメディア転換をすでに終えているのだろうか。”
ぼくは、「否」と答える。

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紙つなげ!彼らが本の紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場 佐々 涼子 (著)

紙つなげ!彼らが本の紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場

紙とともにつなげられる出版人の矜持

011年3月11日、東北地方に未曾有の被害を与えた東日本大震災は、世界屈指の規模を誇る日本製紙石巻工場にも壊滅的な状況をもたらした。
日本製紙がこの国の出版用紙の約4割を担っていること、その主力工場が石巻にあることをその時初めて知ったノンフィクションライター佐々涼子は、「自分たちの迂闊さにあきれた」と言う。不明を愧じるその思いを、ぼくも共有する。『紙の本は、滅びない』などと叫びながら、その紙がどこから来ているかも知らず、そのことを問おうともしなかったのだから。
震災から二年後、彼女は石巻に入り、日本の出版を支える製紙工場が辿った運命を取材、『紙つなげ!彼らが本の紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場』(早川書房)を書き上げる。
災害からの復興は、時が経てば自然になされるものでは無い。復興に携わる人たちの強い意志と不屈の闘志が不可欠だ。
「これから日本製紙が全力をあげて石巻工場を立て直す!」被災地に入った日本製紙社長の芳賀義雄は、早々と英断した。芳賀は、トップがどれだけ勝利を強く信じることができるかで勝負は決まる、ということを知っていた。工場長の倉田博美は、「期限は半年」と宣言する。倉田は、早期の目標を立てなければ再生は進まない、と直感していた。振り返れば、震災のとき、津波に飲み込まれた石巻工場にいた全員が奇跡的に生き延びたのも、総務課長村上義勝の冷静かつ決然としたリーダーシップによるものであった。
芳賀と倉田の判断は、正しかった。
7月12日、塩水と汚泥に埋もれていた電気設備に、電気が通る。
8月10日、濃黒液と呼ばれるドロドロの燃料を作業員が懸命に掻き出したボイラーに、火が入る。
併行して、大量の瓦礫の処理、敷地外にも流出した巻取りの回収作業が、連日連夜続けられた。
社長と工場長の英断と号令は、復興の可能性と共に、社員全員に生きる活力の源を与えたのだ。「半年復興」という目標は、明るい話題のない被災地で、彼らがすがることのできる唯一具体的な希望だったのである。
そして、ついに、半年後の9月14日。石巻工場が誇る8号マシンの再稼働の日がやってきた。およそ100人が見守る中、倉田工場長がスイッチを押す。8号マシンは、記録的なスピードで「一発通紙」を果たした。大きな歓声と拍手が起きた。作業員たちはみな、目を赤くしていた。
「通紙」とは、パルプがメッシュのワイヤーの上に勢いよく吹き付けられてから、最後のリールに巻きつくまでの一連の作業である。同じことを、「紙をつなぐ」ともいう。震災から半年間、石巻工場の作業員たちは、あたかも「紙つなげ!」と叫びながら、復興の作業をつないでいった。それは、その作業に携わったすべての人たちを、つないだ。
ここがゴールではない。8号マシンがつないだ紙は、待ち望んでいた出版社に運ばれ、書籍へと形を変える。そして、全国の読者に届けられる。出版社が、取次が、書店がつないでいくのだ。ぼくたち書店人は、石巻工場の人々の血と汗と涙の結晶を、一冊たりとも疎かにはできない、と思った。
著者の佐々涼子は、問いかける。「もし石巻工場が閉鎖となったら、出版業界はどうなっていただろう。電子書籍化に拍車がかかり、出版は電子化へとなだれ込み、新しいメディアの時代がやって来ただろうか。それともほかの工場にシェアが移っていただろうか。」
ぼくたちが「紙か、電子か?」と机上論争に明け暮れていたまさにその時に、ぼくらが想像もしなかった具体的な形で、紙の本は大きな危機を迎えていたのだ。
8号マシンの責任者佐藤憲昭は、誇らしげに言う。「8号が止まるときは、この国の出版が倒れる時です」。恐らく、石巻工場の奇蹟的な復興を完遂させたのは、そこに働く人びとの矜持だったに違いない。
書物における紙は、そこに載せられたコンテンツの乗り物である。読書行為における背景であり、文字通り物質的な媒体(メディア)である。本の内容にのめり込んでいるとき、読者は紙の存在すら忘れているだろう。
しかし、電子書籍端末と違って、出版用紙はその書物の正確に応じて極めて多様である。そこに「本をつくる」人びとの工夫とこだわりがある。たとえば辞書に使われる紙は、極限まで薄く、いくら使っても破けないという耐久性を持つ、しかも静電気を帯びないように、特殊加工が施されている。雑誌に使われている用紙は、読んでいて楽しさや、面白さを体験できるもの、しかも1冊の中に、たいてい異なる手触りのページが何種類か含まれている。めくる時に、新たな興味を抱いてもらうための演出である、という。コロコロコミックの紙は、小さくて柔らかい手でページをめくっても、決して手が切れたりしないように工夫されている。
オーストラリアや南米、東北の森林から始まる長いリレーによって運ばれた木材を使って製紙会社の職人が丹精をこめて紙を抄き、編集者が磨いた作品は、紙を知り尽くした印刷会社によって印刷される。そして、装幀家が意匠をほどこし、書店に並ぶ。多くの人々のこだわりと思い入れの籠った書物は、単一の画面にコンテンツが入れ替わり立ち代わり仮住まいする電子書籍とは、やはり別物であると思う。

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現代思想の時代 〈歴史の読み方〉を問う 大澤 真幸 (著)

現代思想の時代 〈歴史の読み方〉を問う

読みながら抱いた二つの感慨

大澤真幸と成田龍一の対談に、改めて色々と勉強させられながら、二つの感慨を覚えた。
一つは、自分は大澤真幸と同時代を生きてきたのだな、という感慨。
画期は、やはり1995年と2011年だろうか?”オウムの信者を見ていると、自分のなかに、彼らと共鳴する部分があるのを感じる”という実感はぼくらの世代の人間が共有していると思うし、東日本大震災直後の茫然自失もそうだ。”あれから二年以上が経って、急速に忘れられるようになっているのは、問題が小さかったからではなく、大きすぎたがために逃げの一手を打っているからだという気がします。” ”確かに、3.11をきっかけにして、夥しいことが言われた。しかし、それらは、我々のショックや当惑に応えるものではなかった””あれから二年以上が経って、急速に忘れられるようになっているのは、問題が小さかったからではなく、大きすぎたがために逃げの一手を打っているからだという気がします”というのは、まったく同感。
もう一つは、さまざまな形で人文書にかかわってきたぼくの書店人生を総括してもらえたという感慨。
1972年(あさま山荘)/1973年(オイルショック)の断層、その時に雑誌『現代思想』が始まったということ。その10年後の1982年に書店で勤め始めたぼくが、最初に出会った衝撃は、やはり、浅田彰の『構造と力』だった。しばらくして大澤の書くものに出会い、「これだ!」と思ったことを、懐かしく思い出す。この30年を振り返り、自明性の解体自体が自明になってくる→「次は何が解体されるのですか?」;驚くこと自体が儀式に→行き詰まり感、”逃げて逃げて逃げまくったとしても、初めから誰も追いかけて来ない”というのも、共感できる。
成田の”歴史学というのは「第三者の審級」です。「第三者の審級」を自明とし、その立場を保持するのが歴史学ですから、その位置を脅かし揺るがせる営みー学知には強い警戒心を持ちます。⇒『現代思想』に乗れなかった”という回想もなるほどな、と思い、(良い悪いではなく)哲学思想・社会学と歴史学との時間軸のズレが理解できた。更に、”歴史家は、まるで「第三者の審級」から語って見せるが、その資格は果たしてあるのか。また、そうした問いを経たとき、歴史はあらためてどのように語られるのかということが、「第三者の審級」として大澤さんが問われたことであったとわたしは理解しています”というある意味謙虚な成田の言葉からも、本編でもかなり語り込まれているが、大澤の『〈世界史〉の哲学』という仕事が、より注目される。また、歴史学に限らず、“新しいものはいきなり新しいまま出来上がるのではなく、それまでの主潮流との対決のなかから出てきます。そのとき、前の思想とどのような距離を取り、どのような地点から格闘を試みているかを理解しなければなりません。そのプロセスを経なければ、単なる流行を受け取ったことしかならないだろうと思います”という成田の言葉にも、賛成する。
二人のフィールドが社会学と歴史学と異なっていることが、対談を、全編通してとても読みやすいものにしているように思う。「同業者」同士の対談や座談は、「業界」の自明な前提、暗黙の了解が多くて、第三者が読むとさっぱりわからないことも多いからだ。翻って本書の対談では、思想、社会学、歴史学の流れが、とてもわかりやすく語られていて、書店の人文書担当者が大いに参考にできる本である。

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経済的思考の転回 世紀転換期の統治と科学をめぐる知の系譜 桑田 学 (著)

経済的思考の転回 世紀転換期の統治と科学をめぐる知の系譜

熱力学第二法則を重視するもうひとつの経済学

〈人間の経済〉が、多様な生物種を含む自然界の健全な循環と再生産によって支えられることは、甚だ自明に思えるが、近現代の経済学は、むしろその現実を脇に置いて、効率・競争・成長を志向する〈市場〉というロジックと共に発展した。
 そして、自然科学こそ学問の王道とされ始めた時代にあって、経済学は力学を範とし、現実世界の質的な部分を捨象する数学的方法論を採用したのである。
実は同じ時期、ゲデス、ソディ、ノイラートらは、熱力学の第二法則=エントロピー増大則を重視する、もうひとつの経済学、更には経済政策を模索していた。
 彼らによる経済学は、我々を生かす源泉は貨幣ではなく、太陽エネルギーの恩恵を受けた草木の葉であると、主張する。それは、出来事の不可逆性を無視する一般均衡理論を到達点とする力学系の「近代経済学」とは、完全に別物だった。
だが、ウエーバーやハイエクら自由主義陣営は、自由を否定し全体主義へと至る「科学主義」「計画主義」として、両者を一括りにしてしまう。それは、経済学にとって、そして人類にとって大きな不幸であった。その結果、資源消費の不可逆性を無視して膨張し続け、「永久機関」たることを自らの宿命とする資本主義が、ソ連を中心とした社会主義陣営の崩壊を受け、暴走を加速させたからである。
 いま人類は、世界の全てを数値化し、コンピュータの計算能力を利用して、人の生命も自然災害も国家破綻さえも証券化しながら、ただ利益の増大だけを眼前に置き、破滅への道を突き進んでいる。
 閉塞状況にある現代世界に光明を見出すべく、忘れられた経済思想を掘り起こそうとする著者の企図に共感する。

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戦争と性 マグヌス・ヒルシュフェルト (著)

戦争と性

性を直視した、戦争のリアル

この本は、1956年に翻訳刊行された河出書房『世界性学全集第1巻 戦争と性』の復刻版であり、ベルリン性科学研究所主宰のマグヌス・ヒルシュフェルト博士の手になる原著は、ナチスが政権を握る直前の1930年に刊行されている。直近の戦争は、人類が初めて国家総動員体制下で戦った第一次世界大戦である。
戦争が始まると男たちは戦場へと駆り出される。愛する伴侶の無事を祈っていた女たちは、男たちの不在の長期化につれて、性欲を持て余すようになってくる。そのことを責めるわけにはいかない。性欲は食欲と共に人間の二大本能であり、種族保存のための欲望であるからである。性欲なくして、人類は今地球上には存在しないだろう。男日照りが続くと、例えば捕虜を相手の醒愛が流れ出す。あるいは、傷病兵への情愛が深まってくる。看護婦たちの献身的な仕事も、単なる美談とは言い切れなくなってくる。
一方、自分たちが祖国のために命を賭けている時にそのような疑いに襲われた男たちも、モラルを掲げて不義の妻のことにかんかんになる資格は、おそらく無い。平時のモーラルをかなぐりすて、新しい戦争のモーラルに盲従するのが戦場の兵の義務であり、性もまたその例外ではありえないからだ。娼婦たちが軍隊部隊の一部を形成していた中世の出征に対し、近代の戦争で長期にわたって比較的に大きな単位の部隊を戦線のある局面または兵站地域に釘付けにした陣地戦は、それに応じて定着的な形の売淫を必要とした。そうした娼家に集まってきた娼婦は、以前からそれを職業にしていた者もいるにはいたが、多くは非占領地の慢性的な窮乏に追いやられてその身体を売った女たちであり、こういう女たちの数はどんどん増加していった。仕事はつらく、性病に脅かされて多くは短期間しか続かない娼婦は、慢性的な供給不足の状態にあったからだ。
一方、こうした娼家における監督された売淫のみが、かろうじて性病とそのために引き起こされる戦力の麻痺とにたいして十分な保護を約束するものであったが、戦場や兵站地域において、それは充分に機能し得なかった。平時のモーラルを失った兵士たちを、性病は容赦なく襲い、余りに罰則が厳しいとそれは隠され緩いと性病を回避するモチベーションが下がるため、娼家の売淫へも侵入し、蔓延していく。逆に進んで性病に罹ろうとする兵たちも出てくる始末だ。この病気にかかっているものは、すくなくともその期間中は、戦場で死ぬ危険を免れたからである。
こうした、戦場・兵站での性の実態を、自国を勝利へと導く作戦に組み込もうとする向きさえ出てくる。1870年のフランスの新聞は、ドイツ軍に占領された地域の娼婦たちに向かって、国民的義務まで引き合いに出してあけすけに、ドイツ兵に大量的に性病を感染させよと訴えたのである。
これが、戦争のリアルである。そこには、映画やドラマが中心テーマとしたがる「真の勇気が試された!」「極限状態でも愛があった!」という救いや希望は、無い。
ヒルシュフェルトは、好事家的に戦争における性の狂乱状態を描いたわけではないし、科学者として、没価値的に事実を記録しただけではない。“解放された現衝動の狂乱、従軍者および国に残っていた者の野蛮化、戦場の男たち、銃後の女たちおよび有棘鉄条の背後の捕虜たちの性の悩み、売淫が到る処でとった厭うべき形態、性病の蔓延、健全な性感の大量的毀損、兵站地の性的無政府状態および銃後における大衆殺戮の利用者の酒池肉林の生活、夫婦関係および性倫理の破綻―これらすべては戦争の直接関係の結果であり”、“戦争のある限り。われわれはこの性愛の堕落、「人間」という概念を侮辱するこの、世にも恐るべき恥辱から逃れることはできない”と結論し、戦争そのものを告発しているのだ。「だから、戦争は、するな!」と。
本書冒頭で解説を担当する宮台真司も、次のように総括する。“ヒルシュフェルトの主張は単純です。戦争がしたいなら、道徳的頽廃にツベコベ文句を言うな。道徳的頽廃にツベコベ文句を言うなら、戦争をやめろ。”
その宮台は、昨年(2013年)橋下大阪市長が在沖米軍の風俗活用を求め、兵士の性のコントロールはいつの時代も軍の最重要課題だと述べたことを取り上げ、「目の付け所は良い」が、独英仏に要求できることを宗教原理主義の国で、ピューリタン的性道徳に帰依する人びとが政治的影響力を持つ宗教原理主義国家である米国には要求できない、と評している。

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歴史に学ぶな 鈴木 邦男 (著)

歴史に学ぶな

失敗の「体験」からこそ、大切なことを学べる

「女子大生、OLがカレシにしたい『歴史上の人物』」ベスト3は、坂本龍馬、織田信長、土方歳三だという。鈴木邦男さん自身も、右翼活動家であった若かりし日々、土方歳三も魅了された。対する新左翼陣営は、自分たちを坂本龍馬に重ねあわせていた。だが、それらは、司馬遼太郎が小説に描いたヒーローである〈坂本龍馬〉であり〈織田信長〉であり〈土方歳三〉なのだ。
司馬遼太郎が『竜馬がゆく』を書くまで坂本龍馬は無名の人物だったし、織田信長は大量殺戮を指揮した(今なら)凶悪犯罪者、土方歳三も維新の志士を殺しまくり、仲間も粛清したテロリストである。 
小説や映画に描かれた〈歴史〉や人物像は、実際の歴史からは大きくかけ離れている。だから、鈴木さんは「歴史に学ぶな」と言う。おそらく真意は、「〈歴史〉に学ぶな」だ。
今特に鈴木さんが「〈歴史〉に学ぶな」と訴える第一は、戦争である。今、映画やドラマは、「真の勇気が試された!」「極限状態でも愛があった!」と、救いや希望や愛を中心テーマに〈戦争〉を描く。だが、実際の戦争は、”ひたすら暗く、残酷で救いがない”。何人もの漫画家がさまざま立場で「体験」した戦争を、さまざまな視点で描いている『漫画が語る戦争』(全2巻 小学館クリエイティブ)を読んで、鈴木さんは改めて強く思った。そして、「体験」に基づいた戦争の実態を、もっと広く伝えることが、メディアの責任と痛感した。
今、そう遠くない過去に日本を破滅に追いやった「思い上がり」が再び頭をもたげている。「中国人と話す必要はない」「韓国人のことは絶対に理解できない」、「妥協するな」、「戦争も辞さずの覚悟でやれ」、と好戦的な本が、書店には溢れている。“出版社に良心はないのか。売れさえすればいいのか”という鈴木さんの糾弾を、ぼくたちは真摯に受け止めなくてはなるまい。他国の文化・歴史・主張を尊重しない「思い上がり」は、再び、国を滅ぼす元凶となるからだ。
本当に歴史に学ぼうと思うなら、日本が失敗し、負けた歴史をきちんと学ぶべきだ、「日本失敗史」から教訓を得るべきだ、何よりも、失敗を「体験」した人たちの「重量」を持った言葉が遺され、伝えられるべきだと、鈴木さんは言う。人生も国も、失敗の連続なのだから。

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ハムレットの大学 岡山 茂 (著)

ハムレットの大学

翼となって私たちの精神を解き放ち、扇となって埋もれ火を掻き立てる書物

21世紀を迎えた今、世界の大学は、「グローバル企業」の下請け機関となることによって、命脈を保とうとしている。
 大革命期にその源泉を中世に持つ大学をすべて廃止してしまい、世界最古のパリ大学も未だ分割されたままであるフランスでは、エリート養成機関である「グランド・ゼコール」が益々その力を増し、ナポレオンへの抵抗の中で「学生を学問に目覚めさせる」ためにベルリン大学を創設したドイツの大学理念も、変節した。イギリスではオックスフォード、ケンブリッジの伝統が「サッチャー改革」によって破壊され、日本の「大学改革」も、それらの国々同様、「アングロ・サクソン・モデルの戯画的コピー」でしかない。
 だが、今ほんとうに求められているのは、「グローバリゼーション」にふさわしい大学ではなく、「グローバリゼーション」そのものを問い直すことのできる、デリダの言う「条件なき大学」である。
ハムレットのように、自らは死しても、民衆を守ることのできる大学なのだ。
 マラルメは、ハムレットをこう評した。“英雄がいる―他はすべて端役だ。彼は歩きまわる、ただそれだけだ。自分自身という書物を読みながら。”
 そうした大学の闘いに参戦すべき書物を、著者は次のように美しく表現する。
“それらのページは、翼となって私たちの精神を解き放ち、扇となって埋もれ火を掻き立て、私たちにふたたび情熱を見出させてくれるのです。”
 そして、そうした書物と出遭うことのできる場、それが大学なのだ、と。

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書物変身譚 琥珀のアーカイヴ 今福 龍太 (著)

書物変身譚 琥珀のアーカイヴ

書物と琥珀 植物のメタモルフォーゼ

空爆後の図書館の瓦礫の中の書物の骸。大震災が直撃した集落での本の不在。焚書による書物の消失。それらの風景は、「書物はかならず終わりのあるモノである」ことを、更には「身体性を備えた豊かな有機的存在である」という確信を、今福龍太の胸に刻印する。そこから今福は、書物がかぎりない変身能力を宿し、歴史を通じてそのことを表現し続けてきたことを、追跡していく。
 変身の、表現の主体は、書物である。書物は、決して人間主体の作物(さくぶつ)ではない。
『ウォールデン』は、まさに植物の書物への変身をソローが媒介したに過ぎない。ジョン・ケージはそのソローを受け、キノコだけでなくすべての音を収集する。
 本の裏側に姿を隠そうとしたソンダク、そしてロラン・バルトの日記は、彼らの死後書物へと姿を変え、カフカの中長編の殆どは、死後出版されたものである。
ナボコフは「本のなかの〈私〉は本のなかでは死なない」と書き、レヴィ=ストロースは「私が自分の本を書くのだと言う感じを持たない」と語った。
 遡れば、生命連鎖の円環的な時間を樹木がしるした年輪こそ書物の原初であり、人類が誕生する遥か以前に羽虫を閉じ込めた琥珀(=鉱物化した樹液)から始まる書物の長い長い変身の歴史を動かすのは、祈りにも似た書物の意思なのだ。
 その途上、アナログが必然的に作り出す生の彷徨、迷い、揺らぎ、交差、錯誤、失敗を、樹木の変容態である紙ならぬ電子ディスプレイ上のデジタルに、担いきれるだろうか!?

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ホンのひととき 終わらない読書 中江 有里 (著)

ホンのひととき 終わらない読書

女優さんらしい、大胆で、真実なことば

中江有里さんは、女優さんである。女優さんの仕事は、脚本(ホン)を読むことから始まる。脚本を読み、役柄の姿かたち、声や歩き方などを想像して、立体的にしていくのが、「役作り」だ。脚本には、「具体的な指定はない方が多い」と、中江さんは言う。自身脚本家でもある中江さんは、シナリオを書くに当たって「シンプルであること」を心がけている。書きすぎると、演じる俳優の想像力を縛ってしまうからだ。書かれていない部分のために、俳優は、想像力を駆使する。
中江さんは、脚本以外の書物(ホン)を読むことも、大好きである。人がページを開いてくれるその時までじっと待ち続けている、我慢強く受動的な「本」に対して、本来内向的だという中江さんも、こと読書に関しては、自分から迫っていき、追い求めて、その世界に割って入るという姿勢で臨む。
“自分にとって必要な本に巡り合うために、今日もあらゆることに引っかかり、書店を回遊しよう。当たり前だが、指をくわえて待っているだけでは、人にも本にも巡り合えない。”帯に書かれた「ああ、もっと読みたい」という中江さんの吐息が、「震え」のように伝わり、読む者の心を揺れ動かす。「もっと読みたい」という気持ちが、伝染する。
女優の仕事と読書は、中江さんの中でしっかりと繋がっているのだと思う。読書もまた、「役作り」同様、想像力を駆使して行間を読む作業であり、読者一人ひとりの頭の中に、本の世界を構築、上演することだからだ。
無類の本好きで知られた、同じく俳優の児玉清さん。中江さんの読書の師、テレビ番組「習慣ブックレビュー」で長くご一緒された児玉さんも、おそらくそうだったのだろう。
中江さんは、読書について大切なことを繰り返し言っている。
“本は「読んですぐ」ではなく、長い時間をかけて染み込んでいくもの”、“読書はタネです。タネはまかなければ、芽は出ません。読書のタネは植物の種と似ていますが、ひとつ違う点があります。それはまいてから、いつ芽が出るかわからないところです”。
本は、知らず知らずのうちに、読む者の身に、心に染み込み、一人ひとりをかたちづくっていく。
読み進むうちに、ぼくたちは、中江さんの、女優さんらしい、さらに大胆な、真実であることばに出遭う。
“小説はあらゆる経験の宝庫だ。つまり現実とは、小説で経験した「記憶の再生」なのだ”。
読書によってかたちづくられた身と心で、ぼくたちは、現実を生きていく。読んだ本が上演される舞台は、読者一人ひとりの「人生」なのである。

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エジプト革命 軍とムスリム同胞団、そして若者たち (中公新書)鈴木 恵美 (著)

エジプト革命 軍とムスリム同胞団、そして若者たち(中公新書)

アラブ革命の行方を知り、日本自身を問う

2011年初頭のエジプト民衆革命は、日本でも連日報道された。チュニジアのベン・アリーに続くムバーラク大統領の失権は、タハリール広場に集まったエジプト民衆の勝利として「アラブの春」と称揚され、それを実現した新しい環境としてフェイスブックなどのソーシャルネットワークサービスが注目された。だがその後に続く「革命」の進展のニュースは、日本のテレビ・新聞から消えてしまった。3月11日、東日本大震災、それに続いて福島第一原発事故が発生したからであり、報道が国内の大災害・大惨事に集中したのはやむを得ず、また当然のことだったと思う。
だが、それから3年足らずが経った今でも、あれだけ熱狂的に報道された「アラブの春」のその後をきちんと追った報道がほとんどないのは何故か?ムバーラク退陣後のエジプトの事態は収束するどころか、更に複雑でダイナミックに変転していったのだ。2013年夏のムルシー退陣に至る経過は、ムバーラクのそれに劣らずドラマチックだと言っていい。本書にそのプロセスと背景を教えられながら、日本では、2011年の「民衆革命」についても実はほとんど理解されていなかったのではないか、と思うようになった。
2011年春、青年勢力、リベラル、左派などの勢力が1月25日革命で中心的な役割を果たしたのは事実であるが、プレーヤーは彼らだけではなく、体制の維持を目論む軍部、政権の獲得を目指すムスリム同胞団を含めた三者の思惑が、「民主化」の名のもとに真正面から衝突していたのだ。軍は、イスラエルの脅威やスエズ運河という戦略拠点故に文民統制をまぬがれ、アメリカ政府から援助も受けて、政治的にも経済的にも大きな影響力を持つ。そしてイスラーム勢力のムスリム同胞団は圧倒的な票田を持ち、結果そこから出たムルシーが、民主的な手続きに則った選挙によって大統領になる。それらの状況を、多くの日本人は想像できないのではないだろうか。それが、「アラブの春」報道が尻すぼみになった理由の一つだと考えられる。
だが、本書が描く3年間を、「アラブの春」=民衆革命の、エジプトの特殊事情ゆえの挫折と総括して済ませてはいけない。政治力を持つ強大な軍隊や国民の過半数が信仰する宗教の存在は、現代世界の多くの国家において一般的な状況であり、そうでない日本の方が特殊だからだ。
同時にぼくたちは自問せねばならないだろう。わが日本は、本当に、真に民主的な制度のもと、ふさわしい指導者を選ぶことが出来ているだろうか、と。

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それでも、私は憎まない あるガザの医師が払った平和への代償 イゼルディン・アブエライシュ (著)

それでも、私は憎まない あるガザの医師が払った平和への代償

一人でも多くの人に知って欲しい・・・

イゼルディン・アブエライシュは、ガザ地区の難民キャンプで育ったパレスチナ人である。子供の頃から教育によってキャンプから抜け出すことを志し、カイロ大学で医学博士号を取り、不妊治療を専門とする産婦人科医として、ガザに住みながらイスラエルで働いてきた。15歳の頃にイスラエル人農家でアルバイトをした時以来、終始彼は、自分自身を難民キャンプの現状を世界の他の地域に伝えるパイプ役と見なしていた。
おそらく、ぼくらが最も自戒しなければならないのは、地球の反対側で生きる一人一人の具体的な生き様を抽象して記号化し、たとえば「パレスチナ紛争」のひとことで片づけてしまうことだ。イスラエル人とパレスチナ人を、和解不可能な仇同士と勝手に決めつけてしまうことだ。たしかに、憎しみ合い互いに死を望む感情を持った人々もいるが、「わたしの経験では、けっして世間で言われているほど多くない」とイゼルディンは言う。“はるか遠くから眺めている人たちにはとても信じられない話かもしれないが、それでもわたしたちは互いを信じ、この聖地で共存する自分たちの能力を信じている。”
2009年1月、悲劇が起こる。イスラエル軍に自宅を砲撃され、三人の娘と姪を一瞬のうちに殺されたのだ。イゼルディンが無我夢中でかけた電話を、イスラエルのテレビ局に勤める友人のニュースキャスター、シュロミ・エルダーが生放送中に取ったため、その様子は、大きな衝撃を与えながら、イスラエルの視聴者に伝わった。
世界を瞠目させたのは、そのような悲劇に見舞われてなお、イゼルディンが報復の気持ちを一切持たなかったことだ。それどころか、「わたしの信念はますます深まり、分断に橋をかけようとする決意は固まった」と、彼は言う。
“たとえイスラエル人全員に復讐できたとして、それで娘たちは帰ってくるのだろうか?憎しみは病だ。それは治療と平和を妨げる。”“わたしが言えるのはこれだけだ―死ぬのはわたしの娘たちで最後にしてほしい。この悲劇が世界の目を開かせて欲しい。”
世界中で紛争が止むことなく、復讐の連鎖が悲劇を際限なく繰り返す中、イゼルディン・アブエライシュ医師のような信念の人がいることを、一人でも多くの人に知って欲しいと心から思う。

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北の思想 一神教と日本人 富岡 幸一郎 (著)

北の思想 一神教と日本人

「温暖化」した言論状況にあって、噛みしめたい言葉

日本の「近代化」とは、端的に言って、西洋文明の受容である。だが、その現実は欧米の「文明」の上澄みの部分の受容であり、根本の精神なるキリスト教は、一部の例外を除いて無視された。
 明治期の例外である内村鑑三、新渡戸稲造らは、札幌農学校で信仰を得た人たちだ。人間的な幸福や人間同士の公平を求める水平的な(ホリゾンタル)思考ではなく、一神教の神を求める垂直的な(ヴァーチカル)思考は、厳しい北の風土でこそ育まれた、と富岡は見る。「北の思想」と名付けられた所以である。
 そうした西洋文明の「根本の精神」の受容は、全き「西洋化」を意味するのではない。内村は『代表的日本人』、新渡戸は『武士道』と、共に英語で卓越した日本人論を書いている。それらは、一神教徒の「集中する力」ゆえの内省であった。
 また、内村は「デンマルク国の話」で、新渡戸は『農業本論』で、共に日本が「農本国」として歩むべきことを主張し、西洋の物質文明と商業主義に偏った日本の近代化を批判している。
二人の信仰は、期せずして、西洋近代が人間中心主義に陥りキリスト教信仰から離反していったことを徹底的に批判したキルケゴールに、通底している。そのキルケゴールの思索・信仰を真正面から受け止めたのは、哲学者でもなく宗教家でもなく、自らの死に逃れようも無く直面した学徒出陣兵たちであった。
“人類を貫く精神の運動に、唯一なるものを求める方向性は決定的な重要さを持ってきた”。
「温暖化」した今の言論状況にあって、富岡のこの言葉を噛みしめたい。

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マルクスとハムレット 新しく『資本論』を読む 鈴木 一策 (著)

マルクスとハムレット 新しく『資本論』を読む

ハムレットの煩悶、マルクスの共感、そして『里山資本主義』

ハムレットは、父王の死の真相を最後まで知らなかった。読み込むほどにそのことを確信すると、著者は言う。「亡霊」の言葉はそれほどに不明確で、「亡霊」の存在そのものが、疑わしいのだ。ハムレットは復讐を逡巡しているのではなく、疑いの前に悶えているのだ。
 マルクスは、商品の価値を「価格」に汚染されない「抽象的人間労働」に還元しようとするが、何処まで行ってもそれは「価格」に裏づけられてしまう。マルクスもまた、価値という「亡霊」の前に悶え続けたのだ。
 シェイクスピアの愛読者であったマルクスは、ハムレットに衝撃を受けた。その衝撃は、一方では、ハムレットの中に「亡霊」を前に悶える自分自身を見出したことによる衝撃だったかもしれない。だが一方それは、「怪物退治の英雄」ヘーラクレースが「浮き世をはいまわるさすらいの神」マーキュリー(=ヘルメス)に、ローマ的な合理的知性が既に征服したはずのケルト的な未開の自然に出会った際の衝撃でもあると、著者は見立てる。
 マルクスもまた逃れられなかったローマ的なヘーラクレース性は、合理主義、制圧主義、分業主義であり、今日のグローバリゼーションに通じる。それに対してケルトのマーキュリーは、兼業、氏族共同体に親和性がある。
 完全無農薬農業の汚物・異物・害虫・雑草、「里山資本主義」の材木の屑、そういった資本ならぬ元手から出発するマーキュリー的実践に、著者は、グローバリゼーションの袋小路を突破すべく動き始めた現代世界の逆流を見る。そして、その逆流を照らし出す作品こそ『ハムレット』である、と結ぶ。

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〈世界史〉の哲学 東洋篇 大澤 真幸 (著)

〈世界史〉の哲学 東洋篇

〈世界史〉のミステリーは、tobecontinued…

紙の発明から火器の使用に至るまで、中国文明は常に西洋に大きく先んじていた。ところが、近現代の僅か二〇〇年くらいの間にその立場は完全に逆転する。何故か?これが、「東洋編」で大澤が掲げる〈世界史〉のミステリーである。
西洋ではローマ帝国の再興が遂に叶わなかったのに対し、中国は(その主は交替しつつも)巨大帝国であり続けたこと、それがそもそも大きな謎だ。
 人は、否いかなる生命個体も、「贈与」の無限の連鎖の中でしか生きることはできない。「贈与」の連鎖は社会を形成し、やがて帝国の存立へと至る。だが、「贈与」の連鎖の拡大は互いに過剰を要求もしくは企図する互酬性を伴うから、いつか限界に達し破綻をきたす。中国の場合、強大な官僚制が「天命」を受けた「天子」を極とすることによってその破綻が回避され、巨大な帝国を維持することができたのだ。その官僚制を構築・安定させた科挙や漢字の存在、自らは外れた者として官僚制を裏側から強力に支える宦官たちの役割、「正名」の意味と意義など、中国史のメカニズムが次々に解き明かされていく。巨大な帝国の「贈与」の互酬関係は外部である夷狄との朝貢制度へと拡がり、東アジア世界を形成していった。
 そうした中国の「広さへの志向」に対し、西洋を動かしたのは「高さへの志向」である。その二つが出会ったとき、なぜ後者が前者を呑みこむことになったのか、最初の謎は残ったままだ。再び大澤探偵は、「神の子=イエス」殺害の謎に立ち向かうだろう。〈世界史〉のミステリーは、tobecontinued… 

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債務共和国の終焉 わたしたちはいつから奴隷になったのか 市田 良彦 (著)

債務共和国の終焉 わたしたちはいつから奴隷になったのか

“なぜ債務は弁済しなければならないのか。借りた金は、なぜ返さなくてはならないのか”を改めて問い直す

2014年4月に消費税率は8%に上がった。福祉目的税だ何だとの能書きはあるが、そもそも福祉は国家の役割なのだから、要するに国家財政の危機が増税の理由である。実際、日本は今、GDPの二倍もの債務=借金を抱えているという。
「じゃあ、しょうがないか」、いや、ちょっと待った!日本の国債の大半は国内で消化されており、国の負債は1000兆円だが国の資産も800兆円ある、そして民間の金融資産は1500兆円に上るらしい。じゃあ、一体「日本」は、誰に対して債務があるのだろう?
“この債務はいったい誰の責任なのだ?借りた金はどこに消え、誰が使ったのだ?貨幣の機能とは、借財を増やすことにあったのか。だとすれば、国家は偽金をばらまいていたようなものである。”
市田良彦・王寺賢太・小泉義之・長原豊著『債務共和国の終焉 わたしたちはいつから奴隷になったのか』(河出書房新社)は、このように告発する。
日本に限った問題ではない。
世界全体でも、1989年~2011年、実質GDPが20兆ドルから70兆ドルに推移する間に、債券の時価総額は15兆ドルから100兆ドルへと膨れ上がった。世界は、「生産」するより多くを「借りる」ようになったのだ。
何故?それでは、借りた金を使うことも出来ないではないか!?
労働の価値が商品の価格に反映され、それに基づいて交換が行われるという経済モデルにおいては、あり得ない事態である。マルクスが喝破した「搾取」も、あくまで商品の生産過程で発生する限りは、債務が商品価格の合計を上回る筈がない。今起こっているのは、生産している者から生産していない者への、富の不平等、不正な移動なのである。マルクスは、生産現場での搾取以外に、そうした移動が合法的に行われていく仕組みも発見していた。地代すなわち土地のレント(レンタル料)である。
土地を囲い込むことで地代が発生するように、今、様々なものが人為的に希少化されている。今や産業の7~8割を占めるサービス業、感情労働の賃金も、従事者の身体の「レンタル料」と言える。そして、多くの労働者は自らの身体を「希少」化するため、国家が人為的に策定した「資格」を得るべく、自らに投資する。そこでもまた、債務が発生する。
こうしたレントのしくみを支えるものこそ貨幣であり、加速するものこそ貨幣を発行する国家である。電子マネーなど紙という実体さえ持たない「貨幣」も「発行」され、金融工学がレントのレントを創り出し、搾取と債務の無際限な膨張が、進行していく。デリバティブによって細分化された債権を、多くの人が知らず知らずのうちに引き受けている。“債券の最終的購入者は今日、「投資家」という特別な種族ではなく、ほぼ私たち自身である。私たちは私たち自身に金を貸している。”そうして、あらずもがなの利子、どこに吸い上げられるのかもわからない利子が再び債務を生む。その挙句の国家的な赤字、それを補うための課税、増税。“税とは奴隷労働を受け継いだ、国籍(及び人権)のレンタル料にほかならない。”こんな膨大なエネルギーロスを伴う疑似永久機関が国家なのだとしたら、そんなレンタル料など支払いたくない。
“労働時間が価値の唯一の尺度であって、取引が等価交換であれば、今日の債務問題は端的に存在しない”ことを再確認し、“なぜ債務は弁済しなければならないのか。借りた金は、なぜ返さなくてはならないのか”を改めて問い直す『債務共和国の終焉』の四人の著者たちの次のような結論は、事態を真剣に見つめれば見つめるほど、説得力を感じさせる。
“国内的にも国際的にも、払えなくなった債務を、優先順位を付けて払わなくてよいものにしていく「計画」と「権力」こそ、我々には必要なのだ。”

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憲法第九条−大東亜戦争の遺産 元特攻隊員が託した戦後日本への願い 上山 春平 (著)

憲法第九条−大東亜戦争の遺産 元特攻隊員が託した戦後日本への願い

「過去の遺物」ではなく、未来に向けて発信すべき「遺産」

昨年12月に刊行された『憲法第九条‐大東亜戦争の遺産 元特攻隊員が託した戦後日本への願い』(上山春平著 たけもとのぶひろ編集 明月堂書店)は哲学者上山春平が一九六〇年代に思考した憲法論であるが、今ある凡百の無思想な暴論や弥縫策に比べ、未来を見据えて遥かに瑞々しい。
上山が、日本が1945年に敗れた戦争を「太平洋戦争」ではなく「大東亜戦争」と呼ぶのは、林房雄(『大東亜戦争肯定論』)のように、かの戦争を肯定するためではない。「太平洋戦争」はあくまで戦勝国アメリカの視点に立つ呼称であり、我々日本人がそのような視点に立つことによってアジア大陸への侵略的行為を含めた一連の出来事を自ら免責・忘却することなく、「あくまでもそれを戦ったこちら側の集団の一人として反省する立場を貫く」ためである。
一方、戦争当事者による東京裁判を、上山はそもそも認めない。東京裁判は、「連合国=正義/枢軸国=悪」という単純かつ誤った図式で、戦勝国が敗戦国を裁くものだったからだ。どちらかが一方的に良くて、どちらかが一方的に悪いような喧嘩や戦争は無い。東京裁判、そして戦後の世界秩序を決定したのは、実際には力の論理にしたがいながら倫理的な偽装をほどこそうとする「戦勝国」アメリカの欺瞞であり傲慢であり、それは数十年後に「テロとの戦い」と称した侵略行為で馬脚を現す。
だが同じ占領期に制定された日本国憲法については、「アメリカ政府の『俺たちは平和愛好国民だ』という独善的な前提に立脚」していると断じながらも、“押しつけられた憲法だといいきるほうがいいのではないか。なぜなら、その意思のなかには、日本だけの意思ではなくて、国際的な意思が入っている”とむしろ肯定的に評価し、“占領下につくられた私たちの新しい憲法は、その生い立ちの異常さに由来する外形の見にくさにもかかわらず、まともな生い立ちとまともな外形をもつ他の国々の憲法を画然としのぐ美点をもっている。それは第九条の不戦の規定である”と言い切る。第一次大戦後全世界的に感じられ始めていた「戦争放棄」の必要が、「第九条」に結晶した「国際契約」と捉えるのだ。“私は、あの憲法が、大西洋憲章→連合国宣言→国連憲章→ポツダム宣言→連合国対日管理政策という一連の国際的協定を前提とし、しかも、日本の議会の決議と連合国の日本管理機構の承認を経て作製された国際的文書である、という事実に着目したい。”
上山は、幣原喜重郎が要求する天皇制維持の代価として、マッカーサーが戦争放棄条項を憲法に挿入することを呑ませたのではないか、と想像する。“両者のふれあいには、やはり戦争という名の愚行を克服する道を最もまじめに考えつめた瞬間にふさわしい何ものかがみとめられるように思う。”と上山が語るとき、そこには、人間魚雷「回天」に乗り込み、決死の覚悟で戦争と対峙した哲学者の、紛うことなき平和への希求が強く感じられる。
朝日新聞の記者として上山の謦咳に接した柴山哲也は、実際に新憲法草案の作成にかかわった米国人には、戦争体験を共有した上山と同世代の人が多く、新憲法の中にはある種の人類的な理念と希望の共有があると思うようになった、と言う(『新京都学派の人々』平凡社新書 2014年)。
また、常に「九条」との齟齬が取りざたされる自衛隊について、上山は「天災や人災(戦争も最大の人災の一つである)にたいしてとりくみながら、自然と人間との共生体系を積極的に改善して行くことを根本の目標とする」公共奉仕隊への移行を提案する。“わたしのしろうと考えでは、たとえば、日本社会にとってとくに重要な気象観測と風水害対策業務を大幅に軍隊で担当し、さしあたっては現存の気象関係官庁との協力を密接にしながら、いつでも非軍事化への移行ができる態勢をととのえておくこと、公共土木建築事業をできればすべて軍隊が担当し、これも転換可能の態勢にしておくこと、その他、運輸・通信などの公共事業にかんして、それぞれ、非軍事的業務への移行の工夫をおこない、戦争にしか役だたないという隊員は一人もいない状態にしておくこと、等々の措置が考えられる。”阪神淡路大震災や東日本大震災を経験した我々には、十分リアリティのある提言である。
上山春平は2012年8月、91歳で鬼籍に入った。だが、今も我々は“「A級戦犯だけに戦争の罪を押しつけた、自分たちの歴史認識は間違っていました。私たち全員が当事者です。私たち全員が加害者です。日本はもう一度そこに立ち返って、そこからもう一回戦争について、平和について考えます」、そこまで言えば、変わりますよ。言うべきですよ。”(『クラウド』(dZERO)刊行記念トークイベント 2014.21.13.ジュンク堂書店難波店)と語る森達也や、“日本の非武装を要求しているのでなく、日本国が非武装を選択できる世界の創造を要求している”「憲法第九条」の「創造力」を受け継ぎ、育んでいかねばならないという木村草太(『憲法の創造力』NHK出版新書 2013年)を持つ。
「憲法第九条」は、敗戦国が押しつけられた「過去の遺物」では決してなく、日本が世界に向け、未来に向けて発信すべき「遺産」なのである。

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