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書店員レビュー一覧

丸善・ジュンク堂書店・文教堂書店の書店員レビューを100件掲載しています。120件目をご紹介します。

検索結果 100 件中 1 件~ 20 件を表示

ジュンク堂 MARUZEN&ジュンク堂書店 渋谷店店員

書店員:「MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店」のレビュー

ジュンク堂
ジュンク堂|MARUZEN&ジュンク堂書店 渋谷店

歌謡曲が聴こえる (新潮新書)片岡 義男 (著)

歌謡曲が聴こえる(新潮新書)

スマートだがどこか奇妙な味のする、異色の歌謡曲論

 自身の回想によれば、1962年の夏休みのこと、当時東京の私大の四年生であった著者は、千葉舘山での長逗留の旅の帰り、たまたま通りすがりに遭遇した屋外ステージのイベントでのこまどり姉妹の歌とパフォーマンスに、何かしら「横面を張られる」ような強烈なショックを受ける。そしてこの出来事をきっかけに、これまでずっと傍らにありながらただ素通りするばかりであった巷の流行歌の数々に俄かに興味を覚えた著者は、それ以来、『全音歌謡曲全集』という楽譜のアンソロジー本を常に鞄に忍ばせ、その中の目にとまった新旧の楽曲のレコードを探してはせっせと買い集める、律儀で精力的なコレクターとなっていったという。
 本書は、そうした若き日のとりつかれたような探求熱にまつわるエピソードを随所に織り込みつつ、主に昭和20~30年代にヒットした戦後流行歌のいくつかをとりあげて、歌の歌詞やメロディーにこめられた意味や心情、そしてそれを聴いた当時の人々がそこに無意識に重ねあわせ、仮託したであろう思いのありさまを推察する、というプロセスを基本として構成されている。ただ章によっては、歌の内容よりもそれを媒介し体現した歌い手自身の個性や来歴の方にもっぱら重点がおかれたようなところもあり、またこの著者らしいというべきか、固有名詞をふんだんに散りばめた、ときに瑣末ともみえる周辺的細部記述へのこだわりも垣間見られるなど、そのアプローチの仕方は良い意味で気ままな、自由度の高いものとなっている。

 ところで、ここでひとつどうしても気になってしまうことがある。

 すでに様々な形で世に問われ、ある程度評価も定着している他のいわゆる「昭和時代回顧」ものや「戦後回想録」の類──それは例えば、関川夏央でも松山巖でも野見山暁治でもいいのだが、たとえ幾分なりとでも体感的に戦後の同時代を生きたといえる世代の人たちの手によって書かれた回想記的なもの──と比べてみたとき、本書の記述には全体として、何かぬぐい難い奇妙さが漂っているように思えるのだ。それはすなわち、れっきとした戦前(1940年)生まれであるというこの著者の内部における〈戦後的〉な記憶の見事なまでの欠落っぷりである。
 まだ十分に物心ついていない子供であったうえ、地方に移住していたので──とは何度も繰り返される本人の弁だが、果たして本当にそれだけなのだろうか。
 まあともかく、それならそれでもっと歴史史料なり同時代の証言なりに真摯に向き合って、エピソードの厚みや史的記述の精度を増す努力をしてみては、とも思うのだけれども、どうもそういった方向にはあまり深く著者の関心は向わないようで、結果として本書は、まぎれもなく「昭和」、「戦後」を象徴する流行歌の世界を扱っていながら、その叙述からは「昭和」の匂いや肌触りも、「戦後」という時代の光と影、そこに濃淡さまざまなかたちで分かち難く結び付いていた歴史的時間の層や桎梏といったものもほとんど感じられない、全体としてふわりとした印象の漂う読み物となっている。

 それでも例えば『リンゴの歌』をとりあげた第三章などでは、著者はこの歌の歌詞の成立にまつわる関係者のあいだでの「伝承」に触れながら、作詞者サトウ・ハチローの戦時下での密かな「抵抗」の物語をそこに読み取りつつ、かなり踏みこんだ解釈を示してもいる。しかしながら、著者の文章としては異例なほどの情緒的な昂ぶりをみせて矢継ぎ早に展開される、共感に満ちあふれた流麗な言葉の連なりに、ではいったいどれほどの歴史的リアリティーが感じ取れるのかというと、それはまた別の問題という気がするのである。
 本書のもとになった雑誌連載とほぼ同じ時期、やはり戦後流行歌を主題としたWEB上の論考(『北のはやり歌』Webちくま。後に書籍として刊行)において、民俗学者の赤坂憲雄氏がこの「伝承」に関して違った角度から興味深い指摘を行っている。敗戦の翌年、旧満州からの引揚げ船の船上で初めてこの歌を耳にした作詞家のなかにし礼氏が、その折に覚えたという何ともいいようのない違和感を話の起点に、論はその作詞者であったサトウ・ハチローの問題にも及んでゆく。そして、敗戦をはさんでわずか七、八ヶ月ほど前にやはりサトウが詞を付けたあられもない戦意高揚調の軍歌『台湾沖の凱歌』の歌詞を引きながら、ふたつの歌の表現内容のあいだに横たわる「眼もくらむほどの途方もない断絶」に驚愕の念を覚えるとともに、そのような「断絶」の深淵を渡ったうえでなお、いかなる躓きや屈託の痕さえもそこに見い出すことのできない『リンゴの歌』のひたすら明るく可憐な感傷性への痛切な疑念が表明されてゆくのである。
 そこに口を開けた、何ともやりきれないと言う他ない「残酷さ」の感覚を前にしたとき、事の真偽はどうあれ、サトウが「すでに戦時下に、この歌の詩想を練っていた」とか、「「いつかは発表できる時が来る」と思いながら、この詩を書いていた」というような「どこか牧歌的にすぎる伝説」を言い募ってみたところで、いったい何ほどの意味があるのか。そう問いかける赤坂氏の幾分か鬱屈した語りの方に、少なくとも個人的には、歴史へのまなざしのよりいっそうの切実さを感じずにはいられないのだが、いかがなものだろうか。

 だが考えてみれば、そもそも本書をそのような基準──戦後史としての視野の奥行きや精度──において語ろうとすることじたいが、あるいは間違いなのかもしれない。

 第六章の後半のある箇所で著者は、冒頭の章でも触れていた例のこまどり姉妹との印象的な出会いの場面に再び立ち戻り、そのエピソードが自身の個人史において持つ特別な意味について、今度は構造的な側面からの解釈を試みている。そして、そこに描きだされた構図からあらためて思い知らされるのは、一応は同じ日本の戦後という時間と風景のもとに育ちながら、幼少期以来のこの著者の生を形作った経験の実質的な中心がいかに全くその外側に位置するものであったかという事実の、わかるようでやはりよくわからない不思議さなのである。
 アメリカと日本のあいだ、あるいは英語歌と日本語歌のあいだで自己の表現のあり方を模索し続けたナンシー梅木やフランク永井といった歌い手をとりあげた章や、またもともとハワイ音楽との深い縁をもち、近年は日系人コミュニティで有名なオレゴン州ポートランド出身のピンク・マルティーニというグループにその曲がカヴァーされて再注目を集めるようになった和田弘とマヒナスターズの音楽をめぐって綴られた一連の文章は、本書のなかでもとりわけ印象に残る箇所ではないかと思うが、繊細なニュアンスにみちたその叙述の裏側には、著者自身のこれまで辿ってきた複雑な道のりもまたうっすらと透けてみえるようでもある。
 その意味では本書もまた、形を変えた一種の自伝のようなものであり、「さまざまな〈歌〉の体験という視点からなされた、「僕」という人をめぐるいくつもの文章の試み」(『白いプラスティックのフォーク』後書きより。〈〉内原文は〈食〉)ということなのであろうか。

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