紙の本
「カーニヴァル」と「データベース」
2006/09/20 13:20
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:T.コージ - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本の基本的なスタンスや観点を保障する説明として「予期」というタームがいく度か登場する。あの宮台真司の初期の主張の根幹となっている「予期理論」の「予期」でもある。本書は予期理論を前提としながらオリジナルな観点からなされた大いなる成果といえるだろう。
本書の主要テーマである「カーニヴァル」「日常の祝祭化」「祭り」は、かつてニューアカブームで流行ったテーマのひとつだった。当時「ハレ/ケ」「蕩尽」といった言葉が流行り「資本主義って日常の祝祭化だよね」とか「消費は蕩尽だ」とか、テニスラケットを抱えながら論じ合ったりしたものだ。もちろんバブル経済の崩壊とともに資本主義は「終わりなき、ケだるい日常」と化してしまった。
当時のニューアカ論議と本書が決定的に違うのは「データベース」概念の登場だ。
著者は現代人の若者の理念型モデルとして、データベースへの問い合わせによって自己確認する人格を設定するという先進の情報理論的なアプローチを示している。
ただ、もっと心理学的なアプローチが試みられてもよかったかもしれない。いかなる共同体の経済や社会のどのような位相も、その共同体の構成員たる個人のモチベーションなしには成立しない。その点ではいまだにフロイトほどラディカルに人間のモチベーションを考察した科学者はいないだろう。
ちなみに国家経済の過半を個人の嗜好で左右できる選択消費が占めることが<先進国>という呼称の基本要件であり、選択して消費するというモチベーションは世界政治の<先進国>ブランドとその大きな影響力=政治力を決定しているワケだ。個人のモチベーションへの洞察なくしては世界政治もグローバル経済も語れない。
意外にオーソドックスな本書は、その評価できる点と同時にその限界もオーソドックスだ。たとえばデータベースをはじめとして外部に自己を評価する審級があるのは古来当然のことに過ぎないという事実がある。違っているのは、かつての評価者は親であったり先生であったり、それらを代理する試験であったりしたが、ここでいう評価者は人間的属性をともなわないシステマチックに集積されていくデータであることだ。
ここでは他人を経由して自分へ再帰してくる審級データが、その経由経路を消失しつつ非常に自らに近隔化したものになりつつあることが示されている。いわゆる<動物化>だ。
もともと動物化とは消費するだけの生産しない受動的な主体となった人間の姿を指すが、マルクスの資本論によれば消費は差延された生産であって、動物化した人間がその受動性ゆえに社会変革の主体であるという主張もある(フランス共産党の歴史学者H・ルフェーブルなど)ようだ。PL法に象徴される消費者の国アメリカの法体系にもそれは現われている。また、先進国において消費が過半数を占めるとともに、為替や株式などの<お金でお金を買う>金融消費経済が欧米から世界中に広がりつつあるが、これはけっして悪しき意味でのグローバル化ではなく歴史的必然の類いだろう。
経済学をはじめ現在の多くの論者がこの点の視点を持っていない。究極には経済問題は<信用>の問題であり、信用の問題は実は<関係>の問題である。<国家>から<ひきこもり>まで、問題の本質は同じなのだ。ウヨサヨからニートまで、それらを身近な問題あるいはターゲットとするのが社会学ならば、あと一歩の展開が期待されると思う。
ところで、本書ほとんどの若者をめぐる問題の根幹が経済(収入や就職)にあるという基本認識を前提にしている。意外にオーソドキシーなサヨク本なのだ。
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まず、本の題名に惹かれて手にとってみたのが始まりである。著者は理論社会学の若手の研究者である。内容は現代社会(後期近代)において「カーニヴァル=祭り」の現象がなぜ起こっているのかというものを解明しようとしているもの。それを若者の雇用問題、監視社会、携帯電話によるコミュニケーションなどのトピックに関する分析を踏まえながら説明しようとしている。今まで社会学関連の書籍は進んで読んでこなかったが、今回の本はなかなか興味深いものであった。
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要点は、後期近代の特徴である再帰性と、テクノロジーが可能にしたデータベース化をもとに、現代社会を読み解くこと。
際限の無い自己言及とそれを支えるデータベースという構図をもとに、若者の労働、「監視社会」、ケータイ的コミュニケーションを、ギデンズ、ベック、キャス、コジェーブ、バウマンらを引いて分析している。
が、データベースの例として「監視社会」を用いた必然性が疑問で、さらにデータベースの論拠としたいがために「監視社会」の肯定的側面を強調しているきらいがある。
東浩紀氏のような例でよかったような気がする。
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肝心の「カーニヴァル化する社会」についてほとんど語られていない。
エクスキューズ無しに自説をとうとうと語っていてるが、結論として何が言いたいのか分からない。
時間の無駄でした。
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まだ20代という若手の社会学者による、カーニヴァル化&データベース化する社会についての考察。
全体的に不明瞭な部分が目立った。もっと掘り下げて書いて欲しい部分が多々あった。まあ紙幅が限られているからしょうがないのかもしれないが。
しかし非常に興味深い点もいくつかあった。
理論は置いておいて、以下の二つの文章が印象的だった。学校生活において、そして就職活動において私が感じた漠然とした疑問と同じだ。
1.「私達の社会は、多数の、内的に幸福な、しかし客観的には搾取され、使い捨てられる大衆と、夢から覚めているが故に内的には不幸だが、セーフティーネットや社会的資源を活用することのできる少数のエリートへと分極化する可能性を有している」p.167
2.「<働く>ということが、こうした躁状態と鬱状態の循環によって支えられているのではないかと思いたくなる。 .....私たちはなぜ、ありもしない「何か」に向けて必死になり、突然空気が抜けるように萎えてしまうのか.....」p.172
内的に幸福だが外的に不幸か、それとも内的に不幸だが外的に幸福か。どちらが良いか。究極の選択だ。
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2chネラーにして社会学者なブライテストホープによるニート、監視社会論。データベースを参照する自己が組織化する社会の変化の兆候「階層化」と「それが欲する祭」を考察。買った当初はすげえ面白いなあと思ったんだけど、「インターネットは僕らを幸せにしたか?/森健」を読んだらそうでもなくなったのはなぜだろう。
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とりあえず若者はみんな読めばいいとあたしは思うわけです(笑)。監視社会論のおさまりがちょっと悪いかなという気もしなくもないけど、若い子のどうしようもなさをすごくうまくすくいあげてくれる人だよなーと思う。一時期真剣に鈴木先生に恋してました(笑)。
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タイトルが指すカーニヴァルとは、祭りのヨカーンの「祭り」です。(まじ。)瞬発性の「躁状態」に自らを追い込んでは、また「鬱」に気付かされる。モチベーションなんかあるわけないのに、無理やりひねり出して今日をやりすごす、空回りの連続。
それこそが社会全体の駆動原理だっていうんだからスケールがでかい。プチ絶望な近未来。
ついでにゲロ難しかった。正統な社会学論文に近い。薄いけど何日も持つ(笑)
私の躁鬱病とはあまり関係なかった・・・。
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2006.10 なぜ、若者が会社を辞めてしまうのか?監視社会とは?読めばよく分かる。とても納得です。注目の若手研究者。
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私が得たものは、
◎切り取られる私
◎背景としての他
◎仮面の密着性
かなあ。
まあ全然関係ないこともありますけど。
私が私がっていうのも、厄介なんだなあと思った。選択の幅がありすぎるっていうのもこわいものなんだなあ。
自由に責任はつきものだけれど、その責任をどこに向けて果たすのかがわからないし、責任を果たすことそのものの意義がなくなっている気がした。
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現代に生きる若い世代のことを言い当てているのかな。とふと思ったのは事実だが、こう決め付けるのもいかがなものかと不満を覚えたのもまた事実。
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メインテーマを論じる前に前置きの別テーマを2つ3つ、本書の半分以上のスペースを割いて説明した後に「ほらつながったでしょ」的な説明をしても納得しなかった。著者としては、説明・論理展開に工夫をしてあっと驚く視点を披露してやろうという欲目があったのだろう。それに呼応する読者もいるだろうが、私はあまり感心しなかった。個々の内容については特に変に感じたものは無し。
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現代は、"祭り"を駆動原理として動いているのではないか?との問題提起をした一冊。社会学の本で、大学4年の時に読んだ。Neetの現象、携帯電話やMixiが生活に溶け込むっていうのがどういう意味を持つのかを丁寧に分析していった一冊。
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これで発表したんだけども、2章が手ごわかったのと、かなり偏ってるな〜とあまり共感できなかったから、発表もイマイチだったかも?w先生がその違和感は間違ってないって言ってくれたのでまだよかった。
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随分読み飛ばしてしまったが、最後のまとめ(宿命論の危うさについて)はなるほどと思った。
【2008年6月6日読了】