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紙の本
前半:今年上半期の文芸批評界最大の収穫である本書は、小林秀雄から柄谷行人までの批評家の核心に鋭く迫る
2001/07/27 18:15
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投稿者:藤崎康 - この投稿者のレビュー一覧を見る
2001年度上半期の批評ジャンルにおける最大の収穫の一つといえる本書で、著者の井口時男は、小林秀雄から蓮實重彦、柄谷行人にいたる九人の文芸批評家を個別に論じながら、同時に、「文芸批評」とは何かという根本的な問いに全力で答えようとしている。けっしてヴァニティ=知的虚栄心の罠に陥ることなく、「知的権威に寄りかかったジャーゴン(隠語)」に淫することなく、真正面から鋭角的に対象に斬りこんでいく井口の筆法は、見事である。ひとことで言えば、複雑微妙なことがらを図式的に単純化することなく、なおかつ明快に解き明かそうとする姿勢が、本書の魅力となっているのだ。
井口はまず、序章「(文芸)批評という言説」で、彼の“批評原論”を鮮やかに打ちだす。…批評とは価値判断にかかわる言説であり、つまり物事の良し悪しをいうことである。そして批評の二つの主流を形成しているのは、美なるものにかかわる趣味判断と、善なるものにかかわる人生(人性)批評である。しかしまた、批評はその「正しさ」を問われ、したがって、判断の正当性を擁護するための「理論」をもたざるをえなくなる。万人共通の物差(本当はそんなものはないのだが)があるかのように、言葉を発する戦略もしばしば要請される…。
これらの根本的な問いをめぐって、本書の各論も展開されることになる。たとえば小林秀雄について、井口はこう言う。…他者によって組織された言葉の秩序を受け容れることで「私」はいったん死なねばならない。解析に解析を重ねる「私の騒然たる夢」はいったん沈黙しなければならない。やがて、ひとたび死んだ「私」が新たによみがえり、「私の心が私の言葉を語り始める」。そのとき彼ははじめて、「私は」と書き出すことができる。
むろん井口は、ここで小林に言及しつつ、こうした「私」の思考・感性をフル活動させるためには、批評(家)はいったん、「私」の仮死という儀式をくぐらなければならない、と言っているのだが、興味ぶかいのは、井口がまた、そうした批評の様態において、蓮實重彦が意外なほど小林秀雄に似ている、と指摘している点だ。(もっとも井口は、二人の違いにも触れている。ちなみに井口も言うように蓮實の第一評論集のタイトルは、『批評あるいは仮死の祭典』であった。)つまり、作品の「美」に打ちのめされ、いったんは沈黙を強いられた言葉が批評として蘇生するというあり方において、蓮實は、小林に酷似しているというわけだ。 (bk1ブックナビゲーター:藤崎康/現代文化論・映画批評 2001.07.28)
〜 書評後編へ続く 〜
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