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仕事の合間に読了。「書くこと」に関心のある人間に必読の、モラルのありかについて。とりわけ川上弘美についての章はきわだって素晴しかった。
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書店でみかけて、その場で買った本はひさしぶりだ。あの災害のあとにのぞいたものを、圧倒的な新しい日常の力に流されてしまう前に、考えておきたという気持ちが私にもあったからだ。
その意味ではたしかに役にたった。加藤典洋の「死神に突き飛ばされる」や、ジュネの「シャティーラの4時間」など、貴重なテキストを知ることができたし、それらをつなぐ著者の言葉が、読者にいろんな脱線を許す感じなのもいい。
しかし、最後まで読み終えて、何かが足りないという感じがする。最後の章で著者が語っていること、「自分」から出発しないこと、言葉をもたない存在を起点において語ることは、とても大事なことだと私も思う。しかしこの結論にたどり着く前に、もう少し回り道が必要なのではないだろうかと感じるのだ。
あの災害の直後、ほんの一瞬のぞいた社会の深い裂け目、そのなかに見たものは、ひとによって、おそらくまったく異なる姿をしていたのではないのだろうか。同じ言葉を使っていても伝わらない、共有できないほどに。「非常時」という言葉を、私だったら使いたくはないが、言葉の危機には、そういうことが含まれていたのではないだろうか。その裂け目をすばやく被いつくした、共苦共感を強調する言説。その圧倒的な力に、言葉はどう加担したのだったか。それは、かならずしも政治家やマスメディアの問題だけではなかったはずだが。うつくしい言葉、ここちよい言葉をさがす作業も大事だが、言葉の作用をもうすこし批判的にみつめる作業を欠いてもならないと思うのだ。
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震災後の今だからこそどんなことばが大切でどのような文章が必要なのか語っている本。探っているのは実はことばだけではなくあのあとにどんな変化が起きてそれはどういう意味なのかを問うている。
秀逸な文章に私も直に触れたいと思った。
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苦海浄土が祈祷・朗誦・音楽に似た…神様と神様2011の重ねて読んでみて…ことばのない赤ん坊なずなの味わい…読んで感じたことをなかなかことばにすることは難しいのですが、源一郎さんは、そうだそうだそうだった、そういうことだと、みんなが共感できる文章を書くことに、とてもすぐれていると感じます。
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これこそ賢い思考というのだろう。3.11の前後の世界の変容を言葉を手掛かりにして読み解いていく。「ことばを探して」の章から抜粋します。「自由のない文章、想像力に欠けた文章、考えるということを嫌悪し、ただいいたいことだけを連ねた文章・・・。(中略)ぼくたちは、ぼくたちを囲んでいる文章の正体を知っておく必要があるのだ。」
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ずっと感じてた後ろめたさの中身を教えてもらえたようですごく嬉しい(というのは違うけど他にことばを思いつけない)。石牟礼道子に泣きそうになるのは想定内だけど,古市憲寿に「このかっこいい文章は誰」と思わず頁をめくってしまったのは意外というか何というか,読んでみたくなった。
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周りに誉められる答え、一般的に正しいとされる答えを言葉にすることは、日常の余裕のあるときにはとても良く響く。だが、非常時には何一つ響かない虚しい言葉になってしまう。なぜか。正しいとされる答えは、「その時その人たちに」必要なものを何も宿していないから。
自分を決して裏切らない、自分の中にある正しい答えを見つけ出し、結果に拘らずそれを行動にすること。それが考えるということ。
その行動に宿る心に懸けること。
一般的な正しさに生きず、自分の偏った正しさに生きることができるか。難しい…
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タイトルの「非常時」であるが、直接的には大震災のことを指している。そして、非常時には「空気」に抗い、借りものでない自分自身のことばを必要とされると説く。その自分自身のことばを得るためには、そのことばの内容がどうであれ「考える」ことが必要になる。そこで、それまで「考え」てなどいなかったことに気が付くのだ。まずは非常時にあたって絶句してみるべきではないかというのだ。
実際のところ津波被害にせよ原発の問題にせよ、多くの人は自分自身の明確なことばを持ち合わせていない。これまでに何も向かい合ってきていないからだ。
そういうふうに言われるととてもレビューが書きづらいのである。
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本書の構成は次の通り。「あの日」以降のことばと「文章」についての本だ。
I. 非常時のことば
II. ことばを探して
III. 2011年の文章
いつもの高橋さんの文芸批評のようにいくつもの文章を選んでいる。『文章教室特別編』などという副題も付いている。それでもいつもと違ってより慎重にさらには必然性を持って選ばれているように感じる。ジャン・ジュネのパレスチナ難民キャンプでの虐殺現場を描写した「文章」や『苦界浄土』に書かれた「文章」は強い印象を与える。
もちろん、本書に書かれた文章は大震災の後に書かれている。そして、比喩的に取るべきなのか字義通りに取るべきなのか、やや不明であるがこう書かれている。
「「あの日」から読めなくなった文章があるということだ。
「あの日」までは、ふつうに、楽しく、読めたのに。時には、感動したり、たくさんのものを受け取ることができたのに、「あの日」から、読めなくなった文章がある。」(P.155)
それは、アドルノが「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」と書いたものと同じなのかもしれない。
そしてある種の文章が読めなくなった理由は、最後の方に書かれている。それは「死」と「死者」を突然思いだしたからだ。「あの日」のできごとは、自分が子どものとき、「死」に気が付いたときの感覚をもう一度呼び覚ますことであった。
「どの子どもたちも、ある時、「自分の死」というものを突然、理解する。いや、そのことを想像して、理解を拒む。子どもたちにとって、それが、初めて世界が不可解なものに見える瞬間であるといってもいい。その瞬間、世界はまったく理解不能なものに変貌してしまうのだ。
ぼくも、いまでも覚えている。
その「理解」は一瞬のうちにやって来た。
夜、布団の中で寝ているぼくに、その認識が、突然生まれた。ぼくは死ぬのだ。絶対的に、必然的に。そして、一度も味わったことのない、逃れることのできない恐怖が、ぼくを襲った。
朝になると、恐怖は、かき消すようになくなっていた。世界は、以前の優しさを取り戻していた。だが、夜になると、また恐怖がやって来た。そして、その度に、世界は、のっぺらぼうの怪物のように見えるのだった。」(P.189)
ああ、思い出した。
一方「考え」のないことば、あの日以降に顕在化された不自由さにとらわれ、そのことに気が付くことのないことばが溢れて��る。あからさまに「空気」を感じ取る機会も増えた。その中でできることは、一層「文章」と「死者」に対して真摯に対峙しようとすることだけなのかもしれない。それがことばを一時失うことになったとしても。
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3.11以降、多くの文章が読めなくなったと著者は言う。
それは、「死者たち」の存在を知ったからだと。
それから著者は、ひたすら「下」へ、「大地」へ、「根」のある方へ向かう文章、「こだま」のように「小さな」声で届けられるものを聴き取ろうとする。
今わたしたちに必要な言葉とは何か、ということを深く考えさせられる。
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前からずっと気になっていたことだが(吉本隆明が『修辞的な現在』を書いたあとくらいから?)、修辞が有効か上滑りするか、その違いはどこからくるのだろう。修辞自体の表現的意味はどこから生まれるんだろう。たぶん、意味内容・修辞・文脈の三者が適切に連動しているかどうか、だろうな、と。
レトリックやスタイルの問題は、たとえば、それらが内容に釣り合っているか、力量があるか(上手いか下手か)、社会的文脈におかれたときどういう表現的意味を持つか、などで、容易に評価が変わってしまうことだ。単語の意味内容は、さほど大きくは変わらないのに。
そしてこの、社会的文脈が激変したのが今度の震災と原発事故だった。本書はそれを正面から扱っている。あの出来事を境に、読めなくなった文章、読み続けられる文章がある、その違いは何か、と。
連載は2011年夏から秋だったというから、まだ記憶の生々しい時期で、だから激変という前提が共有されている。だが、2013年の現在では、もうすでに、相当、その共有は薄くなっているように思える(実際は今だって“最中”なんだけれど、みんな意識したがらない)。つまり文脈は元に戻ってしまったように見える。文脈の変化を評価した文章自体の置かれる文脈が変化しつつある、という。
ただ、それでも、「“それから後”にも読める」と石牟礼道子や川上弘美の作品を解説している文章は、今でも読める。おそらく、著者の依拠した文脈が、津波とか原発事故とかよりずっと広い――遠いと言うべきか?――ものだったからだろう。“それから後”とは、たぶん人間の歴史と同じ長さを持つイメージだからだ。
あらゆる時代はつねに“それから後”であるとしても、人は普段それを忘れている。その、忘れていたことを思い出す――思い出させられるきっかけとなったのが、今回の地震&原発事故だった。思い出した著者は、それをできるだけ丁寧に、具体的に、書き残そうとした。“その直後”を記録に留めたのだ。
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ことばについて書かれた本。
『非常時のことば』というタイトルだけど、もうこの状況から完全に抜け出すことは叶わない気がする。
だからこの本に書かれた話は限定されたシチュエーションの話に思えないところもある。
「あの、頭の中が「真っ白」になって、なにもことばが考えられない時のことを、大切にするべきではないだろうか。」
という言葉が印象的。
でもずっと真っ白でいいと言っているわけではない。
私は思考を止めていたな…と思う。
何も言いたくない。
ただ話を聞くだけ。神妙に頷きながら。
でもそれは拒絶だったかもしれない。そう思った。
何も言えない。
許されない。
そう思っていた。
今もまだその考えがこびりついているはず。
まだ言葉は出てこないから。
でもこの本で、少しだけ変わったかもしれない。
本当かどうか分からないけれど、もしかしたら、ほんの少しは。
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ブログに掲載しました。
http://boketen.seesaa.net/archives/20140426-1.html静かに、声低く、隣にいる人に語る
高橋源一郎は「小説トリッパー」という雑誌で「ぼくらの文章教室」という連載をしていた。
その連載中に3・11大震災がおこった。
高橋は文字どおり「言葉を失った」状態に陥るが、しかし連載を続けようと決意する。
それからの高橋の文章は「非常時のことば」になる。
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まだ途中ですが、とてもいい本。
文章の悪い見本として、政治家の言葉が上げられているのが、何とも言えない。なんていうか、彼らの言葉には本当がないんだなあ。。
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誰が書いていたのか
思い出せないけれど
2001年のアメリカでの同時多発テロ事件の
後では「言葉」と「世界の見方」が
変わったと書いていた文章を思い出していた
まして
髙橋源一郎さんがこの一冊のタイトルになっている
2011年の3/11の時は
この日本という国で起きた出来事
まさしく「非常時のことば」である
この一冊の中で
紹介されていく
石牟礼道子さん
ジャン・ジュネさん
加藤典洋さん
川上弘美さん
内田裕也さん
ナオミ・クラインさん
太宰治さん
山之口獏さん
リンカーンさん
堀江敏幸さん
鶴見俊介さん
まどみちおさん
…
その言葉、文章の数々が
「絶句」してしまった人の心に
波紋が広がっていくように
沁みわたっていくように
思いました