紙の本
宗教的知性を磨く教養の一冊
2014/09/28 14:41
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投稿者:やびー - この投稿者のレビュー一覧を見る
二部構成からなり、第一部を内田氏による講義の収録。第二部を釈氏による「日本的霊性」から読み解く、人類のスピリチュアリティーと宗教的人格についての考察。
霊性と言う「語り得ないもの」を、内田氏なりの言葉で語ろうとする為に抽象的な表現や例えをだして解説する。その事がかえって、内容にリアリティを持たせ、話しの中に引きずり込まれる感覚を読書をしながら覚える。
氏の講義内容のなかで、人間集団が生き延びる為には四つの柱がある。裁き、学び、癒し、祈りだと解く。
古代史に見れば政治とは祭政一致が基本であり、神へ「祈り」、神の言葉を伝えきれる者が王となり指導者となった。
日本史の中世を見ても、幕府の成立と役割とは領地の安堵と「裁き」を行う機関であった。
制度を存続し継続させるシステムとして「学び」とは基本であり、近代の歴史を見ても教育、教養が国力増強の為に必須といえた。
医療と軍事は裏表の関係であり、戦争の歴史が「癒し」と言う医療を発展させてきた。医の字に「矢」が含まれているのが何よりそれを物語る。
自分なりに感じた本著の内容を「歴史」を補助線として引くと、ふに落ちる事ばかりであった。
内田氏が語り足りない部分を補足する釈氏の説明が説得力を増すだろう。 現代が無くしかけている「霊性」と言う宗教的知性を得る教養の一冊となるだろう。
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投稿者:タロウとハナ - この投稿者のレビュー一覧を見る
読んでいて、身体が熱くなりました。出来るだけ多くの人に読んで欲しい。
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いやあ~。この二人のコンビの本は面白い。
どこかで読んだ内容が多い(多分、どこかで読んだ
内容ばかりといってもいいすぎではないかも)
のですが、何回よんでも面白いと思います。
○シグナルを感じる力
○プリコルール
○スティーブジョブズの話
○裁き。学び。癒し。祈り
○歩哨。人間的なものと非人間的なものの境界線
○このメッセージは私宛である。
○私宛ではないメッセージは、邪悪な呪いの言葉
○鈴木大拙
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日本人が今取り戻さなければならない霊性というものについて。2部構成になっていて、第一部は、内田先生が相愛大学にての講義です。ここでは、なぜ霊性が必要なのか。それはどのようにして現れ、解されていったのか。それを取り戻すためには、なにをしなければならないのかについて、非常に身近に分かりやすく書かれています。ここだけでも読む価値あると思います。理解できることしか見ない姿勢が変わることを感じています。
第二部は、釈先生が内田先生の寺子屋ゼミにてされた講義内容です。鈴木大拙の「日本的霊性」をテキストに霊性に迫っています。日本的とあるように、日本にはそういったものがすでにあって、そのため仏教やキリスト教も元の宗教と違って日本的なものに変質してしまう、そのからくりが目を覚まさせられます。また、第一部の内田先生の話に振り返っての話もあり、霊性についてさらに深めることができました。
なんとなくわかること。今までは、明確に説明できないので、それを出すことに躊躇し、見えないふりまでしていました。せめて認め、どう付き合っていくのか考えたいと思います。
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子どもに教育を与えるのは、子ども個人の生活を向上させるためではなく、すべての世代を含めた集団維持のため、という理論に納得。
──学びというのは自分の手持ちの価値観では考量できぬもののうちに踏み入ることです。具体的な知識や技術を学ぶことではなくて「自分にはそれが何を意味するかわからないもの」に敬意と好奇心をもって接近する作法を学ぶことです。──
内田と釈の講義録だが、第二部の釈は鈴木大拙に関する概説という感じで、内田ほど独特の考察がない。しかし、グループホームの運営など社会活動家としては評価できる、学者肌でない。釈は対談を見るに、内田にあまり強烈なつっこみをしないので相性がいいのだろうな、と思った。
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内田さんと釈徹宗さんの、霊性についての合本。
内田さんの担当した前半部分はいつもの内田さん、というかんじやけど、釈さんの後半部分はがちがちの宗教、霊性論。
前半はめちゃくちゃおもしろかったけど、後半、むずかしかったなぁ。
新書の割に三〇〇ページ超、文字も明らかに小さめで、かなり気合の入った作品なのかな、と思った。
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集団を存続させることが最大かつ唯一の使命である歩哨という役割。どうやらまだしばらくは低迷の時代らしい現代、無理やり成長しようとするのではなく、生き続けること。
勝つことではなく負けないことを続けること、それだけでもとても難しいのかもしれないけど
仏教の勉強もしてみたいな
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お二人の著者の大学講義録(+対談)。
僕自身の思考は浄土真宗の影響を受けているのかもしれない。ドキッとしました。
「霊性」の意味はまだつかみきれないけれど、今後考えながら生活する中で少しずつ見えてくるような気がする。
「霊性」のわからなさに気付かせてくれた本。
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内田先生の「自分の弱さや幼さを認めることは、ひとつ誤ると、〈非人間的なもの〉を人間世界に導き入れる」というお話と、釈先生の「〈自分が正しい〉という立場に立った瞬間に見えなくなるものがある。そして苦悩を生み出す」というお話が印象的でした!
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今ある度量衡で測れないのがイノベーション
集団が生き延びるための4つの柱
裁き学び癒し祈り
教育の目的は頼りになる次世代をつくること
学びというのは自分の価値観ではその価値を考量できぬもののうちに踏み入ることです。具体的な知識や技術を学ぶことではなくて自分にはそれが何を意味するかわからないものに経緯と好奇心を持って接することです。学ぶとは学び方を学ぶことです。
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http://kumamoto-pharmacist.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-61ff.html
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禅は修行者に人間の世界が混沌から分離して成立するその生成の瞬間に立ち戻ることを要求する。人類が言葉によって世界を分節し世界が立ち上がる瞬間まで遡航することを要求する。無門慧開はその人間世界の極北での経験を啞子の夢を得るが如くと書き遺す。
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『日本霊性論』内田樹×釈撤宗
東日本大震災以降、新たに日本の霊性を捉え直すというのが本書のテーマ。内田老師が常々仰っていることが新たに霊性という観点で書かれている。
・霊性とは人智を越えたものを感じ取る構え。「ここに何かがありそうだ」という直感を推し進め、とにかく触ってみる。そして、それを様々な用途で検討し続ける、そのようなブリコロール的な知性も、ここでは霊性と呼べるであろう。非常に面白いのは、科学的知性と宗教的知性は本質的に同じものであるという記述である。「神の摂理が存在する。宇宙の全てを統御している理法が存在するという宗教的な覚知と、万象の背後には数理的な秩序が存在するという直感は構造的には同じである」という言葉は納得がいく。このあたりは、池内了先生の『物理学と神』という本を読むと面白いのだが、ニュートンはまさしく神が創りし美しい世界の論理を解明すべく、物理学の扉を開いたのである。その点では、世界で有数のニュートンは科学者であるとともに、明確なキリスト教徒であった。ダンブラウンの『天使と悪魔』は科学者とバチカンの対立を描いていることや、感覚論として宗教と科学は相反するテーマに思えるが、実はその根本は同じであるという指摘は非常に面白い。日本史上最高の数学者であり、同時にエッセイストであった岡潔もまた、問題が解ける瞬間について「最初に直感的にわかるということが起き、その後5日間くらいかけて、それを数式に落とし込む作業を行う」と述懐している。岡潔もまた、敬虔な仏教徒であったが、宗教的なバックボーンと科学的発見に並々ならぬ関係性があるのは間違いないだろう。内田老師は、ジョブズの「自分の直感に従う勇気を持つ」ことの大切さについて、引用しているが、創造的な仕事をしている人に訪れる「知らないけれども知っている」という力動的な感覚を体感しているのであろう。
・人間社会が存続する為に必要な4つの要素とは、「裁き」「学び」「癒し」「祈り」である。「裁き」:自己利益と集団の利益の葛藤を内包できる人が、裁きの人である。まさしく集団が生き延びる為に、裁きは必要であるが、裁きを下せる人は、個人を越えた集団的な規範を深く内面化した、葛藤を抱えられる人間なのである。古来、人々は集団的な規範を宗教や神に頼ったのである。イーリアスでも神の声に従うという形で、集団的な理法を説く人間がおり、フランス革命も「一般意志」を聴くことがキーコンセプトであった。これらは形を変えて集団を守る、裁きの理法を伝える上で、何らかの形で仮象された存在である。
「教育」:教育論については、今の日本の教育への批判が中心であった。教育は集団が生き延びるためのものであり、自分自身が立身出世できるものではない。そもそも教育の受益者は集団でなければならないという原則が今現在忘れられている。ノブレスオブリージュではないが、教育を受けた人間は、社会に還元せねばならない。まさしく、教育とは贈与なのである。贈与されたものを退蔵するとき、もうその人に贈与はされなくなる。教育という贈与を受けた場合には、必ず贈与をもってこれに応えなければならない。ニーズがあるから学校を始める人はあまりいない。多くの学校設立者は皆、これを教えたい、この知見を贈与したいという欲求から、学校を設立する。その意味では、正確性はさておき、ユーチューバーが世の中にあふれかえっていることは、まさしく人々の贈与の欲望にかなっているからなのかもしれない。
「癒し」:これはまさしく医療であるが、集団を存続させようと思った時、制度設計の基準は集団でもっとも弱い者でなければならない。社会的弱者は、自らの変容態であるという自覚と、弱者の声を聴くという姿勢が社会を存続させる手段なのである。
「祈り」:祈りは、人間が生きる力を高めるマインドセットなのである。それは何かと言えば、外部のものを感じ取るセンサーのようなものである。祈りは、とにかく体中の感覚を研ぎ澄まし、感じることに集中する構えである。偶像崇拝が数多の宗教で禁じられているのは、「人智をもっては知りえぬもの、人間の言葉をもっては語りえぬものと対面するという根源的な経験の絶対的他者性、絶対的な未知性を無傷で保つため」なのである。この絶対的他者性を毀損しないために、偶像が禁止され、祈る姿勢によって、絶対的他者を感じ取るという命がけの跳躍を達成させるのである。世界には人間にとって絶対的に不可知なものが存在するという敬虔さというものをはぐくむことは、まさしく祈りなのである。
そして、これらは現在、資本主義にさらされていると言える。宇沢弘文先生は、これは社会共通資本の中の制度資本と捉え、資本主義や国家とは異なる時間軸で保存されねばならないことを提唱していたが、現状、特に教育と医療の商品化マインドは日本社会全体に横溢している。
また、これらに対置されて「七つの大罪」が挙げられていることは面白い。上記の4つの要素は自他の一体化が自分でも他人でもない共身体の形成を目的にしているか、自我による他者の支配や収奪・占有を目的にしているかで、聖なる行為と罪なる行為に分けられる。
これらを分かつ役割を、内田老師はセンチネル=歩哨と表現しており、現在日本には急速に歩哨の存在が減少していることを述べる。
歩哨とは、共同体の外部と内部の境界線に立つものであり、その資質は他者の思考や体感を同期させる能力である。この能力はまさしく共身体形成能力とも呼ぶべきものであり、歩哨の重要な能力である。他者と自己を分かつ境界線を壁と捉え、壁があることによりできなくなったことを数えることよりも、壁があることでできるようになったことを数え上げる精神性こそが、歩哨の資質である。現代では、自分の弱さや卑しさ、幼さを前面に出す人が増える。開き直りや居直りが政府中枢や大企業幹部でも目立つ。弱さや卑しさは人間の本質的な部分である一方で、一歩も間違えると、非人間的なものを人間社会に招いてしまう扉をあけることになる。まさしく、アイヒマンが一人の凡庸なひとであったように、人々は、非人間的なものを呼び寄せる扉と隣り合わせで生きているという切迫感を持たねばならない。
先程の歩哨という役割について、会社ではどうかと考えたが、これはやはり営業なのだと考える。営業の主題は課題の解決である。しかし、課題というものはなかなか見つからないのが正直なところである。AIに真似できない���度に人間的な営業とは、顧客の思考や感覚と同期し、顧客と共身体を創り出すことで、天下無敵状態で自社のリソースを販売することである。営業はまさしく会社と会社の間に立つ境界人である。会社と会社の境界に立ち、教会があることでできなくなったことよりも、境界があることでできるようになったことを数え上げる。そして、顧客企業と共身体と造り上げることで、自社リソースを前提にしたビジネスを造り上げる。これこそがまさしく究極の営業であり、AIには代替的不可能な、極めて人間的な仕事ではないかと感じた。
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現代霊性論を読んだ時の方が、知的に高揚した気がします。単に内田先生の本を読みすぎて麻痺しているだけかも。
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本書の前半には、2012年に相愛大学でおこなわれた内田樹の3日間の集中講義が収められています。後半には、内田が館主をつとめる凱風館で釈徹宗がおこなった、鈴木大拙の『日本的霊性』についての講義が収められています。
内田の担当しているパートでは、これまで内田がさまざまな著書のなかで述べている内容をまとめたもので、武道などの体験を通じて内田自身がその存在を実感している身体知の重要性を指摘し、そうした目に見えないものについての感受性をないものとしてあつかってきた現在の社会のありかたに対する危惧が表明されています。
他方、釈の担当しているパートでは、大拙の主著である『日本的霊性』の解説というかたちをとっているものの、内田の議論に通じるような問題へと話を接続することがくわだてられており、大拙が「霊性」と呼んだ感受性のありようを、ある種の知性のかたちとみなすとともに、「人間的な領域」と「非人間的な領域」の境界を感知する能力として、その役割を説明しています。このような能力は、内田がサリンジャーの『ライ麦畑で捕まえて』のなかの「歩哨」についてのエピソードを参照しながら語っていた能力であり、二人の著者の話がおなじ着地点へと向かっていることがわかります。
著者たちが、現在のわれわれの分明な知性によっては把握することのできない知の可能性に対して開かれた態度をとろうとしていることは、それなりによく理解できたように思います。ただその一方で、そうした知のありかたについて、なぜこんなに分明に語ることができるのかという疑問も感じます。