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ナボコフの講義録、ロシア文学篇。
上巻に登場するのはゴーゴリ、ツルゲーネフ、ドストエフスキー。
この三者の中ではドストエフスキーの評価が低いようで、『凡庸な作家』とばっさり切り捨てたのは有名な話。ただ、後世に残ったのは良くも悪くもナボコフのいう『凡庸さ』の力なのかなぁ……などと思う。
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未読了。これは買い。さらっと読み流してしまうとあっという間に置いてかれる。この本を読むことからすでに精読が始まる感じ。
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ナボコフはぼくにとって躓きの作家だ。
文学の鑑賞のしかたがきっと根本的に違うから。
彼の主義主張はざっとこんな感じだと思う。
・文章はぶつ切りにして顕微鏡の下に晒せ
・描写の緻密さ・特異性こそ至高
・会話文がおおい俗な小説は犬にでもくれてやれ
・「感傷性」と「感受性」を区別すべし→青臭い感情移入は唾棄すべきだ
ナボコフはこの上巻ではゴーゴリを絶賛し、ツルゲーネフは情状酌量、ドストエフスキーに至っては「嫌い」とはっきり断言している。
現代の評価からすればむしろ逆の結果……というのは言わずもがなだが、それだから彼の評価はあてにならないということにはならない。
おそらく彼の文学観は主流ではない。だが確固とした見方があるのだから、「ふむふむ、そういう考えもあるか」とちょっくら研究してみようという気になるし、それでいいのだと思う。
さて。たとえばゴーゴリの「死せる魂」、これはいま読んでいるけれど、なにか風景描写らしいものを読んでいるなと思って目を動かしていくのだが、じきに自分が何を読んでいるのかよくわからなくなるという代物だ。
なにしろひとつの描写が長い。それに突然ナニカが紛れ込む。
〈風景描写→どっかのロシアの役人の描写?→彼が着てる外套の描写?→また風景描写?〉という風に。(おまけに訳が古い)
しかしナボコフにいわせればこれがいいのだ…と。
描写というのは何だろう?
ぼくにはロシアの広大な大地も森林も想像がつかない。屋敷のかたちや彼らが旺盛に口にする食べ物やなんかも。
ナボコフが芸術的だと絶賛する「死せる魂」の、深い森の蔭の描写、白樺だかなんだかが雷でぽっきり折れていたり……なんてのは、まるで浮かんでこないのだ。
なんといっても文章はある程度のスピード感をもって読めなければ頭には入ってこない。ところでまるでイメージのつかないこれらの長たらしい描写は、鑑賞の対象どころかむしろ障害として映るのだ。
描写の経年劣化ということを考えてみる。
ドストエフスキーの描写はたしかにすんなり入ってくるし、逆にナボコフのいうとおりチープと言えるかもしれない。
ところでナボコフの限界というのは芸術性にこだわるあまり、ドストエフスキーの八方破れ感がかえって今の読者に面白くとられるということを見通せなかった点ではないだろうか?
だって「カラマーゾフの兄弟」の「大審問」の章はいらないとか言っちゃうんだから……あれがなかったらカラマーゾフはさぞかし味気ないものになっていたに違いない。
「ロシアの作家、検閲官、読者」の章はその当時のロシアの様子をよく描けてると思う。上からは検閲による圧迫、下からは革命熱にうかれた読者からの的外れな批判。当時の文学作者(芸術家)はこの両者の狭間でその作品をつくっていた。
「政府と革命、皇帝と急進主義者は、どちらも芸術の世界では俗物だったのである。」