紙の本
森達也の半生とドキュメンタリーの考え方
2019/10/20 22:02
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投稿者:まなしお - この投稿者のレビュー一覧を見る
これは森達也のドキュメンタリー作家としての半生及びドキュメンタリーの考え方をまとめたものだ。目新しいものは特にないのだが、やっぱりこの人の書くものは面白い。毎回感心する。今の社会には貴重な人だ。
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自分は殆どテレビを見ません。理由はただ単に時間がなかったからなのですが、しばらく見ていないとテレビに出る人も全然知らない人ばかりになってしまい自分が面白いと感じない場面やセリフで笑いが起きたりするとおいてけぼり感を感じるのでますます面白くなくなりまして。それでだんだん遠のいた、と言う説明が一番近いと思います。(まあテレビ見ているよりぶっちゃけネットで遊んでる方が楽しい、ということもありますが)
上手く流してくれれば気持ち良いところを演出上ここで泣け!ここで笑え!と言うような製作者の意図を感じてしまい興ざめしたことがままありドキュメンタリーもあまり見ておりません。そういうことに言及しているのかな、と思いこの方の「いのちの食べ方」がとても良かったので読んでみました。何となくまとまりがないなあ〜と思ったら雑誌に書かれた文章をまとめたものだったんですね。色々思ったことがあるのでつらつら書いてみます。
自分はこの作者のAもA2も観てないのでこの作品に関しては何も言えません。でも自分が覚えている限りオウム報道も当初は薄気味悪い何をしているのだか分らない集団と言ったイメージの報道が強かったですが、信者がオウム追放運動をしている土地の人と仲良くなったなんて報道も見た覚えがあります。もしかするとこれはAのおかげなのかな?確かにあんな事件や惨状を引き起こした信仰や教義(と言うか教祖と幹部と言った方が良いのかなあ)をいまだに信じている人たちの核って何だろう?とは思います。機会があればぜひ見てみたいなあ。
本文に当事者側に身を置くことは絶対にできない。だからもっと徹底して非当事者であることを自覚するべきだ、と言う文章がありました。まあ確かにそうですよね。でもじゃあ加害者側の立場を冷静に分析してカメラを回せば加害者の立場が理解できるのか、と言えばそれはそれでNOなわけですよね。所詮人が介在する限り、純粋な客観性と言うものはあり得ないということなのだと思うのです。納得がいきました。文章でも話す言葉でも映像でもそれを作り出した人間が存在する限り創造者の意図がどこかに反映されてしまう。それを納得した上で、言いかえればその人の目を借りて物事を見ることがドキュメンタリーなのだろうなあと思いました。
まあそれでも敢えて言うと被害者ではなく加害者を映像の主体に持っていくことはそちらの方がより話題になりやすいからじゃあないかなあなんて悪く思ったりしました。でも、報道が片方の側しか報道しないということは確かに恐ろしいことだと思います。報道の偏りはよく聞く話でもありますから。
この頃の報道は思想が画一化されがちで恐ろしいなあとは思います。善悪の二元化とテレビニュースが伝えるんだから間違いがないだろうという受け取り手の危うさ。これは集団ヒステリーを起こしかねないですよね。テレビは大衆のニーズに合わせる。つまり大衆が見たいものを作る、とありましたが、この頃思うのは見たいと思わさせられてないか?と。製作者側がきっとみたいだろう、こう思っているだろうという考えに見る方が沿っている気がするのです。それはそれで恐ろしい話です。ある種、洗脳ですよねえ。まあそれはメディアに限った話ではないのかもしれませんが。
色々考えさせられたし、面白いところもあるのですが如何せん彼の代表作(?)Aを見ていないので…これはこの作品を見た方の方が断然面白い本だと思います。ただ、この本を読んでじゃあドキュメンタリーを観にいこう!と思うかと言うと…。まあ自分は映像をあまり見ない人間なので。本なら読むんですけどねえ… 映像は時間も場所も拘束されるのでなかなか腰があがらないのです。 靖国も結局見に行かなかったなあ…
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読みたい。
少し前に興味あり。12/2 本屋行ったがなかった。
その後、読んだ。9/28か9/29完
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「わかりやすさ」に潜む嘘、ドキュメンタリーの加害性と鬼畜性、無邪気で善意に満ちた人々によるファシズム・・・善悪二元論の二項対立に簡略化されがちな現代メディア社会の危うさを、映像制作者の視点で綴った出色
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軽く影響を受けてドキュメンタリーを見まくったな〜。ゆきゆきて、神軍 と 職業欄はエスパー は面白かった。
ビルに激突する旅客機の映像を提示するのがメディア報道なら、ハイジャック犯たちのその瞬間の心情を想像する作業がドキュメンタリーの仕事なのだ
全ての映像はドキュメンタリーだ。(ゴダール)
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2009年59冊目。安易な二元論を排し、悩んで悩みぬいて結論を留保することもある森達也さんの著作です。この人の考えには全面的に賛同することはありませんが、誠実に考え続け、考え続けようとする姿勢は学ぶものがあります。
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簡単に「わかったふり」をするのであれば、他者から馬鹿にされても「分からない」と言い続ける勇気を持とうと思いました。
若干、森さんの「ドキュメンタリー論」みたいな歴史変遷?の話は一回だけでは理解できなかったけど、後半の9.11のこととかがショッキングでした。
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一般に、ドキュメンタリーは「客観的」で「公正中立」であるはず
とする価値観が定着している。
けど著者はあり得ないと論破する。
私も強く肯定する。情報に公正中立などあり得ない。
そこには、何らかの、誰かの恣意性が必ず入っている。
たとえ、あなたが一次情報に触れたとしても、そこには既に作為が介在している。
でもそれで構わないのだと思う。
作為、恣意、煽動、色々なことばがあるが、
情報にそれらが介在することを自覚すること、想像することが大切なのだと著者は説く。
ビルに激突する旅客機の映像を提示するのがメディア報道なら、
ハイジャック犯たちのその瞬間の心情を想像する作業がドキュメンタリー
作中のことば。名文と思う。
ルポライターだと思うときがたまにあるけど、
やっぱりこの人は映像表現者なんだぁと思える一冊。
ドキュメンタリー映画の解説がたくさん出てくるのでお好きな人にはオススメ。
私はちょっと途中で飽きた。
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公正中立、客観的、わかりやすい報道…
テレビにおけるこれらの美麗文句を疑ったことがあるだろうか。またテレビやドキュメンタリーに対してこれらを掲げて批判をしたことはないだろうか。
筆者はこれらの美麗文句をすべて幻想であると切り捨てる。ドキュメンタリー、いや映像の産物はすべて作為的なものであり、表現行為であり主観的である、と。そしてそれら表現行為は、その加害性から脱却することはありえないと。
作中ではマスメディアに対する批判も行う。メディアの商業化が一気に進み、国民が望む「わかりやすい」簡素化かつ扇動的な報道ばかりが目立つと。特にオウム以降、それが加速したという。この原因を、筆者は個々人の葛藤や煩悶の欠落にあるとみている。
このように報道が簡素化し、複雑な思考を嫌う社会になりつつあるからこそ、複雑な人間の葛藤に焦点をあてるドキュメンタリーは必要性を増しているという。社会がそれを望むかどうかは別であるけれども。
この作品の中で、筆者は繰り返し葛藤と煩悶という言葉を使う。これこそがドキュメンタリーの本質であり、繰り返し自問されなければならないという。つまりドキュメンタリーのもつ加害性と、それでも表現する意味、そしてその覚悟をといている。これは筆者のドキュメンタリーに対する哲学であるのかもしれない。
ここから感想
ドキュメンタリー作家として、自らの作品と葛藤し煩悶し、自問を続けた森達也の思考の記録です。徹底して表現行為としてのドキュメンタリーにこだわり続けた人間の覚悟が感じられました。彼の思想からは視聴者という概念が抜け落ちているため、人によっては彼の考えを疑問に思うかもしれません。個人的には、すごく気に入りましたが。
筆者の考え方が気に入ったので、星は5をつけました。お勧めの本です。
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もりたつは、私のメディア的なものへの視点に大きな影響をくれた人です。
「真実」を語るジャーナリストと「現実」を語るドキュメンタリーが何よりもうさんくさいと思う私には、好きなメディア論。
・ドキュメンタリーが描くのは、異物が関与することによって変質したメタ状況なのだ。作り手が問われるべきは、その事実に対して、どれだけ自覚的になり、主体的に仕掛けられるかだろう。
・その仕事は、客観的な事実を事象から切り取ることではなく、主観的な真実を事象から抽出することだ。
・わかりやすさばかりが優先された情報のパッケージ化をマスメディアが一様に目指す状況だからこそ、あいまいな領域に焦点をあてるドキュメンタリーの補完作用は重要な意味をもつ。
・自らのパーソナルな主観・世界観を表出することが最優先順位にあるドキュメンタリーと、可能な限りは客観性や中立性をつねに意識におかなければいけないジャーナリストとは、本来は水と油の関係のはずだ。
・内面的な矛盾や葛藤が過剰であればあるほど、被写体としての魅力は増大する。
・撮る側の主体と意識が問われる・・・その覚悟がなければ、現実に負ける。
・アメリカの病理の本質は、高揚した正義であり、徹底した善意でもある。
・言葉の最大の機能は規定だ。そして僕の考えるドキュメンタリーは、その規定からつねにはみだす領域にある。だからこそ、ドキュメンタリーそのもを規定できない。
・・・読みながら、「THE COVE」を見た時感じた強烈な違和感がはっきりしました。なるほどね。
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想田監督作品から始まった私のドキュメンタリー映画への道。
森さんのドキュメンタリーへの熱い想いを伺いしり、ますます深みにははまって行きそうです。
世の中は、割り切れないことばかり。しかし、現在のマスメディアはいろいろなことを単純化しすぎている。
それは社会自体にも当てはまる。
森達也氏の指摘をもっと噛みしめるためには、ドキュメンタリー映画が訴える様々な人々から発せられるメッセージを受け止めるべきかもしれないと強く感じました。
大学生にオススメの文庫本だと思いました。これから社会にでる前に読んでおくべき本ですね。
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森達也のドキュメンタリー論とでも呼ぶのが正しいのだろうか。
たしかに本書に書かれているように、「ドキュメンタリー=公正なもの」という意識は我々の中に根付いている。
ただ、実際は監督の意思にそって進められている映像作品であり、それが正義だとは限らない。
しかし、観ることで自分のなかに問題定義を呼びかけてくる作品かどうかは重要で、少なくとも私にとって森氏の映像作品や著者はそういう存在であることは確かだ。
ドキュメンタリーが好きだと自負する人こそ、本書を読んで頭をガツンと殴られてほしい。
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報道ドキュメンタリーという単語の矛盾か、、、成程、感心しました。
確かにドキュメント作品には無意識に真実や中立性を求めていたような気がする。
読了した今、無性にドキュメント作品を見たいという欲求がわいてきている、、、という事は間違いなく好著なんだろうな。
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ドキュメンタリーのマニアックな話(巨匠やその代表作の偉大さ)に多くのページ数が割かれ、かつ文章が冗漫であるため、読むのに時間がかかったが、核となる主張は以下の通り
■ドキュメンタリーは決して客観的事実の蓄積ではなく、あくまで主観に基づいて創作された、自分本位な「作品」
■すべての映像は主観基づいて作られている(すべての映像はドキュメンタリーだ。 ジャン=リュック・ゴダール)。なぜならば、すべての映像はキャメラによって主体的に映像を現実を切り取る、そして選択的に編集するという、二つの過程を経ているからである。
ここのエピソード(ex 地域住民は実はオオム信者をマスコミから守っていた)は大変興味深く、昨今話題のメディアリテラシーについて、学者目線( 内田樹 町場のメディア論)とは違って、”現場からの声”を聞くことができる
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唐沢なをきのNHKやらせ騒動の件やイルカ漁などを髣髴とさせるタイトル。ドキュメンタリー作家が、ドキュメンタリーとは何かを自伝とともに。コラムの途中で、森氏自身の経験と意見が織り込まれ、大変生々しく、始終スリリングで目が離せない。ただ、タイトルとは違って"ドキュメンタリーの敗北"についてが目立つ内容ではある。