投稿元:
レビューを見る
デイヴィッド・ピースの最新作。
『TOKYO YEAR ZERO』しか読んだことがなかったので、何となくノワール作家のイメージがあったのだが、本作は芥川龍之介を主人公に据えた幻想的な連作短編集。『TOKYO YEAR ZERO』のイメージは完全に覆されたw
芥川龍之介だけでなく、様々なテクストを元にした短編で、巻末の訳者あとがきにある『コラージュ』という言葉がピッタリだと思う。『小説』としては禁じ手なのかもしれないが、私には面白かった。
(ところで、執筆中と言われている、〝TOKYO YEAR ZERO〟三部作の第三部はいつ出るのだろうか……)
投稿元:
レビューを見る
R. A 様
拝啓
貴方が命を絶ってから長い年月が経ちました。地獄でいかがお過ごしでしょうか。
先日、奇妙な小説を読了致しましたので、御報告させて頂きます。『Xと云う患者 龍之介幻想』というこの小説は、気鋭の幻想小説家として知られる英国人作家、デイヴィッド・ピイス氏によって書かれたものです。貴方に心酔する彼は、貴方の作品や生涯をコラージュし、詩情を加えて、幻想短編小説集として甦らせました。つまり貴方へのオマージュ作品であり、パスティーシュ文学と見なすことも出来るでしょう。
死後このような形で自分が戯画化されることについて、貴方がどう思うのか私には分かりません。憤慨、嫌悪、絶望、それとも自虐的な愉悦?「これもまた地獄の形」と、自分自身すら軽蔑するように、貴方は片頬をゆがめて笑うのでしょうか。
地獄。貴方にとっては、人間の愚鈍さと共に延々と続く日常こそが地獄でした。例え皆がそれを幸福と呼んでいたとしても。葱のはみ出た買い物袋を抱えて家路を急ぐ、そんな日常にも美は宿る…、そう考える芸術家は決して少なくありません。しかし、それは貴方にとっての美ではなかった。
貴方にとって芸術とは、極限まで研ぎ澄まされた刃のようなものでした。これ以上そぎ落としたら崩壊してしまう、そんな脆さと紙一重の鋭さこそ芸術家の証と貴方は考えた。でも、それは生活とは致命的に相容れない資質でした。事実、芸術か生活か、片方を取らねばならなくなった時、貴方は芸術を選び、その業に殉じたのでした。
本のレビュウになっていないじゃないか、と思われますか?しかし、この本の内容を説明するに、私にはこのような書き方しか思いつかなかったのです。漠然とした不安が倫敦の深い霧のように漂う、この不穏な小説の前では。
内容をお知りになりたければ、御自身で一読されるのが宜しいでしょう。貴方はこの本の中で、貴方が創造した登場人物や、貴方自身のドッペルゲンゲルや、在りし日の夏目先生にさえ、会う事が出来るでしょう。尤も、読み終えた時に正気を保てているか、保証は致しかねますが。
敬具
令和元年 四月某日 貴方の愛読者より
投稿元:
レビューを見る
日本在住のイギリス人著者が芥川作品の英訳を多数引用して作品を構成しているわけだが、その部分も含んで日本語に訳す、という単純ならざる訳業。
「戻し訳」ではなく芥川の文章そのものを使ったことや、当時の表記(エドガア・アラン・ポオ、レエン・コオト、ジョオンズ、洋燈と書いてランプとルビをふるなど)にも細やかに配慮されたこと、更に引用や出典も無理なく収められていることなど、訳者の力量に恐れ入る。文壇の人名や明治から大正の時代の雰囲気もよく盛り込まれ、誰が書いたのか戸惑うほど。
こうなると半分は訳者の作品だよね。うん。
投稿元:
レビューを見る
芥川龍之介の世界観を積み重ねて、
独自の世界を築くという
小説でしかなしえない離れ業を成し遂げている。
最後にあげられた日本文学の英訳の
列挙をみて、日本人、もっと
日本文学読もうよ、と思った。
脇を固める、斎藤茂吉などの作品も
改めて読み返したいと思った。
投稿元:
レビューを見る
テクノ/ハウスなどの音楽で一般的なリミックスという手法は、その後、”シミュレーショニズム”の文脈で現代美術にも派生するが、文学においてはそこまで一般的な手法ではない。本書はそうしたリミックスの手法を用いて、芥川龍之介の作品を英国人作家デイヴィッド・ピースが新たな文学作品に仕立てた一冊である。
芥川本人、芥川の作品の登場人物など、主人公が章ごとに移ろいながら、明治の世相が美しく、しかしどこか仄暗さを持って描かれる。どこまでが史実の話で、どこからが芥川の作作品のリミックスなのか、その垣根は極めてぼやかされており、幻惑的な時間が流れる、不思議な書物。
投稿元:
レビューを見る
芥川龍之介の作品にインスパイアされた短編集。
著者は英国生まれだが、日本文学に精通し現在は日本在住、東大で教鞭もとる。
ああ、もう一度芥川作品を読まなくては…。
投稿元:
レビューを見る
芥川龍之介の作品を使っての幻想文学(著者はイギリス人。ということでもちろん原書は英文なわけで、本書はそれの『翻訳本』)という点だけ知っていて、それ以上は前情報仕入れずに読んでみましたがこれがビックリ。
これは「芥川の人生」と「作品」を素材として使って、芥川龍之介を主人公に据え、史実と幻覚と妄想と文学の境界をあいまいにしてコラージュした結果、一級の幻想文学エンタメとして仕上がった作品でした。とても面白い。ドグラ・マグラなどが好きな人はハマると思う。
さらに、ほぼ芥川の人生を辿るストーリーなので、芥川龍之介の各作品だけでなく彼自身の人生も押さえた上で読むと何倍も面白い。史実と作品が渾然一体となって組合さった結果、芥川の人生がこんな風に「文学と狂気」に染まるのか、と。(もちろん、あくまでこれは「創作」であって「評伝」ではないです。なので彼の人生の中で色々な重要な出来事が描かれてないので、史実とはごっちゃにしないように注意……でも、そうかも?と思わせる魅力がある…凄い)
英文を翻訳するときに、あえて新規に翻訳するのではなく、元作品の芥川の文章を引き直すことで日本語へと戻していく様もお見事。これによってとても芥川作品味が増して、溺れるように濃厚な芥川ワールドになってました。
ドッペルゲンゲルに河童に歯車、そしてマリア観音はじめとするキリスト教…と芥川に詳しい人ほどこの作品の細部に散らされた構成の妙に感心すると思います。特に、芥川の作品の「○○もの」とされるアレをああいう風に扱ったのには感心しました。(ホント実際に読んで堪能してほしい……)
本書には漱石、久米、菊池、茂吉、川端、内田百閒、永見徳太郎等々も登場し、基本的に彼らの動きは随筆等で知られている通りの動きをしてますので(細部には創作がみられますが!)、近代文学ファン的にはそんなところにもゾクゾクする一品でした。
投稿元:
レビューを見る
『彼はある郊外の二階に何度も互いに愛し合うものは苦しめ合うのかを考えたりした。その間も何か気味の悪い二階の傾きを感じながら―芥川龍之介「或阿呆の一生」昭和二年(一九ニ七年)』―『地獄変の屏風 HELL SCREEN』
芥川龍之介の文章から受けるイメージは読むたびにその鈍色(にびいろ)の光沢が薄れるような印象がある。思春期の頃には、まるで外科用の刃物のような鋭い光を放っていると感じたものが、読み返してみると、私生活が半透明の薄皮一枚のすぐ下に透けるような酷く生々しいものに見える気がする。形而上学的な言葉と思えたものが単に陳腐な感情の吐露だと判明してしまったかのようでもある。作家に関する余計な知識を得てしまったことが悔やまれる。にも関わらすまたしても芥川龍之介を題材にした小説を読んでしまう。
例えばそれは、シャーロック・ホームズを愛する推理小説家によるパスティーシュとしての推理小説のようなもの。そう読むならば危うさはそれ程でもない。しかしシャーロキアンがパスティーシュとしてコナン・ドイルの後半生を推理小説的に描いたなら生まれるであろう悲哀(例えば降霊会の逸話など)が、芥川龍之介という作家を描くこの擬似的な小説には溢れ過ぎている。作家自身の境遇、時代の変化、虚ろな大衆、震災、友の病、義兄の死。そういう一人ではどうにもならないものばかりでなく、彼自身に起因する幾つもの悩みが作家を擦り潰していく。書き遺された文章には、作家には必然と見えてしまった破滅的な将来像といつの間にか傾倒していた「神」の遣わされた「徴」の解釈が溢れていることがじわじわと河童というメタファーを通して炙り出される。
その裏側を更に仔細にかつ作家自身が遺した文章を軸に再構築し、その上芥川龍之介を模した文章にされてしまうと、あの銀色の光沢と思えたものの正体がまるで言い訳めいた独りよがりの心情の吐露であったのだと強制されるようで拒絶反応が起こりそうになる。だが、この小説がその諧謔的な構図を二重の翻訳を経て立ち上げていることを考えれば、日本人である自分は立ち向かわざるを得ないとも思う。「文芸的な、余りに文芸的な」と作家が記したように、文章の芸術的価値が話の筋にはないのであればなおさらのこと。作家はこのパスティーシュの価値を大いに認めながら、出来れば放って置いて欲しいとも思っただろう。「水洟や鼻の先だけ暮れ残る」。結局のところ作家は自尊心の塊のような人であったのだ。
投稿元:
レビューを見る
これは凄い。芥川を愛する著者の二次創作的な作品集かと思っていたけれど、それだけではない。さらに芥川の生涯を追い、死に至るまでを描いていく。
この描き方が半端ではない。その時代、その場所で見てきたのではないかという位リアルでありながら美しく幻想的。
「本当にこうだったのではないか」と思わされてしまう。
彼が魂を擦り減らしながら小説を書いていくのを身をもって感じ、特に終盤、こころを病んでからは剥き出しになった神経を持て余して苦しむ感覚が身に迫ってきて、乾いた筆致でありながら辛くて堪らず、死によって解放される感覚までも追体験してしまった気がした。
断片的に知っていた彼の人生をここまで見事に、彼の小説や彼を取り巻くものを使って描く技は圧巻。とてもきつい読書体験だったけどこういうのが読みたかった、これからモチーフとして使われた作品をまた少しずつ読んでいきたい。
投稿元:
レビューを見る
このおじさんにはまってしまった。沼だなあ!3部作では1の『TOKYO YEAR ZERO』が好き。読者にプレッシャーをかけてくる。
しかし、宇野浩二は一時精神に異常をきたしたが、復活し70歳まで生きた。
龍之介は痛く心配してたが、宇野が入院中に自殺したんだ。35歳。
宇野浩二の後の活躍を知ったらなんと云うだろうね。
なんともいいがたい作品だったなあ。俺は好きだ。
投稿元:
レビューを見る
芥川龍之介が書いた作品と伝記的エピソードをコラージュし、この世という地獄を彷徨う作家の姿を描いた〈芥川版ドグラ・マグラ〉のような幻想怪奇小説。
日本在住のイギリス人作家が英訳された芥川作品を使って書いた小説の邦訳、というひねった成り立ちで、発売当時から気になっていた一冊。とにかく黒原敏行の訳文が格好良すぎる! この小説は芥川をそのまま引用してるところも多いけど、だからこそ芥川とピースの文体をつなぐ役割を見事に果たしている訳文に痺れずにいられない。
そしてやはり語りの声こそ、この小説の肝だ。芥川の文章を切り貼りしたコラージュが、いつのまにか呪詛のような、読経のようなグルーヴを持つピースの声に変わったかと思えば、また芥川に戻っている。描きだされるのは芥川が幻視したのかもしれない地獄の世界。そこは、幽界と二重写しになったこの世そのものなのだ。
物語は、「蜘蛛の糸」のカンダタを芥川に入れ替えた「糸の後、糸の前」から始まる。蜘蛛の糸を離した芥川は地獄へ戻り、次の章「地獄変の屏風」では、虚も実も取り混ぜた芥川の前半生が語られていく。ということは、これも地獄の続きなのか? 以降の章は一応時系列どおりに芥川の生涯をなぞっていくが、常に死と滅びの予感が満ち、幽霊はすぐ触れられるところにいる。いや、これはむしろ幽霊の芥川がふらふらと現世を彷徨いながらみている半透明な夢なのかもしれない。だから読んでいて『ドグラ・マグラ』を、胎児がみている夢を書いたあの小説の面影を感じるのだ。
芥川だけでなく、ポーのモチーフも繰り返し現れる。特に名前がでてくるわけではないが、私の頭には『大鴉』のイメージが何度も浮かんできた("ネーモー"にも通じている気がする)。もちろん、漱石をはじめとして、菊池寛、斎藤茂吉、内田百閒ほか明治大正の有名人たちも登場。芥川の創作キャラクターも現実世界に侵食し、ドッペルゲンガーを演じる。
オブセッションに駆られたような"騙り"の呪力が漲る「地獄変の屏風」、漱石のロンドン留学時代とジャック・ザ・リッパーを絡めた「切り裂きジャックの寝室」、〈芥川のキリスト教〉を描いた「黄いろい基督」「悪魔祓い師たち」は特に好きだった。
2年前に初めて芥川作品にしっかりと向き合ったにわかの私には、下敷きになっている作品のうち本当に有名どころのものしかまだわからないが、だからこそ芥川の魔力とピースの魔力のミクスチャーに幻惑され、その暗黒世界にどっぷりと酔い痴れる体験ができたと思う。好き嫌いだけで言ったら、今年読んだなかでは一番好きな小説だ。こんなふうに私好みの地獄に出会いたくて、私は小説を読んでいるのだ。
投稿元:
レビューを見る
芥川ってほんとに病んでるのが滲み出てる文章書いてたんだよな…
病んでる文章っていうか、病んでるのが伝わってくる文章…
投稿元:
レビューを見る
芥川龍之介の作品とその人の生涯を織り交ぜた12編の物語。芥川龍之介の作品が持つ精緻で端正な美しさ、彼の言葉遣いをそのままに、デイヴィッド・ピースの音楽的な文章へと練り上げてるのは素晴らしい。全く新しい芥川龍之介文学と言っても差し支えないだろう。作中には夏目漱石、久米正雄、斎藤茂吉、川端康成、内田百閒なども登場。作品ひとつひとつが迷宮的な幻想性に包まれており、幻惑される。芥川龍之介が好きな人はきっと好きだろうし、それ程彼の著作を読んだことがない人は本書を読むと芥川文学を読みたくなること請け合い。とても素晴らしい本でした。
投稿元:
レビューを見る
小説、久しぶりに読みました。
購入します、面白かった、また読みたい(あっ、借りた本なので)。
芥川龍之介作品で1番好きなのは、「白」。
投稿元:
レビューを見る
北村薫の『六の宮の姫君』を連想。芥川の周りの人物に興味を持った。微妙に芥川の作品が選ばれている。そういう意味ではピース好みの芥川になっている。