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紙の本
腐敗性物質 田村隆一自撰詩集 (講談社文芸文庫)
著者 田村 隆一 (著)
《一篇の詩が生れるためには、/われわれは殺さなければならない/多くのものを殺さなければならない/多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ》(「四千の日と夜」)現代文...
腐敗性物質 田村隆一自撰詩集 (講談社文芸文庫)
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商品説明
《一篇の詩が生れるためには、/われわれは殺さなければならない/多くのものを殺さなければならない/多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ》(「四千の日と夜」)現代文明への鋭い危機意識を23の詩に結晶化させて戦後の出発を告げた第一詩集『四千の日と夜』完全収録。『言葉のない世界』『奴隷の歓び』表題詩「腐敗性物質」他戦後詩を代表する詩人田村隆一の文庫版自撰詩集。【商品解説】
収録作品一覧
四千の日と夜 | 13-78 | |
---|---|---|
言葉のない世界 | 79-110 | |
腐敗性物質 | 111-118 |
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紙の本
誤解。
2010/04/30 12:07
5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:和田浦海岸 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本を読みながら、別の本のことを思い浮かべることがあります。最近、何だか田村隆一の詩を思い出すことがありました。たとえばこうです。マイケル・ディルダ (高橋知子訳)「本から引き出された本」(早川書房)を開いていたとき。そこにW・H・オーデンの言葉が引用してあったのでした。
「不信、報われない愛、死別、歯痛、腐敗した食物、貧困、こういったものは、人がひとたび手記を書きはじめるや、なんら問題ではなくなる。」(p201)
ここにあるところの「腐敗した食物」という箇所。 そういえば、というので、この文庫「腐敗性物質」を思い浮かべたのでした。 ちなみに、マイケル・ディルダの「本から引き出された本」の引用に、
詩に完成はない、断念あるのみだ。 ―― ポール・ヴァレリー
という箇所がありました。そこでまた思い浮かべたのは、田村隆一の詩でした。
水
どんな死も中断にすぎない
詩は「完成」の放棄だ
神奈川県大山(おおやま)のふもとで
水を飲んだら
匂いがあって味があって
音まできこえる
詩は本質的に定型なのだ
どんな人生にも頭韻と脚韻がある
詩といえば、文庫の「自選井上靖詩集」をめくって、
その散文詩をながめていたら、これまた私に思い浮かんできたのが田村隆一でした。
それを、どういったらよいのやら、
まずは、外山滋比古著「日本語の論理」から引用。
その「日本語の姿」の中の「誤解」という文に、こんな箇所がありました。
「子供は父親に向って改まってものを言うときの第一人称がはっきりしていないのが普通である。『私』というのは照れくさい。『俺』というのもまずい。『ぼく』は板につかない。いつもは主格の第一人称などをすっかり忘れてものを言っていてすこしも不自由しないから、第一人称が不安定である。急に第一人称を用いたりすると、そのこと自体に驚いて対話が不必要に緊張するということもある。変った言葉を使うと目の前にいるのが親子でないような気持になって、事態をいっそう深刻なものにしてしまうのである。
学校の教師と学生、生徒という、親密であるべき間柄においても、第一人称と第二人称の調節がうまく行かないために、思ったことが言えない。ひとつ歯車がくいちがうと、その断絶を埋める言葉がなくなってしまう。話し合えば話し合うほど溝はふかまるということになる。面と向っては思うことが言えないから、手紙で書いた方がよく気持が伝えられるということが、こういう至近距離における人間の間には案外多いものである。欧米の対話といったものを形式だけ持ち込んでみても、言語の性格がこれだけ違う以上、簡単に話せばわかるとは言えない。そう言えるにはいろいろな前提条件が必要なのである。」(p80・中公叢書)
さて、
この講談社文芸文庫・田村隆一著「腐敗性物質」をパラパラとめくってみると、どなたも、あれっと気づくことがあると思います。ここには、必ずといっていいくらい人称が詩に登場しているのでした。以下はその列挙。
私・彼・僕・俺・きみ・わたし・あなた・われわれ・われら・ぼく・彼女・おまえたち・星野君・おれには・あなたが・ぼくたち・ぼくは・おれは・神が・ぼくら・君・すべてのものは・かれを・かれらは・きみに・ぼくには・彼女も・われらは・おれの・きみが・ぼくには・ぼくはきみのことが・ぼくも・きみの・おれたちは・おれたちが・カミさんが・おれなんざ。
そうそう。この文庫には収録されていないけれども
おまえさん おまえさん
というのもあります。
そういえば田村隆一に「誤解」という題の詩集がありました。それは装幀が堀内誠一。
うん。詩集の内容より、それをつつむ装幀のほうが印象に残っております。
う~ん。それにしても、一人称二人称・・と、人称との関連で詩を思う時に、田村隆一の詩は忘れてはならない位置をしめていそうです。そういう意味で欠かせない詩人ということになるかとあらためて思うのでした。
さてっと、ここでもう一度、外山滋比古氏の「誤解」という文にたちもどってみます。
「・・・さらに、豆腐のような言語の日本語では演劇がうまく発達しない。・・われわれの頭は、そうでなくても言語におけるあいまいさに対して寛容になっている・・要点だけで全体を理解している。したがって、もし誤解がおこるととんでもないことになる。ことに親しい人間同士の間では、いつもたいへん大きな飛躍を互いに許しあっている。以心伝心、腹芸のごときものである。かりにそこで相手がこちらの要点をふみ外したりすることがあれば、その誤解を救うものはもう何もなくなる。・・・このようにして生じた親子の間の不和、誤解などというものは簡単には解けないのであって、論理をつくす言葉、対立を解消させる演劇的発想があれば、いくらか役に立つかもしれないが、われわれの言語では、そういうときに話し合う言葉がない。」
これから、あとが、外山滋比古氏の「誤解」の文の最初に引用した箇所へとつながるのでした。ここであらためて、田村隆一の詩の初期作品に、演劇的要素が多く見られることを思いうかべてみたりするのでした。
紙の本
批評眼、垂直性
2022/11/30 21:59
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:帛門臣昂 - この投稿者のレビュー一覧を見る
その優れた批評眼が文明を、社会を、現代《いま》を貫き、深く暗い表現が詩を立ち上がらせる。彼の脳裏にこびりついている恐怖がその暗さの原因なのではないか、とぼんやりと考える。