紙の本
待望の続編
2020/01/30 08:41
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投稿者:リンドウ - この投稿者のレビュー一覧を見る
これを読む方は、まず同じ著者・たもさんの「カルト宗教信じてました。 「エホバの証人2世」の私が25年間の信仰を捨てた理由」をお読み下さい。それの続編となります。
エホバの証人を経験した方なら、どこかに必ず「あるある」とうなずけたり、「私もそうだった」と共感できることが書いてあります。
半信半疑あるいは嫌々ながらエホバの証人をしていた辛さも知って欲しいですが、やめた後の苦しみ、生きづらさも知って欲しい。そのような意味でも、とても価値のある本です。
エホバの証人版、究極のビフォーアフター・コミックエッセイと呼ぶにふさわしいでしょう。
紙の本
前作より劣るが、読みやすくておすすめ
2020/12/27 15:51
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投稿者:Lily - この投稿者のレビュー一覧を見る
前作『カルト宗教信じてました』既読です。面白さや衝撃的かという点に関して前作よりは劣るとは思いますが、読みやすい絵で描かれた漫画形式なので、読みやすいと感じました。内容的には、たもさんが宗教をやめたその後のストーリーです。30ページの下の方のイラストの、前から見たたもさんたちと後ろから見たたもさんたちの対比が、印象に残っています。前作を読んだ方は、この続刊が存在しているので、是非読んでみてください。
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カルト宗教の続編
2020/11/07 19:09
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投稿者:まんまる - この投稿者のレビュー一覧を見る
私的に衝撃的だったカルト宗教しんじてました。の続編です。
今回、表紙のイラストが笑顔なのが本当にやめてよかったがでてると思います。
おばあちゃんの話がよかった。
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発売と同時に購入。
たもさん著『カルト宗教やめました』
エホバではないが、私自身十代と二十代前半はカルトに所属していたことがあり、
半分は、誰にも言えない、分かってもらえない葛藤に費やされていた。
集まっていた青少年たちは、私たちと何も変わらない純朴で素敵な人々で、
つまり、今この記事を読んでいるあなたが居ても全く違和感がない。
キャンプファイヤーを囲んで歌い、涙ながらに本音を話し合い、全国の同じ信仰を持った仲間と交流し、絆ができ、楽しく幸せな感覚で、魂が美しくなったような、
ああこんな人たちになりたいと思っていた。
こういう幸福も分かってもらえないが、
そういう幸福が埋め込められているからこそ、
自分の主体性が自分でないものに強制され、誰かの都合の良い道具としかみられておらず、
それを「立派な信仰」とされる現場の気持ち悪い恐ろしさも分かってはもらえない。
また、奇妙なことに、
思い通りにならないと癇癪を起こし子どもを怒鳴って叩き、外ではニコニコ優しい良妻賢母を演じるような、
それらのカルト宗教の話に出てくる母親像と、
うちの母が不思議と被るのである。
その時の体験を書いたものが、四千円でも売れたりするのだから、
人間の他人の珍しい大変さを覗きみたい欲求は、「成功や幸福のためのハウツー」なんかよりもよっぽど強い。
Twitter界隈でも、「アンチ」「信者」が集まり、上手いこと結託して、
一方では、教団の異常性を世に訴えかけ、一方ではアンチの心根をこき下ろし、教団がいかに素晴らしいかをアピールし、、、。
私がそういう問題に口出しをしないのは、
「もうこれ以上巻き込まれたくないから」
「私が叫びをあげることで周りにいる人を不快にさせたくない」
「誰も分かってはくれない。受け止められる人はいないだろう。」
「必然的に、特定の宗教の批判につながり穏やかではいられない」
という理由もあるし、
そして、現在、「さほどの脅威でない」「もうどうでもいいや」と思っているので、
記事が流れてきても人ごとでスルーしているのだが、、、
宗教二世というのは、マイノリティのニッチな世界だと思っていたのが
「五万部突破」という帯を見る限り、「めっちゃバズってる」。
伝統宗教が、「立派な教え」を言っても、一部の真面目な人だけ丁寧に読んで、後はそこまで広がりはしないだろう。
「毒親」「発達障害」などというキーワード同様、
実は潜在的に、「カルト宗教」に対するニーズのポテンシャルは大きいのではないか。
それまでマイノリティで日陰で人に言えず閉鎖的空間の中、
苦しんできた人たちが表に出て、大声で自分を表現できる。
教祖の息子がYouTubeで内部告発し、教団と裁判合戦。
属していた組織で、
そしてそれが濃密で閉鎖的で絶対的であればあるほど、
そこから出た時の辛さ、
そしてそれを批判して、組織から返ってくる攻撃ほど引き裂かれるようなものはない。
「地獄に落ちる」「悪魔」「嘘つき」とレッテルをはられ、
「あなたに問題がある」「魂が腐っている」と次から次へと暴言を吐かれ、
しかもそれを、「あなたを愛しているから」などとのたまう。
個人が、その人としての尊厳を持って尊重されず、
そこで語られる「愛」も「反省」という美しい言葉も、コントロールのための都合の良い道具。
キリスト教が歴史の中で「異端」を選り分けてそれらと戦ってきたことにも、排他的独善的なレッテル貼りがなかったとは言えないが、
こうした、人間の霊魂を厳格さと恐怖で支配する危険性を認識していたからだろう。
無論時代の中で教会そのものが巨大なカルト化していたこともあったが。
こうした問題を扱う際に必要なリテラシーは、
「単なる悪口」「ゴシップ」でなく、本質をついた人間論だろう。
週刊誌や本、YouTubeでの情報には単にアクセス数や話題集めのためのような憶測とレッテル貼りのストライクゾーンからずれたものが多々見られるが、
そんなものは、誤解であればあるほど、教団を正しいとつけ上がらせ、団結させ、
被害にあっている人からしたら慰めにも薬にもならないばかりか、
「自分たちのことは見てくれてない」と落胆するばかりだ。
信教の自由は保障されなくてはならないし、尊重されねばならないが、
問題になってくるのは、「基本的人権」の保障である。
これも単純なようで居て難しい問題で、
仮に、外で爆弾がバンバン落ちてきたり、ターミネーターが襲ってきたり、津波が押し寄せてくる現場において、
親は子どもを「基本的人権を尊重して」普通に学校に行かせはしないだろう。
ホラーやパニック映画では、カタストロフィから生き延び大切な人を守るため、
バットで人を殴りつけ、自転車を窃盗し、銃を乱射し、トラックで民家に突っ込み、
あらゆる犯罪や暴力が英雄的な行為として描かれる。
狂っていることが正常で、正常であることが狂っているのだ。
つまり、人間の合意によって法律で定められた普遍的原理よりも、
絶対神の啓示する未来の方に行動の原則が置かれる。
オウムだって、最終戦争が起こると本気で信じて、
それが殺人罪になることくらいわかって善意でポアをした結果、
日本国の法律によって裁かれた。
破壊的カルトにおいては、「価値観の違い」なんていう生温いものでない、社会よりもはるかに上位の差し迫ったカタストロフィのビジョンがありありと刷り込まれている。
そのため、その上位のビジョンのためであれば詐欺も窃盗も殺人も「世界を守るためには仕方がない」と正当化されうる。
その反動で、
「もう宗教は懲り懲りです」と、世俗に完全に一致して慎ましく生活する人もいれば、
しっかりした宗教のうちで信仰を持ち直す人もいる。
(それでも、洗礼を受けるのにとても恐れがあったと言う)
それにしても、エホバは組織としてこの本を訴えないのだろうか、もしくはHPや組織の貼り紙で禁書令を敷いたりしないのか、気になるところである。
うちではわずか少しの批判でもあれば鬼の首を取ったように恫喝し訴えてくる。
健全な組織の一つの指標があると思う。
「問題があるかないか」よりも、
「問題を告白できるかどうか」。
「問題のない」組織や人の集まりは無論存在しない。
『二人のローマ教皇』の映画を観たが、
フランシスコも、後輩の司祭を死なせ、
ベネディクトも、司祭虐待の隠蔽に加担した。
組織の暗部や問題を、勇気を持って内側から晒すことのできる組織は、美しい。
卑屈になってなんでも「私が悪うございました、私は罪人、人間の屑でごぜえます。正しいのはあなた様でございます。」と、屈服せよと言っているわけではない。
「罪人の自分には生きている価値はない」とその場で自分をひたすらに責め、絶望するのでもない。
そうではない。
必要なのは痛悔と心からの償いと決意だ。
そこには、やはり運命全体に対する、赦しを信じる勇気ある決断が必要で、
この決断だけが私たちの自分では克服できない罪を洗い流してくれる。
どれほど倫理的に真面目に見えても、
「私は潔白です。悪いのは周りや誰それです。」
と自らをやたら正当化するところは傲慢とも言える。
そして、そこに本当の意味での安心や喜び、心の安らぎはない。
自分が自分であれることを喜ぶことができない。
人祖が楽園から追放された(自ら出る羽目になった)のも、
「自分を正当化して、他者に責任転嫁した」からだ。
素直に謝ることができない。
自分の過ちが許されないと思って、他者を裁き出す。
いつのまにか、自分が神になる。
生きている限り、私たち全員にその自己保身の傾向性は根深くある。
カルトの問題は、どうも、人類根源の罪に根っこがあるような気がするのだがどうだろう。
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宗教にハマる人は基本真面目な人が多いんじゃ、と思った。 楽園に行けるという見返りがあってもあの苦行…。
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待望の続編。
『エホバの証人』を脱退してからの著者・たもさんの葛藤。
たもさんの中で「思春期に通過儀礼をしなかった葛藤」を今行っている。
諦めていた漫画家になるという夢がひとつの形になる。
それを通してお父さんに「あの時自分がどう思っていたか」を伝えることが出来た。
悪戦苦闘する他人との距離感やおしゃれ問題など。
絵本の読み聞かせを通して、子供や他人は強要しなくても自ら学ぶということを垣間見たり。
それらを通して自己を自律させようとしているたもさんの姿勢を読んでいて応援。
亡くなったおばあ様の話は、たもさんの一つの指標なのかもしれない。幼少のたもさんが自分のために出されたお菓子を前に「何個食べていいの?」と聞く姿に、おばあ様は「この子は自分を抑えている」と理解して「好きなだけ食べていいんだよ」と声をかける。気持ちを汲み取り後ろにあるものを悟る。
エホバの証人の集会で多幸感を覚えたことの話は、さもありなん。しまだ『ママの推しは教祖様 ~家族が新興宗教にハマってハチャメチャになったお話~』( https://booklog.jp/edit/1/4041069378 )でも指摘があった。
両方のお母さまとの関係はまだ難しいとおもうけれど…お二人とも全てを「自分(と属する組織)以外のあらゆることが悪い」としている臭いが強い。
巻末では前巻を出してその後の反響、同じ境遇の人々の悩みについても少し紹介。
あとがきでは「助言」することでたもさんの中でドーパミンが出で多幸感に浸り「教祖化」してしまう可能性に距離感を置きたいとつづられている。自身への戒めの姿勢に感心する。(カウンセラーでも傾聴などでクライアントに共感しすぎることを“プロ”として留まる、中立であろうとする。その姿勢の大切さ。)
前巻で私は『エホバの証人』が言う“楽園”とは、死後世界だと思っていたのだが、どうやら「いずれやってくる」ハルマゲドン後の世界という、『ヨハネの黙示録』(キリスト教徒が迫害されていた時代の鬱憤晴らしの幻視)を基にしたものだった。つまりこの宗教は、100年間も「来る来る詐欺」をしている団体だった。
本当に大事なのは、自律、現実世界での幸福(お金や地位や名誉だけにとらわれず)に生きる方法であり、他人に寛容であることではなかったか。そう思った次第。
私は新興宗教に関わらず生きてこれたが、たもさんの話に共感するのは、感じる「生きづらさ」が重なるから。応援したくなる部分もあったり、「なるほど」と私の中で参考になる部分もあって励みになる。
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前作と比べて表紙が笑顔で嬉しい。
過去に何があろうとも、未来を選ぶことが出来るんだなぁと思える。
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絵がうまい。あと、恨んでいながら、ボロカスに書ききれない人情みたいなのを感じる。なにかあったら元に戻るのでは、とも感じさせてつつ、、、信仰人は特別な排他精神というか独善感情のようなものがあって、それを捨てて普通になった、と表現したいのだろうけど、結局書かれていることは、「信仰を捨てた人」がいかに特別か!であって相変わらずの排他精神のようなものを発揮している。つまり「信仰している人は変人」ではなく、「信仰を捨てた人は変人」という表現になってる。(信仰人は意図的にデフォルメされているので。)
などと考えずともおもしろけりゃいいか
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カルト宗教信じてました。の続編。
やっぱり興味深かった。
こういう誰かの人生のマンガどんどん読んでいきたい。
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『カルト宗教信じてました。』の続きのコミックエッセイです。
自分の人生は自分で取り戻す!そんな作者を応援したくなる1冊です。
ブログにて詳しいレビューしています*
https://happybooks.fun/entry/2021/09/10/173000
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居場所が欲しい、話を聞いて欲しい、認められたい、その通りだと思います。宗教もドラッグもギャンブルも、心の穴を満たすのにちょうどよかったのかなあ。
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「カルト宗教信じてました。」に続き読破。いままでの当たり前が当たり前でなくなる、仮にそれがじゆうになったということでも、急に放り出されるって大変なのだな。この本の筆者はもがいて、いい方向に向かってよかったと思えた。
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エホバの証人に限らず、こうゆうコミュニティって色々存在するんだと思うとモヤッとした気持ちになります。
高校の頃、好きな人がエホバの人でとても辛い恋愛をしたのを思い出し胸が痛くなりました。
手も繋げず、ましてやキスなんて出来ず、若さに任せ「一緒に逃げよう」と誘ったのは遠い昔。
今頃、どうしているのかなぁ。。。
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神が人間を創るのか
人間が神を創るのか
駅前でパンフ沢山持ってる人、勝手にユニセフかと思ってたけどエホバだったんだーあぶねー。
昔一人暮らしの家にエホバのババアが来たことあるけどパンフだけ押し付けて帰って行った。布教そんな熱心な信者じゃなかったのか、金も信仰心も無さそうな人間だと思われたのか不明だけども、ババアも何か進行に繋がる心の傷があったんだなぁ……
宗教を否定すると文学や絵画だけでなく数学や音楽や文化なども否定することになるから、宗教が全部悪とは言わないが、心の隙につけ込むカルトだけは悪
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幼少期に身についた習慣や思い込みは抜けるまで時間がかかる。これは宗教ほど極端でなくても自分にも当てはまることだと思う。