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- カテゴリ:幼児
- 発行年月:1989
- 出版社: 偕成社
- サイズ:25cm/1冊
- 利用対象:幼児
- ISBN:4-03-438010-1
紙の本
まちんと 改訂 大型版 (新編・絵本平和のために)
【ボローニャ国際児童図書展グラフィック賞推薦】【ライプチヒ国際図書デザイン展金賞】【「TRC MARC」の商品解説】
まちんと 改訂 大型版 (新編・絵本平和のために)
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紙の本
幼い少女がねだったものは
2010/08/09 07:02
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
八月は「戦争」の季節です。
新聞や雑誌、それにTVといったたくさんのメディアが「戦争」の記憶をたどり、私たちは「戦争」を二度と繰り返さないことを誓い、死んでいった多くの死者に祈りをささげます。
風化させてはいけない記憶。
それがこの国の八月です。
ヒロシマの原爆を主題にしたこの絵本は1978年に刊行されました。そして、今でも多くの子どもたちに読みつがれています。
表紙の大きな瞳をした少女は原爆にあって死んでしまいます。まだ三つにもならないのに。死の間際、口にいれてもらったトマトを、「まちんと まちんと」をいってねだりながら。
「まちんと」とはまだうまく舌のまわらない少女(そんなにもこの子は幼かったのです)が、「もうちょっと」とねだった言葉です。
お母さんは廃墟になった町をトマトをさがして歩きました。そして、ようやくみつけた一個を持って戻ったときには、少女はもう死んでいました。
この絵本を読んで、こわがる子どももいるでしょう。
燃えさかる炎、不気味な黒い雨、とける腕、死んだ赤ん坊を抱く母親。みんな、みんな、目を覆いたくなります。
おとなでも胸ふさがれるような悲惨な絵がつづきます。子どもにとっては見たこともない光景です。
でも、その「こわい」という感情を大事にしてほしいと思います。
「戦争」はどんな思想のうえに立ったとしても、まずは「こわい」ものです。そして、「こわい」「戦争」はたくさんの悲しみをつくります。
その思いを生涯忘れないでもらいたい。
作者の松谷みよ子さんはこの作品に寄せてこんな言葉を書いています。
「戦争を語りつぐということは説明することではないのだと。ともすれば私たちは説明し、教えようとしているのではないでしょうか。実感の重みこそ求められているのに」
「まちんと、まちんと」といいながら死んでいった少女はトマトだけでなく、今消えてなくなる命をねだったにちがいありません。
もうすこし、生きていたい、と。
◆この書評のこぼれ話は「本のブログ ほん☆たす」でお読みいただけます。
紙の本
戦争の怖さを感性で伝える絵本。終ったことではなく、今もなお哀しみが続いていることを実感できます
2006/08/08 11:13
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:チャミ - この投稿者のレビュー一覧を見る
可愛らしい女の子の表紙からは想像もつかないほど原爆を題材にした悲しい物語。舞台は広島。8月6日原爆が投下され、街は火の海に。
もうじき3歳になる女の子もやけどを負い、母親はトマトを口に入れてやるとまちんと まちんとと言って欲しがった。
母親は焼け崩れた街へトマトを探しに出かけるが、戻った時にはその子はもう死んでしまっていた。
まちんと まちんとと言いながら。
そしてその子は鳥になり、まちんと まちんとと鳴きながら今も飛び続けている…。今も…。
まちんととは「もっと」とか「もうちょっと」という幼い子が使う方言だそう。
冒頭の原爆の悲惨な状況から女の子が鳥になって今も飛び続けるというファンタジックな内容になっています。これは戦争をもとにした伝説を松谷みよ子が絵本として蘇らせた作品です。
戦争を描く上で語られがちな、「餓えや爆弾の恐怖」。
でも、昔の体験として語られるあまり、今の子供たちにはリアリティーがなく、ともすれば「桃太郎」のように昔話のひとつとして捉えられてしまうかもしれません。
大切なのは今とのつながり。そして未来へ語り続くこと。
作者松谷みよ子は次のように言ってます。
「戦争を語りつぐということは説明することではないのだと。ともすれば私たちは説明し、教えようとしているのではないでしょうか。実感の重みこそ求められているのに。
そのあと文庫にきた小さな女の子にきかれました。わたしたちにわかる戦争の本ないの? なるほどと思いました」
そう、こうだった、ああだったという体験談だけではなく、その実感こそ伝えられるべきなのでしょうね。
子供たちがどう感じてくれるか。少しでも今に続くことと捉えてくれることを願います。
紙の本
「9・11」だけでなく「8・6」「8・9」「8・15」を風化させないために…。小さな子にもわかるよう作られた原爆の絵本。死の淵でトマトを口に入れてもらった少女が発するのが「まちんと」という言葉。
2002/08/21 16:18
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:中村びわ(JPIC読書これらアドバイザー) - この投稿者のレビュー一覧を見る
ことしの8月6日。小学1年の息子と緑豊かな羽根木公園内のプールに行くと、彼と同級生の女の子ふたりが遊びに来ていた。股くぐりをさせてやったり、ビーチボールを顔にぶつけられるたび奇声を上げてやったりと、子どもサービスは大変だ。私をさんざん弄んだ彼女たちは「夜は花火大会に行くんだ」と意気揚々チャリで帰っていった。
活発なふたりの背中を見送りつつ、「原爆投下の日に花火?」と、私は大きな違和感を感じていた。「灯籠流しやら精霊流しならわかるけれど、花火とはねえ」と友人にもらしたところ、「そういえばそうねえ」と彼女は私ほどの違和感をもたない様子であった。
確かに花火というのは、パンパン威勢良く打ち上げられるだけの派手なものではなく、心慰めるものであり、刹那の美に無常を思う日本的陰翳に満ちている。だが、60年近く前の同じ日きのこ雲が上がった日本の空に、花火を打ち上げるというのは「どうかな?」と思わせる何かがあったのである。しかし、これを書くに先立ち、その日付と花火大会という項でネットの検索をかけると、少なくない花火大会がヒットした。言葉を失った。
本書のカバー袖に作者・松谷みよ子氏の言葉が添えられている。「戦争の話をきいてくる宿題が出たというので、小学生のむすめに、指が痛くなったよというまで書き取らせました。それなのに不満そうなのです。じれているのです」。
食べ物がなかったことや、爆弾が落ちてこわかったことなど、みんなおんなじ話をするが、なんだかちがう…というお嬢さんのつまづきを前に、松谷氏は気づく。戦争を語りつぐということは説明することではない。実感の重みこそが求められているのだ…と。
ずいぶん前に深い感銘を受けたこの本を手に取り、例の活動的な女の子たちの姿を重ねながら再読した。文章は「これほどまでに」とうならせられるほど削がれている。ここに全部書き写してしまおうかというほどに短い。
もうじき三つになる女の子が原子爆弾に遭う。たった一発だったが街がくずれ落ち、人も燃え、生き残った人びとは焼けただれてさまよう。黒い雨の注ぐなか、苦しみつつ横になる女の子は口にトマトを入れられ、「まちんと まちんと」とほしがる。おかあさんが「ちょっとまってねえ」とさがしに出たが、ようやく見つけて帰ると、その子は死んでいた。鳥になったその子は、今も「まちんと」と泣きながら飛んでいる。
「平板」のそしりを覚悟で要約すると、お話の流れはそんなところである。
赤ちゃん絵本や民話再話をはじめとする卓越した業績で、松谷みよ子氏の名前を知らないという人は少ない。その業績の大きな柱のひとつに、戦争を語り継ぐことがある。『ふたりのイーダ』『死の国からのバトン』などロングセラーとなった中長篇童話に加えて、『ぼうさまになったからす』や本書などの絵本がある。これら絵本が特徴的なのは、原点となる話があり、それを聞いた松谷氏が現代の民話だという意識をもって、語りのように文章を起こしていることだ。戦争を民話のように語り継ぐという強い意志の力を感じる。
無駄話をしているから、絵の迫力について述べる紙幅が尽きた。建築家・安藤忠雄氏のように独学で画家となり圧倒的な画業で見る者を魅了する司氏の、出版美術としての代表作に数えられるこの絵は、見ていると自分も火に包み込まれそうになる。現代の民話は、この絵を得てより一層、一度触れたら二度と忘れられない記憶への刻印を重ねた。