「honto 本の通販ストア」サービス終了及び外部通販ストア連携開始のお知らせ
詳細はこちらをご確認ください。
紙の本
民族という虚構
著者 小坂井 敏晶 (著)
民族は虚構に支えられた現象である、という視点にたち、民族の同一性という考えを生み出す社会的・心理的なしくみを分析。虚構と現実を結び付けているシステムを考察したうえで、開か...
民族という虚構
このセットに含まれる商品
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
商品説明
民族は虚構に支えられた現象である、という視点にたち、民族の同一性という考えを生み出す社会的・心理的なしくみを分析。虚構と現実を結び付けているシステムを考察したうえで、開かれた共同体概念の構築を試みる。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
小坂井 敏晶
- 略歴
- 〈小坂井敏晶〉1956年愛知県生まれ。フランス国立社会科学高等研究院修了。現在、パリ第8大学心理学部助教授。著書に「異文化受容のパラドックス」など。
あわせて読みたい本
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
この著者・アーティストの他の商品
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
紙の本
民族という虚構
2003/05/16 05:43
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:濱本 昇 - この投稿者のレビュー一覧を見る
日本民族は、単一民族と良く言われる。しかし、本書はそういう事を言う事自体が間違った認識に立ったものだと言及する。目から鱗的な内容であった。私は、本書のような常識に真っ向から立ち向かう記述は好きである。
Dog earを付けたページが多々あった。その内のいくつかを紹介しよう。
ある実験の事が記述されていた。人々を二組に分け、Aに1000円、Bに800円を与えるよりも、Aの人々は、Aに500円、Bに200円を与えるほうを選ぶという結果が出るという。すなわち、実利よりも他との差異を求めるのである。これは、各集団の価値が独立に問題になるのではなく、その間の関係あるいは差異の方がより根本的な原因になっている事を示している。
ドイツの社会学者ゲオルク・ジンメルの説明を引用している。つまり、「各個人以外には何も存在しないという事実は疑う余地もない。完全な知能にとっては個人のみが存在すると認めなければならない。しかし、このような全能な知は我々に与えられていない。各個人を結ぶ関係群はあまりに複雑であるために、その関係群を究極的要素に還元しようとする試みは見果てぬ夢にすぎない。したがって、国家・権利・法律・流行などに対して、それらがまるで単一な存在であるかのごとく我々が言及しても、それは単に方法上の手続きとしてのみ行なっている」。つまり、民族とは、夢泡沫な存在であると言っている。
我々が正しいと思う命題はいつも合理的検討を経ているとは限らない。科学的命題にしても、それらを正しいと我々が考えるのは、ただそのように教科書に書いてあったり、マスコミで報道されている内容をそのまま信じ込んでいるにすぎない。つまり、自らの無知を認識した上での言動が大切であると言っていると思う。
世代間の責任について考える。論理的に考えれば、前世代の思考が後世代に影響を与えるというのは正しい。従って、前世代は後世代にとって責任がある。しかし、戦争責任がその最たるものだが、前世代の罪を後世代が責任を負うという事が多々発生する。これは、まさに、我々の集団責任の感覚が論理とは別の原理によっていることを示している。
大部分において、著者の主張は理解出来たが、ルソーに対する批判は納得いかなかった。著者は欲望とは他者との比較において発生するといい、ルソーの主張する「人は誰でも自己保存欲を持っており、その限りにおいて欲望は正当かつ自然なものである」という自己からの欲求を否定している。私は、ルソーが正しいと信じる。「足るを知る」という認識に立てば、「自己からの欲求」という概念は成立しうると考える。
結言として、著者は次のように述べている。「どんな社会でも「異人」を内部にかかえている。それは彼らの存在こそが、人間の同一性を生み出す源泉をなすからだ。「異人」のいない社会では、人間は生きられない。もし<純粋な社会>が樹立されたら人間はどんなことをしてでも「異人」を捏造するであろう」。ここに、我が国の同和問題、在韓問題等の根源があるように思われる。
本書は、新たな考えを多々与えてくれ、考えさせられながら、楽しく、アッという間に読み上げることが出来た良書と言える。
紙の本
アンチ本質主義から見た「民族」観
2002/12/05 14:26
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:三中信宏 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書のメッセージは明快である——「民族同一性は虚構に支えられた現象だ」(p.iii)という主張を社会心理学の観点から立証するのが本書の目標である.
「人種」とおなじく「民族」もまた客観的な根拠のないカテゴリーである.本書の前半部分では(第1〜2章),生物学的にみても根拠のない「民族」がどのような詭弁によって生き延びてきたのかをたどっている.確かに,「ある分類形式が人間にとって自然に見えるからといって,それが世界の姿を客観的に写していると言えないのは当然だろう」(p.6)という著者の見解に私は賛同する.
「分類の恣意性」(p.23)にこだわるあまり,著者は池田清彦や渡辺慧のいう「醜い家鴨の仔の定理」に言及しているが(pp.6, 23),これは勇み足である.また,生物の系譜や血縁まで「虚構」(pp.41, 56)であると断言しているのは明白なまちがいだと私は思う.生物に関わるすべてのことが虚構であり,社会的・文化的に構築されたとみなす本書の基本的スタンスは再考の余地があるだろう.
しかし,こういう勇み足や言い過ぎは,本書全体の価値を減じるものではない.著者の問題意識ないし問題設定は明確である.「日本人とか中国人あるいは日本とか中国とかいう対象はそもそも実在するのか,また存在するとしたらどういう意味で存在すると理解すべきなのかという点にある.言い換えるならば,集団現象はどこにあるのか,個人の頭の中にあるのか,集団というモノがあるのかという存在論が問題になっている」(p.53).この問題設定は,生物学における【種】の問題とも密接に関係する論理形式を共有している.すなわち,「民族という言葉が使用されるとき,時間の経過とともに様々な要素が変化するにもかかわらず,その集団に綿々と続く何かが存在しているという了解がある.この時間を越えて保たれる同一性はどのように把握すべきなのか.絶え間なく変化していくという認識と同時に連続性が感じられるのは何故なのだろうか」(pp.29-30)というおなじみの問題である.
この問題に対して,著者は「心理現象としての同一性(pp.48ff.)」という解答を用意する.記憶や意識による personal identity の保持であったとしたら,かつてのジョン・ロックの焼き直しにすぎないが,著者は一歩進めて社会心理学の観点から,集団における虚構としての民族概念の成立を論じる.とくに,「対象の異なった状態が観察者によって不断に同一化されることで生じる表象が同一性の感覚を生みだす」(p.50)という主張には魅力を感じる.identify する者がいればこその identity という見解だ.
民族観を「あたかも変化を超越した実体が存在するかのごとき感覚」(p.52)を生む社会心理現象として論じている点が本書の魅力であり,後半の章では,具体的な事例(在日朝鮮人社会における民族同一性の意識など)を取り上げている.虚構をネガティヴにとらえるのではなく,むしろ虚構による民族同一性を積極的に評価しようというのが本書後半のメッセージだ:「民俗や文化に本質はない.固定した内容としてではなく,同一化という運動により絶え間なく維持される社会現象として民族や文化を捉えなければならない」(p.191)——すべて虚構だとみる著者の見解に私は与してはいないが,民族という生物カテゴリーをアンチ本質主義の観点から捉えようとする著者の姿勢には共感する.
「変化するものがなぜ同一であり続けるのか?」という形而上学の問題は姿形を変えて,さまざまな状況で表面化する.【種】しかり,【民族】しかり.
紙の本
出版社からのオススメ
2004/03/19 03:16
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:こや - この投稿者のレビュー一覧を見る
民族という虚構から開かれた共同体へ
〈主要目次〉
第一章 民族の虚構性
第二章 民族同一性のからくり
第三章 虚構と現実
第四章 物語としての記憶
第五章 共同体の絆
第六章 開かれた共同体概念を求めて
【担当編集者から】
前著『異文化受容のパラドックス』(1996,朝日選書)で池澤夏樹(週刊文春96年11月14日)や佐藤忠男(朝日新聞96年10月27日)をうならせ,面白がらせたパリ在住社会心理学者の著作.「すでに分かっているつもりの事柄をいちいち本当にそうかと問い直す」(佐藤)著者のスタンスは,本書でも貫徹されている.虚構に支えられた社会現象である民族が,それにもかかわらずその同一性を保っているという感覚を我々に保持させるのはなぜなのか.明快な著者の論理に乞うご期待.