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- カテゴリ:一般
- 発行年月:2006.7
- 出版社: 日本評論社
- サイズ:19cm/216p
- 利用対象:一般
- ISBN:4-535-51525-5
紙の本
憲法が変わっても戦争にならないと思っている人のための本
憲法9条を変えるのか、変えないのか。その前に知っておきたい経済、歴史、軍事、ジャーナリズム、政治、哲学、憲法学について、井筒和幸、室井佑月、森永卓郎、こうの史代ほか多彩な...
憲法が変わっても戦争にならないと思っている人のための本
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商品説明
憲法9条を変えるのか、変えないのか。その前に知っておきたい経済、歴史、軍事、ジャーナリズム、政治、哲学、憲法学について、井筒和幸、室井佑月、森永卓郎、こうの史代ほか多彩な執筆陣がわかりやすく解き明かす。〔「憲法が変わっても戦争にならない?」(ちくま文庫 2013年刊)に改題,加筆〕【「TRC MARC」の商品解説】
収録作品一覧
憲法?ソレがどう変わる? | 木下智史 著 | 1-13 |
---|---|---|
井筒監督の教えたるわ!歴史と憲法 | 井筒和幸 著 | 15-40 |
息子を兵隊になんかさせません | 室井佑月 著 | 41-43 |
著者紹介
高橋 哲哉
- 略歴
- 〈高橋哲哉〉1956年生まれ。哲学者。著書に「デリダ」「国家と犠牲」など。
〈斎藤貴男〉1958年生まれ。ジャーナリスト。著書に「機会不平等」「分断される日本」など。
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紙の本
憲法を限りなく理解するために
2006/09/27 04:31
22人中、19人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:良泉 - この投稿者のレビュー一覧を見る
憲法改正論議があちらこちらで聞かれるようになった昨今でも、では憲法が何のためにあるのかが明確に理解されていないことが多い。
憲法は、ただただ「権力者を監視するため」だけにあるのだ。
つまり、憲法は、権力者の横暴からわれわれを守ってくれるためにある。
戦後60年、日本は武器を持っての直接的な戦争を行うことはなかった。われわれは戦場で敵の弾に撃たれて犬死することはなかった。それもこれも憲法第9条が常に権力者の行き過ぎを監視し、憲法論議が権力者の権力乱用を阻止してきたからだ。
今、憲法第9条が変えられようとしている。戦力面から見て実質的に軍隊と言える「自衛隊の存在」という現実と、「戦力不保持」の憲法第9条の矛盾をあげつらって、憲法第9条を改悪しようとする考え方がある。
いま、まさに、【「理想」が「現実」に押しつぶされようとしている】。
自衛隊の存在とその持つ戦力の巨大さは、確かに憲法第9条での制約をすでに超えていると思う。
え、だからって憲法の方を現実にそぐわせればいいの?
よく考えて欲しい。今の現実を選び取ったのは、戦後の日本国民である。まがりなりにも民主主義的な国家運営が続いた戦後日本が、今の状態であることは、残念ではあるが国民の総意とされても仕方が無い。しかし、今の現実に至るまでの様々な防衛論議、国会論戦を思い出して欲しい。憲法第9条の歯止めが、どれだけ有効に機能してきたことか。歴代自民党保守タカ派政権の思惑を、押しとどめ押さえつけてきた源は何か。憲法第9条のおかげで、日本の行き過ぎ、過去と同じ過ちの繰り返しが避けられたことは間違いない。
「憲法が変わっても戦争にならないと思っている人」、それは大間違いだ。憲法第9条の改悪論者が示す改悪案をじっくり見て欲しい。彼らが望んでいることは、ただ「日本を戦争ができる国」にすること。そしてもしそれが実現し、将来日本が戦争にまきこまれることになっても、実際に戦場に行き、弾に撃たれるのは、彼ら権力者ではない。われわれなのだ。
それでもなお、「俺は愛する人を守るために戦う」などと安物映画のセリフみたいな言葉に酔いしれるのが好きな人、はっきり言う。
戦争できる国になることが、愛する人を守ることにはならない。戦争できる国になるということは、愛する人もろとも自分自身をも犠牲にしてしまうことなのだ。
紙の本
卑怯なる言論への対抗
2007/03/25 02:39
18人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:佐伯洋一 - この投稿者のレビュー一覧を見る
憲法を変えても戦争にならないと思っている人へというが、どう戦争になるのか意味不明である。特に醜悪を極めるのが、映画の井筒和幸の「ワシが教えちゃる」などというくだりである。映画に対する偏狭ぶりを「虎ノ門」などで逐次露呈してきたこの男が一体何を教えるのかと見てみたら、相も変わらずであった。
外国人は他にも多いのに、在日朝鮮人に対して井筒が何故これほど熱心なのかという疑問はさておき、酷いのは「朝鮮が分裂したのは日本の責任である」などという話だ。
朝鮮が分裂した経緯は周知の如く、米ソ対立が産み落としたものである。地理的にもちょうど共産圏との緩衝地帯にあったことも大きい。また、朝鮮が分裂程度で済んだ功績は分けても日本に帰する。もし、日露戦争で日本が負けたらどうなっていたか。朝鮮は確実にコリアスタンと成り果てていた。ロシア支配の悲惨さはこれも周知のとおりである。大体、当時主権を奪われたというが、その主権など朝鮮には無かった。なにしろ中国は朝貢品として朝鮮から貢女を供出させていたほどだ。黄文雄氏にいわせれば千年売春立国だったわけだ。李朝は完全に中華の属国であって主権はない。故に列強は朝鮮を国として扱っておらず、1911年の日韓合邦を列強「全て」が承認し、むしろ祝福した。
合邦後の善政はまったく日本の祖先たちの善良ぶりには涙がでるほどである。自ら貧しくとも、破綻状態の朝鮮に対し、現在に換算するとおよそ50兆円を費やした。そのほとんどはインフラ整備に使われ、内地の日本の資産は戦後のドサクサで全部朝鮮に収奪された。関税の撤廃、農民解放・・日本は朝鮮を完全に自分たちの家族として扱ったのである。
要はその受け取り方である。台湾は非常に温厚で義に厚いので正当に評価すべきところはする。しかし韓国はしない。その受け取り方を責めるのは筋違いである。しかし、井筒は自らの無知と偏見を棚に上げ、一方的情報だけを公共の書物に載せるのは卑怯ではないか。
在日朝鮮人の差別のくだりも、逆にこれだけ日本から恩義を受け、通称名使用まで許されているのはむしろ他の外国人からすれば差別である。
また、憲法改正が戦争になるという。そして九条は世界の宝という。しかし、九条は別に日本特有ではないのをちゃんと調べているのか完全に疑わしい。戦争放棄条項はドイツにもイタリアにもブラジル韓国にもハッキリある。イタリア共和国憲法11条は、「他人民の自由に対する攻撃の手段としての戦争及び国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄する」とある。ドイツも厳しい。
だから、日本の憲法九条を世界になんて本気でいうと、相手を不快にするからやめて欲しい。戦争放棄は当たり前である。大体パリ不戦条約だってある。そして、井筒は偉そうに「多分徴兵制になる」という。おふざけが過ぎる。憲法18条により違憲である。最高裁で瞬時に違憲判断が下り、行政は執行できなくなる。万が一執行しても国家賠償が相次ぐ。そして、もし最高裁を無視したらそんな代表者はことごとく選挙で落としてやればいいだけ。必ず解散総選挙になるに決まっているではないか。そんなアホバカ内閣がどうやってできるのか井筒に聞いてみたい。
大体、違憲判断を最高裁が出さないようなら、憲法79条の罷免で落としてやればいい。罷免手続きに時間が掛かるが、それなら最高裁裁判官を選ぶ内閣の構成員である議員を落としてやればいい。それこそ議院内閣制の凄みである。徴兵制までやるようなら、私だって社民党を一時的に支持する。
とにかく、いいかげんで情緒的な話が多すぎる。しかし、私は読んで頂きたくない本には書評は控えている。むしろ、教養ある方々に本書を読んでいただき、審判を下して頂きたいと思うしだいである。
紙の本
戦争にも、いろいろあらーな
2006/09/28 07:09
22人中、21人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:塩津計 - この投稿者のレビュー一覧を見る
どうして、斎藤とか高橋とかは話しをすり替えては出鱈目なサヨク音頭を垂れ流し続けるのであろう。まず、日本国内で(少なくとも自民党内には)、「侵略戦争」をやりたい・やろう。やれるように憲法を変えようという人は一人もいないのだ。だからこそ憲法9条を改正するにあたり現在の変法9条第一項は変えずに置こうとみなさん言っているのだ。問題は第二項で、芦田さんの尽力で「前項の目的(侵略戦争をしないという不戦の誓い)を達するために陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」となり、侵略戦争を目的としない軍隊(つまり自衛のための軍隊)はこれをもてますよという解釈を可能とするようになってはいるのだが、これはやはり日本語として苦しいのですっきりと2項を削除しようという話なんである。現在の解釈では集団的自衛権は「持っているけれども使えない権利」というヘンテコなものとなっている。集団的自衛権は国連憲章に定められた各国が持つ自衛権のひとつであるにもかかわらずだ。だから日本を守ってくれる為に主導してくれているアメリカ軍さまに武器を提供したり弾薬を供給したり、日本のために戦い傷ついたアメリカ兵さまを治療したりすることは「集団的自衛権の行使」にあたるのでやってはいけないなんて、誰がどう考えても可笑しい解釈がまかりとおってしまうのである。幸い安倍政権はこの解釈を変更し「日本は集団的自衛権を持っているし行使も出来る」と解釈改憲を行なおうとしている。当たり前である。ようやく国民の圧倒的支持の下、当たり前のことが当たり前にできるようになってきた。日本の「戦後」もようやく終焉を迎えようとしていると思うと感慨深い。斎藤・高橋のような「戦前派」たちよ、さよおなら。