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中年インテリ女性における恋愛心理の解剖所見
2010/12/26 12:51
10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:abraxas - この投稿者のレビュー一覧を見る
作者自らが語るところによれば、この小説のテーマは「いなくなった男の話」だそうだ。
主人公の「私」は、アメリカ西海岸の町に住み、翻訳業で何とか食べている女性。巻末の著者略歴によれば、作者本人もフランス文学の翻訳者として知られる。限りなく作者自身に近いと思える「私」だが、この「私」が一筋縄ではいかない。短い章が変わるたびに別のレベルの「私」が登場するからだ。たとえば、今書きすすめつつある「いなくなった男の話」をテーマとする小説について言及する「私」。現在は別の土地で別の男性と暮らし、同居する男の父親を介護する傍らで小説を描く「私」というふうに。
簡単にいえば小説の主人公である過去の「私」と、若い男の恋愛について回想する現在の「私」、そしてもう一段高い位階にあって、それらを統御しつつ小説にまとめようと悪戦苦闘する作家である「私」が、短い断章形式で区切られながら、かわるがわる現れては語るというきわめてポストモダン的な小説である。
そういうと、なんだか小難しく感じられるかもしれないが、そんなことはない。知的で怜悧な観察眼が光る文章で、中年に差し掛かろうとする女性の心理が手にとるように分かる。その精緻な分析と矛盾する衝動的な行動のギャップが哀切な印象を残す作品である。
題名通り「話の終わり」の方から書きはじめられてはいるが、概ね時系列に沿って話は展開されていく。ただ、その間に何かによって連想された現在の暮らしや過去の回想が入り混じる。そのモザイクめいた叙述の印象が、ともすれば年下の男と別れた女性の喪失感と焦燥に別の彩りを添えて新鮮に感じられる。もし、この形式でなかったら、自分のもとを去っていった男の姿を探し求めて町中を探し回る中年女性の姿は傷ましく、つらすぎて読み続けることは難しいにちがいない。
かなり歳のはなれた若い男とどういう経緯で出会い、いっしょに暮らし、やがて別れていったのか、そして、その後男との再会を狂おしいまでに追い求める常軌を逸した行動と、フィクションとはいえ、恋愛中の心理についてこうまで正確に述べようと思えば、作家自らを語らざるを得ないのではないか。
リディア・デイヴィスは、レリスやビュトール、ブランショの翻訳家で、プルーストの『スワン家の方へ』新訳の功でフランスの芸術文化勲章シュバリエを受賞した作家である。並みの小説家ではない。あくまでも理知的で、過剰なまでの自意識は、ただひたすらのめり込むような恋愛には不向きなのかもしれない。相手と別れた後こんなふうに考えたり感じたりしていたら、誰でも自分が人を愛しているのかどうか自信が持てなくなるだろう。
中年に差し掛かろうとするインテリ女性の恋愛心理の解剖所見といった感のある『話の終わり』だが、小説家がどのようにして一篇の小説を描くのか、その具体的な作業がていねいに描かれている点でも特筆すべき作品ではないか。小説を描いてみようと考えている人には一読を勧めたい。
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まさにマジック!?リディア・デイヴィス「話の終わり」。
2011/02/21 12:54
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オクー - この投稿者のレビュー一覧を見る
「アメリカ文学の静かな巨人」ともいわれるリディア・デイヴィスの
唯一の長編小説「話の終わり」。これは自分の元から去っていった年下
の男とのことを「私」が回想する物語である。その回想がなんだかスゴ
い。めまいがしそうなぐらい精緻でこまかい。恋愛小説でのこういうこ
まかさというのはどちらかといえば苦手なので、これだけだったら途中
で投げ出していたかもしれない。ところが、ところが、リディア・デイ
ヴィス、恐るべし!、である。
この小説、地の小説の部分とは別に、それを書いている「私」が登場
して、なんだかんだと話し出す。この小説のテーマは、とか、自分の書
くことの何割かは事実と異なっている、とか、精緻な表現をさらに検証
するような部分が時おり顔を出すのだ。といっても、その部分がこの小
説の中で浮いてしまっているのか、といえばそうではない。そして、ち
ょっかい出しに出て来る「私」はイコールリディア・デイヴィスという
ことでもない。つまり、小説の部分+それを書いている作家の部分、で
この恋愛小説はできあがっているのだ。
この2つが絡み合いながら物語は終盤に差し掛かるのだが、彼と別れ
た「私」は、それでもこの年下の男のことが忘れられず、ストーカーじ
みた行動に出たり、妄想を繰り返したりする。それはちょっとおかしい
ぐらいだが、失恋や届かぬ恋というものにはここまで極端ではなくても
「そういう要素」はかなりあるので、終盤に来て「私」に対する共感は
グッと強まってくる。なんだが、リディア・デイヴィスマジックにはま
っちゃったのではないかな、私。しかし、こういう個性的な作家に出会
えるのはなんとも楽しい。短篇が評判なのでそれもぜひ読んでみたい。
ブログ「声が聞こえたら、きっと探しに行くから」より
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岸本佐知子 サイン本だった。サイン本だから買ったのではなく、買ってから気がついた。表紙をめくって、なんか書いてある!と焦った。訳者でもサイン本にして売るんだなあ。柴田元幸みたいに、岸本佐知子も訳者として定評のあるブランドになりつつあるのか。
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同著者の短編集「ほとんど記憶のない女」に、道端に転がった動物の死体を見てそれを哀れに思った「私」が、もっと近寄ってよく見たところ動物ではなくてそれは紙袋だったのだけれども、紙袋と分かったあとも哀れむ気持ちが消え残って、紙袋を哀れに思っている、という短い話が収録されています。リディア・デイヴィスの作品で特に面白いと個人的に思うのは、そのように混乱した意識や記憶が混乱したまま正確に描写されるところです。「話の終わり」にも似たような箇所は多く出てくるし小説全体がそれ自体混乱の描写になってるようでとても面白いです。
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何層もの「私」がいる。その別々で且つ同一の私が、入れ替わり立ち代わり頁の最表面へ現れては語りかけてくる。その語りかけは常に一定の口ぶりであるので、個々の私の境界はあいまいになりがちだ。しかし個々の「私」が存在する各層の間には明確な跳躍があり、語りの内容によって、ただの「私」と「メタな私」の差がきっちりと存在することは確認できる。その差異の、鮮明さと曖昧さの渾然に、めまいのような感覚をおぼえる。冗長な物語、果たしてそれを物語と呼んでしまってよいかどうかの判断は今一つつかないところがあるけれど、その内容と何層もの私の存在が相俟って、何か得体の知れない世界へ引きずり込まれてゆくような感覚が生まれる。
冗長、と言ってしまったけれど、その正確な意味は、この小説の一番下層のレベルでは何か先を知りたくなるような話の展開がある訳ではない、という位の意味だ。あるいは、そこだけを取り出してしまえば、多少退屈な話、ということも出来るかも知れない。そのレベルでの興味は、ひょっとしたらこの逸話の元がリディア・デイヴィスの実体験にあるのかも知れないということ。であれば、この「彼」の一部はポール・オースターが投射されたものなのか、というミーハー的興味がつきまとうだけの読書になってもおかしくない。もちろん「彼」の年齢の設定などはオースターとは異なってはいるけれど。
しかし有り体に言ってしまえば、一人の女が一人の男と別れた、というだけのことを、口悪しく言えば「ぐちぐちと」思い返しているだけの話が、この小説の何層もの私によって、とびきり変わった感じの小説に生まれ変わる。「私」たちは錯綜する。そしてどこまでも下位の「私」の内面へ分析のメスを深く突き刺し何かを明らかにしようとする。その動きはどこまでも自己完結的で主観的である。但しその視線の動きの働きはとても影響力があって、読者にも浸透する。
もちろん、それゆえに反対にどの視線にも客観性のようなものが担保されているという印象は残らない。よしんばメタな私が下位の私を分析するという構図があったとしても。また、私が描写する風景はどこまでも薄っぺらく書き割りのようであるし、詳細に語れば語るほどに虚構めいた響きが勝ってしまう。しかしそれゆえにまた、不思議なニュアンスが生まれ得てもいる。虚構めいているにも係わらず、この中には何らかの真実が存在する、という確信のようなものが生まれる(だからこそ、この彼がオースターで私が著者である、という当て嵌めをしたくなる思いが断ち切れないのだ)。そのギャップのようなもの。嘘から出た真と言いたくなるような、事実を積み重ねて立ち現れる虚構とでも言うような。読み取りがたい何か。中々に頁が進まないのは一つの文章を読み取り読み解き脳に収める手順の多さによるのだが、その意味では、少々逆説的に響くけれども、この小説はとても刺激的であると言ってよい。
また、この作品はリディア・デイヴィスの「長篇」と銘打たれているけれど、輻輳する「私」は純粋に独立的でもあって、その意味ではこの小説は一つのかたまりとしての長篇とは呼べないようにも思う。むしろ「ほとんど記憶のない女」に収められた超短編を読みつ���いでいる時と読書の感覚は似ている。この作家が、時間軸の長い話をかくよりも、一瞬の内に込められたニュアンスや相反する意味などというものを切り取って見せるのが得意なのだ、という印象を強くする。刊行予定の短編集(それもまた岸本佐知子翻訳!)は、どんな風変わりな物語を見せてくれるのだろうか。
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小説を読んで「酔う」という感覚を味わったのはこれが初めて。気持ち悪いし不快感さえあったけど、途中で終えたら余計にそれが残りそうで、一気に読み終えた。
以下本作の印象と好きな部分の引用。
忘れようにも、思い出せない。人を失うということ、その事実が自分の内面に巻き起こす果てしない思考、問いかけの繰り返しと混乱。冷静な筆致とは裏腹に時系列も人称もごちゃ混ぜで支離滅裂で、だからこそそれがものすごくリアル。メモや日記、当時書いていた書きかけの小説、そういったものから記憶をたどりながら綴られる、「私」の「彼」を巡る記憶の旅。
「彼女とのことを、どうしても書かずにいられなかったと友人は言った。彼女と直接話すことはできなかった、会ってもどうせ聞いてくれないに決まっていた、だから他人の目に触れるような形でそのことを書いた。彼女の目にも触れればいいと思った、そうすれば彼女はその言葉に影響されるだけでなく、それが公になることで余計に影響を受けるはずだから。たとえ彼女が影響を受けなかったとしても、そのことを世間に知らしめたというだけで、彼の意図に反して短命に終わってしまったその恋愛を、言葉という息の長いものに変換できたというだけで満足なのだ、と彼は言った。」
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これってもしかして、けっこう悲痛なのか?と思ってしまった。
生々しく感じられ、読んでいるのがつらいと感じる箇所もあった。
「年下の男との失われた愛の記憶を呼びさまし、それを小説に綴ろうとする女の情念」と帯にあるけれど、それって、要するに「執着」だよね。
だって、でてきた電話の明細を見て、自分がこの何日間に彼に何回かけた、だの、それは彼と女がパンを作っていた時間だったかもしれない、だの、(ストーカーとは言わないが)もう、執着そのものではないか。
どんなに深刻であっても、執着は他者の目から見ると、痛い。とても痛い。
なので、視点を移さずに、執着にのみ囚われていると、読み通すのがつらいかも、と思う。
執着そのものではなく、執着をそんなにも淡々と精緻に綴っていることに視点を移すと、実際の出来事からどうやって何をもって小説になっていくのかね…のメイキングを体験しているのだということに気付く。
小説って、へんなものだよね。
書いてあることだけ読んでいても、読んだことにならないこともあるんだから。
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前半、だいぶたたないと「私」が多いことに気づけなくて苦悩した!
繊細でちまちましたことを気にする主人公は大好きなタイプだけれど、場面がいったりきたりする形式についていけず、つかれた。
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30代半ばの翻訳家であり、大学教師でもある主人公「私」と学生の年下男性との恋が始まって終わるまでの顛末を「私」が、恋が終わって何年も経ってから記憶を呼び覚ましながら小説に書く小説。
「私」がひどく自意識過剰で最後の方ではストーカーみたいになってしまうのだけど、その感情の揺れが感情的ではなく淡々と書かれるので逆に凄みがある。
文章自体も極度に説明的で、慣れるまでは奇妙な感じだったんだけど、だんだんと心地よいリズム感にはまって魅力的に感じた。
面白かったのだけど、なぜだか周辺的なことが気になってしまって、入り込みにくい部分もあった。ガソリンスタンドの仕事を「下等で屈辱的な仕事」と読んでしまうあたりとか、年中パーティばっかりやっているようなインテリで洗練されたライフスタイルとか。僕自身のリア充コンプレックスが強すぎるせいなんだろうけど。
あと、終始私と彼の話なんだけど、不思議と「彼」が若い、という以外にほとんど特徴がない。顔立ちやキャラクターにも説明的な記述はあるんだけど、一般的な学生のステレオタイプなイメージの域を出ない。そのせいで逆に小説全体が「私」で埋め尽くされているような鬱陶しさがある。悪い意味じゃなくて、怖いくらいのエネルギーを感じる、てこと。
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一人の中年女性の愛の始まりから終わりまでを描いた本。女性の独白と女性が書いている小説が混ざって、奇妙な読み心地を生み出している。
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女性が十二年下の男性と恋に落ち、それが朽ちて"次"に進むため自ら"終わり"を定義していかねばならない、そう思い立ち女性が"終わり"を綴っていく、それがこの本である。
情緒的にならないよう、メモを手繰り寄せながら、何度も何度も反芻しながら、様々な手段を用いて物語は進んでいく。
物語では、私と私を見ている私が介在し、それらのもつ鮮明と模糊の落差たちによって制御され、時にだるさを覚えるが、それでも緻密さに対する姿勢が手に取るようにわかるし、それを可能とさせない言葉の不自由さ(または解れ)が新しい歪んだ世界観を作っていると、どきどきする(解れの矛盾をひとつひとつ砕いていく作業もまた魅力的であったといえる)。
───女性が書き起こそうとするたび、綴った文字、少なくとも女性の中ではひたむきに書いたはずの言葉たちはすれ違いを起こし、緻密さは解れを起こす。
そして女性は、私ではない何かが書いているのではないか、私の中にいる何かが(もちろん私を見ている私ではなく、無意識にさまよっている何かが)いるのではないかと思い始める。
それらはひとつじゃなく、様々な部分からずれはじめ、色々な解れがレイヤー化され、(女性がそう思ったかはわからないが、あくまで憶測では)複雑な世界観を生み出したのちに気づくのだろう───様々なメモなど選択肢による言葉は、その言葉の不自由さをもって明確な"( 私の )終わり"に近づくんではないかと───
女性が置く言葉は、女性が見て感じたことでしか形成されないのだとすれば、二次的な"終わり"でしかなく、女性自身の終わりには近づかないだろう。
そして小説にすることによる障害、言葉の不自由さをもって、解れによって初めて女性は女性の"終わり"を迎え、最後女性は女性の中で気付き(おそらく)、儀式的な何か(本の中だと紅茶であった)で幕を閉じる。
だとすれば、この解れってなんなのだろう。
読んでるうちに錯覚という眩暈という、とてもフィクションとは思えない実体を持った小説に、ただ、何者なんだ…、と感服しました。
打ち込んでるこれもまた、解れが起きているんだろうと思うだけ、私もまた頭をかき乱される。
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大学の教員であり、翻訳者の女性が年下の学生と恋人同士となるも、数ヶ月ほどで捨てられてしまう、ありきたりで面白みのない話だ。
が、何年経っても、彼への執着を断ち切れない彼女は、このことを小説を書こうと試みる。彼女の愛情、未練、後悔、恨みなどの揺れ動く想いが延々と詳細に描出されていく。
特に別れを告げられたあとの、何も手につかず、ストーカー的な行き過ぎた行動をとってしまう辺りが痛々しい。
ありきたりで面白みのない話を、女性の主観的な内面描写でここまで書けるのは、素晴らしい。
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5/28 読了。
三十五歳の女性大学講師が、十二年下の男子大学生と付き合いだす。二人の関係ははじめから食い違っていた。傷付くのは嫌だが若い男に対する所有権は主張したい女と、年上の女と付き合う恩恵を受けつつも対等に扱われたいと望む男は、ついに修復不能な倦怠に達する。それでも男への所有欲を断ち切れない女はストーカーまがいの行動にまで出るが、やがて男が同世代の女と結婚したことを知る。
という歳の差恋愛を扱った小説なのだが、構成は独特。完全に恋が終了した時点から過去を振り返り、<話の終わり>はどこにあるのかと思索をめぐらせる女の視点で書かれた断章に、それを小説に仕立てる作業の最中らしい女性作家の視点で書かれた断章がランダムに挟まってくる。女性作家は不本意な翻訳の仕事を受けながら小説を書いており、執筆中から批判的な読者である夫の意見に悩まされている。恋愛小説の主人公の女と、女性作家が同一人物なのかは明示されていないのだが、夫の拒否反応を見るに彼女の過去の恋愛に材を採った小説ではあるらしい。
となると今度は、女性作家と著者のリディア・デイヴィスは同一人物か、という疑問が湧いてくる。著者はフランス文学の研究者で翻訳の仕事のかたわら小説も書いている女性作家で、確かに作中の女性作家と重ねてしまいたくなる。だが、もし仮にこの三人が全て一人の女性の経験から生み出されたキャラクターであるとしても、細部の曖昧になった記憶を探り、もはや遠い人物のように感じられる過去の自分の感情を想起し、「書く」という作業に還元していくうちに、同定は難しくなっていくだろう。それは、終わってしまった恋の物語における本当の<話の終わり>を明確に指し示すことぐらい、不可能なことなのだ。
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初リディア・デイヴィスが長編。しまった。短編集から読んでおけばよかった。最初の方で語り手が読んでいる、英国在住で英語で書いている日本人作家って、カズオ・イシグロではないよね。イシグロは英国人だし、作風も違うし、架空の作家かな。彼と出会うことを期待し続ける語り手は、何か山崎まさよしの歌みたい。恋愛について語るより、小説を書くことについて語る方が興味深かった。こんなに苦い恋の話は初めて。お金にだらしない男ってやだな。『ゴーン・ガール』の夫を思い出す。
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この本はかなりいい。他人が書いたとりとめもない日記を延々読んでいるような気分。物事の捉え方とか言葉の選び方の点で自分と重なるところが多くて、十秒に一回くらい禿同した。眠れない夜とかに永遠に読みたい感じ。
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p.16
そのとき彼と何を話したのかは覚えていない。もっともあの頃の私は、初対面に近い人に会うと、いろいろな雑念に気を取られて話の内容はまるで記憶に残らなかった。話しているあいだ自分の服や髪が変でないかと気になったし、立ち方や歩き方、首と頭の角度、足の位置までもが気になった。(中略)そういったことを考えるので手いっぱいで、相手の言ったことは、それに返事をするあいだは覚えているが、それ以上は考えないので、あとまで記憶に残らなかった。
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と、途中までは思っていたのだけれど。途中までは。
主人公は30代半ばの女性。教え子で12歳年下の大学生と出逢ってすぐ互いに惹かれ合い、その日のうちに恋人関係になる。しかしこの女性なかなかの情緒不安定。一緒に過ごしているときは彼を鬱陶しく感じてぞんざいに扱い、離れていれば会いたくてたまらなくなって彼の姿を探し求めて闇雲に街を彷徨う。一人で文章を書いたり読書したりして過ごすのが好きな彼女と、社交的で友人が多い彼。いつしかすれ違いが続くようになり、彼女が旅に出たことをきっかけに二人の関係は終焉を迎える。ここまではよくある話。
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p.25
まだ何ひとつ始まっていなかったあの時間こそが、ある意味では最良の時だったのかもしれない。二本めのビールを開けたとき、私たちは秋の終わりから冬にかけて起こったその後のすべての出来事もいっしょに開けてしまった。けれどもまだ二本めを開けずに座っていたあの島のような時間には、幸福だけが二人の目の前にあって、二本めを開けないかぎり、それは始まらずにいつまでもそこにあった。
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この本の醍醐味はその後、一人になった彼女が異常なまでの彼への執着を見せる展開。職場へ押しかけ、行きつけのスーパーで待ち伏せをし、パーティに誘い、彼が新たな恋人と住む家へ夜中に偵察に行き、あたかもそれが自分の使命であるかのごとく執拗に付け回す。友人たちとは疎遠になり、孤独を深め完全なるストーカーと化した彼女の奇行の数々が、感情を排除したフラットな語り口で淡々と語られるのが非常に不気味でシュール。え、なんか変なことしてます私?っていうテンション。
ひとつ解せない、というか逆にそれもそれで男女関係の「リアル」なのかもしれないなあと感じたのは、彼女のストーカー行為の数々に気付きながらも彼がこれっぽっちも嫌がっていない点。新しい恋人が居ながら思わせぶりな態度を続け、まだ一筋の希望があるような素振りを見せ続ける。待ち伏せしていた彼女の車に普通に乗るし、車内で肩は抱くし、家に入るし、家に入れる。うーん、ここまで奇々怪界なラブストーリー、読んだことがない、、、
作品の終盤、ある程度諦めがつき冷静さを取り戻してきたように見える彼女が語る「書くこと」の意味付けにはとても共感した。ある種の自浄作用のような。その紙の上に怒りとか虚しさとか苦しみとか���ういう負の感情を全て置いてくるつもりで書くのだけれど、書いているうちに精神がどんどんマイナスな方向に行ってしまって、結局本末転倒ということも多々ある。書くと残るしね。時間が風化してくれることも文字にしてしまうとずっと消えないからいいのか悪いのかわからない。それでも書く。そうするしかないから。
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p.226
まず最初に怒りがあり、ついで悲しみが膨らんでいき、あまりに悲しみが大きくなると一部だけでも書き留められないかと考える。そして気持ちなり記憶なりを正確に書き留めることができると、しばしば胸の中に穏やかな気分が広がった。書くときには細心の注意を払う必要があった。うんと丁寧に書くのでなければ、悲しみをその中に移すことができなかった。私は激しさと用心深さを同時に備えて書いた。書いていると、身内に力がみなぎってきた。一パラグラフ、また一パラグラフと前のめりになって書くうちに、自分はいまとても価値あるものを書いているのだという気がしてきた。だが書くのをやめて頭を上げると力の感覚は消え、つい今しがた書いたものに何の価値も感じられなくなった。
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起こったことも感じたこともひとつも漏らさずにとにかく全部書く、という執念と狂気を感じた作品だった。眠れない夜とかに永遠に読みたくはないわ。