abraxasさんのレビュー一覧
投稿者:abraxas

ハドリアヌス帝の回想 新装版
2009/02/22 23:14
新たな「帝国」の時代に生きて
16人中、16人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
映画『グラディエイター』で、リチャード・ハリスが演じていたのがローマの五賢帝時代最後の皇帝マルクス・アウレリウスその人である。ハドリアヌス帝は彼の祖父にあたる。といっても、ハドリアヌスに妻はいても子はいなかった。五賢帝の時代にローマが繁栄を続けられたのは、養子相続制をとっていたせいだが、それというのも彼らの多くが同性愛者で必然的に実子が生まれなかったからだ。歴史の皮肉というものである。
『ハドリアヌス帝の回想』は、若いうちに想を得ながら、書きかけては破棄し、なかなか完成させることのできなかった作品らしい。重厚でいながら奔放、時に饒舌に走るかと思えば、沈鬱かつ荘重にも響く文体はユルスナールの才能を持ってしても、歳を重ねないと難しかったということだろうか。
文体もさりながら皇帝の半生を想起する合間に、愛と性、生老病死、食事や狩り、動物についてのモラリスト風の見解、競争相手の心理の洞察やら当時の哲学や文学についての考察が開陳されるという一口に小説と言ってしまってよいものかどうか迷うような作品なのである。
一人称視点で書き進むうちに、ユルスナールは自身がハドリアヌスに成りかわり、ローマ帝国が最大の版図を持ち得た時代を生きてみようと思ったのではないだろうか。ヒスパニア出身のハドリアヌスは地中海を囲む各地を遍く旅している。北はブリタニア、東はメソポタミア、南はエジプトまで、頑健な肉体と軍人らしい質素な食事のおかげで、長年月の視察旅行も苦にならなかったらしい。
先帝トラヤヌスの覇権主義のせいで、帝国領と境を接する各地で戦闘状態が続いていた。ハドリアヌスはそれらの相手と和平を結び兵を引いた。長城を築いて防備を専らとし、属領地に権限を委譲し法整備を進めた。宗教について寛容であろうとしたが、他の宗教と同じ位置に立とうとしないユダヤ教には手を焼きイエルサレムを破壊した。ユダヤ人のディアスポラはここに始まる。
死が間近に迫った老人が、養子の跡継ぎに指名したマルクス・アウレリウスに寄せた回想録という設定である。皇帝になるべき人物相手だから嘘も隠しもないという建前で書かれているところがミソである。美青年アンティノウスをはじめに多くの同性愛の相手についても赤裸々に語られている。また、近くに侍る人物の好き嫌いなど辛辣なまでに評されていたりもする。こういうところは果たしてハドリアヌスなのかユルスナール自身なのか俄に判じ難い。
ハドリアヌスの一人称視点で描かれているので、皇位を得るために競争相手を暗殺したという噂や、後継者に指名したのが同じく寵を受けたルキウスであったことなど、いかにもハドリアヌスに都合のいい解釈がなされているのは仕方がない。ユルスナールの書架にはハドリアヌスのヴィラに並んでいたであろう本は全巻並んでいたというから、限りなく正確であろうとする作者の意図は尊重するとしても、この作品におけるハドリアヌスはあくまでもユルスナールの創作した人格と承知して読むべきだろう。
新しい帝国の時代とも呼ばれる現代において、世界帝国を自分の手に治めている人物の人心掌握術、戦争観、他文化、他宗教への寛容など、その器量について学ぶべきところが多い。まさか、今の時代を先読みして書かれたはずもないが、次のような文章をどう読んだらいいのだろうか。
「最近一世紀の風俗の醇化と思想の進歩は、ほんのひとにぎりのすぐれた精神たちの仕事であって、大衆は依然として無知で、そうなりうるときには凶暴で、いずれにしても利己的で、視野が狭い。そして大衆とは将来も常にこのとおりなのだと賭けておくほうが勝ち目がある。あまりにも多くの貪欲な地方代官や収税人が、あまりにも多くの残忍な百人隊長が、あまりにも多くのいかがわしい元老院議員が、われわれの事業をまえもってあやういものにしてしまった。そして彼らの過ちから教訓を得る時間は、人間に与えられていないと同様、国家にも与えられていない。織工ならば布地を補修し、熟練した計算者ならば誤算を正し、芸術家ならばまだ不完全な、あるいはほんの少しいたんだ彼の傑作に手を入れるところを、自然は粘土そのものから、混沌そのものから、再出発するほうをえらぶ。そしてこの乱費こそ、人が事物の秩序と呼ぶところのものなのである。」
いつ読んでも得るところの多い本というのはあるものだ。現代の古典と呼ぶに相応しい風格ある歴史小説である。最後になるが、多田智満子の名訳がなければ、この格調高い回想録を日本語で読むことはかなわなかった。あらためて訳業を感謝したいと思う。

ダブリナーズ
2009/03/22 11:54
ジョイスを読む愉しみ
19人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
『読んでいない本について堂々と語る方法』の著者ピエール・バイヤールによれば、ジョイスの『ユリシーズ』は、大学教授でも読み通していない類の本である。そのジョイスが書いた『フィネガンズ・ウェイク』は、『ユリシーズ』を上回る難解さで知られている。原語で読んでも難解な本をなんと日本語に翻訳してしまったのが、今回の新訳を担当した柳瀬尚紀その人である。
新訳ブームで、かつて名訳と謳われていた現代の古典ともいうべき作品が装いも新たに続々と登場するのは、読者にとって喜ばしいかぎりである。言葉というのは生もので、時代が変われば古びもし、味わいが失せもする。そのかぎりにおいて、同時代の言葉で読むことのできる新訳は、若い読者に古典的名作に近づく機会を与えてくれる。近頃ほとんど話題にも上ることのなかった『カラマーゾフの兄弟』が多くの読者を惹きつけたのがその例だ。
さて、ジョイスの『ダブリン市民』である。同じ新潮文庫の旧訳者安藤一郎氏の解説には次のように紹介されている。「『ダブリン市民』は、十五編の短編から成り、ことごとくダブリンとダブリン人を題材にして、幼年、思春期、成人もしくは老年の人間によって、愛欲・宗教・文化・社会にわたる「無気力」(麻痺)の状況を鋭敏に描いたものである。」
これに続いてジョイス独特の文学形式である「エピファニー(顕現)」の解説があるが、今となっては、特にそれを知らなくても本を読む上で別に変わりはないように思う。おそらく、当時の読者にとってもジョイスは決して分かりやすい作家ではなかったことから、訳者はジョイス文学について概説的な解説の必要を感じたのであろう。
翻って現代において、文学上の実験はほとんど出つくした感がある。いわば何でもありの状況下、あえてジョイスについて説明する必要を感じないのだろう、新訳の解説の中で、柳瀬氏は、ジョイスがダブリンを「中風」に喩えたことに続けてこう書いている。「しかしそれについて語り出すと長くなるし、訳者の解説を披露してみたところで読者の楽しみを殺ぐことになるだろうから、ここでは控える。訳者の役割は、あくまでもジョイスの原文を可能な限り日本語として演奏することであって、翻訳を終えた今、むしろそのことについて語りたい。」
つまり、ジョイスを読むことが「ジョイ(楽しみ)ス」になったのである。『ユリシーズ』もそうだが、数々の謎をはらみ、パズルのように組み立てられ、言語実験とも言語遊戯とも言える「言葉遊び」の横溢するジョイス文学の知的遊戯的側面が表面に浮かび上がってきたのが今世紀のジョイス理解である。
あらためて『ダブリン市民』が『ダブリナーズ』になった経緯についてふれてみたい。「ニューヨーカー」という言葉や「パリジャン」という言葉があるが、都市名に接尾辞をつけて、そこの出生者や居住者であることを表すことは、英語ではきわめて稀で「ダブリナー」は、数少ない例の一つだそうだ。著者の意を強く感じて『ダブリナーズ』というひびきを残したのであって、「横文字をそのままカタカナ語にして事足れりとする昨今の風潮に流されたのではない」とあえて書いている。
ジョイスには屈折した郷土愛があったと見える。ニューヨーカーやパリジャンと肩を並べるように題名に選んだ『ダブリナーズ』だが、登場する街はともかく、人物はニューヨーカーやパリジャンに比肩しうるとはとても思えない。安酒場で商売女から金を巻き上げる遊び人だとか、娘を孕ませた下宿人になんとか責任をとらせようとする下宿屋の女主人だとか、ダブリンの猥雑な巷間に住まいする庶民か、でなければ欲の皮の突っ張った小市民や道学者ぶったエセ紳士ばかり。どうにか感情移入できるのは、少年たちくらい。
新訳は訳者も書いているようにジョイスの原文に漂う音楽性をいかに日本語に移しかえるかという点に専ら意を注いでいるようだ。自身テノール歌手であったこともあるジョイスはオペラの歌詞を作品に引用するのは日常茶飯。ダブリン市民は歌好きなようで、集中にもよく歌声がひびく。ルビを多用したり、太字で強調したり、駄洒落で対応したりと、柳瀬氏ならではの奮闘ぶりが楽しい新訳。ただ、それ以外では、特に現代的な訳には改変されていない。漢字、漢語も多く硬質な印象さえ受ける。二十代のジョイスがいかに名文を操ることができたかというあたりを意識したのかどうか。
掉尾を飾る「死せるものたち」は、「意識の流れ」の手法を採り入れたほとんど中篇といってよい作品。人当たりのいい教養人をもって任じている主人公が叔母たちの主催する晩餐会で感じるスノビズムを冷静な筆致で暴く一方で、愛する妻の中に消えずにいた昔の恋人の存在に衝撃を受けながらも受け容れていく過程を、詩情溢れる筆で描ききった佳編である。
とかくジョイスといえば難解さ故に敬遠されがちな作家だが、若書きの『ダブリナーズ』には、初々しさとアイロニカルなユーモア、それにダブリンの街とそこに暮らす人々に寄せる裏返された愛があふれている。新訳をきっかけにぜひジョイスにふれてみてほしい。

読んでいない本について堂々と語る方法
2009/02/14 13:05
読書とは、なにかを得ることであるよりむしろ失うことかもしれない
15人中、15人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
いかにも人を喰った、そこいらに掃いて捨てるほどあるハウツー本のようなタイトルに惹かれて手にとる人がいたら、中身を読んで閉口するにちがいない。たしかに本を読まないで語ることを推賞しているにちがいない中身なのだが、最初に引用されているのがムージルの『特性のない男』。その次はヴァレリーである。
本を読まないで、人前で堂々と語ることができたら、というような虫のいいことを考える人間が、ヴァレリーやムージルが「本を読むこと」について語ることを読まされるのだから、これはよくできたジョークではないか。作者の悪い冗談に引っかかった気で読んでいくと、どうやらこれは冗談めかしてはいるが、案外本気で本を読まないことを推賞しているのではないかと思えてくるからタチが悪い。
だってそうではないか。作者は自分は大学教授だがジョイスなんか読んだことないし、これからも読むつもりはないといいながら、平気で生徒の前でジョイスについて語ることができるということを、これでもか、これでもかという調子で実例を挙げて論証しようとする。
しかもだ。三部構成で各部四章仕立ての各章ごとに一人もしくは一作品を引用しているのだが、最初の二人の後に来るのが『薔薇の名前』のウンベルト・エーコときている。グレアム・グリーンの『第三の男』やハロルド・ライミスの『恋はデジャヴ』のように映画で見ている作品も入っている。引用される作品が面白くてしかもその解説がまた読ませるものだから、読者はついつい先へ先へと導かれる仕掛け。本など読まない方がいい、と言いながら最後まで本を読ませる実にパラドキシカル(逆説的)な読書をめぐる考察になっている。
第一部は「読んでいない」というのはどういうことをいうのかが考察される。一度でも読んだ本は、たとえその大半を忘れていても読んだことになるのか。あるいは、途中まで読んだり、流し読みをした本は、読んだ本の中に入れてもいいのか。考えてみれば、ふつう、本を読んだというのは一応通読したことを意味するわけだが、モンテーニュも書いているように読んだはしから忘れていくこともたしかである。
『特性のない男』の登場人物である図書館司書は館内の本の表紙と目次だけを読み、中身は読まないと断言する。本の渦に巻き込まれないためだ。ヴァレリーは、プルーストを読まずに人の話でプルーストについて語り正鵠を射ている。つまり、本というのは、その中身を全部知らなくても、分かる。それを教養と言いかえてもいい。教養とは、個別の物にくわしくなくとも全体の見晴らしを持つことが肝要なのだ。『薔薇の名前』の中で、バスカヴィルのウィリアムは未読のアリストテレスの『詩学』第二部の中身をホルへ神父に語っているではないか。全体の布置がつかめれば、内容はおよそ知れるものである。
バイヤールは「共有図書館」という概念を提示する。ヴァレリーは、「読んでいない本」をそこに置いているから、読まずともそれについて語ることができたのだ。また、われわれが話題にしている本は現実の本ではない。それは「遮蔽幕としての書物」、捏造された記憶としての書物である。読んだ本が増えれば増えるほど忘れた本やその中身も増えるわけだ。つまり「読書は、なにかを得ることであるよりむしろ失うことである。」そう考えれば、読んだ読まないをさまで気にすることはない。
第一部の「読んでいない」という状況の考察に続いて第二部では、どんな状況下で読んでいない本についてコメントをするか、第三部では、そうした場合の対処法を伝授している。読んでいない本についてコメントを述べるのが『第三の男』でハリー・ライムを探しにウィーンに来て有名な作家とまちがえられて講演をする羽目になる西部劇作家の例である。本を読んでいなくとも、これについてなら語れる人は多かろう。上手いものである。
引用のうまさ以外にも楽しめる仕掛けは十分に用意されている。その一つが「捏造された記憶」である。作者の調子のよい語りに乗って、うかうかと読んでいくとまちがった結末を読まされてしまうことになる(後でちゃんと種明かしをしている)。また、本書に登場する本のそれぞれについて、作者がどう読んだのか、「流し読み」だとか「人から聞いた」だけだとかを示す<流><聞>のような記号や、作者の評価、◎、○、×、××などの略号がある。
幾分かねじれた感もあるユーモアのある語り口ながら、本格的な読書論であり、読書にまつわる既成概念批判の書でもある。各章に採りあげられた作品や作家についての作者の解読は一読の価値あり。近頃、外国で読まれているのかどうか、いろいろと噂に高い夏目漱石の『吾輩は猫である』も縦横無尽に論じられている。どうやら、まだフランスでは日本文学は亡んではいないことを知って一安心した。

世界の多様性 家族構造と近代性
2009/06/28 19:21
若き人類学者の成長過程を読む
14人中、14人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
『帝国以後』で、世界的に知られるようになった人類学者エマニュエル・トッドが、30才台で世に問うた衝撃の問題作『第三惑星』と、その続編ともいえる『世界の幼少期』を併せて一冊にまとめたものである。『帝国以後』におけるアメリカ分析の鮮やかさには舌を巻いたが、家族類型や識字率、出生率といった人類学的データを世界を読み解く解析格子に用いる独特の手法は、すでに当時においてほぼ完成していたことが改めてよく分かる。
しかし、序文に自ら語っている通り『第三惑星』は、一部の評者からは好意的に受けとめられたものの、若さゆえの性急さから、順当な手続きを欠いた論証や過激な論調が仲間の人類学者や言論界からはかなり手厳しい評がかえってきたという。しかし、その着眼点は画期的なもので、それまで誰によっても唱えられたことのないものであった。
たとえば、「なぜ共産主義が革命プロセスのはてにロシア、中国、ユーゴスラヴィア、ベトナム、キューバにおいて勝利したのか」、あるいはその他の地域ではなぜそれが失敗したのかという問いに、あなたならどう答えられるだろうか。当時ロシアも中国もマルクスの言う資本主義が高度に発達した国家ではなかった。そもそも工業国ですらなかったのだ。
トッドが、目をつけたのは家族だった。結婚した子が親と同居するか、家を出るか。親の遺産は長子あるいは末子が相続するのか、それとも平等に分割相続するのか、といった観点から、二つの相対立する価値(自由/権威。平等/不平等)を使って、四つのカテゴリーからなる類型パターンを創り出した。自由、平等を価値とするフランスの平等主義家族。子どもたちの独立を要求するが平等は求めないイングランドの絶対核家族。父への服従と遺産の不分割の上に確立され、規律は重んじるが平等は無視するドイツの権威主義家族。平等と規律を併せ持ち、兄弟たちの父への服従を特徴とするロシアの共同体家族。ヨーロッパだけならこれで分類可能だった。しかし、これではイスラムをはじめ、世界中に存在する家族形態をすべて網羅することはできない。そこで、構造主義人類学ではおなじみのインセスト・タブーによる婚姻形態(配偶者を家族集団内部で選択する内婚制か、外部に求める外婚制か)を導入することによって、七つの家族モデルを創り上げた。
トッドの着眼の鋭さは、この婚姻形態の発見にある。それまでにも家族類型を提唱した学者はいたが、ヨーロッパ文化はすべて外婚制であるために、外婚制と内婚制の区別を見逃していた。つまり、自分たちの制度以外にあるものを外部として見ないふりを決め込んでいたために、世界にある多様性を発見することができなかったのだ。「現在まで、ヨーロッパのであれ、それ以外の地域のものであれ、すべての政治形態を正常であり、理論的に有意義なものとして認めることを拒否してきたが故に、コミュニズムが何であるかをいまだに理解できていないのであり、その結果、コミュニズムの「対立項」であるリベラリズムが何であるかも理解できないでいるのだ」と、若き人類学者は先輩たちに苦言を呈している。この世界の多様性に対する眼差しが、他の学者と著者の最も大きなちがいである。
そこで、先の問いに戻る。著者によれば、共産主義とは「外婚制共同体家族の道徳的性格と調整メカニズムの国家への移譲」ということになる。外婚制共同体家族は本来平等主義的な共同体に外部から他者を迎えるという性格上、常に緊張を孕む。それを調整するのが権威ある親の仕事だが、共産主義国家では政治機構がその代わりを果たす。そこでは個人は権利上平等であるが結果的には政治機構に押しつぶされてしまう。イデオロギーのような上部構造が、家族形態や婚姻形態といった、いわば無意識の下部構造によって支配されているというのだから、当時の人々が驚いたのも無理はない。
ちなみに、日本は、権威主義家族でドイツと類型をともにしている。その他の地域を列挙すると、ユダヤ、バスク、アイルランド、カタルニャ、フランス系カナダ、とまだまだあるのだが、共通して浮かび上がってくるものが分かるだろうか。そう、民族紛争である。権威主義家族の国は差異に敏感で同化よりも分裂への志向性が強いという。ドイツと日本については、第二次世界大戦の敗戦国、戦後の復興という共通項以外にも、自民族の優越性を主張するための差異の創出等、多くの共通点が指摘されている。ただ、ひとつ気になるのは、家族類型をもとにした分布地図はともかく、そこから共通する性格や行動様式を読むというのは、どこまでが科学的な裏づけがあるもので、どこからが著者独自の解釈かが判然としないということだ。発表当時の批判も、その点に対する疑念があったのだろう。
続編の「世界の幼少期」では、識字率や出生率、女性の権威という複数の解析格子を重ね合わせ、数値化されたデータも収集し、日本や韓国、南インドほかの成長ぶりを論証していく。日本の急成長に脅威を感じる欧米人に、江戸時代の出生率や識字率を示し、日本はヨーロッパと同じ時期にテイク・オフしているのだから、これから先の成長に脅威を感じる理由はないと説くあたり、「第三惑星」と比べ、説得力を感じる。A5版で700頁という量である。とてもすべての内容を紹介しきれるものではない。是非、本を手にとって読んでみられることをお薦めする。訳文は平易で読みやすいが、明らかに誤植と思われる箇所がある。版を改める際には訂正してほしい。

さよなら、愛しい人
2009/05/24 12:11
フロント係は二度バーボンを注いだか?
13人中、13人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
村上春樹が新しく訳した『さよなら、愛しい人』を読んだ。丁寧な訳しぶりで、旧訳の清水俊二訳で味わったのとは少しちがった印象を受けた。まるで古いハリウッド映画をデジタルリマスター、ディレクターズカット版で見たような印象だ。描かれたものが細部までくっきりと浮かび上がり、人物の形象もひときわ鮮やかになった。
たとえば、第4章。殺人の起きた<フロリアンズ>の斜向かいにある黒人専用ホテルの場面。受付のデスクで居眠りしているフロント係の締めているのが旧訳ではネクタイなのに、新訳ではアスコット・タイになっている。なんだ、それだけのことかなどと言わないでほしい。知っての通りアスコット・タイはシャツの襟の内側にふんわりと締めるものだ。新訳では「大きなたるんだ顎は、そのアスコット・タイの上に穏やかに垂れかかっていた。」と訳されているが、旧訳だと「しまりのない大きな顎が、なかばネクタイに隠れ」になっている。どんなネクタイだったら、大きなたるんだ顎を隠すことができるというのだろう。
スピード感のあるシャープな訳という印象が強かった旧訳に、ほころびが見つかったのは新訳が出たおかげだろう。「あれっ」と思ったことはほかにもいくつかある。その一つがホテルの名前だ。旧訳は「ホテル・サンズ・スーシ」、新訳は<ホテル・サンスーシ>。おいおい、と突っ込みの一つも入れたくなるではないか。“ Sans-Souci”は、フランス語で憂いがないという意。そこから「無憂宮」とも呼ばれる有名な宮殿の名前である。ホテルの名とすればちょっと洒落たネーミングというわけだ。「ホテル・サンズ・スーシ」では、カリフォルニア・ロールでも喰わせそうに聞こえる。清水俊二氏は無憂宮を御存知なかったのだろうか。
気になったので、旧訳と新訳を照らし合わせながら読むという、いかにも暇人のやりそうなことをやってみた。原書があれば、もっとよく分かるところだろうが、あいにく手許にない。そのうち届くだろうが、原書がきたらぜひとも確かめたいことがある。フロント係は、グラスに酒を注ぎなおしたか、どうかということである。
「彼はボトルを開け、小さなグラスを二つデスクの上に置き、グラスの縁のところまで酒を静かに注いだ。ひとつを手にとり、注意深く匂いを嗅ぎ、小指を上げてごくりとのどの奧に送り込んだ。(村上訳)」この部分は、新、旧訳とも大差はない。問題は次だ。村上訳には書かれていない一杯が清水訳には登場する。
飲み終わった男は、酒の品質の良さを讃えた後、清水訳では次の行動をとる。「彼はグラスに改めて酒を注いだ。」なぜ、逐語訳とも思えるほど丁寧に訳された新訳に存在しない一文が、無駄と思える部分をばっさばっさと切り捨て、適度なテンポを保つことを大事にしたと思える清水訳に紛れ込んだのか。そのわけは、少し後で分かる。
彼の口を軽くさせるため、マーロウはもう一杯酒を勧める。男はそれを断り、瓶に固く栓をして探偵に返しながらこう言う。「二杯で充分だよ、ブラザー。日が落ちる前としてはな。(村上訳)」すぐ後で登場する、あればあるだけ飲んでしまうフロリアン夫人の人間性との対比が光る、好い文句だ。
マーロウの手に瓶が返るまでに黒人が二杯飲まないと、このセリフが成立しない。清水氏はそう思ったのだろう。確かに村上訳では黒人は一杯しか口にしていない。チャンドラーは、低い階層にいる人間にも威厳のある人物はいるし、大金持ちでもどうしようもない人間がいるという対比を好んで書きたがる作家だ。このフロント係、二人で飲むために用意したグラスの酒を二つとも飲んでしまう不作法な男には描かれていない。
ボトルから注いだ二杯の酒。一杯はマーロウの分だが、いわば自分のおごりだ。酒は二杯分もらった勘定になる。しがないフロント係だが、酒で買収されて情報を与えたわけではない。マーロウの扱いが気に入ったからしゃべったまでのこと、という男の矜持を表現する、いかにもチャンドラーらしい持って回った表現である。
おそらく村上春樹はそう解釈して、あえて旧訳のような説明をしなかったのだろう。原文では、どうなっているのか興味の湧くところだが、1パイント瓶は、第5章のフロリアン夫人の家でもう一度登場する。その際に「黒人のフロント係と私が先刻飲んだぶんはしれたものだった(新訳)」と、さり気なく説明されているので、マーロウが先刻の一杯分を飲んだことが分かる仕掛けになっている。第4章でマーロウが飲むところを描いておけば、清水氏も困惑せずにすんだものを。罪作りなことをしたものだ。
こんなことが楽しめるのも新訳が出たおかげである。あとがきによれば、村上春樹はもう一冊新訳を予定しているらしい。今度は原書も用意してから読もうと決めた。待ち遠しいことである。

突飛なるものの歴史 完全版
2010/05/23 19:21
古ぼけた革の旅行鞄の中から出てきた思い出の品々
12人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
押し入れの中を整理していたら、古ぼけた革の旅行鞄の中から、すっかり忘れていた古い絵やら何かの標本箱、奇妙なオブジェが見つかった。懐かしい気持ちで一つ一つ手にとるうち、当時の熱に浮かされたような思いが甦って来た――読み終えて、そんな印象を受けた。
というのも、この本、六〇年代にフランスで刊行されたものの完訳である。何故そんな古い本が今頃、装いも新たに「完全版」と銘打って出版されたのだろうか。実は、当時日本でも「突飛なるもの」について書かれた本が相継いで刊行されていたのである。その中心人物が澁澤龍彦であり、種村季弘であった。彼等が当時その著書の中で紹介していた西欧の異端者の系譜、たとえば、バヴァリアの狂王ルートヴィヒ二世やカリオストロといった面々は、どうやらこの本が種本であったようなのだ。
それだけではない。訳者の後書きによれば、澁澤の『異端の肖像』所収「バヴァリアの狂王」の中のリンダーホーフ城について触れた文章(ある批評家が澁澤を悼む文の中で、その名文の見本として引用した部分)が、そっくりそのままロミのこの本にあるという。評者も本棚の澁澤コレクションの中から『異端の肖像』を取り出して読み比べてみたが、たしかにロミの文章に想を得ているというより、そのまま引き写したと言った方が近いと感じた。
もちろん、訳者の高遠氏もそれを咎め立てているわけではない。むしろ、文章に殊の外うるさいあの澁澤に、あえて引き写してまで使いたいと思わせたロミの才能の方を称揚していると考えた方がいい。「解説にかえて」の中で、種村季弘も書いているように、当時ロミのこの本に触発されて、自分の進む方向を見出した人は少なからずいたのだろう。第六章「突飛なるものの巨匠たち」に登場するレーモン・ルーセルの訳者として知られる岡谷公二氏が、後にやはり「巨匠たち」の一人であるシュバルを採りあげ、『郵便配達夫シュバルの理想宮』を書いたりしているのが、その一例である。
それでは、そのロミとは何者なのか。本名はロベール・ミケル。文筆業はもとよりパリ六区で、その名も「ロミ」という骨董屋兼画廊を営んでみたり、ホテル兼居酒屋を経営を経営する傍ら、その数二万五千点を超える風俗ポスターを収集し、テレビやラジオの番組製作にも関わるなど、マルチタレントぶりを発揮している。自分の描いたルソー風の絵を将来有望な画家の絵としてアメリカ人に売ったりもするかなり胡散臭い人物だが、後には短編小説で高名な賞を受賞するなど、文筆の才はたしかだったようだ。
本の内容だが、種村曰く「本の体裁をとったサーカス、でなければ奇妙な演目をぎっしり詰め込んだ寄席(ヴァリエテ)かキャバレ」、「ドサ回りの見世物小屋のあくまでも破廉恥に興味本位、悪びれずに極彩色の看板絵めいた見出しがぎっしり」。そう言われては身も蓋もない気がする。中には、キリスト教の悪魔がギリシァ神話の牧神パーン(ファウヌス)の山羊に似た相貌を採り入れたとか、有翼の天使は、勝利の女神ニケのイメージであるとか、実際には存在しないはずの「突飛なるもの」が、何故作られねばならなかったかという考古学的記述もあり、なかなか読ませてくれたりもするのだが、如何せん、それらの考察は、この本からアイデアを頂戴した澁澤や種村その他の著作の方が、より豊かな思索の広がりを見せてくれているわけで、この本の眼目は種村の呼び込みめいた口上通り、古今東西から寄せ集めた「突飛なるものの」蒐集にある。
学者でも何でもない一人のディレッタントが、独力で資料を渉猟し、よくもこれだけの写真や図版を蒐集し紹介することができた、そのことこそが功績だろう。特にフランスを中心としたロマン派以前からダダ・シュルレアリスムに至る美術・文学界の動向を手際よくまとめた手腕はなかなかのものである。
澁澤や種村の愛読者なら、何をおいても一読したい。彼等がこの本にどれだけのものを負い、そして、そこから何を摘み、何を捨てたか。そしてその素材をどのように料理して自分の世界を築き上げていったか。たとえ、その後の歩みは離れていったにせよ、六〇年代のある時期、たしかに澁澤や種村はロミと出会い、距離は保ちながらも併走していた。『突飛なるものの歴史』は、そうした六〇年精神史の一コマを垣間見せてくれる得難い本であると言える。

チボの狂宴
2011/02/05 13:52
三つの視点から描き出された独裁者暗殺の実相
11人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
2010年ノーベル文学賞受賞者マリオ・バルガス=リョサ著“La Fiesta Del Chivo”の本邦初訳。本国では2000年に発表されたこの作品、リョサの代表作という声も上がるほどで、すでに各国語に翻訳されている。直訳すれば『山羊の祭』だが、その繁殖力の旺盛なことから好色漢に喩えられる山羊を意味する「チボ」をあだ名にしていた男、ドミニカ共和国36代大統領、ラファエル・レオニダス・トゥルヒーリョ・モリナの暗殺の顛末を描いている。
原著、訳書とも表紙を飾るのはアンブロージョ・ロレンツェッティのフレスコ画『悪政の寓意』である。山羊の角を生やした黒衣の男が足下に従えているのは、布でぐるぐる巻きにされ、自由を奪われた「正義」である。禍々しい絵柄が仄めかすのは、トゥルヒーリョ政権下のドミニカ共和国の狂態であろう。一介の庶民から一代にして大統領にまで上りつめた男は経済的に破綻していたドミニカを立て直し、「祖国再建の父」とまで謳われた国家的英雄であった。しかしその一方で、不正な選挙、脅迫、暗殺を繰り返し、一国の経済を私物化し莫大な個人資産を作り上げ、個人崇拝に基づく恐怖政治を敷き、ドミニカ共和国を31年間の長きにわたって支配した独裁者である。
第一章は1996年。35年ぶりに帰国した主人公が、父を訪ねる場面から始まる。章が変わると場面は1961年。その日殺される運命のトゥルヒーリョがベッドから目覚めたところ。次の章に入ると時間は同じ日の夜に変わり、海岸沿いの道で標的の車を待ちわびる暗殺者たちの会話、と章が変わるたびに、女性・老人・若者という年齢も性も社会的階層も異なる複数の視点が目まぐるしく転換する。見る者の置かれた立場が変われば、トゥルヒーリョという伝説的な人物の死が意味するところもそれぞれ異なる相貌の下に立ち現れてくる。異なる語り手が異なる角度から事件が起きた現場に繰り返し登場し、トゥルヒーリョのやってきたことを証言してみせる。
第一の語り手はウラニア・カブラル。その父は、かつてはトゥルヒーリョ政権を支える大臣として周囲の尊敬を集めていたが、何故か政権末期に失脚し、今は見る影もない老人である。しかし、ウラニアは14歳の時に国を出て以来、35年間というもの父と一切連絡をとらなかった。いったい二人の間に何があったのか。小説はウラニアの独白ではじまり、独白で幕を閉じる。その間に独裁者暗殺の顛末が挿入され、話としてはそちらが抜群に面白いのだが、緻密な伏線が張られ、最後に驚くべき真相が明らかになる、というミステリ仕立てで、ウラニアが従姉妹や叔母たちに隠し通してきた秘密を語るのが、この小説の主筋である。
第二の語り手は独裁者その人。その日暗殺されることになる1961年5月30日の夜明け前から夜までを一人称視点で物語る。形の上では大統領職を退きながら、事実上精力的に政務をこなす独裁者の一日が独白と会話で克明に描き出される。モノローグで語られる強欲な妻や愚昧な息子たちに対する愚痴、男性的能力の衰えに対する不安には、無類の女好きで知られる男の等身大の姿がにじむ。また現大統領や秘密警察長官との会話からは、米国と対等に渡り合う軍事指導者としての力量と、恐怖によって部下を支配する独裁者としての実像が垣間見られる。頂点に立つ人物の万能感と孤独。リアル・ポリティクスの持つ迫力にピカレスクロマン風の味わいが重なり、陰影に富む。
第三の語り手は、暗殺を企てた将校たち。複数の人物が代わる代わる視点人物となり、それぞれが殺意を抱くことになった理由と暗殺後の経緯を物語る。他の二者の主観的な語りとちがい、複数の人物が比較的長い時間にわたる出来事を物語る。独裁者が殺害されたと同時に蜂起するはずの軍が動かないために英雄になるはずだった将校達は次々と捕らえられては残酷な拷問を受ける羽目に陥る。なぜトゥルヒーリョの娘婿にあたるロマン将軍は裏切ったのか。将軍の視点から事態を見ることで読者はその苦い事実を知ることになる。決行の夜の緊迫感から、腰砕けのような決行後の展開、そして逃亡。逃げ延びた犯人が暗殺犯から英雄に変化していく経過が感情を排したドキュメンタリータッチで淡々と叙述される。
三つの視点から描き出された一つの事件。芥川の『藪の中』や、その映画化作品『羅生門』を思い出させる。三人のうち一人が殺され、その死に至る真相を三人が物語るところまで同じだ。リョサの巧さは上に述べたように三者三様の語り口を用意したことだろう。独裁者の死という事実一つをとってみても、その事件に遭遇した者の住む世界によって、全く異なった物語になるということを証明して見せた。特にウラニアという女性の視点から、男たちが牛耳る世界を裏側から照射してみせる手際は、フロベールに私淑するリョサならではの円熟の小説作法である。
今の話かと思って読んでいると、突然35年前に連れ戻されるというフラッシュバック的な技法も、自分のことを二人称で呼ぶヌーヴォー・ロマン風の記述も慣れてしまえば、読むのに支障はない。それよりも、圧倒的な筆力で描き出される独裁政権の裏面が凄い。何かを聞き出すためでなく、ただ苦しめることだけを目的とした拷問の執拗な描写は、目を背けたくなるほど。イザベラ・ロッセリーニ主演で映画化されているというが、この拷問場面など、どのように処理されているのだろうか。3D流行りだが、文章でしか表現し得ないものもあるのだ。
さて、世界はチュニジアの政変をきっかけにエジプトやヨルダン、イエメンなどの独裁政権国家に民衆蜂起が飛び火しつつある。独裁政権が打倒され、民主政府が誕生するのは喜ばしいことだが、事の成就はそれほど簡単ではない。独裁者の一番の問題は政権を奪われることを恐れるあまり、次の政権を担当する人材を育てないということに尽きる。小説の中では傀儡であったはずの大統領バラゲールという人物が悪魔的ともいえるほどの変貌を見せて事態収拾に奔走する。その意味では、この人物を大統領に抜擢したトゥルヒーリョの眼力は大したものだったと改めて思うのだが、事実は小説よりも奇なりという。事態はどう推移してゆくのだろうか。思わぬ時宜を得たノーベル賞作家の本邦初訳である。これを読まぬという手はない、と思うのだが如何。

日時計の影
2009/02/11 17:47
人はその最高かそれに近いところで評価されるべき
11人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
著者は、神戸市在住。阪神淡路大震災を罹災した人々の心のケアに携わったことでも知られる著名な精神科医で、ギリシア語、フランス語で書かれた詩の翻訳家としても知られている。しかし、一般的には、端正で明澄な日本語のエッセイの書き手として知る人の方が多いのではないだろうか。事実、エッセイ集が出版されるたびに待っていましたというように書評に採りあげられる事実から見ても、氏のエッセイを心待ちにしている読者は少なくないにちがいない。
エッセイの中身だが、まずは専門の精神科医として豊富な臨床体験を通じて得られた知見を、われわれ素人にも分かるやさしい言葉で語ったものをいちばんにあげたい。「統合失調症」という、ふだんはあまり関係がないと思われる病を得た患者が、この人の声音で語られるのを聴いていると、まるで日々接している身近な人々を前にしているような気がしてくるから不思議である。
それは、患者に相対したときにこの人の見せる医師としての姿勢から来るように思われてならない。精神科の臨床医として患者の治療にあたっているときも、患者の人間としての尊厳を最大限に尊重しようとして接している。
たとえば、氏は患者さんの話を聞くとき、好きなものとか、ひいきのチームとかの話題をよくとりあげるそうだ。病理話よりもそういうことから患者の人柄が見えてくるという。「病気を中心に据えた治療というのは、患者の側にとってみたら、病気で自分の人柄が代表されているということであり」、自己評価が下がる。「人柄に即してわれわれは治療していくわけであって、症状を剥ぎ取るのがわれわれの治療ではない」。「人はその最高かそれに近いところで評価されるべきで、最低で評価されたら身もフタもない」。「「タイガースファン」だけでもそのほうがまだずっとよいのです」という。自分が病んだら、こういう人に診てもらいたいと心底思う。
上に引用した部分の前には、有名な精神科医サリヴァンのケースワークの言葉が引かれている。こういうことを自分はいつも考えているが、それはなにも自分の発見ではない。すでに、他の人々がやっている、ということを、どんな時にも煩瑣にならない程度に触れるのが、この人の文章の特徴である。だから、多くの医師その他の名前が文章中に登場する。その中には、文学者も数多く出てくる。この本の中にも、ジョイスやプルースト、リルケやカロッサがごく自然に呼び出されている。本好きの読者を愉しませてくれるところかもしれない。
もちろん、専門外のことについて書かれたものも多い。時事的な問題にもふれる。エッセイストとしての氏は、医師として患者の前に立つ穏やかな人格とはうって変わって、けっこう熱い。ジャーナリズムを批判した次のような文章を読んで溜飲を下げた読者は多いだろう。
「ジャーナリズムも庶民の医療に尽くす「赤ひげ」をあるべき医師の姿と讃えるのを止めてもらいたい。あれを読み聞かされるたびに、戦時中、孤島硫黄島兵士の孤立無援の奮闘を激励するラジオ放送を思い出して不愉快になる。あれは政治の欠如を個人の犠牲で補えということである。」
「赤ひげ」を別の誰かに、医師を他の職業に入れ替えれば、公益に尽くす多くの職業に通じるだろう。大震災の際、被災地で緊急医療に従事した医師の中にその後、重篤な病を得て亡くなった方が何人もいることをこの本を読んではじめて知った。それを医者の不養生のように評されて悔しい想いをした人がいることも。
少年時の切手収集や学生時代の登山のことなど、楽しい逸話にも事欠かない。読後、頭や心の中にあったもやもやしたものがどこかに消えたようなすっきりした感じが残る。

話の終わり
2010/12/26 12:51
中年インテリ女性における恋愛心理の解剖所見
10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
作者自らが語るところによれば、この小説のテーマは「いなくなった男の話」だそうだ。
主人公の「私」は、アメリカ西海岸の町に住み、翻訳業で何とか食べている女性。巻末の著者略歴によれば、作者本人もフランス文学の翻訳者として知られる。限りなく作者自身に近いと思える「私」だが、この「私」が一筋縄ではいかない。短い章が変わるたびに別のレベルの「私」が登場するからだ。たとえば、今書きすすめつつある「いなくなった男の話」をテーマとする小説について言及する「私」。現在は別の土地で別の男性と暮らし、同居する男の父親を介護する傍らで小説を描く「私」というふうに。
簡単にいえば小説の主人公である過去の「私」と、若い男の恋愛について回想する現在の「私」、そしてもう一段高い位階にあって、それらを統御しつつ小説にまとめようと悪戦苦闘する作家である「私」が、短い断章形式で区切られながら、かわるがわる現れては語るというきわめてポストモダン的な小説である。
そういうと、なんだか小難しく感じられるかもしれないが、そんなことはない。知的で怜悧な観察眼が光る文章で、中年に差し掛かろうとする女性の心理が手にとるように分かる。その精緻な分析と矛盾する衝動的な行動のギャップが哀切な印象を残す作品である。
題名通り「話の終わり」の方から書きはじめられてはいるが、概ね時系列に沿って話は展開されていく。ただ、その間に何かによって連想された現在の暮らしや過去の回想が入り混じる。そのモザイクめいた叙述の印象が、ともすれば年下の男と別れた女性の喪失感と焦燥に別の彩りを添えて新鮮に感じられる。もし、この形式でなかったら、自分のもとを去っていった男の姿を探し求めて町中を探し回る中年女性の姿は傷ましく、つらすぎて読み続けることは難しいにちがいない。
かなり歳のはなれた若い男とどういう経緯で出会い、いっしょに暮らし、やがて別れていったのか、そして、その後男との再会を狂おしいまでに追い求める常軌を逸した行動と、フィクションとはいえ、恋愛中の心理についてこうまで正確に述べようと思えば、作家自らを語らざるを得ないのではないか。
リディア・デイヴィスは、レリスやビュトール、ブランショの翻訳家で、プルーストの『スワン家の方へ』新訳の功でフランスの芸術文化勲章シュバリエを受賞した作家である。並みの小説家ではない。あくまでも理知的で、過剰なまでの自意識は、ただひたすらのめり込むような恋愛には不向きなのかもしれない。相手と別れた後こんなふうに考えたり感じたりしていたら、誰でも自分が人を愛しているのかどうか自信が持てなくなるだろう。
中年に差し掛かろうとするインテリ女性の恋愛心理の解剖所見といった感のある『話の終わり』だが、小説家がどのようにして一篇の小説を描くのか、その具体的な作業がていねいに描かれている点でも特筆すべき作品ではないか。小説を描いてみようと考えている人には一読を勧めたい。

世界終末戦争
2011/02/22 17:38
世界の崩壊をきっかけに解き放たれるエロスとタナトゥスとの饗宴
9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
ずっと絶版だった小説が、作者のノーベル文学賞受賞によって再刊された。これまで読みたくても手が出なかった読者には何よりの吉報だろう。それほど、この小説は面白い。ブラジルの奥地に忽然と現れた「聖人」によって、共和国の支配の及ばぬ独立国家が誕生する。それを倒すために次々と繰り出される共和国軍と「聖人」に従う者たちの凄絶な戦いを描く。二段組み700ページというヴォリュームだが、一度読みはじめたら途中で投げ出すことは難しい。二十世紀小説というよりもデュマかセルバンテスでも読んでいるような気分である。
19世紀後半のブラジル、バイア州の奥地サルタンゥを青い長衣を纏った長身の行者が放浪している。コンセリェイロ(教えを説く人)と呼ばれる男は、干魃による飢餓に苦しむ村人にキリスト教の教えを説いて回っているのだ。誰からも見捨てられ、この世の地獄を生きている民衆に、貧しい者こそが救われるという教えは干天の慈雨のように浸込んでゆく。付き従う人の数は次第に増え、やがて一団は周囲を丘に囲まれたカヌードスという土地に腰を据える。私有財産を放棄した貧しい者たちが共同生活を送る「地上の楽園」の噂を聞きつけた人々が近隣の村々から続々と集まってくる。
無断で人の土地に住み着き、政府の法に従わぬ一団を放っておけなくなった当局は少人数の警備隊をカヌードス制圧に送りこむ。しかし、最初の部隊は物の見事に敗退。続いて送り出した部隊も破れたことで、ついに共和国陸軍の英雄モレイラ・セザル大佐が精鋭部隊を率いてカヌードス鎮圧に乗り出すことになる。実は、カヌードスには、有名なパジェウを始め盗賊の首領達までがコンセリェイロに帰依して集まってきていた。彼らのゲリラ戦法は近代兵器を擁する共和国陸軍を翻弄する。しかし、いくら追い払っても次々と大量の兵を繰り出してくる政府軍の前にカヌードスは追い詰められる。死ねば天国に行けると信じている民衆は女、子どもまで投入して徹底抗戦する。カヌードスの運命や如何。
カヌードスに社会主義の理想郷を見た自称革命家のガリレオ・ガル。カヌードスの領主で王党派政治家の領袖カナブラーヴァ男爵。共和国派のブルジョア政治家エパミノンダス・ゴンサルヴェス。いかにもリョサの小説らしく、政治的立場や主義主張、階層の異なる数多の人物が登場し、その来歴を語り、自分の思いをてんでに披瀝する。子殺しの贖罪の果てについに聖女となった「全人類の母」マリア・クアドラード。生まれついての奇形児ながらあらゆる文字を読み書くことができる男ナトゥーバのレオン。己の中に居座る悪魔のために悪逆非道を繰り返してきたジョアン・サタン。無関係に見えていた人物同士が、コンセリェイロを核として結びつき、互いに絡まり合い、複雑な人間模様を描き出すにつれ、物語はダイナミックに動き出し、一気に終末に向かって突き進む。カヌードスの運命と幾組もの男女の愛憎が交錯し、徹底的な暴力と破壊の果て、立ちこめる硝煙の切れ間にのぞく青空にも似た結末が用意されている。
物語の舞台となるブラジル北東部バイア州は、サボテンや茨しか育たない乾燥地帯で、19世紀後半には二度にわたる大干魃に苦しめられ、大量の死者を出している。そこに住むのはインディオ、旧大陸からの移住者、その混血、と出自も皮膚の色も様々だが、近代ヨーロッパの洗礼を受けた華麗な建築が建ち並ぶ海岸部とは裏腹に、中世ヨーロッパや原住民由来の文化が今も色濃く残る、いわば新生ブラジル共和国の「内なる他者」のような存在であった。
海岸部から遠く離れたバイアは、荘園領主である貴族層の力が強く、新勢力の共和国派と覇を競っていた。そこに持ち上がったのがカナブラーヴァ男爵の領地カヌードスで起きた反乱である。これをイギリスに支援された王党派の陰謀に見せかけようとするのが共和派の領袖エパミノンダス。もともと敵対関係にあったカナブラーヴァ男爵との間にバイア州の権益をめぐる権力争いが勃発する。
主題の一つは本来は交わるはずのない世界の衝突である。男爵やエパミノンダスにとって、カヌードスの反乱は、いつに変わらぬ権力争いの口実に過ぎない。事態をどう収め、どちらが権力を把持するかが問題なのだ。モレイラ・セザルのような軍人から見ればカヌードスは狂信者の反乱であり制圧の対象でしかない。一方、カヌードスに集まる人々にとって、政府の行う戸籍調べや法律婚は奴隷制の復活や神による結婚を否定するものと映る。彼らから見れば共和国政府やその陸軍は戦争相手などではなく滅ぼされるべき悪魔なのだ。コルネットの合図で整然と軍を進める近代的軍隊と、蕃刀片手に忍び寄って性器や睾丸を切り落とす盗賊あがりの兵では殺し合いはあっても戦争にはならない。三者三様、同じ場にいながら、全く異なった世界を生きているのだ。
もう一つの主題は、性による人間の解放である。男爵はヴィクトリア朝のモラルに縛られ、自分の欲望を押し殺しながら政治家として生きてきた。ガリレオ・ガルは、革命の大義のために禁欲を守ってきた。夫以外の男に犯されたジュレーマは、嫌でもその男に付いていくしかなかった。夫を裏切った女に他にとるべき道はなかったからだ。それが、カヌードスの反乱をきっかけにして変化する。男爵は農園を焼かれたショックで正気を失った妻とその下女と三人で同衾する。ガルは、道案内に雇った男の留守にその妻のジュレーマを犯す。ジュレーマは、カヌードス崩壊の最中、近眼の記者の愛撫を受け、性の喜びをはじめて知る。マチスモという男性原理の社会にあって抑圧されていた欲望が、それまで盤石に見えた世界の崩壊をきっかけにして解き放たれる。死(タナトゥス)の氾濫する中に生まれた性愛(エロス)の饗宴である。
あえて主人公と言えるような人物はない。すべての登場人物がそれぞれの物語の主人公なのだ。しいてあげるとすれば、累々たる死者の中で最後まで生きのびる近眼の記者と、彼を母のように庇護するジュレーマだろうか。男たちの中で唯一人、近眼の記者は戦うということをせず、ひたすら逃げ続ける。一方、男性原理を体現する男たちに翻弄されながら、逆に男性原理を否定し、女に庇護を求めるような男を愛するようになるジュレーマ。不条理としか言いようのない戦いの中にあって、その世界から疎外されてしまっている二人の愛と性の成り行きが、その意外さゆえに悲惨な最後に一抹の明るさを添えてくれる。
途方もない話のようであるが、この小説は実話に基づいている。エウクリダス・ダ・クニャのノンフィクション『サルタンゥ』がそれで、コンセリェイロその人はもちろん、その参謀格の商人であるアントニオ・ヴィラノヴァ、カンガセイロのジョアン・アバージ、パジェウ等々、皆実在の人物である。もちろん、その中で引き起こされる人間同士の愛憎劇は作家の想像力の賜物である。同じラテン・アメリカの作家でノーベル賞作家であるガルシア=マルケスと比較されることが多いが、リョサの本分は「マジック」のつかないリアリズムにある。見てきたようなカヌードスの反乱を存分に愉しまれたい。

やんごとなき読者
2009/04/26 18:34
「自分の声」を見つけた女王陛下
9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
ここに来てG・P・ウッドハウスのジーヴス物が相次いでシリーズ化されるなど、イギリスユーモア小説の売れ行きが好調だが、これもその系譜に連なる「傑作」と言っていいだろう。イギリスではベストセラーと聞くが、それもそのはず、なんと主人公が女王陛下なのだ。
愛犬のせいで宮殿に移動図書館が来ていることを知った女王は儀礼上一冊借りることにした。それをきっかけに読書の魅力に取り憑かれた女王は、それまでは義務ではあってもそれなりに興味を感じながら務めてきた公務にさっぱり熱が入らなくなってしまう。服装や装身具にも以前ほど気を使わなくなり、週のうちに同じ物を二度着たりする。これまでなかった事態に周囲の者から、アルツハイマーではないかと疑われる始末。
どこへ行くにも本のお供がなくてはかなわず、車の中でもページの間に鼻先を突っ込んでばかり。本のことで頭がいっぱいだから、それまで無難にこなしてきた臣民との会話でも「今、何を読んでいますか?」などと口走ってしまう。本などめったに読まない人々はとまどいを覚え、側近はうろたえる。本の話ばかり持ち出す女王と、それについていけず、次第に女王の読書への反感を募らせる首相や個人秘書とのやりとりを風刺的に描くことで、本を読むという行為がいかに非英国的であるかということをあぶり出してみせる。
知的であること、かならずしも価値ではないというのがイギリス人気質。本を読むより、戸外でスポーツや狩りに興じるのが王室をはじめイギリス上流階級の伝統らしい。そういえば、ダイアナ妃の死に際して、バッキンガム宮殿に半旗を掲げなかったことに起因する王室バッシングの騒ぎを描いた映画『クィーン』の中で、ヘレン・ミレン演ずるエリザベス女王や夫君の公爵、皇太子は、騒ぎの真っ最中バルモラル城外の山中で鹿狩りをしていたものだ。
その一方で、これは大真面目な「読書の勧め」の本でもある。それまで本に興味を持っていなかった人間が、水先案内人に導かれながら次第に本の大海に乗り出していく、その心のときめきと興奮がみずみずしく描き出されている。はじめは自分のよく知っている世界を描いた本から入り、読む力がつくにつれ、自分の知らない世界へと進んでいく。バーネットからプルーストに至る書名や作家名の変遷が女王の変化、成長を物語る仕掛けだ。
秘書は「本は他人を排除する」からよくないと諫めるが、女王は本を読むようになってからのほうが、今までは気にもとめなかった周囲の人の感情が分かるようになり、人に優しくなっていると感じる。それと同時に「自分には声がない」ことにも思い至る。ダイアナ妃の死後、感情を公にするように求められることが増えた女王は読書ノートにこう綴る。「シェイクスピアはいつも理解できるわけではないが、コーディーリアの『私には心のうちを口に出すことができません』という心情はすぐにもうなずける。彼女の苦境は私のものでもある」と。
最後には周囲の声を聞き入れ、読書三昧の暮らしを捨て、もとの生活に戻る女王であったが、一度自分には声がないことを知ってしまった人間は、その声を求めずにはいられない。冒頭のフランス大統領を迎える大晩餐会に呼応するように、終幕に設けられた女王八十歳の誕生日を祝うお茶会において、首相をはじめ枢密顧問官を前にしての女王のスピーチには、もし女王をして自分の声を発することができるものならば、かくあらんかという結末が用意されている。
読書がいかに人間を作り、育てるかという読書の持つプラス面と、ややもすれば本に熱中するあまり実人生と没交渉になり、周囲から浮いてしまうという本好きのマイナス面を併せて描いてみせるあたりが、いかにも大人の国イギリスの小説らしい。ハリー・ポッターを読んだという話を持ち出された女王が「そう、私はあれは雨の日のためにとってあるのよ。」とそっけなく言い捨てたり、イアン・マキューアンの本が、読書に夢中で遊んでもらえなくなった愛犬のコーギー達の腹いせでぐちゃぐちゃに噛みしだかれたり、と英文学好きならにんまりさせられるような逸話もたっぷり用意されている。

ストーナー
2014/12/22 17:40
文章に気品があり、燃え立つ情感が知性の冷ややかさと明晰さという外皮をまとっている
9人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
いい小説だ。読み終わって本を置いた後、じんわりと感動が胸のうちに高まってくる。一人の男が自分というものを理解し、折り合いをつけて死んでゆくまでの、身内をふくめる他者、そして世間との葛藤を、おしつけがましさのない抑制された筆致で、淡々と、しかし熱く語っている。「文章に気品があり、燃え立つ情感が知性の冷ややかさと明晰さという外皮をまとっていた」というのは、作中で主人公がかつて愛した女性の著書を評した言葉だが、そのまま本書を評したものともいえる。
読む人によって、それぞれ異なる主題が見つかるだろう。主人公は大学で主に英文学を教える助教授である。そこからは、大学というアカデミックな場において繰り広げられる身も蓋もない学内政治の暴露が、また、師が弟子の資質を発見し、己があとを託すという主題が見える。さらには、シェイクスピアの十四行詩と『リア王』が全篇にわたって朗々とした音吐を響かせていることも発見するだろう。
男と女が夫と妻となったが故にはじまる家庭内での葛藤を主題とした小説でもある。自分を見失った中年男が理想を共にする歳若い女性との秘められた情事のなかで再び自分を回復していくという、些細ではあるが忘れることのできない挿話もある。自分以上に自分を知る友との出会いと別れ。また、その反対に、故知れぬ悪意を抱く競争相手との熾烈な闘争、とよくもまあこれだけの主題を逸脱することなく、一筋の流れの中にはめ込むことができたものだと、その構成力に驚く。
忘れてならないのは、戦争という主題である。主人公が大学で教鞭をとるのは二つの大戦期である。戦争に行くことに価値があり、忌避は認められていても誉められる態度ではなかった。優れた素質を持ちながら、主人公が終生助教授の地位にとどまるのは、戦争との関連を抜きにしては語れない。主人公の中にあって、自らは知らない教師としての素質を見抜いた師が迷う弟子に言い聞かす言葉がある。「きみは、自分が何者であるか、何になる道を選んだかを、そして自分のしていることの重要性を、思い出さなくてはならん。人類の営みの中には、武力によるものではない戦争もあり、敗北も勝利もあって、それは歴史書には記録されない」というものだ。教育に携わる人なら肝に銘じたい言葉である。
注目すべきは人物。たとえば同僚のマスターズ。大学は自分たち、世間に出たらやっていけない半端者のために作られた避難所で、ストーナーは世間に現実とは違う姿を、ありうべからざる姿を期待している夢想家にしてドン・キホーテだ。「世間に抗うべくもない。きみは噛みしだかれ、唾とともに吐き出されて、何がいけなかったのかと自問しながら、地べたに横たわることになるだろう」という予言めいた言葉を残し、戦死してしまう。
そのマスターズの陰画が他校から赴任してきたローマックス。頭脳明晰で弁が立ち、傲岸不遜。二枚目役者の顔を持ちながら背中に瘤を負い、脚を引き摺る小男というディケンズの小説にでも出てきそうな人物。この男がストーナーを目の敵にして生涯立ち塞がる。その嫌がらせの度合いが半端でない。ところが、世間ではこうした男に人気が集まり、出世も早い。弁証法的な役割を果たし、小説をヒートアップさせる名敵役だ。
シェイクスピアを蔵する英文学は恵まれている。ストーナーは大学では善良なエドガーを、家庭では、書斎から放り出され、居場所を探して放浪するリア王の役を演じる。「トムは寒いぞ」の科白ひとつで嵐の中を流離う老人の姿が眼前によみがえる。五十年という歳月を経て、再びこの小説が陽の目を見ることができたことが何よりうれしい。

世界文学全集 3−03 ロード・ジム
2011/05/14 12:38
心の中で一度や二度、海に飛び込んだことはないか?
9人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
一読すると、一度の過ちで汚してしまった自分の名誉を、生涯かけて償うことで取り戻すことができるのか、というきわめてシンプルな主題を持つ小説のように見える。ピーター・オトゥール主演の同名の映画も同様の主題であった。しかし、改めて読み返してみると、それだけではない気がしてくる。
二年の養成期間を経て、晴れて憧れの船乗りになったジムは、航海中倒れてきた円柱の下敷きになり、東方のとある港に下ろされる。病院には恢復を待つ様々な船員の姿があった。仕事に戻る際、ジムは本国に戻らず、地元船の一等航海士の職を選ぶ。ジムの乗った「パトナ」号と呼ばれる老朽船は、マレー周辺から集まった800人の巡礼を載せてメッカに運ぶのが任務だった。
そのパトナ号が紅海近辺で座礁する。船長はじめ四人の白人船員たちは、事故に気づいていない乗客を見捨て、自分たちだけボートに乗って逃げようとする。ジムは、はじめ船に残ることを選ぶが、他の白人船員に呼びかける「飛び下りるんだ。」の声に誘われるように海に飛び込んでしまう。
すぐに壊れると思われた船首隔壁が持ちこたえたため、パトナ号は沈没を免れ他船に救助される。乗客を見捨てて船員が逃げるということは許されるものではない。海事裁判が開かれ、白人船員たちは船員資格を剥奪される。船に乗れなくなったジムは、港々で碇泊中の船に必要な物資を提供する船長番という仕事に就き、名船長番として評判になるが、パトナ号での噂はどこまでも追いかけてくる。その度に逃げるように職を辞しては別の港を探すという日々を続けていた。
この話の大半の語り手は、ジムから事件当夜の話を聞いたマーロウという船長だが、そのマーロウの友人スタインの世話で、ジムは、パトゥザンという、商人にも名ばかり知られているが、誰も訪れた者のいないジャングルの奥地に赴任することになる。ジムは、そこでの活躍が認められ、現地人にトゥアン・ジム(ジム閣下=ロード・ジム)と呼ばれることになる。美しい娘とも結ばれ幸せなジムだったが、悪名高いブラウン船長の出現がジムを窮地に追い込むことになる。
濃厚なオリエンタリズムを漂わせる東洋の海を舞台にした海洋小説。筋立てや舞台を見れば、典型的な娯楽小説のそれだ。ところが、作者は第三者的な位置にある話者を介在させ、主人公への安易な感情移入は許さない。そのため、ジムの人物像をどうとらえるかは読者に委ねられる。つまり、読み終わった後「ああ面白かった」と言ってすませることができないのだ。この小説が発表されたのは1900年。機械的に言えば19世紀だが、内実は20世紀小説である。神の如き存在が世界に君臨し、総てを統御するなどということは信じられなくなってきていた。人の行為を裁くのは「神」ではなく「人」になったのだ。
ジムの話を聞いて読者に伝えるマーロウという語り手の内心の声が加わることで、読者はジムの行為をどうとっていいやら悩まなければならない。逆に、そこにこそこの小説の面白さがあるといっていい。乗客を見捨てて、海に飛びこむジムの弱さを責めることのできる人がいるだろうか。窮地に陥ったとき、多くの人が心の中で一度や二度、海に飛び込んだ経験を持っているにちがいない。リアリストであるマーロウやスタインは、現実を直視することで、自分の中にある弱さや醜さを知っている。しかし、それは自分だけではなく人間なら誰もが持つ弱さでもある。しかし、ジムはそれを認めようとしない。スタインは、ジムのことをロマンチストと呼ぶ。マーロウは、それだけではないと思いながらも自分とは異なる価値観を持つジムに興味を持ち、次第にそれが親愛の情に変化してゆく。
しかし、マーロウが実名で登場するまでの冒頭部分には、ジムの心のうちを直截に語る話者がいる。養成船時代のエピソードからは、チャンスを物にできなかった自分の瞬時の躊躇を知りながら、同僚を妬み事実を自分に都合のいいように解釈するジムを見つけることができる。また、怪我が治った後、本国に帰らなかった理由として、安逸な生活を送りながら幸運を夢みている仲間に魅力を感じていたことも明らかにしている。これらのことから分かるのは、ジムという人物は退屈な現実よりも想像力が描き出す事態の方に魅力を感じるタイプの人間だということである。
だとすれば、船長たちが逃げ出した裁判に出廷して証言してみせたことも、その後の船長番としての活躍も、パトゥザンでの戦いで指揮をとったことも、みな彼の中にあるイデアリストの仕業ではなかったのか。パトナ号の事件を知る者が現れると、その港を逃げ出してしまうのは、自分の想像が創り上げたイマジネーションとしての自己の像が、現実の自分の像の前に色褪せて見えるのを恐れる心の為せる業であった。そう考えることができる。神を信じることのできる人物なら他人の目に自分がどう映るかなど気にしない。他者の評価が気になるのは、この世界が人間の思惑でできあがっていることを実感しているからである。ジムという人間は、神などこの世界にいないことを知りながら、英雄的な自己像を幻視することで世界と自分を偽って生きていたのではないか。
果たして、ジムはどんな人間だったのか、というのが作者コンラッドの提示した謎である。解釈は読者に委ねられている。冒頭部に示されたジムの姿がそれを解く鍵ではないだろうか。

シェイクスピア&カンパニー書店の優しき日々
2010/07/10 13:14
見知らぬ人に冷たくするな、変装した天使かもしれないから
8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
カナダで新聞記者をしていた「僕」は、筆禍に遭い、命の危険を感じ、とるものもとりあえずパリに逃げた。たくわえも尽き、冬のパリを彷徨ううち雨に降られ、雨宿りにとある書店に飛びこんだ。ノートルダムにあるその書店こそシェイクスピア・アンド・カンパニー書店だった。
この名前にぴんと来た人があるかもしれない。ジョイスの『ユリシーズ』がどこの出版社からも相手にされずにいた時、出版費用を出したのがシルヴィア・ビーチ、シェイクスピア・アンド・カンパニー書店の店主である。フィッツジェラルドやヘミングウェイが立ち寄る有名な英語書籍店だったが、ドイツ占領時に店を閉め、パリ解放後も店を開けることはなかった。
そう、この本に出てくるシェイクスピア・アンド・カンパニー書店はその本家の名前をいただいたいわば二代目の書店である。店主はジョージ・ホイットマン。まぎらわしい名だが、父親は教科書こそ書いたが、詩人のホイットマンではない。このジョージという人物が実に魅力的に描かれている。まるで小説のようなノリとテンポで読ませるが、歴としたノンフィクションである。
雨宿りしたのが運よく週に一度だけ開かれているティー・パーティーの日だった。パーティーに誘われた「僕」は、この特異な書店に圧倒される。なにしろ、本でいっぱいの広い店の中にはキッチン(ゴキブリがうろついている)があり、誰かがスープを作っているかと思うと、別の部屋には数台のベッドが置かれているというありさま。
実は、この書店は作家志望の若者に寝るところを提供していたのだ。店の前身は「ミストラル」という名で、ヘンリー・ミラーやアナイス・ニンは常連だったし、バロウズやギンズバーグもやってきた。パリに行けば、無料で泊まれる本屋があるという噂は広く知れ渡っていて、この店を訪れるものは引きもきらなかった。ただ、長逗留できる者は限られていて、それにはジョージに自伝を読んでもらわなければならなかった。
「僕」は、みごとその試験に通り、シェイクスピア・アンド・カンパニーで暮らしはじめることになる。個性的な同宿人との日々の暮らしやその日の糧を得るための涙ぐましい苦労。パリで安い飯を食べる方法と、興味深い話題には事欠かない。何しろ、新聞記者と言ってもかけだしでまだ若い。恋もすれば、嫉妬もする。
アルコールと薬物から手が切れず、あぶない橋を渡りながらもシェイクスピア・アンド・カンパニー書店での生活がしだいになくてはならないものとなってゆく。特に八十六才という高齢でありながら、二十才のイヴに恋をし、結婚を申し込むジョージの姿に心を動かされる。精力的に書店を運営していくジョージだったが、店には買収の手がのびてきていた。
舞台になっているのはミレニアム問題に揺れるパリである。ところが、筋金入りのコミュニストであるジョージの来る者拒まずというコンミューン作りには、なにやら60年代のにおいが漂っている。鍵もかからぬレジや、そこいら中に置き忘れられている金は、泥棒の餌食になっているが、ジョージは本の万引きも、盗難事件にもひるむことがない。
ただ心配なのは、自分に何かがあれば、書店は別れた妻の名義となり、自分を恨んでいる妻はさっさとホテル王に売り渡してしまうだろうということだ。そうなれば店の公式ソングにある「見知らぬ人に冷たくするな、変装した天使かもしれないから」というモットーに基づく書店運営はできなくなる。ジョージにはその先妻との間に、その名もビーチからとったシルヴィアという子がある。娘が店を継いでくれれば、という願いはあるものの仕事一途できた男にそんなことを言い出せるはずもない。
シェイクスピア・アンド・カンパニー書店の運命やいかに。また「僕」の恋の顛末は…。今風と言うよりはビートニクやフラワーチルドレン、ヒッピームーブメントの雰囲気が濃厚な気配だが、金なし宿無しの異邦人がパリのど真ん中で生き生きと暮らしていくその日々のなんとも言えない開放感がたまらない。ロレンス・ダレルが『アレクサンドリア四重奏』を書いていたという、その部屋が今も残っているなら、今度パリを訪れたときにはぜひ足を伸ばしてみたいものだと思う。

本の読み方 墓場の書斎に閉じこもる
2010/01/17 18:04
読書の本意は中断にこそあり
8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
また、ストレートなタイトルではないか。ただし、「本の読み方」と言っても三色ボールペン片手に読むといった、よくあるハウツー本ではない。文字通り、人は本を読むとき、どんなふうにして読んでいるかを、古今東西の錚々たる読み手の書いたものから抜き出し、それに少々辛口のコメントをまぶして随筆仕立てにした読書をめぐるエッセイ集である。
読書家として知られる草森だが、のっけから自分は読書家ではないと言う。本を読むのがやめられないのは、たえず中断につきまとわれるからだ、と。寺田寅彦が病床で読書中、ウグイスがガラス窓にぶつかって死んだことから、人の人生に思いを致し、「人間の行路にもやはりこの<ガラス戸>のようなものがある。失敗する人はみんな目の前の<ガラス>を見そこなって鼻柱を折る人である」という随筆が生まれたことを例にとり、「時にその中断により、寅彦がそうであった如く、本の内容とまったく別なところへ引きづりこまれ、うむと考え込んだりもする。快なる哉」と、書く。本を読んでいるのがむしろ常態で、中断の方に興が湧くというのだから、なるほど並大抵な読み手ではない。
そうなると、次はどんな格好で読むのが楽かという思案となる。坂口安吾が浴衣がけで仰向けに寝転がって本を読んでいる姿を兄がスケッチしたものが残っている。手が疲れそうだが、筆者も家で読む時は百パーセント寝転んで読んでいるという。齋藤緑雨もまた、「寝ながら読む、欠伸をしながら読む、酒でも飲みながら読む。今の小説とながらとは離るべからず」と書いている。一見不作法な読み方を称揚しているようだが、その実これは、「明窓浄机」という儒教の礼法を当時の小説に非を鳴らすためわざと裏返して見せただけ、というのが真正の「不良」をもって任じる筆者の見方。小説でなくたって寝ながら読める。論より証拠。六代目圓生は酒を飲みながら「論語」を読んだという逸話を息子の書いた『父、圓生』から引いて、緑雨に一矢報いている。
戸外での読書、車中の肩越しに人の読んでいるのを覗き見る読書、緑陰読書と、本の読み方にまつわる引用が次々と繰り出されるのだが、中国文学が専門だけあって、漢詩、漢文に関する蘊蓄が尋常でない。
その一つ。「読書の秋」というのは誰が言い出したのか、という話。秋は収穫の時であり、「食欲の秋」ともいう。食べれば眠気に襲われるからこの二つは相性が悪い。大槻盤渓の『雪夜読書』という詩の中に「峭寒(しょうかん)骨に逼(せま)るも三餘(さんよ)を惜しむ」という詩句がある。「三餘」とは、読書の時間に絡む熟語で、「冬」の時、「夜」の時、「雨」の時を指す。
これには典拠がある。本来は「董遇(とうぐう)三餘」といい、「読書百遍、義自ずから見(あらわ)る」という言葉をのこした、学者で高級官僚でもあった董遇が、本を読む暇がないという弟子に「冬という歳の余り、夜という一日の余り、雨という時間の余りがあるではないか、お前はなまけものだ」と叱ったという故事から来ている。
草森は、「三餘」は、農耕文化のものだと看破する。冬、雨、夜は農業にとってはお手上げの時だから「余り」なのだ。とすれば、巷間に流布する「読書の秋」というのは、虚業中心の都市文化、それに連なる「レジャー文化」の産物である。「三餘」が死語になるのは、季節感を失った二十世紀現代文明にふさわしいと言い捨てている。
副題の「墓場の書斎に閉じこもる」は、少年時の毛沢東が、野良仕事の合間を盗んでは墓場の木の下に座り込んで三国志や水滸伝に読み耽った話が出典。特大のベッドに本を山積みし、寝間着のまま読み続けていたという、この人が、文化大革命で「焚書」を命じたのであったか、という歴史の皮肉を思わないわけにはいかない。他にも、令息森雅之が見た、書斎の有島武郎の意外な姿や、河上肇が獄中の便座に胡座して漢詩を読んだ話とか、博学多才にしてジャンルを博捜・横断したこの人ならではという、ここでしか読めない逸話に溢れた随筆集である。