紙の本
他者に対する想像力を失ってはいけない。
2003/11/14 19:40
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投稿者:ポカ - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者の森氏は、オウムのドキュメンタリー映画『A』『A2』をつくった人だ。
オウムの事件、9・11、そしてイラク爆撃…
この世の中は、どこか雲行きが怪しい。
よくわからないけれど、なにか危険な方向に動いているような感じは肌に感じられるような気がする。
台風の前の空の様子やいつもと違う空気の肌触りのように。
大きな事柄だけでなく、日々の事件や世の中の動きを見ても、どうも、おかしな方向に進んでいるのではないか、とふと思うことがある。
他者に対する想像力。
わたしたちは、その力が不足している。
不足というよりも、失われつつあるといっていいのではないか。
凶悪事件が増えていくのも、日々の生活のなかで社会のルールが守られなくなってきたのも、最近の殺伐としている世の中の空気も、他者に対する想像力が著しく低下していることに起因するのではないか。
そして、人々は、自分の力で考えることやめてしまったのだ。
良いも悪いも、目の前で流される情報を情報の全てだと信じ、その情報から与えられた「悪」に対し、憎悪するだけで事を済まそうとしている。
しかし、世の中は、善悪のどちらか、それだけで決めることができないものばかりだ。
しかし、悪者を明確に決めることができないとなると、人々は不安定になる。どうしていいのかわからなくなる。苦しくなる。
だから、人は悪者を立てたがる。
悪者をなにかに決めてしまうことによって、憎む相手を明確にするのだ。
そして、人は憎むことによって、どこか安心してしまう。
でも、真実は、悪を決めただけでは見えてこない。
悪者を憎悪するだけでは、なにも解決しない。
真実は、もっと複雑で、完全に正しいものもなければ、完全なる悪もない。
考え出すときりがない。
頭の中もごちゃごちゃになり、答えなんて出てこないかもしれない。
それでも、考えていくうちにおぼろげに見えてくるもの、それが大事なのではなかろうか。
考える苦しみなくして、真実を見ることなんてできない。
紙の本
私達はもっと人間を信じなくてはならない
2003/10/12 05:05
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投稿者:えとろん - この投稿者のレビュー一覧を見る
現在どこかで真っ当な意見をいえなくなっている風潮があることに気付いている方は覆いかと思います。事実様々な出来事を真摯に捕らえるとどうしても悲観的なニヒリズムに捕らえがちになってしまいます。
このほんでとりあげられていることがらはタイトルから連想するような楽観的な事象はほとんど取り上げられていません。
「しかし」と著者はあえて言います。だからこそ人の知性や本来持っているはずの豊かさをあえて述べるのだと。
わたしは徹夜をして一気によみました。そして打ちのめされながらも、著者のギリギリの人間に対する希望を信じるしか、この荒み始めた世の中をなんとか生きて行くすべはないのだろうと結論付けました。
必読です。
また小熊英二『<癒し>のナショナリズム』を併読することをお勧めします。
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相変わらずいろんな知識を与えてくれる。知らなかった事実がまたも。(家の近所で昔、関東大震災時に起きた事件について)
いろんな部分で共感した。自覚的に生きなければならない。誇れる国になるには、国辱史観をなくせばいいんじゃない。とか。それから、裏部分もいろいろ見れる。メディアの駄目さ加減とかね。
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自分が漠然と考えていたけれどうまく整理できなかったことを、的確に言語化してくれた人。本書で指摘されている憎悪の構図は今現在も増幅され続けている。恐怖、です。
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2007.1
この人の本はいつも教えられることが多いと思う。でも読み進めてくと大抵痛くなってくる。ペースが落ちて集中するのが辛くなる。何でかって、そういうことなんだろうな。
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森達也のエッセイ集。『世界が完全に思考停止する前に』に比べるとインパクトが小さいかな。しかし、彼の思想が端的に現れていると思います。
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一度お会いしたことのあるドキュメンタリー作家の森達也さんの本。戦争、殺戮の耐えない現代世界に対して、彼独特の視点から希望の光を当てた作品。
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考えさせられる事 沢山あります。
私達はコレでいいのでしょうか?本当に?
もっと見ることを、知ることをしないといけないのではないでしょうか?
『長いまえがき』と3章と『長くもないが短くもないあとがき』からなってます。
森氏の視点は今の日本に、世界に問題を提起してくれる。
会ってもないのに、知りもしないのに『知ったかぶる』のは如何なものか?
表面だけの上っ面だけで、論理を振りかざしていないか。
なにか に踊らされてないか。
なにか に上手に騙されてはいないだろうか?
とても とても 判りやすく 自分で判断する事 を願っているように思える本。
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今読んでる。
ここで印象的だった一文を。
「『これは白だよ』とあっさりと断言されたとき、でもよく見ると黒も少しだけ混じっているよと首をかしげながら思うだけで、大げさを承知で書けば、憎悪や殺戮が蔓延する今の世界も、ほんの少しだけ変わるはずだと思っている。」
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いい本だった。同じことを言っている。同じスタンスで、同じ目線で。それを筆者は幾分不満なようだけど、それこそがこの人の特質で、周りが停止している中で自分だけが動けるのはこういう部分が多大にあるんじゃなかろうか、と。この人はとてもとても人間らしくて、それが文章に溢れていて、いい。(08/3/15)
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2010.10.8 図書館。
想像力の欠如、憎悪の蔓延、思考の停止。マスメディアからの情報だけだと全く気づかないよね。いや、マスメディアによってそうなるように仕向けられてるのか。自覚しましょう。
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ドキュメンタリー映画『A』は様々な見方が出来る映画である。オウムの内部、当局の不正、理不尽な妨害活動…。ともあれ、そこで一貫して描かれているのは、「オウムの内部から見たら日本の社会はこんなにヘンなんだよ」という単純な事実だ。
『A』を監督した森達也も様々な側面を持つ人物である。TVディレクター、作家、映画監督…。そんな森達也による本書は、『A』公開後から『A2』公開に至る彼の心情を綴ったものである。雑誌やネットなどの媒体で発表された文章がまとめられている。そしてこの本には冗談みたいなタイトルがつけられている。『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい』。9・11テロが起き、アメリカがイラクに侵攻し、すぐ隣では独裁国家が世界を脅しているような状況で、そんな事が言えるのだろうか?
このタイトルは当初、『A2』のサブタイトルとして考えていたという。
森達也はこの世界を良くするためにどうするべきだ、などという話はしない。ただこう言うのだ。もっと悩め、と。ウジウジしたりクヨクヨしたりする事は決して悪い事ではない。わかりやすい理屈で世論がどんどん傾いていってしまう世界に、ただ語りかける。もっと悩め、と。
本書の中で何度も語られるように、オウムの信者もナチスドイツも、イラクのバース党幹部も北朝鮮の特殊工作員たちも、きっと皆善良で優しい人たちなのだ。それが集団になった時、思考は停止し、善良で優しいまま残虐になっていく。
「見つめることだ。そして考えることだ。自分たちが今何を考えていないかを」(本書p140)。そうなのだ。そういう意味で、本書のタイトルは重い響きを持つ。僕たちは考えることをやめてしまった。きっと単純な事実を見逃している。
もちろん森達也自身も苦悩している。自分の映画がヒットしない事に単純に悩む。思考停止した社会に悩みつつ、そんな社会であるからこそネタがたくさんあるぞとほくそ笑む矛盾に悩む。
彼の言葉を現実的でないと笑う事は簡単だ。世界はもっとシビアなのだ、憎悪に満ちているのだと切り捨てる事も簡単だろう。
しかし僕は信じている。いや知っている。世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい事を。
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あらがいがたい力を持ったタイトルだ。ちょっとガツンと来る本を読もうかなというくらいの気持ちで読み始めたのだが、すぐにバシバシと往復びんたをくらった気分になり、背筋を伸ばして読んでいった。本当に気がつくと私たちはざらざらした景色の中にいる。テレビをつければ、決まって誰かが誰かを攻撃している。賛美とバッシングはいつも背中合わせでどちらも過剰だ。いったいいつから日本はこんな国になってしまったのだろう。オウムから、と筆者はいう。集団としての日本人が、他者も自分と同じ人間であるという当たり前の想像力をなくし、ひたすら憎悪をむき出しにすることをためらわなくなったのは、オウム真理教による一連の事件への反応からであると。そうかもしれない。いやおそらくその通りだ。きっかけは何であれ、今の私たちは寛容さをなくした社会に生きている。筆者の言葉を借りれば「泣きたくなる。泣くぞ本当に。」本書は様々な媒体で発表された文章を集めたものだが、そこここに卓見があり、非常に刺激的だ。出版された時点では、筆者の監督したオウム信者を追ったドキュメンタリー「A」「A2」は、商業的には黙殺に使い扱いでビデオ化の目途すらないとあるが、調べてみたらその後ビデオ化され、DVDも出ているようだ。私は聞いたことはあるなあと言うぐらいにしか知らなかった「A」、読み終わってすぐさま注文することにした。タイトルが頭の中でこだましている。つぶやいてみたりする。
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友達にファン会に参加するほどの森達也ファンがおり、彼女にすすめられて読んでみました。
とにかく「A」「A2」を観てみたくなりました。
野田秀樹の「ザ・キャラクター」は私にとって本当に世界との関わり方として転換点になった作品だったけれど、きっとこの映画も同じように自分が持たねばならない、まさしく「自覚」を教えてくれるのだろうと思った。
でもね、森さん。
森さんは「被写体はオウムだけど、そこから写しているのは今の日本の社会そのものだ、あなたたちが映っているのだ、といくら主張してもオウムへの嫌悪感から、動員数は伸びない」というようなことを言っていたけど、そうじゃないと思う。
まだ、オウムの実態を見せられる方がいい。
そこから見える私たちが崩れてしまった姿こそ、一番みたいくないし、考えたくないのじゃないかしら。
宣伝方法、誠実が故に間違った気がします笑。
きっとぐらぐらと私たちの足下を揺すってやまない映画なのだろう。
私はオウムの事件のとき、まだほんの子供だったし、母がテレビ中継をずっと見続けていたことくらいしか覚えてない。
でも森さんが言う「憎悪がむき出しになった」ということを、すごく感じます。
私の場合は、特にワイドショーをみていて感じます。
こんなにゆるやかとも思えるほど緩慢に、憎悪がお昼の日本からじわじわと浸食していっているのがそら恐ろしい。
大人になれないことは、ある「罪」だと思う。
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タイトルたる所以。
・「表現」とは自分の「フィルター」で世の中を再解釈して、再び場に戻すことと知る。
・世の中の無意識の「憎悪」に気づかず、フィルターを通した世界で思考停止していることに気がつく。言わば「客観」