「honto 本の通販ストア」サービス終了及び外部通販ストア連携開始のお知らせ
詳細はこちらをご確認ください。
このセットに含まれる商品
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
商品説明
しだいに身体を縮めてどこでもないジオラマのなかに入り込んでいくようだった…。こちら側との通路をかぎりなく曖昧に開いたままで。長短さまざまな54編のエッセイを収録した、「回送電車」第2弾。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
堀江 敏幸
- 略歴
- 〈堀江敏幸〉1964年岐阜県生まれ。明治大学教授。「熊の敷石」で芥川賞、「おぱらばん」で三島由紀夫賞、「スタンス・ドット」で川端康成賞受賞。ほかに「子午線を求めて」「書かれる手」など。
あわせて読みたい本
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
この著者・アーティストの他の商品
前へ戻る
- 対象はありません
次に進む
紙の本
氏の書く小説同様あてどなく歩くエッセイあり、作家の素顔がちらりと見えるエッセイあり。
2007/03/06 22:42
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:とみきち - この投稿者のレビュー一覧を見る
堀江敏幸の小説は、エッセイのような、ノンフィクションのような、なんとも言いようのない独自の世界。そしてエッセイもまた、小説のような、フィクションのような、つかみどころのないものが多い。あえて分類してみると、幾つかのパターンがある。
その1 ふらふらとあてもなく街をさまよっているうちに、出会った人、出会った場所、出会った出来事を綴ったもの(エッセイ&小説)
その2 ふと気になった言葉、ふと聞こえた言葉から、過去あるいは空想の世界に入り込み(いわゆるプルーストの特権的瞬間)、筆者の体験や心に残ったエピソードが語られるもの(エッセイ&小説)
その3 大好きな小説や作家について語るもの(エッセイ&小説)
その4 ちょっと無理してテーマを立てて綴られたもの(エッセイ)
その1こそが、堀江敏幸の真骨頂。小説なのかエッセイなのか、実話なのかフィクションなのか、などという疑問は、堀江氏の前には全く意味をなさない愚問でありましょう。その証拠に、「存在の明るみに向かって」というタイトルで、2002年10月号の「みすず」に掲載されたエッセイで、敬愛する書き手、宇佐見英治と思いがけなく書簡をやりとりすることになった顛末を書いたあと、その宇佐見から届いた手紙の文章を引用し、さらに著者は次のように書いている。
“面白いけれど結論がない。それなりに読めるけれど、たいした筋もない。これは他人ごとではなかった。当初、私は二冊の散文集を上梓していたのだが、得られた評の大半は、ほぼこのとおりだったからである。それが不当だと感じたのでも、失望したのでもない。まさしくそのような感覚をもたらす散文をこそ書きたいと望んでいる者にはあまりにも当然の感想で、なぜそれほどわかりきったことに言及しなければならないのか、理解に苦しんだというだけの話だ。”
筆者が、自分と他人との距離感や立ち位置の違いを、このように現実の問題として描くことは少ない。たいがいは、自身のもつ独自の性質や厭世観のせいで、世の中の出来事やテンポ、現実感からは少し距離があるのだ、といったおさめ方をしているから。本書には、『いつか王子駅で』が書かれたときのいきさつや、芥川賞受賞の連絡を受けたときの出来事などが、あからさまではないながら、それとわかる形で書かれたエッセイも含まれていて、ファンとしては大いに楽しめる一冊となっている。
さて、上記の4分類に戻ると、その1こそが真骨頂と書いてはみたが、言い換えると、堀江節が出るのがそのパターンであり、読者が筆者とともに精神と想像の放浪ができて、一体化しやすいという意味でそのように言ったまでで、エッセイとして筆者の力量が大いに示されるのは、その3であると私は思っている。本書ではまず、須賀敦子さんを悼む文章が傑出している。また、書評者としての力量も抜群で、氏の推薦文のほうが推薦された書そのものよりすばらしかったという目に何度か遭遇したことがあるほどだが、今回の傑作書評は、「湿り気のない感傷 獅子文六」であった。思わず図書館で『悦っちゃん』を検索したのであった。
紙の本
迂回路はいつか、目的地にたどり着くのだろうか?
2004/06/22 12:20
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:KANAKANA - この投稿者のレビュー一覧を見る
「新作が待たれる」という言葉が、私にとって字義通りの意味をもつ作家の一人として、今回の作品もできるだけゆっくり——眼は早く先へ進みたいのだけれど、ひと息で読み上げてしまうのはあまりにもったいないので——ページをめくる手をところどころ運行調整しながら読んだ。
表題作「一階でも二階でもない夜」はたぶん芥川賞を受賞した夜の情景、「始末書の書き方」は『いつか王子駅で』がビル・エヴァンスの《Someday My Prince Will Come》の演奏とともに成立するまでの経緯、「長短さまざま54篇 回送電車はなおも行く」と帯にあるとおり、媒体も長さも題材もまちまちの文章のたたずまいからは、折々の著者の息づかいが伝わってくる。
以前、翻訳をめぐるあるシンポジウムで、
「堀江:…昨夜、たまたまですが、まだ作家としての地歩を完全に固めていない頃の小沼丹が訳した、スティーブンソンの紀行文を読んでいたんです。『旅は驢馬をつれて』(家城書房、1950)という稀覯本で、(中略)そののんびりした道中を言うのに、小沼丹は「膝栗毛」という訳語を当てているんですね。」(「外国文学は「役に立つ」のか?」新潮2004年1月号)
と語っていたその稀覯本とは、雑誌『東京人』の取材で古本屋を廻ったとき、所持金の持ち合わせがないのに気がつき銀行へ全速力で走ってまで手に入れた本だったのか(「古書店は驢馬に乗って」)とまず、思いもかけないところで知人に出くわしたような嬉しさを味わってしまった。
さらに読み進めながら思い出したのは、小林秀雄の『モオツァルト』の一節だ。「モオツァルトは、目的地など定めない。歩き方が目的地を作り出した。彼はいつも意外なところに連れて行かれたが、それがまさしく目的を貫いたという事であった。」という評は、そのまま氏の文章に当てはまる。毎回「書いてみないとなにがやりたいのかわからないのです、すべてが終わって時間がたってからでなければ、道が見えて来ないのです、」とおなじ言い訳を口にすることは、ただの悪ふざけか嫌味な自己韜晦と思われてしまうこともあったようだけれど。
でも、行き先のわかっている目的地なら、たどり着かなくてもよいではないか。まわり道することで初めて見えてくる風景は必ずあるのだから。そして小さな連想が幾重にも連なる言葉の運動に読み手が身をゆだねていくことは、クロード・シモンの『路面電車』の味わいにも似た、紛れもない快楽なのだ。
紙の本
相変わらずうまい
2004/07/30 10:27
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:katu - この投稿者のレビュー一覧を見る
「自分で言うのもおこがましいけれど、拙文を書物にまとめるに際して、ぜんたいのたたずまいにわりあい気を配るほうだと思う。文字の種類やポイント、頁の天地にある空白の割合、紙質と束、花布やスピンの色、カヴァーや背の表情などもできればいい加減に済ませたくないし、装幀家に依頼する場合にも、なるべく具体的な希望を伝えるようにしておきたい」と著者自らが本書の中のある一編で述べているように、この本の装幀はなかなか凝っている。本屋で手に取った時に、読みたいと思うとともに所有したいという気持ちにさせる。ちなみに装幀は、堀江敏幸+中央公論新社デザイン室。
いろいろな媒体に発表しているエッセイの寄せ集めなので、テーマも長さもまちまちだ。逆にそれがいい味になっている。堀江敏幸のエッセイ(小説もそうだが)はどうも掴みどころがないというか、はなし自体が浮遊している感じがする。浮遊している思念を両手でそっと捕まえて、優しくおにぎりをにぎるようにして作っているような、そんな感じ。
冒頭の「静かの海」は、鉄道の高架下にある正方形に近い敷地を持つ変哲もない公園のことを書いている。この公園は「四辺のひとつを環状道路が、ひとつを私鉄沿いに走る道路が、ひとつを一方通行の道路が区切り、残りの一辺は宅地を隔てるブロック塀になっている。しかもそれぞれの辺がさほど高くもない金網状のフェンスに囲まれており、外からは中が、中からは外がすっかり見て取れる」ようになっている。コピー屋代わりに使っているコンビニに行く途中にあるこの公園に著者はなぜか惹きつけられる。それは、夜の十時ごろに見たその公園があたかも月面に広がる「静かの海」に見えたからだ。
こんなふうに静かに進んでいくこの話は、その公園で夜中にフットサルをし始めた若者たちの登場によって、俄然動きが出てくる。ちょっと退屈かなと思われた話は「静かの海」での「フットサル」という異物の混入によって息吹はじめたのだ。
文章のうまさ、言葉の選び方も読んでいてため息が出るほどだ。最後の一編「鉛筆の木」の最後の部分を引く。
「十ミリ以下になった「ちび鉛筆」は、海辺で拾った貝殻みたいに、あるいは抜け落ちた真っ白な子どもの乳歯みたいに、蓋つきのガラスビンに保存しておく。老舗の定番ばかりなので、色合いも渋く、数が集まると植物の種のようだ。いつの日かそれらを、近所の公園にでも、こっそり埋めてやろうかと思っている。鉛筆の木が生えるのを夢見て。」
k@tu