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単純作業に従事する労働者マルコヴァルドさんの「自然に回帰したい」という思いが巻き起こす、春夏秋冬にちなんだユーモラスなお話。作者自身による解説で、ちらり覗かせた「自分と世界のかかわり」への真摯な問いかけ。
2009/10/06 17:13
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投稿者:中村びわ - この投稿者のレビュー一覧を見る
おそらくは、子どもの本を読む人たちよりも海外文学の愛好者たちに、より熱く強く切望されていた新版復刊の童話集。
旧版は、北海道で教員として働きながら、イタリアから原書や雑誌を取り寄せイタリア文学を研究し、成果を冊子にまとめて発信し、自身も童話を書いていた安藤美紀夫の訳で出ていた。
余談になるが、『子どもの文学100選』という本の中に、和田忠彦氏と野崎歓氏による「子どもの奪還」という対談と、和田忠彦氏の寄稿があり、そこで、安藤美紀夫がどれだけ素晴らしいイタリア文学の紹介者であったか、読まれる機会が少なくなりつつある彼の児童文学がいかに「マルコヴァルド」と響き合っているのかということが紹介されている。イタリア文学研究の先人に対する和田氏の深い敬愛が感じられ、とても感動的である。学問研究に従事する人が、先人の業績をどう受け止めながら日々の研究に励んでいくべきなのか、そういうことも考えさせられる内容が盛り込まれている。
『子どもの文学100選』には「大人に読ませたい」という言葉が添えられているが、『マルコヴァルドさんの四季』もまた、元々は共産党の機関誌に連載されていたということで、小学高学年ぐらいから大人まで楽しめる寓話集になっている。ところどころに「働く大人」「(シモーヌ・ヴェーユ風に)労働の喜びも苦しみも知る大人」の胸をチクッと突いてくる表現や設定がある。
――ああ、朝、目をひらいたときに、木の葉と空が目に飛びこんできたら、どんなにすばらしいだろう!――。マルコヴァルドさんは毎日、こんなふうに考えながら、単純作業員としての八時間の労働(プラス残業)をはじめるのでした。(P19「夏 別荘は公園のベンチ」)
――雪かきというのはたいへんな仕事です。とりわけ、すきっ腹の人には重労働といえます。ですが、マルコヴァルドさんにとって雪は友だちみたいなもので、自分を閉じこめている檻のような会社の塀を、見えなくしてくれるありがたい存在でした。(P45「冬 雪に消えた町」)
――夕方の六時、町は消費者のものとなります。昼のあいだじゅう、生産者は物をつくることに専念しています。消費財を生産するのです。そして、決まった時間になると、スイッチが切りかわったかのように生産するのをやめ、よーいドンとばかりに消費をはじめます。(P186「冬 スーパーマーケットへ行ったマルコヴァルドさん」)
カルヴィーノという作家は『くもの巣の小道』というレジスタンス落ちこぼれ少年の森の生活を書いた小説でデビューして、『魔法の庭』というリアリズムの作品もある。それが後になると、奇天烈な発想の寓話やSF風の小説、実験的な構成の小説を出し、世界的な文学者としての評価を高めた。最初の方に書かれた小説と後の方に書かれた小説、その2つの間に何かミッシング・リンクのようなものがあるように私は感じていたのだけれど、この『マルコヴァルドさんの四季』を読んでいると、「そのリンクを見つけた!」と納得が行った。
マルコヴァルドさんは、奥さんや6人もいる子どもたちを養うために働かなくてはならない一家の稼ぎ手で、快適ではない住環境やら、しんどい仕事やらにうんざりしている。そういう様子は、決して読者がうんざりするような調子では書かれていなくて、「お父さん、大変そう」とユーモアを感じられる調子になっている。
そして、マルコヴァルドさんは、ゆっくり息をつけないような都会の喧騒にもうんざりしているが、通勤途中で見つけたキノコや会社にある小さな植木、ハチやハトやウサギといった小さな生き物など、日常で触れ合えるささやかな自然や季節にひとときのファンタジーを見出しながら生活しているのである。
最初に発表された場所を考えれば、労働者たちが自分の日常を過度に深刻に受け止めないで済むよう、自分のことを客観視して自らを救い出せるきっかけを持てるような読み物を意図したのだと思える。
その視点は何も労働者に限って必要だというものではない。人間誰でも長く暮らしていけばしんどいことが日常的にある。そのため、見方を変えて自分を楽にするスイッチが皆に必要だということになろうか。
お話は、「春」「夏」「秋」「冬」が5年分繰り返されている。自然のものに惹かれるマルコヴァルドさんが、より自然に近づけるよう、自分が自然と一体化できるよう行動するのだけれども、決まってそれが台無しになってしまう。そういう流れがあって、パターンがいくつか決まったコントのような面白さのなかに、しんみりしたりほっとさせられたりする要素がある。
しかし、ある意味、一番面白いお話は、最後に加えられた、念には念を入れすぎた「作者による解説」という長い文章である。ここにマルコヴァルドさんのキャラクター設定や、作品のパターンなどの解説ばかりではなく、作者自身による文体分析、果ては執筆された時代の背景についてまで書き込まれているのである。
この「作者による解説」が付け加えられたことによって、メタフィクション化が行われたという解釈もできるかと思う。
カルヴィーノは、このお話が子ども向けか、若者向けか、大人向けかと人を食ったような自問を呈した後に、解説を次のように結んでいる。
――もしかすると、ごくシンプルな物語の構造を利用して、作者が世の中と自分自身の、とほうに暮れるほど不可解なかかわりをえがこうとしたものかもしれません。おそらく、そうともいえるでしょう。(P276)
農学者である父と植物学者である母の間に生まれ、トリノ大学で農学を専攻したカルヴィーノは、もしかすると、パルチザンの立てこもる森でも、古典と前衛が林立する文学の森でも、案外、自然人を自覚しながら「庭師として一生をまっとうしたいぜ」とか何とか夢想していたのかもしれない。
そのようにして、作家・文学者としての自分自身を枠のなかに入れて考えていたことを、このトリッキーな告解が匂わせているように私には感じられるのである。
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あるイタリア人の愛すべき不届きな生活。
2020/09/06 22:50
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投稿者:タオミチル - この投稿者のレビュー一覧を見る
物語は、1950~60年代あたりのイタリア。どこか場所は特定されないが、街は、戦後の復興・発展途上期にあって、その時代特有のざわざわごみごみとした落着かなさで満ちている。マルコヴァルトさんは、子沢山の大家族を支える大黒柱で、毎日、路面電車に乗って会社に通い、倉庫のような場所で作業員として日々淡々と仕事にいそしむ...つまり、彼は充分にまじめな一市民なのだ。
が、そのマルコヴァルドさんこそが、彼の「都会にふさわしくない目」を持つ人で、その目の端っこについ触れた虫とかキノコとかetc...をきっかけに、繰り出される珍事件。
春夏秋冬の季節ごとに細かな趣向まで凝らされて、巡る季節は5回で4×5。珍妙話は20話も収録。
読者は最初、ややシニカルなその結末にココロを痛め、そのうち、なんとなくパターンが読めてきて「マルコ...さん。そこに手を出すのは辞めておけ!今見たものはすぐ忘れろ!」などと、物語に突っ込みを入れている。
物語設定は変だが描写は豊かで美しい。だから、1話1話、けっきょくかみしめるように読み進める羽目になり、映像付きで物語世界を浮遊したかのような読後感。そして、変なおじさんマルコヴァルトさんが、ものすごくかけがえのない友人のように思えてくる不思議。すっかり、カルヴィーノの魔法にかけられました。
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馴染んでいたせいか、前に出されたときの訳者によるものの再版でなくて、少しがっかりしましたが、マルコヴァルドさんを通して見る少し不思議な世界……おすすめです。
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まずはこの表紙の腰をかがめたおっさんの何とも言えないとぼけた表情が◎です。 で、この表紙の絵やら本をパラパラとめくった時に目に入る挿絵を見る限りではどれもこれもどことなく風刺的 & おとぼけ風の印象を持ち、ほのぼの~としていつつもちょっぴりピりっと風刺が効いたお話、例えて言えば新聞なんかに掲載されている4コマ漫画的な物語を連想するわけです。 ところがどっこい、これが読んでみるとちょっと違うんですよね~。
物語のタイトルにもなっているマルコヴァルドさんはとある町(都会と言うべきか?)で会社勤めをしている中年の男性です。 会社勤めと言ってもいわゆる「ホワイトカラー系」ではなく「ブルーカラー系」の労働者です。 当然のことながら会社の廊下を風をきって颯爽と歩き、高収入を得ているタイプではなく、ま、はっきり言ってしまえば貧乏暮しを余儀なくされているおじさんです。
そしてこのマルコヴァルドさん、「貧乏子だくさん」の言葉通り、6人のお子さんを抱え、最初は半地階みたいな部屋に、次には屋根裏部屋に住むようなファッショナブルという言葉とは無縁の生活をし、言ってみればギリギリの生活を送っている生活者です。 借金まみれで家賃の滞納は当たり前、日々の食事もギリギリという生活ぶりらしい・・・・。 周りには豊かなものがいっぱいあるにも関わらず、それとは無縁の生活を送っていて、そのことに全く傷ついていないわけではないものの、基本的には「現代風」と呼ばれるものに関しては根っこの部分では興味を持っていない、ちょっと超然とした人物です。
かなりの夢想家で、四季折々の風物を愛でる溢れんばかりの心を持っているのですが、それが裏目に出て都会生活者としては失格と言えるようなドタバタ喜劇(悲劇?)を演じてしまう・・・・・そんな人物。 物語はそんなマルコヴァルドさんの「脱線物語」が20編(春夏秋冬 5回り分≒5年分)描かれています。
自然を愛する(それも観光としての自然ではなく、本来地球上に人間と共存している自然物をあるがままの存在として愛おしく思う)と言うと、現代では「人間性の回復」という言葉と一緒に語られることが多いわけだけど、マルコヴァルドさんのドタバタぶりを見ていると、単なる変人でもあり、「困ったちゃん」でもありというあたりが、この物語の最大の風刺部分なのではないかしら??
と言うのもね、この物語。 言ってみればある1つのパターンが20編全てで貫かれているんですよ。
四季折々の風物の描写
ここは瑞々しい文章で時に詩的で時に音楽的。 何とも言えない風情を醸し出します。
↓
マルコヴァルドさんが自然に触発され「変な行動」に走る
「気持ちは分からないじゃないけど・・・」と思わせられる、でも「都会人としては常識はずれ」な行動に呆気にとられます。
↓
想像以上に話が大きくなってしまいやれやれ・・・・・
「ホント困った人だねぇ」と思いつつも、彼の努力(?)はいつも報われず、そんなマルコヴァルドさんのことをカラカラとは笑えなくて、そ��に何かしらの「哀しみ」みたいなものを感じます。
というパターンです。 著者のカルヴィーノも解説文の中で、このマルコヴァルドさんの物語のことをこんな風にまとめています。
大都会のまんなかで、マルコヴァルドさんは、
1. 身のまわりのできごとや、動物や植物など生きもののかすかな気配に、季節のおとずれを感じとる。
2. 自然のままの姿にもどることを夢見る。
3. 最後には、決まってがっかりさせられる。
そしてそんな物語20編を読了した時にふと思うのは、これってかなりデフォルメされてはいるけれど、現代の日本にも通じる部分がある物語だよなぁ・・・・・ということです。
つまり、マルコヴァルドさんは、都会の暮らしにどこか居心地の悪さを感じていて、自然への憧れを持った人物なわけです。 でも、自然に帰ろうとすると必ず失敗してしまう可愛そうな人でもあります。 そんなマルコヴァルドさんの姿に垣間見えるのは「都会人というのは、マルコヴァルドさんと同じように、田舎に憧れてはいるけれど、実際には田舎では暮らせない人」のことを言うのかもしれない・・・・・という現実だったりするわけです。
「夏、別荘は公園のベンチ」を読むと、自然に憧れるマルコヴァルドさんが、都会生活の中で手に入れられる自然というのは結局のところ「都会の真ん中の公園」、つまりは人工的に作られた自然でしかないことが描かれています。 そんな姿に都会生活に疲れはじめた頃、「六義園」とか「新宿御苑」とか「後楽園」を徘徊していた我が身がダブリます。
又、「別の夏、牛とすごした夏休み」を読むと、都会の労働者が皆、同じような時刻に一斉に目覚まし時計でたたき起こされ、寝ぼけ眼のまま朝食をかっこみ、満員電車に揺られて同じ方向に向かって民族の大移動を始め、「相手のわき腹をひじでおしあいながら」前へ前へと進んでいく様子が描写されます。 これを読んでいる時、KiKi は随分昔、新宿駅で感じた「こんなに多くの人が脇目も振らず同じ方向にまるでベルト・コンベアに乗せられた部品の如くに動いているのって、ひょっとしたら変なことなんじゃないか?」という想いを、そして、その延長線上に今のLothlórien_山小舎生活があることを思い出させられました。
都市生活、文明社会、資本主義社会、拝金主義等々を揶揄しながらも、そこに何とも言えない優しいまなざしを注いでいるカルヴィーノの文章に、ある種の達観を感じつつ、「人間が生きている現代」「都会の中にもある自然」を感じ、一つ一つの短編をじっくりと味わうことのできた読書でした。 良書だと思います。 もっともこれ、子供向きの本かどうかはちょっとビミョーなところかもしれません。 少なくともさわやかな読後感、未来への希望というよりは、人生の現実・悲哀みたいなものがかなり表に出ちゃっているので・・・・・。
でも、この年齢になった KiKi が読むと「自然」と「文明」の狭間の中で、飄々ともがいている(って変な日本語ですけど)マルコヴァルドさんの姿に、何とはなしに親近感を覚えてしまうんですよね~。 マルコヴァルドさん、都会で暮らしていた時代には決してお友達になれそうもなかった人物だけ��、今の KiKi ならそれなりに仲良くできるかも・・・・・・(?)しれません。
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子だくさんで、半地階に住み、会社と家との往復で生活に疲れきっているようなマルコヴァルドさん。そんなくたびれた中年男にも自然の四季折々はいくばくかの潤いをもたらしてくれる。真面目な気持ちで読んでいると、ずっこけてしまう。それはないだろうというオチが待っている。しかし・・・これって子どもの読む本かなぁ、首を傾げたくなる。大人の私にはそこそこ楽しめるけれど。
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かなり昔に読んで、児童書にしては暗い本だと思っていたが、今再び読み返すと、その暗い部分の意味がよく分かるだけになおさらやりきれない気持ちになる。文学的にはもっと高い評価をしてもいいと思うが、一筋の希望も見えない話は、やはり面白いとは言い難いので星は3つにしておく。もう少しユーモアのある風刺なら救われるのに…。しかし、カルヴィーノは大好き。
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こないだ読んだ『マルコヴァルドさんの四季』は安藤美紀夫訳だった。ふと、訳者違いの版違いが出てるのを見つけて、図書館で借りてきて、またマルコヴァルドさんの話を読む。この新版は関口英子訳。
表紙カバーに使われている絵は違うが、イラストはかわらずセルジョ・トーファノ。
新版には、作者のカルヴィーノ自身による解説もおさめられていて、それを読んで、マルコヴァルドさんのお話は最初に書かれたものが1952年(60年前!)で、最後のは1963年に書かれたということも知る。もう半世紀前のイタリアで書かれた話が、どこか今の日本社会を思わせる。
▼マルコヴァルドさんは、数多くの失敗を経験しながらも、けっして悲観的になることはありません。彼に敵意をいだいているようにも見える世界のなかで、自分らしさを感じることのできる世界につながるぬけ道を見つけようという心を忘れないのです。なにがあってもあきらめず、ふたたび挑戦する心の準備が、いつだってできています。
…(中略)…
世の中のできごとや状況にたいしては、ものすごく批判的なまなざしをむけながら、人情にあふれた人びとや、あらゆる生命のきざしにたいしては好意にみちたまなざしをむける…そんな、身のまわりの世界をながめるときのマルコヴァルドさんのまなざしにこそ、この本の教訓があるといえるのかもしれません。(pp.271-272、作者による解説)
おもしろいところはいろいろあるが、もう一度読んでもおもしろかったのは「がんこなネコたちの住む庭」の秋の話。昼休みのあとの時間つぶしに、ネコのあとをつけて歩くマルコヴァルドさん。ネコの目を通していろいろな場所を観察すると、「見なれたはずの会社のまわりの風景に、いつもとちがったライトがあたっているように」感じられる。おまけにマルコヴァルドさんは、ネコの背丈になって、つまりはよつんばいになって、ネコのあとをついて歩いたりするのだ。
イタリアの大都会の真ん中に住んでるというマルコヴァルドさんは、ぎんぎんに都会的なものには目もくれず(まったく目に入らないらしい)、しかし、木の枝で黄色くなった葉っぱや、屋根瓦にひっかかっている鳥の羽根、馬の背にまとわりつくアブ、テーブルにあいた木くい虫のANA、歩道にはりついているイチジクの皮…などは見逃さない。
都会の野蛮人のようなマルコヴァルドさんの話を読んでると、マルコヴァルドさんとはちょっと違うけれど、『隅田川のエジソン』とか、『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』なんかを、むらむらとまた読みたくなるのだった。
(7/8了)
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ファンタジー以外の児童書は滅多に読まないのだけれど、
児童文学作家の先生が描写がすごい本として挙げていて、読んでみた。
裏表紙の解説を読んで、抒情的なもっとウェットな内容を想像していたけれどとんでもない。
都会の中の自然や、季節のうつろいや音・色・香りなどに対する描写は確かに素晴らしい。
でもそれ以上に現代社会への皮肉が壮絶にこめられていて、読んでいて始終にやにやしてしまう。
子供と大人で楽しみ方が全く変わる作品だと思う。
マルコヴァルドさんやその一家が結構悪いことをするので
(それらもコミカルにユーモアたっぷりに描かれていて大変面白いが)
なかなか日本では出せない作品だなあと感じる。
他の方も書かれていたけど、これを少年文庫にいれる岩波はすごいと思った。その内容の普遍性と言い、描写の美しさと言い、実はかなり文学性の高い作品だと思う。
表紙・挿絵もとても合っていて素敵な本。
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50年ほど前に書かれたイタリアの姿。でも現在にもいまだよくある光景がそこにある。時代差を感じる部分は、マルコヴァルドさんの貧しさくらいか。職を持っている人がなかなか食べていけないほど今の先進国は深刻ではないのではないかと思うくらいか。都市のなかで視点を変えて暮らすほのぼのとした一面があって良書であった。
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思っていたのと違って、すごく考えさせられる内容だった。
小さい頃読んでいたら、純粋に楽しい話で、裏の世界は見えなかったと思うけど、色々考えてしまうあたり、自分が大人になってしまったんだなーと思って、少し寂しくもあり・・・
でも、いい作家を知れてよかった!
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カルヴィーノの作品は邦訳あるものは殆ど全部読んでたつもりだった。もしかしてカルヴィーノのファンと言っていいかもしれない。幾つかのものは再読すらしているから。「くもの巣の小道」は自分の楽しみのために、「冬の夜一人の旅人が」は若い友人に勧めるために。
しかしこれは未読だった。半世紀以上も馬齢を重ねていれば大概の小説とインド映画の筋は忘れてしまうのだが、児童向小説は比較的記憶から抜け落ちることがない。そしてこの「マルコヴァウドさんの四季」は児童向小説なのである。
子供のために書かれたからと言って、決して楽しい小説ではない。主人公のマルコヴァルドさんはトリーノを思わす工業都市に暮らす労働者だが、かれと4人の家族が惹き起こす騒動に語り手は決して同情的ではない。かれらの愚行に対する冷ややかな距離感が、全篇に独自のペーソスを行き渡らせている。
面白いのは、マルコヴァルド一家の愚行が、ほとんどの場合食べ物に対する欲望によって惹き起こされていることである。飢餓がかれらを愚行に走らせているのではない。かれらはそれなりには満ち足りているのだが、終始美味いものへの欲求があり、それが虚栄心を刺激してやまないのである。
この作品は20の短篇から成っており、5つごとに春夏秋冬に振り分けられているが、それらが厳密に時系列上に並んでいるわけではない。たぶんこの区分は上記のような「美食への渇望」を導入するために設けられたものであろう。
しかしこの小説では美食が事細かに描写されるわけではない。欲望の対象となる「美味いもの」は漠然とフンギのフリッターとかチェルヴェッラとか(チェルヴェッラというのは豚のセルヴェッソから作った腸詰めのこと)ウサギのローストとか書かれているだけである。マルコヴァルド一家がこれらにありつくことは決してないからである。
カルヴィーノには左翼的傾向があるからこの中に資本主義批判を読み取る者があっても無理ないことに違いない。しかし食いしん坊の間では消費への欲求は容易に美食への渇望へと置換される。カルヴィーノもまた自らの(胃の)中に同様の変換装置を共有していたのであろう。だからこそこれらの物語はかほども悲しいのである。同じ胃の持ち主である私にはそれがよく分かる。
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都会のまんなかに暮らしながらも、心うばわれるのは、季節のおとずれや生きものの気配。大家族を養うため、家と会社のあいだを行き来するマルコヴァルドさんのとっぴな行動とユーモラスな空想の世界が、現代社会のありようを映しだします。
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2020.8
ユーモアの中にも悲哀があり、ほっこりするかと思えばかわされ。現実と別世界のあいまいな感じ。世の中のバカらしさ。世知辛い。でも一生懸命。
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自然を愛でることが得意(というより現実逃避が上手い?)な貧乏子沢山のマルコヴァルドさん
児童文学の顔しながらそのじつ随所に散りばめられた皮肉とブラックユーモアに大人も楽しめるお話たち
一話が短いし繋がりもほとんどないので気が向いたときに一話、また一話と気軽に読みすすめられる
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ちょっとシュールな現代童話、といった印象。ただただ現代童話にありがちなシニカルさに偏ってばかりではなく、ひねりを効かせた笑いあり、都会ならではの物悲しさあり、「意味怖」的な話もあり…それらが豊かな描写で描き出される。後半には、今に通ずる社会問題を取り上げた話もあり、物語とは別のところでドキリとしたり…。幅広い年代で、それぞれの視点で読める良書だと思う。