紙の本
コミュニズムの命運。
2010/09/13 13:56
5人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ソネアキラ - この投稿者のレビュー一覧を見る
社会主義国家はほとんどが崩落したが、それは共産主義の敗北なのだろうか。共産主義(マルクス主義)は死んだのだろうか。否!と作者は言い、「勝ち誇ったグローバル資本主義」や「リベラル民主主義がしているような、道徳を押しつける脅しの時代は、もうおしまいだ」などいつものように饒舌に、ハート&ネグリの引用など、あちこち飛びながら、「コミュニズムの概念の復活」を試みている。
どうなんだろ。共産主義については個人的に外堀から攻めてはいるが、なかなかつながらない。ゾンビではないと思うが。
「現代はことあるごとにポスト・イデオロギーの時代であることを標榜しているが、このイデオロギーの否定こそ、われわれがかつてないほどイデオロギーに組み入れられていることの決定的証拠である。イデオロギーはつねに格闘の場-とりわけ過去の伝統を現在に帰属させる闘いの場だ」
関係ないかもしれないが、「ポスト○○○」っていうと、字面はカッコいいが、よーく考えると実態は案外空疎だったりする。原題は副題の方。太宰治の『人間失格』に悲劇的なものを「トラ」(トラジディーの略)と喜劇的なもの「コメ」(コメディーの略)に分類するお遊びが出てくる。当事者にとっての悲劇は第三者にとって喜劇とかいうが、そういうことなのか。
「ハートとネグリが「コモンズ」と呼ぶもの、-略-これを私有化することは暴力行為に等しく、いざとなればやはり暴力をもってしてでも抵抗しなくてはならない」
「目には目を」か。このあたりはジジェクは勇ましい。戦後の闇市マーケットにジープで乗り込んで縄を張って囲い込みする暴力団をイメージするが。
作者曰く「3つのコモンズ」があると。
「文化のコモンズ -略-主には言語すなわちコミュニケーションと教育の手段。公共交通、電気、郵便などのインフラもこれにあたる」
「外的自然のコモンズ 公害や乱開発に脅かされている石油から熱帯雨林、自然環境そのものまで」
「内的自然のコモンズ 人類が生物として受け継ぐ遺産。新しい遺伝子工学により、文字どおりの意味で人間性が変化した「新人類」の創出が、現実味を帯びてきている」
3番目のコモンズ、映画『ガタカ』あたりを引き合いにすりゃいいのに。コモンズと共産主義を意味するコミュニズム、ラップのリリックにすれば頭韻だし、改めて意味的にも似ている。
で、マルクスの「物象化」の重要性を訴えている。
「現代の資本主義では、客観的な市場の「物と物との関係」は偽りの人格化をほどこされた「人と人との関係」という形で現れがちである、と。そしてハートとネグリはこの罠に陥ったように見える。彼らが直接の「生の生産」と称揚するものはこの種の構造的な幻想なのである」
「しかし「人と人との関係」が「物と物との関係」に置き換わることの「疎外化」作用をむやみに嘆く前に、そこに解放化という逆の効果もあることを明記したい。「物と物との関係」へのフェティシズム的置換によって、フェティシズムの対象ではなくなった「人と人との関係は、「形式的」自由と自律を得られるのだ」
んーん、この言い回しがジジェクなんだけど。まだうまく咀嚼できない。「泣くのはイヤだ、笑っちゃおう」(by「ひょっこりひょうたん島」)ってことかも。廣松渉はこの「物象化」を「関係論的パースペクティブ」と見なし、つまり労働者個人じゃなくって「社会的関係」に着目して独自の哲学を構築した。
共産主義という言葉は古びてしまったとするなら、いっそのことハートとネグリの提唱する「マルチチュード」と改名してもよいかもしれない。でも、その実態は古びてはいない。
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現代に残るマルクシスト、ジジェクによる現代社会論。ラカン、マルクス、フロイトなどの理論を駆使して現代のリベラル民主主義を批判し、共産主義への歩み寄りを求める(回帰、ではないだろう。結果的にそうなる可能性はあるけれども)。やっぱヨーロッパ系の論文は読みにくい。。そして、マルクシストには、やはり本能的に拒否感が出る。別にジジェクが誤ったことを言っているようには思えないが…。
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カントは伝統的な金言、考えるな、従えに反対するに際し、従うな、考えよを対地した。
無意味に怒りをあらわにするのではなく、怒りをコントロールして思考する冷徹な決意に変換することだ。すなわち真にラディカルに思考し、このような脅迫が王孝する社会とはどういうことかと問わなければならない。
合理的な問題には技術的な解決策があるというのは露骨な誤った主張である。
キリスト教原理主義の終末論は、ひどくばかげていて危険な内容だが、過激な千年王国論の解法論理と大差のないものにとどまっている。だからコンゴの課題はキリスト教原理主義を非宗教えころじずむに接近させ、絶滅の脅威をラディカルで開放的な再生への契機とすることだ。
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[ 内容 ]
二十世紀末に「歴史は終わった」と高笑いしたリベラル民主主義の時代はこの十年で終わったはずだった。
だが彼らはいまだ危機をあおってわれわれを欺こうとしている。
今こそ資本主義イデオロギーの限界と虚妄を白日の下にさらし、世界を真に変革へ導く行動原理を、まったく新しいコミュニズムを語らねばならない―。
闘う思想家ジジェクが、この十年の混迷を分析。
二十一世紀を生き抜くための新しい革命思想を問う。
[ 目次 ]
最初の十年の教訓
第1部 肝心なのはイデオロギーなんだよ、まぬけ!(資本主義的社会主義?;ショック療法としての危機;敵性プロパガンダの構造;人間的な、あまりに人間的な;資本主義の「新たな精神」 ほか)
第2部 コミュニズム仮説(新時代の共有地囲い込み;社会主義かコミュニズムか?;「理性の公的使用」;ハイチにて;資本主義の例外 ほか)
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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経済危機の本質を、コミュニズム思想の観点から詳細に分析。
うわー難しそう。
今回の危機の失敗は、強欲な経営者が自分の利益を追求するあまり、ハイリスクな金融商品に手を広げまくったせいだという説明がある。危機は例外なのであり、資本システム自体に揺らぎはない、と。
でも、本来、資本主義は強欲を許容するシステムだ。
下々の人たちは選択の自由もないのに自由を謳歌しているように生きよと強制されるのだし、市場に参入する人たちは自分の選択よりも他人が何を選ぶかということを予想しながらゲームに参加している。資本主義は夢じゃなくて、そういうシステムなのである。
右も左も元気を失っている。
時代はどこに向かうのかねぇ、と。
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この顔、この文、この思想。ジジェクは確かに革命的存在だ。「プロレタリア団結」などという、ちょっといまさら恥ずかしくて言えないようなことを、論証の上に正当性を主張し、改めて宣言するのである。
熱い。その面構えよろしくとにかく熱い。「社会主義は失敗し、資本主義は破錠した。次はコミュニズムだ。」グローバル市場資本主義を徹底的に、挑発的に、共産主義的に攻撃する。「闘う思想家」の異名は伊達ではない。
嗚呼それはラカンの構え、マルクスの肉体。まずは右ストレート、資本主義がイデオロギーだと思っていない、ユートピアな盲目人に畳みかける。そして左ストレート、資本主義が破錠と犠牲を前提としたシステムであることを叩きこむ。「資本主義は自然の摂理に近いものだし、犠牲は正当なのだ!」「資本主義には循環システムがあり、自浄作用がある。いつかは幸福をもたらす!」というビッグ・ブラザー・チルドレンには、目覚まし代わりにと、また右ストレートが飛んでくる。
敵がひるんだら、敵とおそらく傍観者であろうラカン曰くの≪彷徨える騙されない者達≫(思想など≪幻想≫が現実社会と何のかかわりもないと思ってる人達)に一言罵声「肝心なのはイデオロギーなんだよ、まぬけ!」。人はイデオロギーから逃れられない存在なのであり、したがって、どんなイデオロギーを設定するかということこそより根本的なテーマであるという。
後半戦はいよいよコミュニズムを仮説する。下部構造に根差したシステムを求め、カントを渡ってヘーゲルへ。革命的一打とは何かを模索する。ジジェクは悟る。(本では繰り返し言ってるが)今しかないと。革命は歴史の裂け目にこそ生じ、そして消える運命にある。しかし、革命が起こったという事実がもたらす影響力は後世にわたって残るものだ。しかも今回の裂け目はグローバルな射程を備える。準備は整った。
「全国のプロレタリアートよ、団結せよ。」
と、いうように、とにかく文章全体非常に勢いが有るわけだが、あまり簡単な文章ではない。社会学部にいて、しかも思想系のゼミにいるので多少はついて行けるものの(ハーバーマス読んだし!)、新書にしては手ごたえバリバリである。ラカンなんかわカランし。
しかし「真に偉大な哲学者を前に問われるべきは、この哲学者が何をまだ教えてくれるのか、彼の哲学にどのような意味があるかでなく、逆に、われわれのいる現状がその哲学者の目にはどう映るか、この時代が彼の思想にはどう見えるか、なのである。」と言うように、思想を通じた彼の現代批評は実に生き生きとしている。(何せ目標が革命なのだから。しかし、この生命力こそ現代社会に対するより本質的な批判ともなろう。)これなら勉強して読み返そうかという気にもなる。難しいなりに大衆性がある。さすが革命家。
マルクスが流行ったり、クラシックロックが流行ったり、「あの60年代」が降りてきたよう。変な時代に学生できてんのかな?と思ったり。
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J.P.デュピュイの「プロジェクトの時間」 -2011.05.10記
過去と未来の閉じた回路である時間-未来はわれわれの過去の行為から偶然に生み出されるが、その一方で、われわれの行為のありかたは、未来への期待とその期待への反応によって決まるのである。
「大惨事は運命として未来に組み込まれている。それは確かなことだ。だが同時に、偶発的な事故でもある。つまり、たとえ前未来においては必然に見えていても、起こるはずはなかった、ということだ。‥‥たとえば、大災害のような突出した出来事がもし起これば、それは起こるはずはなかったのに起こったのだ。にもかかわらず、起こらないうちは、その出来事は不可避なことではない。したがって、出来事が現実になること-それが起こったという事実こそが、遡及的にその必然性を生み出しているのだ。」
もしも-偶然に-ある出来事が起こると、そのことが不可避であったように見せる、それに先立つ出来事の連鎖が生み出される。物事の根底にひそむ必然性が、様相の偶然の戯れによって現われる、というような陳腐なことではなく、これこそ‥‥偶然と必然のヘ-ゲル的弁証法なのである。この意味で、人間は運命に決定づけられていながらも、おのれ‥‥の運命を自由に選べる‥‥のだ。
環境危機に対しても、このようにアプロ-チすべきだと、デュピュイはいう。
大惨事の起こる可能性を「現実的」に見積もるのではなく、厳密にヘ-ゲル的な意味で<大文字の運命>として受け容れるべきである-もしも大惨事が起こったら、実際に起こるより前にそのことは決まっていたのだと言えるように。
このように<運命>と-「もし」を阻む-自由な行為とは密接に関係している。自由とは、もっと根源的な次元において、自らの<運命>を変える自由なのだ。
つまりこれがデュピュイの提唱する破局への対処法である。まずそれが運命であると、不可避のこととして受けとめ、そしてそこへ身を置いて、その観点から-未来から見た-過去へ遡って、今日のわれわれの行動についての事実と反する可能性-「これこれをしておいたら、いま陥っている破局は起こらなかっただろうに!」-を挿入することだ。
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哲学に慣れ親しんでいない私にとってはちょっと難解。だが、今回の金融危機などの事柄をシステムの限界、法規制があまいなどの事柄でなく、歴史の中を振り返りあえてコミュニズムを指摘するところに著者の視点の鋭さが伺える。
しかしソ連が崩壊して20年経った今社会主義の敗北、ということだけでなく、そこから新たなことを学び再生する時期に来ているというのは確かだ。
中国にしろ中東にしろ様々な形態の”資本主義”が世界には溢れている。IMFのあまりにも乱暴な処方箋が必ずしも効果を上げないのはもはや周知である。未来を見通し、そして行動すべき、行動とは知識ではなく信じることからという言葉には感動した。
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民主主義と資本主義の現在のあり方を鋭く考察し、現代においてわれわれが取るべき新しい道の一つを示してくれる一冊。彼はその道をコミュニズム、すなわち共産主義と呼ぶ。ロボットのように働かされる日本のプロレタリアート(知的労働者も含めて)の状況に立つわれわれにとっては、彼の論述はとても心に響くはずだ。それに賛同するかしないかは別として。
ジジェクらしい、皮肉ってかっこつけたような言い回しが多く、言い換えが繰り返されるが、彼の言いたい事はよく伝わってくる。今の資本主義がわれわれとわれわれの社会にどのような効果をもたらし、それが今までのそれとどのように違っているのか。また、それが内包する問題に立ち向かおうとする者は、今日どのようなやりかたでそれと対峙しなければならないか。
特に、第八章の中の「革命の契機となる敵対性」で非常に重要なことが指摘されている。ネタバレをするわけにはいかないが、現代を生きるわれわれが資本主義を全く信じており、左派の批判が社会を脅かさない程度でしか行われないまま、即ち今のまま行けば、「すべてを失う危険にさらされている」ということである。
この「すべて」が意味するところは何か。それはこの本を読んで確認して欲しい。
ジジェクはイデオロギーについて語った。それは根本的で、理解する価値が十二分にあるものだ。われわれは次に、価値について考えなければならないだろう。われわれがジジェクの突く問題点を、なぜ問題だと思うのか。なぜジジェクの提示するイデオロギーに心動かされるのか。ジジェクはもう一度やれ、もう一度失敗しろ、但し前よりうまく、とベケットから引用しているが、われわれがそれにトライする価値は、意義はどこにあるのか。ジジェクの考察だけでは不十分である。われわれがわれわれ自身で考え、われわれの道を取らねばならない。ジジェクの叙述は、その重要な一助となるだろう。
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ラカン、ヘーゲルなどの理論が説明なしにぽこぽこ使われるので、読んでいないとやや理解し辛いけれど、内容はシンプルで、真っ当な事を言っているとは思った。
一貫して何かを証明する。と言うよりは、章立ての中で資本主義の批判を並べて行くと言った感じでした。
中でも言っている様に、資本主義は前提でもないし、特権を持つ人がたくさんいて、弊害も多いのは分かっているけれど目を瞑っていたり、信じている部分があって。
こんなにも真っ向から批判する話も聞かないので快い感じはありました。
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著者・ジジェク(http://www.egs.edu/faculty/slavoj-zizek/biography/)の名を知る人は多いと思います。日本国内ではさほど多くの訳書が出版されているわけではないので、こうした新書の形で手に取りやすくなっているのは嬉しい限りです。
実際、私自身もジジェクの名前を目にするようになったのは、ル・モンド・ディプロマティーク(http://www.diplo.jp/)や政治学関連の書籍を読む中で目にする程度でしたので、彼の立ち位置を知っていながら思想には触れていないなんともふわついた状態だったのです。そんな奇妙なふわつき感をなくそうかと手にとってみたのでした。
一度の読了では、噛み砕けたいえず無理やり咀嚼したばかりに消化不良を起こしている状態に近いと思います。彼自身が創りだした世界を捉える比喩や言葉は難しいので、他の著作を繰り返し読み、他の書籍も読みながら世界観全体を把握しておく必要があります。一方で、議会制民主主義に感じる限界には以前から感じていたことですし、『21世紀のマルクス主義』(http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1729286683&owner_id=320755)で語られていた佐々木力氏のコミュニズムとは違った捉え方もあり、冒頭に記述した世界を捉える新しい視点の必要性はより具体的に把握できたように思えます。
アメリカ帝国主義への冷徹な批判は、グローバルな市場での活動を是とする巨大な体制につながる経済活動下で生きる私達自身に反省と自戒を求める文章であるようにも思えます。現在の私たちが資本主義を維持するために聞き、言葉する言い訳が、実は私自身がソ連邦崩壊時にソビエトに向けていた言葉と同じであることを痛烈に指摘するのは資本主義を外側から見れる人だからこその文章だと思います。
訳文そのものに原文を訳しきれておらず、日本語に意訳していくのが困難な作業だったのではないかと察することのできる文章が多くありますので、独特の表現がダイレクトに文字になっている部分もあります。そのため、「大文字の概念」「シニフィアン」など、この本を読む前に彼の用語を知っておければより深く落とし込めると思える瞬間もあり、そのつど立ち止まりそうになりましたが、無理して走りきってしまいました。時間を置いて、2回目、3回目と反復して読みなおしていけば、より理解が深まるとも思いました。コミュニズムへの視点が前よりも開けたと感じられる本です。
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訳:栗原百代、原書名:FIRST AS TRAGEDY,THEN AS FARCE(Zizek,Slavoj)
最初の十年の教訓◆肝心なのはイデオロギーなんだよ、まぬけ!◆資本主義的社会主義?◆ショック療法としての危機◆敵性プロパガンダの構造◆人間的な、あまりに人間的な◆資本主義の「新たな精神」◆ふたつのフェティシズムのはざまで◆コミュニズムよ、もう一度!◆コミュニズム仮説◆新時代の共有地囲い込み◆社会主義かコミュニズムか?◆「理性の公的使用」◆ハイチにて◆資本主義の例外◆アジア的価値観をもつ資本主義…ただしヨーロッパで◆利潤から超過利潤へ◆「われわれこそ、われわれが待ち望んでいた存在である」
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ベルリンの壁崩壊は民主主義と資本主義のユートピア幻想に世界を突入させたが、9.11とリーマンショックはその終焉だった。歴史は繰り返すというヘーゲルをもじってマルクスは「はじめは悲劇として、二度めは笑劇」としてと唱えた。
いまのわれわれには科学と自然の終末観がこれに加えられるはずだ。笑劇を装った歴史の反復は、はじめの悲劇より恐ろしいこともある。これはベンヤミン。
ともかく、現代資本主義(民主主義)を徹底的にやっつける手際は痛快爆笑の連続で、棒線と付箋でいっぱいになった。個別問題についての思考のレッスンが必要だろう。
ラカン派マルクス主義と称されるがドイツ観念論への造詣も深い。
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生存と正義は次元が異なる。
ホントそうだよなぁ~
2回読んだけど難しいなぁ~
でもなんか面白いんだよな。
ラカンさんが読みたくなった。
Mahalo
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・選択する主体は常に、自分は何者なのかと問われ続ける。だが自分が何者であるかなど本来誰にも分からない。
・肝心なのはイデオロギーなんだよ、マヌケ!