紙の本
かっこよく盛り上がれそうなうんちく満載
2013/01/16 23:23
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:もんきち - この投稿者のレビュー一覧を見る
ヤンキー先生が国会議員になってしまうこの時代、本書にある「ヤンキーネタはどこで披露してもハズレなし」と言う言葉はかなりリアリティがあります。特に、あちこちで見かけるいろんなもの、話題になってるあの人を片っ端から「ヤンキー的」とか、「一見ヤンキー的でも実は違う」なんていうしゃべるとウケそうな話題が満載です。しかも、著者の経歴に見合った精神分析的な展開もあって、頭よさそう度もアップしそう。
著者が好きな人は「オモシレー」とすごく評価しているようですが、個人的には分析と言う視点で物足りないので評価は低めにさせてもらいました。読み通して感じたのは、あれやこれやがヤンキー的なのではなく、もともとある「素地」をヤンキーがストレートに反映しているのだろうなあ、と言うこと。そんなことを考えさせてくれるのだから、やっぱり良い本なのかもしれませんね。
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反知性主義の集団主義
そして母性的
相容れる事がない理由が少し分かったような気がする。ヤンキー性。
そんな中、オタクとの親和性を語っている所が面白かったと思う。
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ヤンキー、というものについての語り。
ヤンキーについての語るなら、どうしてもユーモアを孕まざるを得ないだろう。筆者のユーモアと真面目な考察がバランスよく、あっというまに読んでしまった。
フェイク、作られた偽の「伝統」、気合とアゲ、家族仲間思いでマザコン、やたら熱い正義感、ファンシーグッズ。確かに、ヤンキーは女性的だ。
個人的なことだが、これを読んで様々な謎が氷解した。。。なぜ私は、かくも相田みつを憎んでいるのか。説教くさい歌詞や泣かせ邦画や、頑張れば出来るとか夢は叶うとかいう言葉が嫌いなのか。全てはそのヤンキー臭が、私に激しい嫌悪を催させるのだ。
そもそも、私ぐらい、気合に乏しい人間もいないだろうが、でもそれでよかったのだ。私はヤンキーを嫌悪する側の日本人なのだ。
そして、ヤンキーを無視できず、過剰に反発するあたりもまた、私がベタな日本人である証拠なのかもしれない。
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著者は冒頭でこの本について「美学としてのヤンキー」について語るとしているのだが、その「ヤンキー」及び「ヤンキー的」なるものについての定義が今一つ確定していなくて、「不良文化」と「ヤンキー」は別のものとして扱うとしながら、その差異が判らず、「ギャル」や「チーマー」等についても「ヤンキー」から「オタク」への軸線上にあるのか、それらは二次元的に分散しているのかが掴み難いために甚だ座り心地が良くなかった。
日本人の多くがヤンキー的特性を好む傾向にあることは、なるほどと納得いくのだがヤンキー的特性を好まない人々と好む人々にどのような差があるのかとかを考察してくれると面白かったかも知れない。
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日本のマジョリティな考え方は、ヤンキー思想によって成り立っていることは、「ヤンキー進化論」や「ギャルとギャル男の文化人類学」といった本で論じられてきた。ただ、精神分析の手法で読み解かれたのは初めてではないか。とても面白い。
ヤンキーのファッションや言動にあるキャラ設定の重要性、繋がりを大事にするヤンキーは母性的であること、終わりなき学園生活を元にしたファンタジー性などから、ヤンキー文化の換喩性を見出していく。さらには古事記の中にあった、終わりなく生成される次の生成のイメージやいきほひ、にまで遡っていく。
確かに、穢れから禊を済ませた人は英雄である、という考え方は深く根付いている。これは真面目な経歴を持つ人よりも元ヤンキーの方が支持される傾向にあることからも分かる。
昨年のサマーソニックでX JAPANを観た時に、日本人には暗黙的にヤンキーカルチャーの文脈が通じることが分かった。外国の人はポカンとしていたし。文化論としてはなんとなく分かっていたが、精神分析によって、その文脈の源流がどこにあるのか読み解かれていく様は本当に面白かった。
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日本文化に根付く「ヤンキー的なもの」についての、音楽・マンガ・古典・芸能にまで及ぶ膨大な知見には、「精神科医かつ文化人」たる筆者の深い洞察が垣間見える。相田みつをと木村拓哉をつなぐヤンキー性、精神分析の視点から見た「ヤンキー性の持つ本質的な母性性」など、いくつもうなづけることあり。
しかし、その反面、話がやたらと飛んだり、結論を先延ばしにして、結局後で十分な議論のないまま終わっていたり、消化不良な側面も多い。
著名人に関する「表面的な』分析は、精神分析かつ臨床家として的確な一面もあると思うが、本質的にヤンキー的なものと交わらない筆者にとって、一種の道化の対象としてシニカルに表現され尽くしている感も否めない。ナンシー関やマツコデラックスならそれで良いのかもしれないが、ちょっと臨床家としてどうなのか、と批判したくなる部分もある。
本作品の中で、最も面白かったのは、ヤンキー文化はは本質的に家族主義で関係性を重視し、切断する父性ではなくつなぐ母性を本質としている点。上下関係を重んじるタテ社会のなかでも、ヤンキー文化は理念やルールとは別の形で結びついた人間関係を基本としている面で女性的であるとする。対極にあるのは、規律と原理を重んじるカルトやファシズムの持つ男性性であると。
これを読んで思ったのは、AKB48の持つ「原理と規則」である。
少女たちは、推しによる人気至上主義、という原理と「恋愛禁止」などの規則によって個人としては規律化されている。しかし、そもそもが、アイドルとファンの関係性、また、彼女らが必要以上に友情を押し売りする演技性の体質、などにヤンキー文化的スパイスが垣間見える。
この、男性的な枠組みの中に見えるヤンキー性の融合が、最新の文化的到達点と言えるのではないか、ということ。ジャニーズのような単なるヤンキー文化だけではない点が新しいということか?
一方で、私は、橋本治が述べる「サブカルチャーは通過儀礼である」という言葉にも深く同意している。ポップカルチャーの世界に生きている人にとっては、いくつになってもこのシステムはすんなり受け入れられるものなのだろうが、オタク・ヤンキー文化の両面とも「通過儀礼」として「過去化」してしまった人間にとって、どれほどの意味を持つのだろうか?ありきたりの言葉ではジュネレーションギャップだが、もはや生物学的な意味での「ジェネレーション」ではないだろう。
相田みつをや木村拓哉を通過儀礼として、少なくとも個人的には消化してしまった人に取って、形を変えて新しく出現してくる「ヤンキー的なもの」や「オタク的なもの」は、もはや意味を持たない。
筆者の論調で言えば、橋下徹を支持する人の多さを考えても、「日本人の大半はヤンキー的なものを望み、求めている」のかもしれないが、一方で斎藤環は「僕は違うけどね」とも言ってるわけだ。これはずるい。その点こそ、議論して欲しいところだ。
文化の消費、効率化、媒体としての利便化。
文化を楽しむには、面倒くさい道筋が必要である、または必要そうに見えること。本来、資本主義とは別の��路で動いていること。
ヤンキーと江戸っ子の違い。伝統芸能を時代にあったものに変えて行くために、文化の担い手たちが行っている努力。
私は、この書物を通して、むしろそういう純粋培養されているものの現在と未来の姿を想像するようになった。
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私がなんとなく嫌悪していたもの(自民党、坂本龍馬、キムタク、EXILE、相田みつを等々)全てに共通点があった(そうか!俺はヤンキーが嫌いなんだ!)というのは、「己が何者か?」がわかったというか、自分のポジションが明確化して非常にスッキリした感じがする。それにしてもヴィトンがヤンキーってのはわからないでもないけど、ディズニー・サンリオまでもがヤンキーとは(言われてみればそうかな?って気もしないでもないが)
「これらには規範も本質的な価値観も、系統的な教義もない。ポエムはあっても文学性はなく、自立主義はあるが個人主義はなく、おまけにバッドセンスで反知性主義ですらある」とリベラルなインテリ医師がヤンキー文化なるものを厳しく糾弾するのは痛快ですらある。
但し、これだけ嫌悪しているヤンキー文化だが、無意識に部分的には受け入れて、自分を侵食している点もあり、ウイルスのような恐ろしさも感じる。また、ヤンキー的リアリズムは評価すべき点もあり、彼らの行動主義というのは使い方次第ではないかと思う。(が、リーダ・責任ある立場になるのは危険だと思うが。)
「内なる他者」として住みついてる「アメリカ」をどう考えるか?も「父なるアメリカ(規範)」と「母なるアメリカ(イノセンス)」の2つにわけると、アメリカ的普遍性を愛しつつも、アメリカそのものを嫌悪するという矛盾した感情に説明がつき、納得感が得られる。
本作はかなりの名著だと思うのだが、売り方に失敗したような。新書でコンパクト化し、キャッチーな題名にすれば、かなり売れたのではないかと思う。
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日本人はヤンキーが好きであると。
ヤンキーの特長を説きながら、社会現象をあわせて突き詰めていく。
金八先生、ウシジマ君、竹の子族、白州次郎、キムタク、
ヤンキーと思われていない人のヤンキー度にも言及。
自分の中にあるヤンキーに気づかされるし、
ヤンキーとオタクの違いも的確に示されている。
ヤンキーは読んだ方がいいのはもちろん、
オタク以外の、自分の中のヤンキー度を見たい人にもお勧め。
各紙の書評に出ていただけのことはある。
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なぜヤンキーか
アゲと気合
シャレとマジのリアリズム
相田みつおとジャニヲタ
バッドテイストと白州次郎
女性性と母なるアメリカ
ヤンキー先生と「逃げない夢」
「金八」問題とひきこもり支援
野郎どもは母性に帰る
土下座とポエム
特攻服と古事記
現実志向
行動主義
つぎつぎになりゆくいきほい
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斉藤環『世界が土曜の夜の夢なら』角川書店、読了。「なぜ天皇を愛する人々はかくもヤンキーが好きなのか」との問いから出発し、豊富な事例から「美学としてのヤンキー」を紹介し、「ヤンキー的なイメージ」の構造を解明する。副題は「ヤンキーと精神分析」だがヤンキーの精神分析ではない。
本書に出てくるヤンキー的なるものは多種多様だ。横浜銀蠅からB'z、木村拓哉から白州次郎まで。一見するとヤンキーなのか?と当惑する事象も多いが著者が注目するのは、ヤンキーの美学であり、ヤンキーそのものではない。
さてヤンキーの美学の具体的な特徴とは何か。「気合とアゲアゲのノリさえあれば、まあなんとかなるべ」である。冷静な思索や分析よりも、意気込みや姿勢を重視するスタイルだ。そしてそこでは「結果」は問われず、対峙する勢いがヤンキー的リアリズムの核となっている。
そしてヤンキー的リアリズムは現実主義的な発想をする反面、「夢」を語る。日常に根ざしたリアリズムと日常と乖離したロマンティシズムの奇妙な混交が矛盾を内包することとなる。だからそれは思想ではなく「生き方」の「美学」なのであろう。
このリアリズムとロマンティシズムは立ち位置の二重性としても現出する。世間に対する反発の「自由主義」と同族共和の「集団主義」の奇妙な折衷にヤンキーは個と集団として成立するからである。ヤンキー先生の国旗・国歌容認への容認は転向ではなく必然にたどる道である。
著者が指摘するヤンキーの美学の特徴は、現代社会を考える上で示唆に富んでいる。「気合い」を示すためには、目立つしかない。時間のかかる手順や洗練を割愛する橋下氏(現象)は、潜在的な美学へのシンパシーと憧憬があればこそ人気は必然でもあるからだ。
(DQN否定と同義では全くないが)ヤンキーの美学とは反知性主義である。しかし上から目線での批判は意味をなさない。価値や根拠なしに自ら気合いを入れ、場当たり的に根拠をねつ造し、フェイクに委ね行動する力強い「生存戦略」だからだ。
この反知性主義との向き合い方は私を含め読み手それぞれの課題であろう。全体として細かい芸能ネタの確認が多いが(知識のない人にはきつい)、積極的に評価されがちな「気合い」ひとつにしても、それをきちんと検証していく著者の営為と批評には敬意を感じる。
著者の「診断」はヤンキーを語る上で、対象に向けられた著者自身の欲望とはなにか、という問いと常にリンクしており、対象化を不断に退けようとする。この点には好感を抱いた。『戦闘美少女の精神分析』(ちくま文庫)以来の幸福な再会に感謝。少し他著も読んでみよう。了。
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【ヤンキーには分からないヤンキー論】
帯などに堂々と書かれていますが、「ヤンキー論」という珍しめのジャンルです。
父性的であるように見えながら母性も持っているヤンキーについて、B'zや浜崎あゆみ、高橋歩、古事記、金八先生などの有名ドラマなどを具体例として使って説明しています。
僕の理解が遅いだけなのかもしれませんが、
社会学などの知識がないと分かりづらいところが多々あったような印象です。
言っていることは面白いのですが、どうも無理やり感も少しあってイマイチはまりませんでした。
表紙は綺麗です。
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ヤンキー論の本である。
ぼかぁヤンキーは好きじゃないがたまにはそういうものに手を出すのも良かろうと思い購入。
ヤンキーってな「母性」で「生き様」で「形式」なのね。
日本人論の本として読んでも面白かったのでした。
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文句なし。面白いうえ、他のヤンキー論集も網羅できており、助かる。
「なせばなる」流をよしとする反知性主義は、宗教と親和性をもつのは当然と言えば当然なのだ。
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ヤンキーに本質はなく表層のみ。思春期の反社会性→ヤンキー的な物に吸収され→一定の様式化→仲間と絆を大切にする保守として成熟。巧妙な治安システム。
ヤンキー的な美学に対する批評。時々難しいことを難しく表現するのがマイナス。ヤンキー的な人=幼稚で未成熟、と捉えているように感じた。
ヤンキー=父性に見える母性、は面白い。
漫画のチョイスも絶妙。
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前半は笑いながらあるある、って感じで読んでましたが、岸田秀の「ものぐさ精神分析」の引用が出て来たあたりで、一気に引き込まれてしまいました。
この本、面白いです。