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商品説明
清沢満之から暁烏敏、倉田百三、三木清などを経て、戦後の野間宏、吉本隆明まで。近代日本の知識人における「歎異抄」による〈信〉の思想体験を読み解き、辿り直す。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
子安 宣邦
- 略歴
- 〈子安宣邦〉1933年生まれ。東京大学大学院人文科学研究科(倫理学専攻)修了。大阪大学名誉教授。日本思想史学会元会長。著書に「思想史家が読む論語」「昭和とは何であったか」など。
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書店員レビュー
多層な読みに浮かび上がる親鸞の〈信〉
ジュンク堂書店難波店さん
近代日本の知識人たちの多様な「親鸞」体験に、思想史家子安宣邦が対峙する。本書は、実に多層的で立体的な読書体験を与えながら、そこに浮かびあがってくるのは、やはり親鸞の〈信〉であった。
蓮如が封印したといわれる『歎異抄』を現代に再生したのは、暁烏敏である。だが、『歎異抄』の「悪人正機」を強調する暁烏の読みは、己れの罪悪を徹底的に許されるものとして恐れない〈悪人ぼこり〉に陥っており、親鸞の〈信〉とは違う、と子安は言う。
暁烏の〈悪人ぼこり〉の元となっているのは、性欲に由来する罪悪感であり、それは、暁烏の『歎異抄』を読んだ倉田百三の『出家とその弟子』を経て、丹羽文雄の〈愛慾〉小説へと繋がっていく。
戦後になると、野間宏は〈民衆とともに生きる親鸞〉を書き、〈大衆の原像〉を唱え続けた吉本隆明は、「ただ還相に下降する目をもって〈衆生〉のあいだに入り込んでゆく」親鸞を語った。
子安は、処女作に『パスカル』、遺稿として『親鸞』を持つ三木清の「親鸞」体験を評価、「弥陀の本願は親鸞一人がためなりけり」に「弥陀即凡夫」の〈根源的な事実〉を見い出す滝沢克己のインマヌエル(神われらとともに在す)哲学に、自らの「親鸞」体験と同じ「重さ」を感じ取る。イエスと親鸞の邂逅である。
子安の「歎異抄の近代」研究の出発点は、古書展における石和鷹の小説『地獄は一定すみかぞかしー小説暁烏敏』との出遭いだったという。そして、同じく古書店で滝沢克己の『「歎異抄」と現代』を買い求めたことが、最終章に到達させた。『歎異抄』は、そこで子安を待ち構えていたのだ。