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面白い。マルクスは読んだことがなく
型どおりの感想ですが、マルクスを読んでみようと
おもいました。
ただ、石川氏の記述部分の今回の範囲
『フランスにおける階級闘争』『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』『賃金・価格および利潤』あたりの内容は非常に難解で何度も読み返さないと理解できない部分もあり。マルクスの書籍(これ以外の資本論など)が読めるかどうかはよくわかりません。
今回の範囲の中では、『賃金・価格および利潤』における労働価値説は非常に面白いと思います。
『商品の価値の大きさ、つまりその相対的価値はそのなかにふくまれているこうした社会的実体の量の大小によって、すなわち、その生産に必要な相対的労働量によってきまる』等とても面白く。含蓄のなる内容で、究極の考え方の理論がここにある気がしました。
タイトルの若者よマルクスを読もうですが、社会に出る前の学生が読むよりは、ある程度社会にでて、労働を行った人たち(多分10年くらい働いた人)が読むのが一番いいような気がします。マルクスの理論っていろいろな内容を究極にそぎ落として、根幹や究極に達成してしまった理論なので、働いたことがない学生などにとっては劇薬になる可能性もあるようなきがします。
もっといろいろな視点を行ったり来たりできるような経験をつんでから読むとすごく浸透するというか、理解できて整理できて厚くなっていくような気がします。
日本の現状の危機感とマルクス。グローバリズムの危機。公共と社会、組織のビジネス価値追及、贈与経済などの実現などがマルクスとつながるというのは驚きも感じます。
マルクスというのは、やはりソ連の崩壊などから、もう過去の論理。”マルクスは死んだ”という感じがしていたので新鮮な感覚とやはり、古典は読まなければいけないなあという感じも。。。
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石川康宏氏の解説が非常にわかりやすくてよい。
ただ、現代社会において商品の価値が「労働時間」に還元(?)されるのかは疑問が残る。
では、マルクスの時代と今とでは何が違うのかということになるが、その答えは自分の中にはない。
ただ時間というものを人間存在にはりついた不偏的的なものさしにするのであればそれは究極的には定量化されデジタルに計測される数値目標に還元されてしまう。
当時の時間という考え方がアナログなものであったとしたなら、連続した時間の中に切れ目はなく労働時間はその全体量の重みという感覚でしか測れなかったものなのかもしれない。そこでは時間の持つ濃淡は重みという感覚に還元されるからその重みは普遍的な魂の重みとつながったのかもしれない。
しかし、デジタルで時間をとらえられた瞬間に時間は貨幣と同等の計量物差しとなりそこには人間存在は消えてしまう。
この本ではブラック企業やそれに代表される今の政治状況を批判的に論じる方法論としてもマルクスを引用しているが、すべての企業がそういったブラックではないと考える。というよりもすべての職種をブラック企業的に搾取することはできない。
そういう観点からは労働者と資本家の役割が一部あいまいになってきているところもあるのだろう。また、そのあいまいさを逆手にとって、さらなるブラックに手を染めている企業もあるし純化された資本主義の論理では(たとえば経団連の主張など)いきつくところは歯止めのない搾取になってしまうのかもしれない。
内田氏はこのような状況に対して最後の往復書簡に人間存在の諦念(の予感)にも似たような言葉を記している。しかし、逆に言えば底に見える「絶望」はそこからうまれる「希望」のはじまりというメッセージでもあるのかもしれない。
などなど、読んでいて自身の働き方や考え方を重ねあわせるといろいろな思考が次々とあらわれて面白い本だった。
惜しむらくは自分が本家のマルクスをちゃんと読んでいないこと。(若いころになんどかチャレンジで挫折)
その上で読み直すともっと面白いかもしれない。
何年後になるかわからないが第三弾を期待。
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第1巻を読んだのは2010年10月。4年も経ってた。ちょっと間が空き過ぎじゃないかな。
当時の社会状況とマルクスがマルクスらしくなっていく様子を衒学お二人が語り合う内容。
35年ぐらい前の大学時代にマル経(=マルクス経済学)は必修だったから、資本論の最初の方とダイジェストは読んだ。
改めてマルクスに触れると、経済学というより社会思想の人だな。「ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日」はマルクスが肩入れするプロレタリアートが登場しない、全員ワルモノの政治ドラマ。マルクスの容赦ない筆誅が冴えわたり、とある。面白そう。
内田先生はマルクスの「類的存在」は孔子の「仁」に近いと云う。マルクスの思想は搾取されるばかりの労働者への共感からなっているという。マルクスのことを考え直す気になる。
しかし、「賃金、価格及び利潤」。
大学時代にも労働価値が価値になるための命懸けの跳躍という台詞にカッコイイと思ったものだが、その跳躍が止揚(=アウフヘーベン)されて、価値イコール労働価値となったら、どういう形であれ資本家の取り分は搾取になる。それでいいのか。誰が商品の跳躍をさせるんだ。労働者ではあり得ないだろう。商品が価値に変わる跳躍が消える日が来るわけないじゃないか。
すり潰されていく若者たちを救う方法は、何処にあるんだろうか。マルクスの価値を見直す意味は、判るのだけれど、マルクスの枠組みでは答えは見つからないのじゃないだろうか。
史的唯物史観とか、マルクスの教条主義的な処って莫迦の拡大再生産に繋がったんだよな。そうした部分を修正し、社会の連帯の再構築に繋がれば良いんだけれどね。
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何故今マルクスなのか。
ソビエト連邦が崩壊し、冷戦は資本主義陣営の勝利となったはずだった。しかし現在、資本主義は大きな転換期を迎えているように見える。マルクスが語った理想は果たして共産主義だったのか?
正直、マルクスを読まずにここまで生きてきた自分には分からない。マルクスの知性とは一体何だったのか。
それを知りたくてこの本を手に取った。
マルクスに共感したものの中でも、マルクスシストとマルクシアンに分類されるらしい。前者は「マルクスの思想をマルクスの用語を使って語る人」、後者は「マルクスの思想をマルクスの用語ではなく、自分の言葉を使って語る人」だという。僕らの前の世代ー全共闘の時代の学生たちはマルクスを読み、マルキシストとなったが、マルクスの知性を深く読み解くことが彼らに出来ていたのかは疑問である。しかしそれを批判する資格はマルクスを読んでいない私にはないのだ。
まずは読んでみなくては始まらないことは分かっているが、資本論、長いんだよなぁ…。
頑張ってみよう…。
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ブログに掲載しました。
http://boketen.seesaa.net/article/412379674.html
内田樹が、神戸女学院時代の同僚であり、筋金入りのマルクシスト・日本共産党員である経済学者石川康宏との対話・往復書簡で編んでいるシリーズの2冊目。
冒頭の対談「もしマルクスが現代の日本に蘇ったら!?」
内田は、超富裕層と貧困層に二極化するいまの事態に歯止めをかけるには『万国のプロレタリアート、団結せよ』というマルクスのことばに戻るしかないという。
「収奪されているもの、疎外されているものは世界的なスケールで連帯しなければならないという『古い物語』にもう一度息を吹き込む必要があるんじゃないか。」
ソ連東欧圏の崩壊後、「もはやとりあげるに値しない思想」とされてきたマルクスについて、このように論じるところに内田樹の内田樹たるゆえんがある。
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“「マッカーシズム」の時代に「マルクスを読む」という知的習慣を国民的規模で放棄した超大国アメリカ。マルクス主義から国家資本主義へと転換した超大国旧ソ連。自国民でさえ中国がマルクスの政治的理想を実現した国家だと思っているひとがいないであろう中国。反共法の下で近年までマルクスの著作を読むことさえ許されなかった韓国。いったいどこに「若者よ、マルクスを読もう」というような言葉が許容される地はあるのか。唯一例外なのが辺境の地、日本だ。マルクス本を自由に読み語らうのに不自由がないこの地でマルクスを読まない手はない。””マルクス主義はその辺境に奇跡的に生き残っていて、最後に世界を救うアンチウィルスかもしれない。”共著者のひとり内田樹氏による「まえがき」でのこのフレーズに励まされて一気に読み切った。
前作『若者よ、マルクスを読もう』(2010年)は、20歳代のマルクスを取り上げ、韓国語版も刊行されたそうだ。第2巻では、青年からオジサンに成熟していくマルクスを取り上げている。確立されたマルクスの「ものの見方、考え方」がさらに研ぎ澄まされていく。その眼で現代の日本の政治社会状況をとらえるとどのように見えるのか、小泉劇場もその題材に上がり飽きさせない。
マルクシアンとマルクシストによる対話という形式で綴られていくこの『若マル』シリーズ。『若マルⅢ』の刊行が待ち遠しい。(W)
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汽車で移動中。「若者よ、マルクスを読もうⅡ 内田樹 石川康広著」読了。資本論より先に読んでしまった。頑張って資本論読もうという気になった。
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一気に、徹底的に社会を人間的なものにつくりかえるべきだと信じた若者は、その挫折の経験を通じて、一気に、徹底的に社会を人間的なものに作り替えようとして人間が行うことは総じてあまり人間的ではないということを学習する。
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自分としては、時間に余裕がある時にコレを買い、読み始めた。
共産主義とはどんなものかを、ざっくり知るために読んだ。
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同シリーズ・パート1から続けて読んだ。パート2では、パート1で比較的若い頃のマルクスを扱ったのに対し、年代的にその後の作品を論じている。
マルクスという人は初期の頃は、経済学者というよりも哲学者の顔を持った人だったようだ。パート2では、経済学者寄りのマルクスが登場する。経済学者のマルクスを理解するには、どこか数学的な論理思考が必要とされるようで、その経済学は、いわゆる「とっつきにくい」マルクスのイメージに符合する。ぼくはよく分からなかった。
自分がマルクスを読もうと思ったのは、柄谷行人がマルクスの用語を必ずしも政治的な用語としてではなく、知的なパズルのピースとして使っていたのを見た影響だ。そして、現代思想とか哲学に深入りするのであれば、マルクスは読んだことが無いと、追えない議論の領域が大量に残るのではないかと思った。さらに言えば、20世紀の政治史を理解するためにも、やはり避けがたいはずだ。
そして、マルクスに関連した本をこうして読んでみると、今度はどうもヘーゲルというのが、マルクスの思想のサナギの役割を果たしているらしい、というのが分かってきた。ヘーゲルの歴史哲学では資本主義社会が「進歩すべき」歴史の最終ステージだが、マルクスの史的唯物論では、資本主義社会は「進歩すべき」歴史の最終ステージではなく、社会主義にさらに脱皮を遂げるためへの通過点に過ぎないらしい。
そのような差異はヘーゲルが観念を歴史の土台としている一方で、マルクスは物質こそがその土台にあたると言っている辺りに起因しているようだが、この辺はよく理解できない。どうもドイツ観念論というのは、その辺の用語らしい、というのはなんとなく分かった。
この本に刺激されて、マルクスの『ドイツイデオロギー』とヘーゲルの『歴史哲学講義』を読んでみたくなった。マルクスを読むと、どうもその辺りから近現代の思想史への扉がいくつも開いているようだ。
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マルクスが自分の生きた時代や社会をどう見てどう考えたのかが対談&往復書簡形式で語られています。しかし、この本の醍醐味はなんといっても内田先生のお話の進め方です。内田先生はマルクスの理論の進め方は読んでる側も「知性が活性化」された気になると述べていますが、内田先生の小気味いいお話の進め方にも読者は「知性が活性化」された爽快な気分になること請け合いです。モヤモヤと言葉にならないことを的確に表現してくれてスッキリという感じでしょうか。
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第2巻には,巻頭に内田さんと石川さんの対談も載っていて,内容が豊富でした。
第1巻同様,石川さんの文章でマルクスの著者の大枠を知り,内田さんの軽快な文章で,よりわかりやすく現代の状況に当てはめて考えることができました。
『若マルⅠ』を読んだ読者から,「はじめてマルクスを読んでみました」という感想がたくさん届いたそうです。団塊の世代並の大人になるためにも,若いときに(若いときに読めなかった人は今からでもいいので)マルクスの著書にあたってみるのもいいと思います。わたしも再読(作品によっては初読)しています。
それにしても,ちょっと誤植が多すぎます。版を重ねるときにはぜひ改定してください。
取り上げられているマルクス作品。
『フランスにおける階級闘争』
『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』
『賃金,価格および利潤』
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今回は「フランスにおける階級闘争」、「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」、「賃金、価格および利潤」が対象。フランスでの第二共和制の成立と崩壊(第二帝政の始まり)から、剰余価値論等の経済論考が表れる時期(1848〜1865、29〜47歳)にフォーカス。前巻と同様、マルクシスト・石川氏の網羅的な解説、マルクシアン・内田氏のポイントをついた所感を往復する心地良さは健在。資本論の解説書は沢山あるが、マルクスの思考の成長過程を洗い出しする本書は希有。マルクスを中心にもっと歴史や経済思想史を紐解きたくなるのでは。
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「若マル」を第3部、第1部の順に読んできた。本著も含めて両先生の知識と理路の整然さから刺激を受けている。
本著では石川康宏先生の「マルクスに学び、現代を読解する」を新鮮に感じた。アカデミアの場で地道に多方面にわたる研究を実践されている先生の知のバイタリティに敬意を表したい。大学広報誌が出展とのことで少々広報っぽいところもありませすが(笑)。
若い人に限らず働き盛りの人にも現役を退いたくらいのシニアにも是非呼んでほしい著作だ。