紙の本
読むのはしんどいが、読み応えは十分
2016/12/20 17:24
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投稿者:katu - この投稿者のレビュー一覧を見る
飯嶋和一は何冊か読んでいるのだが、今回ほど読むのがしんどかった本はない。市井の人々が圧政に苦しみ、ついに蜂起する、というストーリーは大体今まで通りなのだが、苦しんで苦しんで爆発的な蜂起という感じではなく、小さく蜂起してはまた戻り、小さく蜂起してはまた戻り、という感じなので、大きな盛り上がりがない。そこが辛かった。
ただ、もちろん読み応えはありすぎるほどあったし、個々のエピソードは十分に面白かった。隠岐の島のことは今まで何も知らなかったので、隠岐の話というのも興味深かった。この本を読むと、隠岐の島の人たちがいかにお上から虐げられていたのかがよく分かる。今の沖縄と国の関係を見ていると、この頃から何も変わっていないんだなと思わされる。
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飯嶋和一の作品は集中して読みたい(余裕をもって3日分ほど)ため、いっさいの仕事をそれまでに片を付けておく。携帯電話をOFFにすることはもちろん、いわゆる文明の利器の類には触れないようにするので念のため電気のブレーカーを落としておく。わからない言葉は辞書を引く(ネット検索などしない)。
読書の前日には大小便などはすべて出し尽くすようにし、食も絶つ。朝は日が昇ると同時に斎戒沐浴し、自然光で読書を始める。姿勢は無論、正座。夜あるいは曇天や雨で光量が足りないようであれば、あらかじめロウソクを用意しておきそれを灯す。読書中は水以外のものはいっさい口にしない。
とまあ、気持ちの上ではこんな感じで飯嶋和一の作品を読むのだけれども(ホントかよ)。
今回はまたぞろ糞侍の愚政と時代の波に翻弄される農民たちの暮らしと挫折が丹念に描かれていて引き込まれる。
が、一つだけ言わせてもらえれば、『始祖鳥記』を何回も読んでいるくらい気に入っている私は、備前屋幸吉であるとか福部屋源太郎、巴屋伊兵衛などの「漢(おとこ)」の活躍も見たかった……。
いずれにせよ、飯嶋作品は現代の映像関係者には絶対に映画化しないでもらいたい(特にテレビ局と広告代理店とで製作される映画の御用監督とか)。ガッカリするから。黒澤明とかマキノ雅弘などが浄土から甦ってメガホンをとるというのならいいけども。
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著者飯嶋和一氏は「孤高の人」という言い方がふさわしい、実にまれな作家ではないかと思う。本書は六年ぶりの新作、しかも初の連載長篇。隠岐の島を舞台として、流人としてこの離島にやってきた若者常太郎が、幕末から明治へと向かう時代の流れの中で生き抜いていく姿が、構え大きく、かつ細やかに描かれている。文句なしの大作。
そう、文句はない。ないのだが、わたしは「黄金旅風」あたりから、その作品世界に没入できなくなってしまった。なぜなのかよくわからない。「始祖鳥記」や「雷電本記」は胸ふるわせて読んだのだが。
気高くまっすぐに生きる人たちに、不条理な運命がふりかかる。不条理といっても、病は、そもそも脆い人間にとって、仕方がないことと受け入れざるを得ないときがある。権力による横暴は、違う。やむにやまれず、自らの命をなげうち、大事な家族を過酷な運命にさらしてまでも立ちあがる人があり、危険を承知でそれを支えようとする人がいる。
かつては確かにそのように生きた人がいたのだ。いや、今でもいるのだろう。でも、今の時代では、それは確かな「日本人像」として現れてはこない。宮本常一が書きとどめたような、失われた姿を見るようだ。それがつらいのかもしれないとも思う。
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傑作『出星前夜』から6年。稀代の寡作家、飯嶋和一さんの新刊がついに読める。前作はこれまた傑作の『黄金旅風』から4年だったので、大いに気を揉んだ。今回は隠岐が舞台。日本史の教科書にはほとんど登場しない離島で、何が起きていたのか。
弘化三年(1846)、隠岐「島後」に大坂から1人の少年が流されてきた。西村常太郎、15歳。彼は、大塩平八郎の乱に父の履三郎が加担したため、6歳から親類に預けられ、15歳になるのを待って、流刑に処されたのだった。
翌年、常太郎は狗賓が宿るという「御山」に足を踏み入れる。そこは聖地であるのに、なぜ流人の自分を。しかし、『狗賓童子の島』というタイトルを感じさせるのは序盤だけ。残りの大部分で描かれるのは、人間たちの業。そこにもはや信仰などない。
江戸幕府が開国を迫られる動乱期、長年松江藩の支配下にあった島後にも、否応なく変化の波が訪れる。海運で栄える港と、窮する一方の山村。藩と民の間に立つ庄屋衆への不満も募る。積年の憤懣は爆発寸前。小さな島が二分されていく。
最も冷静に、俯瞰して見ていたのは常太郎かもしれない。彼は医師として島後に根を下ろしたが、薬種を入手してくれる庄屋衆の協力がなければ、何もできない。庄屋衆が私利私欲で動いてなどいないことを、常太郎はわかっている。だが民は…。
過去にも、幕府側を厳しく描いてきた飯嶋さんだが、今回ほど憎らしく描いたことはないのではないか。批判は幕府だけでなく新政府にも及んでいることに注目したい。御一新に一縷の望みを託す若衆たち。しかし、島後が搾取される構造は何ら変わらない。そんな絶望さえも容赦なく描く。これだ。これぞ飯嶋流時代小説だ。
帯にはでかでかと「全島、蜂起!」の文字。かなりの血が流れることを覚悟した。ところが、前作に描かれたように、蜂起衆が暴徒と化すようなことはない。これが離島で育まれた、自らを律する精神か。そんな高潔な島民たちに、業を煮やした松江藩は…。
薩長など新政府主流派の思惑も絡み、翻弄される島後。一部若衆の勇み足は否定できないものの、父履三郎がやむにやまれず蜂起したことを、常太郎も知る。指弾されるべき松江藩は、全力で生き残りを図る。滑稽なまでの保身は、ある意味逞しい。そんな中でも、流人の身を嘆かず、医師としての務めに邁進する常太郎に救いを見る。
現代の日本に、狗賓は宿るか。常太郎はいるか。本作が突きつけているのは、自分の身は自分で守れという真理ではないか。そう思われてならない。
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父西村履三郎が大塩平八郎の乱に連座したがため、その息子というだけで隠岐へ遠島となった常太郎の物語かと思わせながら、搾取され、支配者に翻弄される庶民や島の物語へと、視点がぐぐっと拡がっていく。
遠島の地といえば、あれ荒んだ場所のように思ってしまっていたけれど、当然ながらそこには元々住まう人たちがいて、日常があったのだ。政治犯や冤罪も含めて、罪を問われた人たちを迎えねばならなかっただけでなく、重税や場当たりでしかない執政に苦しめられる、その憤懣を思うとやりきれない。
幕府から明治政府へ変わっても、結局何も変わらない失望感は、今の私たちにもリアルだ。
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前半はよかったんです。もろもろ今後の展開が期待できるような。でも後半は主人公置き去りで。今思えば、主人公は人ではなく島自体だったのかもしれません。題名見ても、〜の島、ですね。そう思えばあの展開もわからいでもないが、小説読んでるんで、その期待感とのギャップがなんとも。
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の人々の心を冒し尽くした拝金病、物欲・我欲を丸出しにすることをこそが進歩であり、因習から脱却できる唯一の方法であることを信じさせた。
大塩平八郎の乱から維新の動乱期、隠岐島、島後に流された常太郎のものがたり。
隠岐島に行く機会があれば、一宮にも訪れてみたい。
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時代が変わっても、変わらない島の人々の奮闘が描かれている。主人公は病気、島の人々は支配制度と闘うのは読み応えがあったが、いろいろ描いた分、やや散漫になった印象もある。描写が細かすぎてよくわからないところもあったが、ここまで書けるのは素晴らしい。
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大塩平八郎の乱に連座し、蜂起した庄屋 西村七右衛門の長男常太郎は、15歳の年に隠岐に流される。
流人とはいえ、自らが罪を犯したわけではなく、しかも父の罪も徳川幕府の圧政に苦しむ農民を救うために起こしたもの。隠岐の民は常太郎を静かに受け入れる。
やがて医師となり隠岐の人々を助けることになる常太郎の二十二年間を通し、当時の徳川幕府の下にある松江藩の役人の放蕩、島の暮らし、そして攘夷、倒幕の動きなどを淡々と克明に描いた大作。
流人である定めを負って生きる常太郎の、淡々とした強さを感じた。
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私は基本的に長い小説は好きだが、これはその中でも読んでいる途中に、長いなあ、と感じてしまった。
スケールの大きな世界観に引っ張られ読み応え自体はあるし、また筆運びも確かなことは間違いないのだが、物語の骨子に必要のない固有名詞が大量に出てくることによるとっつき難さが若干あり、ストーリーのメリハリも効かされてはいないから、平坦な印象を受ける。
ある意味、雑誌連載物の典型、と言える面があるかもしれない。
タイトルにもなっている"狗賓童子"というギミックが後で活かされるのかと思いつつ読み進めたが、それもなく、全体構成においてはちょっともったいないことをしている、とも感じた。
期待が高かっただけに、評価も厳しめになってしまったか。
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大塩平八郎の乱に連座した西村覆三郎の子、西村常太郎が隠岐の島に遠島になった後の話。
民衆と幕府の対立、流刑の島の生活、感染症の流行等、細かに書かれています。
ゆえに、重い。楽しめる読み物では無く、読むのに時間がかかる時代小説。
タイトルの「狗賓(ぐひん)」は天狗の事。それが大事なキーワードかと思ったら、殆ど出てこなくて、あれ?という感じ。
そして終わり方が突然で。えっ、その後は? となりました。
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大塩平八郎は歴史上の人物ということしか知らず、ましてや松江藩と隠岐との関係などまったく知るよしも無かった。今でこそ松江は観光都市としてあこがれの町だが、この当時の松江藩たるや情けないの一言に尽きるありさま。それに比べて鳥取の境や米子の商人たちの開放的な人柄。現在は当然隠岐は島根県だが、鳥取県に鞍替えしたらどうだろうと思ってしまう。
それはさておき、とにかく隠岐の地名が頻繁に出てくるので、グーグルマップのストリートビューで現在の風景をみながらの読書となった。これがまた楽しい。この道を主人公の常太郎が通ったんだな、などと想像を膨らませながら読ませてもらった。
作品の面白さに関しては何も言うことはない。
そりゃそうだ。飯島さんの作品はどれをとってもすばらしい。
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江戸時代の人達って、こんな風に生きていたんだろうなぁ、と納得してしまう描写の力は相変わらず。巻末の参考文献、あれだけでこんなに書けてしまうのは凄いとしか言いようがないです。最後、へっ?って位呆気ないですが。
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幕末期の隠岐島。そこに暮らす人々は、島の風土を大切に生きている。しかし人々が時代の流れにのみこまれて変化していく姿がすごい。
全く知らない事ばかりだったのでとても勉強になった。またいつかじっくりと再読したい。
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著者の新作を読める時代に生まれていて本当に幸せだと思う。しかし、本書は発売と同時に購入したものの、この休みまで読むことができなかった。著者の作品は片手間では読むことができない。それほど詳細かつ重厚だからだ。
著者の作品の殆どは圧政に立ち向かう人々の姿を描いているが、本書はその中でも特に完成度が高いと思う。デモクラシーとは衆愚政治と直訳するそうだが、為政者が最もの望んでいるのが衆愚であると本書は訴える。言いえて妙だと思う。