投稿元:
レビューを見る
今年の初め急逝した著者。哲学と聞くと難しい印象ですが、これ感覚的に「てつがく」と言ってもいい位わかりやすく日常の中で考える大切さを教えてくれます。春 夏 秋 冬と分けて著者独特の語り口で語られている哲学エッセイです。その中で、「夏休みは輝く」はリアルタイムで頷けます。 HS
投稿元:
レビューを見る
著者が亡くなる前の一年間のエッセイをまとめたものですが、死の予感を感じているような文章が続きます。以前よりも普通に話しかけるような文体で、ストレートに響いて来ます。まだまだ著作を読みたかったのに本当に残念です。病床でも執筆を続けていたそうですが、今頃は宇宙のどこかで真理を追求しているんでしょうか。
投稿元:
レビューを見る
哲学の世界を分かりやすく教えてくれる池田晶子さんの作品。
彼女は数年前に亡くなってしまいましたが、一体哲学とは何なのか?
それを彼女なりの考え方で教えてくれる本です。
投稿元:
レビューを見る
池田晶子さんの作品は初めてだったのでその時はいまいち飲み込めませんでしたが、
今読むとあぁ・・・とわかる気がするんです。
投稿元:
レビューを見る
哲学イコール難しい事っていう 概念が間違っていた事に気が付きました
すべての死因は生まれたことにある 人は「死に方」を「死」と混同しているが別ものである
死というものを目前に感じながら書いた筆者の心が至るところで感じられる
哲学は 物事の真意なのかな
この本に出会えた事が 一つのきっかけになるような気がする
深い話しになりそう 人生を自分を考える為の1番わかりやすい第一歩になるのかも知れない
投稿元:
レビューを見る
私にとって二冊目の池田晶子さん。「死とは何か」「魂とは何か」「私とは何か」(いずれも「さて死んだのは誰なのか」と続く)の三部作は是非とも全て読みたいのだけれど、蔵書データベース上存在するはずの「私とは」が見つからずこの本を先に手にした。仮住まいの暮らしをしていると満足な本棚を持てないことを残念に思う。眺めていると落ち着く、というようなことを言っている人がいたが、なるほど「好きな本(=自分の構成要素とも言えるような書物たち)」に囲まれて暮らすことはとてつもなく居心地のよいことのような気がする。たまにしか訪れない名古屋の部屋にそれを求めることはあまり現実に即していないし(あの部屋のキッチンとリビングの繋がった感覚は「生活感」が漂いすぎているので、少しなんとかしたいと思う)、ゲストハウスでは本棚が存在感を発揮しきれない。東京の基盤を固め、本棚の似合う部屋に落ち着くべきだろうか。生活習慣により形成される自分、という状態に強い実感を覚えてしまう。それにしても、完璧すぎる生活の場を手に入れたものだなあ・・・と、また目の前の東京タワーに羨望の眼差し。恋をしながら書物に向かう幸せ。
最近の私の読書法は「手にしてみて『快適』と感じたものはとにかく読む。イマイチと感じても心にひっかかったということは何か意味があるのだから、手にした書物のことは記録にとどめることにする。本はリズム感を持って読み、読み終えた後でもう一度最初から最後までパラパラとページをめくることで『長いようで短い旅』を終えたことを一歩引いたところから鑑賞すべし」というもの。不思議なのだけれど、身体が軽くなると本を読むペースもあがるような気がする。眠る前のジョギングは正解。代わりに目覚めには神社、あるいは教会といった「音が音として存在する場所」に出かけてみたいと考えている。そうすると不思議と、地球儀を眺めるような感覚で世の中の出来事を観察できるような気がするからだ。つまり「純粋な好奇心」以外のものから適度な距離を設けることが出来る。
さて、この本について。「自分の消滅」という文章が印象に残った。文書を通じてこそ出会える「その人」が在るという感覚に、納得のいく説明が与えられたような気がする。
書評、というのが私は苦手だ。本を読むというものすごくパーソナルな体験を通じて感じたことを、テクニカルにまとめるという作業がどうしても肌に合わない。それだから私は、本を読んだ感想を求められるとどうしても身構えてしまう。「多分期待通りのことを答えられないけれど、それでいいかな?」。そんなことは別に期待されている訳でなく、訪ねた人はより深い次元の世界を共有しようとしていたのに過ぎないのではないかと、その時の自分には受け止められる余裕がなかった。
ホント、いろんな意味で気付きと出逢いの宝庫だね、本は。「気付き」と打ったら「木月」と変換されて、可愛らしいと思った。
読書の記録は、日記よりもずっと日記だ。こうして化学反応の図式が記録に残されていくという作業はすごいことだなと考える。テクノロジーの生んだ一番スゴいことの中でもトップクラスかもしれない。だってこれって、遺書を残す、以���にWILLを綴るメカニズムではないのだろうか。生きること、死ぬこと。身体が死んでも消えない部分が、こうして明らかに存在しつづける。
7月21日。好きな数字の並ぶ一日。
投稿元:
レビューを見る
巡る季節の中、日々の暮らしの中、「存在の謎」へと思考が「深化」していく。歳を重ねる毎に味わう、この感じ。季節の移ろいを肌で味わう、この感じ。解らないということが解っているから考える、考え続ける。…そんな、池田晶子の思索の日々が綴られているエッセイです。この本との対話を通じて、ようやく、自分なりの哲学の本質を見出した心地がしました。まだ芽吹いたばかりのこの感覚を、これからじっくりと、大切に味わい、変化を楽しんでいきたいと、そんな風に思えました。本書に収録されている、「speculate」という語についての考察を読んだとき、少し鳥肌が立ったのを覚えています。「世の中イデアだらけ」なんです、きっと。
投稿元:
レビューを見る
2006年4月から2007年4月までの週刊誌「サンデー毎日」に連載された彼女独自の哲学的エッセイ集。彼女は2007年2月23日に死去しているのだが、死後しばらくは連載が続いていたことになる。彼女の独自の表現とは、すなわち例の特別な意味のある「哲学用語」を使わない表現のことである。読者を週刊誌のそれを意識してか、ここでの表現が一番コナレテいる。子供向け、教科書用、庶民向け用とその表現は、あたかも「哲学用」という言葉があるように、それぞれの対象を意識しての哲学談義が、そのレベルの表現で言説される。この意識的行為が彼女独自なのである。それぞれのレベルで解ったような気になるのだが、その対象はやはり哲学が挑む「人間」についてだから、背景はどこまでも「思考」する哲学独特の「本質系」へ結局向かっているので、その裏の暗示が「難しさ」へと通じることになる。この表現ははやはり年齢蓄積という壁の崩壊を待つまでの導入部でしかないだろう。彼女もそれは充分承知しているようだ。
しかし、それぞれのレベルの読者は、このやさしい表現に解った気になって満足してはいけない。この易しさが曲者なのだから。「14歳」はしかたがないとしても、大人である「庶民」レベルでの、この本にあるような「表現」の裏へ進もうとしない庶民読者が大半ではなかろうか。「サンデー毎日」の読者がどんな大人の庶民かは大体窺われるのであるが、その意味でも、彼女は困難な表現局面にあるといえるだろう。それは一部表現者の罪でもあるのだから。しかし哲学の庶民的誤解を溶くのにはよいかもしれない。彼女の表現に、中島義道は、そんなに高みに自信を持たなくてもと言っていたが、表現が平易ということはそんな気にさせることもあるのかも知れない。
投稿元:
レビューを見る
哲学に興味を持ち、だからと言ってイチから勉強するほどの気合いはなく、でもやっぱり哲学ってちょっと知りたい。と思ったときに母から薦められた本。
正直よく分からない個所もあったのですが、自分が自分の行動・考えに対して疑問に思っていた事が書いてあると「あぁ~そういう事だったのか!」なんて納得しました。
「哲学=考える事」
考える事にはまりそうです。
哲学って何だろうと思った方にはお薦めの一冊です。
投稿元:
レビューを見る
哲学する、ということが意外にも身近に感じられる。
高校生くらいの頃は、ちょっと頭でっかちなんじゃない?ってくらいにいろいろなことを掘り下げて考えていたけれど、最近はまったくそんなことはない。
そんな自分を、ちょっとさみしく思った。
投稿元:
レビューを見る
分からなければ、彼女の文章はあちこち流れていくように感じられるだろうが、本質を先に理解していれば、かえってこの文章は病みつきになる心地好さを持っている。
投稿元:
レビューを見る
対話。話し合い。うまくいかないことなんて、しょっちゅう。会社だけでなく、家庭でだってもちろんそうだ。う〜ん、と嘆いたり悩んだり、大変だ。そんな時、私はやさしく書かれた哲学の本を読む。すると、知らず知らずのうちに心が平静さを取り戻しはじめるから不思議だ。ただし、哲学の本ならなんでもいいというわけではない。専門用語だらけはパス。わかりやすく、平易な文章で書かれていなければいけない。だから、本書。池田 晶子さんは専門用語を使わない。日常の言葉で語る「哲学エッセイ」であるところがいい。本書でまずはじめに引っ掛かったところは「数学者の集まりでは、対立や争いがまず発生しない」という一節。2+3は誰にとっても5だからだ。自己主張の余地のない「普遍的」なことだから、対立や争いが起きにくい。この一節から他の一節へと、自然と、しかも論理的に思考が?がっていった。それが面白く、「なるほどな」と感心することしきりだった。普遍性の別名といえる「理性」。本当のこと、すなわち真実を知るために、人間に与えられた精神の機能であり、これを正しく使うことで、すべての人は、個別的な自分を超えて普遍的な真実に到達することができる、のだそうだ。そこで、私たちの日常にある「対話」を考えた。真実を知りたいというモチベーションを同じくしたもの同士が共に普遍的理性に従って考えるべきもの。数学者たちと同じように。それなのに論争になる。「真実を知るための議論」が「相手を言い負かすための議論」にいつのまにかすり替わってしまう。なぜ、すり替わってしまうのか? そこで、また別の一節に飛ぶ。人間万事、この世のすべて、じつは「好み」という恐るべき主観性によって成り立ち、また動いているものだ、からのようだ。簡単にいえば、心の中からストレートに垂直に立ち上がってくる感情とか欲望とか本能で、人間は判断しがちなんだということでいいのだろうか。理屈だとか道理だとか、はたまた倫理だとか道徳だとかは二の次ということらしい。人間は、「理性」で対話を進めなければとわかってはいても、一瞬に湧き起こる「感情」に支配されてしまう人がほとんどだ。人間とはなんて理不尽で不条理なんだろう。でも、確かにそうだ。それでは、「好み」、つまり「好き嫌い」という情動的選択とはどう付き合えばよいのか?生身の人間には、この情動を捨てるのは無理。そこで、対応策。「素直に」なる。存在は認める。でも私は関知しない。たとえばそんなスタンス。そのように思うことにして、無理をしない。でも、そうしているつもりでも、今度は、「素直に」、無理していないつもりなのに、素直になれない? 利害や損得と好き嫌いとを混同していないか? などという考えが頭をもたげはじめる。そこで、「煩悩」を考える。○○欲、××欲、△△欲、なにしろ108つあるというから大変だ。「欲しいものを手に入れる」、ということがそもそも何なのか。欲しいものを手に入れても、それで人生の何かがわかったことになどならないのは、少なくともわかる。きりがないのでやめる。こんな風に思考の連鎖が起こった本書。でも、楽しい。ただし、これを「哲学」と思ってしまうのもどうだろう。それはおこがましい。あくまでも、哲学の扉の前に立たせ���くれる、あるいは哲学の扉を開いてくれる、くらいの闇先案内本なのだろう。なにより、巷の常識を信じ込まず、思い込まないで「自分で考えることが大切」なのである。
投稿元:
レビューを見る
2011.10
暮らしの哲学
在る、無い、意味 人間存在を根底から倒壊させかねない
意味がわかるとは感覚こそが意味であるから
意味がその理解よりも先に存在する
言葉がなければ生死は言えない
人は自分の言葉を語ってはならない
言葉すなわち意味の不思議を自覚して初めて人は相対的な自分を越えた誰にでも正しい本当の言葉を獲得する
これは自分の言葉ではないと自信をもって語れるようになるまでは沈思しているのがいい
内容をつかんだら誰がそれを言ったかは関係ない
文体を所有していない人は思想家としてはほんものではない
内容ではなく形式ことが命,何を言うかではなくどう言うか
引力、斥力、好き 嫌い
それは偶然、個人を越えて宇宙へ通じる深い謎
なるほど存在することは認める でも、私は関知しない
嫌いを嫌いと排斥せずに共存することが可能
投稿元:
レビューを見る
言葉は誰が語っても同じだが、その人を通して語られるからこそ面白くなる、というのが大変興味深い。
科学は「どうやって」だが哲学は「どうして」を追求していくもので、突き詰めればすべては謎に満ちている。
あらゆるものが存在のバランスの上に成り立ってるんだなぁ、とつくづく思う
お茶の表千家と裏千家で道具の漢字の読み方が違う、という話を思い出した。
間違っているのはじぶんかもしれない、と思うと肯定できるポジティブさに通じていくかもしれない。
我慢できないことは我慢できないけどねw
投稿元:
レビューを見る
友人に薦められて池田晶子の著作を読み始めました。事象の本質を考えていくこと、常識的概念、事象にまとわりつく言語表現の不確かさを剥ぎ取っていくと最後に残るものは何なのか。切り口は軽妙、素材は日常、でも池田晶子の凄みが伝わります。