紙の本
実作者だからこそのファンタジー・児童文学・動物文学論
2011/10/01 10:47
6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:本を読むひと - この投稿者のレビュー一覧を見る
『闇の左手』や『ゲド戦記』が名高いSF・ファンタジー作家、アーシュラ・K・ル=グウィンの最新評論集である。「子どもの本の動物たち」と訳された本書中では半分近くを占めるCheek by Jowlは本書の原題でもあるが、このタイトルには多層的な含みがあることが訳者あとがきに語られている。
さて、その「子どもの本の動物たち」は動物文学論というべきものだが、「動物文学」という項目が『集英社世界文学大事典』にもあり、読んでみると短いスペースのなかにファーブルの『昆虫記』などにもふれているところがル=グウィンと異なる。Cheek by Jowlというタイトルが示唆するように、ル=グウィンにおける「動物」は人間に密接につながった哺乳類が中心なのである。もちろんいくらかの例外はあるし、本書の別のエッセーでは、竜のような異界の動物を引き合いに出して、ファンタジーや児童文学を重要視しないこれまでの批評家たちをからかっている。からかわれたり批判されたりしているのはエドマンド・ウィルソン、ツヴェタン・トドロフその他である。トドロフには『幻想文学論序説』があるが、ル=グウィンによれば《興味深いことをたくさん言ったが、それらはほぼ、ファンタジーとは何の関係もないことばかり》である。
ところで私は小学生時代に、この「子どもの本の動物たち」でも好意的にふれられているキプリングの『ジャングル・ブック』に夢中になりながら、その後ずっと読み返していない。シートンも好きだったし、「文学」とは言えないかもしれないが、ファーブルも読んでいた。
大人になってからは本書が視野におさめている世界では、妻が読んでいたので『ゲド戦記』、また映画化されたので『指輪物語』といった数える程度しか読んでいない。
それにくらべれば、ル=グウィンが何度か批判のターゲットにしているエドマンド・ウィルソンの批評のほうをずっと読んでいる(ただ邦訳されているという訳者の丁寧な注がある『指輪物語』批判は未読)。そのため本書に対する私の立場は微妙なものとなった。
たとえば『ハリー・ポッター』だが、映画は全部ではないが観ていても本はもちろん読んでいない。「もちろん」というのは侮辱した言い方かもしれないが、なんとなくあの小説シリーズは、近年流行している人気ファンタジーや映画の安易なイメージを象徴していると思われるからだ。
ル=グウィンにとって『ハリー・ポッター』は《はっきり言えば紋切り型で、模倣的でさえある作品》である。彼女はこの小説を多くの書評家や文芸評論家が独創的な業績だと思いこんだ背景に、ウィルソンたちによって「シリアス」以外のフィクションが批評から締め出され、ファンタジー文学への無知が文学の世界をおおったことを挙げている。
そうだろうか、と考える。私はウィルソンを読みつつ、彼が排除する「ジャンル」フィクションもたっぷり読む。ウィルソンが面白いのは、たとえば彼がミステリー批判論を書くような人だからだなどと思いながら。
『ハリー・ポッター』現象は、ウィルソンたちの批評とは関係がない。『ハリー・ポッター』が途方もなく売れた背景に書評家や文芸評論家の評価が少しはあったかもしれないが、もっと別な要因を考えるべきだろう。
たとえば『大人のファンタジー読本』の鼎談のなかで金原端人は、こう語る。『指輪物語』に影響され『ゲド戦記』が生まれたように《ファンタジーというものがどんどん専門的なほうへひっぱられていった。子どもから離れていく傾向が強くなっていった。それを再び子どもの手に取り戻したのが「ハリー・ポッター」。それ以降のファンタジーは、たいてい子どもに読まれるように書かれてるでしょ。》
このほうが分かりやすい。とはいえ一方で『ハリー・ポッター』を退けつつ、もう一方でファンタジー嫌いの批評を斬るル=グウィンに私は好ましさを覚える。
ル=グウィンについて言えば、私は『闇の左手』が好きでいつか読み返したいと思っているが、今回本書と併読したのは短編集『風の十二方位』だった。そのなかの「オメラスから歩み去る人々」や「革命前夜」など素晴らしいと思う。最初におかれた「セムリの首飾り」もいい。こうしたSF小説は明らかに「ファンタジー」と言えるだろうが「児童文学」ではないだろう。また「動物文学」は「児童文学」とイコールにならない部分がある。
ル=グウィンは文芸評論家ではないのでかっちりと行き届いた整理もしていないし網羅的でもないが、実作者ならではの豊かさというかふくよかさが本書の言葉にはあるような気がした。
紙の本
著者の見解に賛同
2011/10/16 12:10
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:萬寿生 - この投稿者のレビュー一覧を見る
作家と読者の両面からファンタジーを考察している、評論集である。8編の論考が載っている。スピーチを文書化したものもある。論理や見解は明快で、軽薄なところがない。幅広く深く考究している。学者一家の中で成長し生活している背景がうかがえる。ここに書かれているファンタジーや児童文学に対する著者の見解には賛同する。
蛇足だが、SF小説『闇の左手』『所有せざる人々』『風の十二方位』などには、よく理解できないところもある。一方、ファンタジーや評論には理解し難いところはない。
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子どもの頃にあまりファンタジーを読まずに大人になり、そのまま食わず嫌い&苦手意識があった私のファンタジーへの姿勢を正してもらえたような気がする。
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(年齢にかかわらず)成熟していない人たちは、道徳的な確かさを望み、要求します。これは悪い、これは善い、と言ってほしいのです。子どもやティーンエイジャーは、確固とした道徳的足場を見つけようともがきます。彼らは勝つ側にいると感じたいのです。少なくともそのチームの一員だと思いたいのです。しかし(疑われることのない)善と(検証されることのない)悪との間の戦いと称するものは、物事を明快にする代わりに、ぼやけさせます。それは暴力についての単なる言い訳にしかなりません。それは現実の世界の侵略戦争と同じくらい、浅はかで無益で卑劣なものです。
ファンタジーと未熟さをごっちゃにするのは、かなり大きな間違いだ。合理的だが頭でっかちではなく、論理的だがあからさまではなく、寓意的というよりは象徴的 - ファンタジーは原始的(プリミティブ)ではなく、根源的(プライマリー)なのだ。
物語が「メッセージをもっている」という考えは、その物語を二、三の抽象的な言葉に縮小することが可能ということ、コンパクトに要約できるということを前提にしている。物語の意味というのは、言語そのもの、読むにつれて動いていく動きそのもの、言葉にできないような発見の驚きにあるのであって、ちっぽけな助言にあるのではない。
ファンタジーは子どものための物語の形として、子どもの本質に根ざした、もっとも自然なものだ。なぜ、そう言えるのだろうか?子どもたちはたいてい現実と非現実の区別がつかないからか?子どもたちには現実からの「逃避」が必要だからか?そのどちらでもない。現実からの意味を汲みとるために、子どもたちは想像力をフルタイムで働かせているから、そして、想像力による物語こそが、その仕事をするための最強の道具だからだ。
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ファンタジー文学の書き手自らが語った、ファンタジーに関する考察。気づかされることが多かった。気になるのはページ数のわりに値段が高いことで、200ページ未満の本ならソフトカバーで1400円くらいにしていただけるとなおうれしい。
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たいていの人はファンタジーを書かない。ファンタジーを読む。
ル=グウィンは書く側として「できること」を語り,それを読む側は,ほぉそんなこともファンタジーはできるのかと感心しながら読み進めるのだけれど,読み終えると,自分はどうしてファンタジーを読むのかが見えてくる。
ル=グウィンは一貫してファンタジーはファンタジーのためにあると主張する。フロイトやユングその他の理論の具現であったり,社会的なり政治的なり何なりのメッセージを隠す容れ物であったりするものでは断固ないと何度も言い切る。
ファンタジーの世界はその世界として閉じた系でないと読み手を混乱させるとも。閉じたというと語弊があるかな,一貫性というほうがいいかな。なぜなら,ファンタジーを読む人は,竜や一角獣やしゃべる動物が登場しさえすれば満足するのではなく,何が登場しようがファンタジーが物語らしくあることをこそ望んでいるから。
この2つにはすごく共感しながら読んだ。絵本や物語を心理学的見地から評論することに対しては,自分の理論の万民に口当たりの良い宣伝材料としてファンタジーを利用しているのだろうと思っていたし,力強いファンタジーと白けてしまうそれがあると感じていた。
ただ,この本の最大の迫力は,自分が産みだしているものを客観視できるル=グウィンの地に足付いた自己分析力だと思う。
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ル=グィンがブックフェアなどで行った講演や、ファンタジーについての論評を集めた本。
動物擬人化ものに対しての論評は結構辛口。というか、どんな前人についても割と辛口。
個人的にはゲド戦記シリーズ全6冊の成り立ちについての文が興味深かった。
あと、『バンビ』の原作がそんなに素晴らしいものだとは知らなかった。ディズニーのもよく知らないけど。そのうち原作を読んでみたい。
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「メッセージについてのメッセージ」は、
実に素晴らしい文章。
物語とメッセージの関係をこんなに簡潔に、
わかりやすく書いている物はないのでは。
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ファンタジーにかんする物が集められている。私は「内なる荒野」と「子どもの本の動物たち」が面白かったです。特に、シルヴィア・タウンゼンド・ヴォーナーの詩については瞠目しました。
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ル=グウィンの文学に関するエッセイや講演をまとめたもの。
大きく分けて、ファンタジー論・動物文学論・YA論。どれも、そうそう、そう言ってほしかったんだ、と納得でした。
ハリー・ポッターのあの大ブームは何なのか。イギリスには、もっと素敵なファンタジーがいっぱいあるのに、なんでハリー・ポッターがあんなに騒がれるのか。疑問符の山だったのが、ル=グウィンの切り口にすっきりした。
動物文学の分析も、納得。そして、その読書量にも感動。
やっぱりすごいなあ。
そして「イシ」を書いたシオドーラ・クローバーの娘だという事を、初めて知った!!
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ル=グウィンさん大好きである。
とゆーわけで手にしたわけだが・・・・・。
多分半分も分かってない気がする。
なーんとなく、は分かるんだけど・・・・。
でてくる過去の作品について、とか
それらに対する批評家の意見、とか。
イマイチ知識としても殆ど知らないし、実感としても分からないことが多く・・・。
でもル=グウィンさんが、とても真摯にファンタジーというものに
向き合っているのはすごく感じられた。
ただ私としては結局自分が好きか嫌いか、
おもしろいか、おもしろくないか、ただそれだけなんだけど。
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ル=グウィンはちょっと苦手で小説はあまり読んでないが、これは読みやすい。ファンタジーとは何か?について、はじめてわかった気がする。
ファンタジーには「本物の竜」がでてくる。それは映画の竜とはちがって、本当にあなたを殺すことができる。彼らは宝石をもっていて、竜と格闘すれば、手に入れることができる。それは「知恵」という宝石だ。
知恵は容易には手に入らない。森のなかにはあなたを惑わせる魔術師もいる。
ファンタジーは善と悪の戦いを描くものではない。善と悪の違いがわかる方法を教えるものだ。
アメリカ人は戦闘にとりつかれていて、「人生の戦い」やら「善と悪の戦い」を強調するが、それは常にいんちきな比喩であり、聞こえのよい表現で暴力を是認し、思考を停止させるためのものにすぎない。
つまりは、人はよく生きるためには、ビジネス書ではなく、また教訓話ではなく、ファンタジーを、そしてこの本を読むべきなのである。
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「ファンタジーの細かい設定不足を指摘すると怒る人がいるが、現実とは違うファンタジーだからこそ、きちんと設定説明をしてくれないと混乱する」という意見には超納得。
今まで誰に言っても小うるさいヤツと思われてきた(と推測)ので、グウィンのような巨匠に言ってもらえてかなり嬉しい。
あと、「『ハリーポッター』シリーズを、「とんでもなく新しく楽しいファンタジーだ「」と思うのは、
その人たちが今まで本を読んで来なかった証明だ」と言うのもかなり共感できた(『ハリーポッター』は好きですが、「とんでもなく新しいか」と問われるとその答えはYESではないと思う。
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ル=グウィン『いまファンタジーにできること』河出書房、読了。『ゲド戦記』の著者がファンタジーの力を緻密に論証する。ゆっくり育つ子供たちの持つ「センス・オブ・ワンダー」(カーソン)は、あらゆる慣習・規範・立場(サンカーラ)から自由にする。そこから本当の見え方が出て来る。お勧め★4
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「ゲド戦記」の著者によるいろんな機会に行った講演、スピーチを集めたもの。わかりやすくて、彼女の作品世界への入門書としても読める。それよりも、あっと驚くおまけがついている。これがなかなかユーモラスでよい。