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アウグスティヌス(山田昌訳)『告白』中公文庫。古典的名著の歴史的名訳待望の文庫収録。安易な外部の物語に依存する心性からの超越を克明に記録する偽りのない徹底的な自己内対話は、読み手の心を捉えてはなさない。解説「『告白』山田昌訳をもつということ」(松崎一平)も秀逸。手元に置きたい三分冊。
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アウグスティヌス(山田晶訳)『告白Ⅰ』中公文庫,2014年(初版1978年)
『告白』はアウグスティヌス(354-430)が400年前後に書いた著作である。全13巻、第1巻〜第9巻までは自分の生涯を神に告白している。基本的な構造は自分がどんな悪人であったを語り、神を賛美している。訳者も指摘しているが、おどろおどろしい暗さはなく、希望が語られていて、総じて雰囲気は明るい。巻10はヒッポ(カルタゴ)の司教であったアウグスティヌスの「現在」の告白、巻11から巻13までは『聖書』創世記の注解を通した自己告白だそうである。
山田晶は『告白』について「自己を例として、みなの前にさらけだしている」とし、「愛のある人ならば、私をあわれみ、神をたたえるであろう」(アウグスティヌス)と「神の讃美にいざなう」書物であるとしている。
翻訳一巻は巻6までを収めており、幼児期から31歳くらいまでを扱っている。まだ、回心(387年)はおこらず、洗礼はうけていない。
アウグスティヌスはカルタゴのタガステの地主階級の長男にうまれた。父はパトリキウスで、母はモニカである。父は洗礼志願者、母は敬虔なキリスト教徒であった。7歳からタガステで学びはじめ、13歳で近郊のマダウラで修辞学を学ぶ。雄弁によって出世してほしいという父の希望であった。15歳でいったん勉強をやめ、16歳のころ父が死んだ。地元の資産家ロマニアヌスの援助でカルタゴに遊学し、名前の残らぬある女性と同棲生活をはじめる。18歳で長男アデオダトゥスが誕生、マニ教に入信した。20歳で学業を終え、タガステで文法を教える。22歳ごろカルタゴで修辞学(官僚になるひとが学ぶ弁論術)を教えはじめ、26歳ごろ処女作『美と適応について』を書くが、この著作は生前に散逸した。29歳ごろ、マニ教への疑いをもち、マニ教の司教ファウストゥスと話して失望、カルタゴの学生の野蛮さに厭気がさして、母をだまして、ローマにいく。自由七科を学び、ローマではアカデミア派の懐疑論に傾倒する。30歳、ローマ市長官シュンマコスの推挙で、ミラノの国立学校の修辞学教授に任命され、ミラノで司教アンブロシウスと知り合い、聖書の読み方(象徴的解釈)を啓蒙される。31歳、母モニカがミラノにおしかけてきて、母の意に沿う相手と婚約する。婚約者は成人まで2歳たりないから待つことになった。当時の女性の成人は12歳であるから10歳くらいの少女と婚約したのであった(山田はあまりに幼いので異説がでるかもしれないとしている)。それまで内縁関係にあった女性は長男をおいて去った。
山田によると、『告白』は母モニカや司教アンブロシウスなど、アウグスティヌスにとって重要な人物の死後に書きはじめられており、内縁関係にあった女性も亡くなっていたのではないかとされている。『告白』は内縁の妻の追悼にもなっているのではないかとのことである(『アウグスティヌス講和』講談学術文庫)。アウグスティヌスは、この名前も残らぬ女性を、ほんとうに愛していたのである。ただし、どうしても女性が好きだったらしく、内縁の妻が去ったあと、婚約者の少女の成人をまつ間に、いわば「つなぎ」の女性ともつきあっている。なんとも正直に書いたものである。まあ、神はすべてを知っているのだから、隠しようがないのだが。
このように、アウグスティヌスは、いわば「酸いも甘いもかみわけた」成熟した男で、言ってみれば、ダンディーだった。『告白』は人間と人生に対する細かな洞察にみち、宗教的な著作ではあるが、現代の心理小説を読んでいるような感じもする。幼児期の自己中心を「ほかの幼児」から自分もそうであったと推測し、少年期の嫉妬や、仲間と「盗むこと」を楽しむため、梨を盗んだと述懐し、少年期も罪から逃れていないことを述べる。現代でも子供が無垢ではなく、自己嫌悪や差別や嫉妬をする存在であることは、児童文学や教育学で習うが、こうした児童心理もアウグスティヌスの著作がその源なのだろう。学校に行く意味が分からなかったり、語学教師の脅迫が恐ろしかったりと、ふつうの子供がもつような感慨ものべている。友人の死にあい、自分も死ぬのではないかと恐れたり、悲しみに沈む自分から逃れられない辛さも味わった。
キリスト教について、若い頃のアウグスティヌスは、神を想像できず、目に見えるものしか信じなかった。かれは新奇なマニ教に傾倒した。マニ教の基本は光と闇の闘いという二元論で、悪の起源を説明しなくてもよく、ある意味ですっきりした教えであった。聖者が植物を食べると、その内部にとじこめられている「光のかけら」(生命)が解放されるとマニ教は説いていて、アウグスティヌスもせっせと「聖者」に食べ物を貢いだ。マニ教の有名な司教ファウストゥスにあって話をしたが、結局、悪の起源などの問題については、ファウストゥスも無知であり、失望することになる。しかし、アウグスティヌスはファウストゥスが「自分が知らないということを知っている」ことはみとめ、「心がある人」だったとしている。ローマで再会した地元の友人と語るうちに、神は至善至高なのだから、悪に傷つけられることがないはずだから、神が悪と戦う必要もないことに気づき、だんだんマニ教をはなれて、アンブロシウスの話をきくうちに聖書の解読法にもめざめて、カトリックにひかれていく。結局、悪は人間の自由意志に根ざすという結論になる(仏教の煩悩のようなものじゃないかと思う)。神は悪をも善用して世界を全体として美しくつくったが、悪だけをみると悪は依然として醜いとなる。友人といっしょに財産を共有し、俗世をはなれ、修道院のような生活をしようとも計画するが、ともに暮らす女性のことも考えると、そうもいかず、やめたりもしている。
母モニカは自分をだましてローマにいった息子を追いかけ、地中海を船でわたった。途中で船が難儀にあったが、信仰深いのか胆がふといのか、こんなことで自分が死ぬはずがない、かならず神の加護があると信じて、気落ちするどころか、かえって船乗りを励ました。モニカはそういう女性で、生涯息子がキリスト教徒になることを望んでいた。なかかなたくましい女性である。
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一者はいたるところに存在しながら、しかもどこにも存在しない、という新プラトン派の思想が面白い。1巻ではマニ教の影響を受けた青年期の人生を主に描く。
松崎一平氏の解説では訳者の山田晶氏との思い出が描かれているが、古い良き?アカデミズムの世界があったかのようで羨ましかった。
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アウグスティヌスが自らの半生を回顧した自伝としての性格を持つ本作。本巻では30歳までが語られるが、まずは読み物として大変おもしろく読んだ。
少年時代、教師の笞が恐くていやいや勉強したことや、逆にほめられて得意になったこと、好きな教科や苦手な教科の話などを読むと、偉大な教父もやはり人の子であったかと、親近感を覚えずにはいられない。
16歳の時、悪友たちとつるんでいたいだけのために盗みの罪を犯したことについて、著者は厳しい自己批判を加えている。だが、仲間と群れたがり、あるいは意味もなく社会に反抗的になりがちなこの年代特有の傾向と、アウグスティヌスも無縁ではなかったということだろう。
一方で、早くから修辞学の才能を示したり、アリストテレスの著作を難なく読みこなすなど、やはり非凡なところは非凡なのだと感じさせる。母モニカや親友たちの人となりも、エピソードを交え生き生きと伝えておりほほえましい。
とはいえ本書の核心をなすものは、青年期にキケロの著作を読んだことから真理探究の道を志すことになった著者の、いわば魂の遍歴にあるといってよい。
キリスト教にどこかで心惹かれながらもマニ教にはまってしまうアウグスティヌス。だが、ギリシアの自然哲学を学ぶにつれマニ教にも疑問を感じるようになり、果ては当時流行の懐疑主義に逃げ込んでしまう。
しかし、修辞学教授として赴任したミラノで、司教アンブロシウスの説法を聴いたことが転機となる。かつては荒唐無稽に思われた旧約聖書の説話の多くが合理的に解釈できることを知り、新鮮な感銘を受けるとともに、人間の知識の限界も悟り、「信仰」の重要性に目覚めていく。
それでも、ようやくつかみかけた栄達の道もまた捨てきれない。葛藤する心の内を率直に、生々しく語るさまは感動的である。
まるで近代文学のような「苦悩する自己」を描きつつも、どこかカラリとした、地中海の陽の光を感じさせるのが本書の特色であろうか。
ところどころに神への感謝や賛嘆の言葉が差しはさまれるが、篤い信仰心とともに、神に対する深い哲学的思索の跡も感じられる。特に新プラトン主義の影響はそこかしこに見いだされ興味深い。
訳文の読みやすさ、注釈の的確さも申し分ない。
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アウグスティヌス 。
その名前も、この本も、いつから知ってただろうか。
やっと読み始めた。
自伝。告白。これぞキリスト教徒の人生の捉え方。
子供も無垢ではない、罪を犯している。
キリスト教へ辿り着くまでの長い彷徨い。
アリストテレスとの出会いや、マニ教との出会い、失望。
肉欲。
人生をこう捉えるのがキリスト教的なものなのか、という発見。
噂に違わぬ名著。
2巻へ。
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罪深い自分の人生を神に懺悔するという体裁のアウグスティヌスの自伝。古い訳のはずだけど、読みやすくて美しい訳で素敵。若い頃は仲間と盗みを働いたり、ちゃんと結婚できない身分の低い女性とできちゃったりと奔放で、母の信仰するキリスト教の教義を馬鹿にしてマニ教に傾倒してみたりとやりたい放題なのだが、そんなところも生き生きと語られていて面白い。随所で息をするように詩編や福音書から引っ張ってきた表現を混ぜ込みつつ神を賛美しており、多彩で巧みな表現はさすがの才覚を感じさせる。
アウグスティヌスは友を亡くした時を回想して、「まことに私は、ひきさかれ血まみれになった魂をもちはこんでいましたが、魂はもちはこばれるのにたえられなくなり、私は、どこに自分の魂をおいてよいやら、わからなくなってしまいました」と言う。ひきさかれた血まみれの魂をもちはこぶ!まさに、抱えきれない悲しみってそんな状態だなあと思って驚いた。この辺り、やり場のない悲しみが訥々と語られていてとてもよかった。
はじめのほうで、いま述べたことが理解できなくてもかまいません、というところも好き。
「たとえわからなくても、よろこんでほしい。いま述べたことの意味を見いだしながら神なるあなたを見いだしえないよりはむしろ、その意味を見いだしえないことによって、かえってあなたを見いだすことのほうを愛してほしい」
こういうアウグスティヌスの明るい姿勢が全体を貫いているので、楽しく読むことができるのだ。放蕩も、苦悩も、神の導きの過程として割とポジティブに受け入れていてすごい。
地中海を渡って追いかけてきた母モニカの苦労のかいあってか、キリスト教の教義を認めはじめて母の用意した婚約を受け入れる(また違う女と遊んでるけど)ところまでで終わっている。これからが楽しみ。
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本書はルソーの『告白』やゲーテの『詩と真実』と並んで告白文学の傑作とされることが多いが、かけがえのないものとしての自我の探求や、ビルドゥングロマンスといわれる人格の形成・発展を主題とした近代の告白文学と決定的に異なるのは、本書が神の賛美として書かれたということだ。訳者の山田氏が指摘するように、「およそ人間というものがそれだけでは何とみじめな者であるか、それにもかかわらず、この一人の人間をもお見捨てにならない神のいかに偉大であるかを知るため」の書なのである。罪を告白する者は、その告白の中で告白せしめる神の恵みを感じ、それに感謝し、讃美する。そして忘れるべきでないのは、アウグスティヌスが本書を「自己のために」書いたのではなく、「人々のために」書いたということだ。「自身の神への讃美であるとともに、読む人々をして、神への讃美にいざなう」ことを意図した書なのである。そこに共感できなければ、本書は退屈な説教小説に過ぎないものとなってしまうだろう。
マニ教を克服し回心に至る過程を綴った自伝的色彩の強い前半の白眉は、結婚のために離別した最初の女性に対するアウグスティヌスの苦悩とそれが回心への決定的契機となったくだりである。「彼女にすっかり結びついていた私の心は引き裂かれ、傷つけられ、だらだらと血を流しました。」「彼女は・・・、今後はほかの男を知るまいと誓い、私のかたわらに、彼女から生まれた私の息子を残して、アフリカへ帰ってゆきました。」これ以外にこの女性に言及する箇所はほとんどないが、アウグスティヌスが若い頃放蕩の限りを尽くしたという通説に抗して、この数行の中に、あるいはその沈黙のうちに、彼の悲嘆と女性に対する愛と貞節を読み取った山田氏の炯眼はさすがと言う他ない。中世哲学の泰斗にして詩人の横顔も持つ山田氏ならではと言えようか。