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読書人が紙の本をありがたがって読む文化は終焉した。
本好きを自認する者にとっては認めたくはないが、現実はやはりそうだ。
本書の冒頭で著者は、
「普通人が本棚を本で埋めたがる時代は、だいたい(大正末年頃始まり)70年続いて1995年頃終わった」
と、きっぱり断言している。あんたには言われたくない、の真逆で私にとっては何を読むべきかという読書案内の師匠として勝手に尊敬していた関川さんにそんな風に断言されてしまったら納得するしかない。
読書案内の名番組だったBS週刊ブックレビューが打ち切りなってもう3年になる。番組が続けられなくなったのは、やはりというか当然というか本の時代の終焉が理由だろう。3人の書評ゲストが3冊づつの本を紹介し時にけんけんがくかくの談義論議を交わす今はなき熱い書評番組は、毎週2、3冊は買って読むヘビー読書人だった私には読むべき新しい本を教えてくれる必要不可欠な情報源だった。
関川さんは、その週刊ブックレビューの常連ゲストだった。他の2人のゲストが老若男女いかなる分野の論客でも必ずその人たちの言わんとする事を瞬時にくみ取り、3人が偶然持ち寄った思い思いの本たちの根底に相通じるものを見出して「場」をとりもつ座談の名人ぶりは忘れることができない。
例えば、誰か他のゲストが鶴見俊輔さんの追悼文集『悼詞』を紹介したときに関川さんこんな風に喝破した。
「吉村昭も司馬遼太郎も全ての歴史小説は追悼文なんですね。もっと言うと全ての文学は追悼文と言ってもいいんです」
また、どんな本だったかは忘れたが人生相談かなんかの本を評して、
「相談というのは基本的に相談者と回答者の会話だけで構成されているんですね。会話だけで成り立っている小説があるのと同んなじで、相談という会話だけで会話文学、会話小説と言えるもんなんですね。あるいは相談小説、相談文学というものがあってもいい」
とも言った。
日頃、電話介護相談の仕事に携わっていて、ひとつひとつの相談の深さや、それを全霊で受け止めなければなにひとつ応えられない難しさに直面している私は、うん、そう、相談ってのはもはや文学だと言っていい位に深くて厄介で、それでいて人間が生きている手応えそのものだし、正しくそりゃ「文学」だよなあ、と強く納得したものだ。
そもそもこの本のことは、日曜日の毎日新聞の書評欄、ではなく書評欄のページにあった岩波書店の広告で知った。件の週刊ブックレビューが無くなってしまって以来、読むべき本探しは今日のコンビニでフロッピーディスクやカメラ用のフィルムを探すのと同じ時代遅れで難儀なことになった。他に仕方なくて日曜の朝はローソンで毎日と朝日と東京新聞の朝刊を買って三紙の書評欄を全部読むのが日課になった。比較的まともな書評欄がある毎日は新聞の中ではマイナーな存在らしくてセブンやファミマには置いてない。だからローソンなのだが、今はフロッピーディスク並みに時代遅れな存在に成り下がった毎日新聞で、やはり時代遅れの印象が免れない岩波書店の広告を見た。因みに朝日や東京新聞やおそらくは日経読売にも岩波の宣伝は載って無いんじゃなかろう���。
頑なに「時代遅れ道」を歩んでいるかのような岩波書店の一冊と私はそんな風に出会った。
『文学は、例えばこう読む』というのは、関川さんが数々の名著の文庫本に書き下ろした、珠玉といっていい解説文を集めたこの一冊のタイトルとして言い得て妙すぎる。そして、「例えばこう読む」んだよという関川さんの解説の語り口こそが「解説文学」といってよい至高の芸術だと思う。
至高の芸術ぶりをひとつだけ紹介しよう。
『「旅先」の人 ー 佐野洋子の思い出』は、佐野洋子の『死ぬ気まんまん』に寄せた解説に名を借りた追悼文だ。その中で、佐野さんと母のエピソードをひとつだけ関川さんは切り出して読者に提示する、
「五歳のとき、母親の手を握ろうとして振り払われた。それは強烈な体験であった」
見事すぎる切り出し方だ。その彼女の母とは最晩年に『シズコさん』で彼女が描いた実母のことだと大抵の読書人なら知っている。
シズコさんだけじゃない。もう1人、カタカナの名前の人物について関川さんは披露する。それは、「セキカワ」と気安く呼び捨てにされるほどに親しい間柄だった彼だからこそ聞き得て記憶にとどめることができた、作家佐野洋子の誰も知らないエピソードだ。40歳以上の者なら「ハチヤ シンイチ」と聞いて、即座にではなくともよく思い出せば、ああと思い当たるはずだ。歴史的テロ事件だった大韓航空機爆破の犯人だった蜂谷と称する男は、生き残った蜂谷真由美とは対照的に正体も素顔も全く知られないまま忘れられた存在だ。
そのハチヤシンイイチが旧知の北朝鮮人と瓜二つで同一人物だと思えてならない。関川さんは佐野洋子からそう聞かされる。その人物と佐野さんは留学中のベルリンで出会った。京城の資産家の家に生まれ日本に留学し慶応に学んだその男は、やがて財産も国籍も消息も失い、「よるべない」流浪の闇に消える。歴史的事件という普遍的記憶から、ある作家の極めて個人的な記憶に収斂した話を聞いた解説者の記憶はまた究極の個人的なエピソードといえる。
そうしてその事実は、今まさに解説者関川が解説の対象にすべき佐野さんの人生と作品の底に歴として流れる「よるべなさ」に通じる。究極の個が究極の普遍に一気に転じる展開は芝居の大どんでん返しのようだ。これを「解説」の中でやってのけているのは関川さんの解説の妙である。
1人の女流作家への「追悼文」は「解説文学」でもあり、見事な関川芸術といっていい。
市井の一読書人に過ぎない私だが、もしいつか関川さんの著作が関川さんの死後文庫本になることになったら、絶対に私が解説文を書きたい。あり得ないことだが、究極の追悼文学、解説文学として私が書きたい。
『文学は、例えばこう読む』は、そんな不遜な願望にとりつかれてしまうほどの一冊である。
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一冊目の「解説する文学」と同じ趣向というか、関川さんの仕事の集成なんだけれど、ちょっと緩んでいる感じがして残念だった。ただ佐野洋子の作品評は心打たれた。まあ、もちろん彼女の作品のファンであることや、彼女の最期の日々を撮ったドキュメンタリー映画があったと思うが、それをぼくは残念に思っていた。そういうことがあったから、関川さんの佐野評にホッとしたということかもしれない。
韓国や朝鮮に関する作品に対する彼のポジションというか、考え方は、やはり勉強になった。
読んだ本が多かったが、もういいど読もうかと思ったのは、佐野洋子だけだったというのが、結局のところこの本に対するぼくの評価だったということだ。
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「生き証人」だなと思った。いや、なんらかの事件に立ち会ったわけではないが、この著者は本を頭で読んでいない、と思ったのだ。身体で受け留め、その身体から全身で言葉を発している(抽象的でスカした言い方になるが)。思想信条としては保守的でアナクロニズムと位置づけられうるのだろうこの著者はしかし、凡庸な感傷に流れることなく身体に刻み込んだ読書体験や実体験を駆使して一冊の本とガチンコで勝負し、そこから言葉を発しようとしている。故に、斬新というか珍奇な結論はない。が、読み応えあり。良心的なオヤジのハードボイルドな解説集
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関川夏央は、本書のあとがきで、文庫本の「解説」の役割について、下記の通り書いている。
【引用】
遠い昔、文庫本の「解説」にはお世話になった。「解説」なしでは作家と作品の関係が見えず、またその本の歴史的な位置づけができなかった。
【引用終わり】
関川夏央にとって、文庫本の解説は従って、少なくとも、「作家と作品との関係を示すこと」「その作品の歴史的な位置づけを示すこと」が役割として求められている。そのためには、その作家がどういう作家で、どういう作品を書いてきたのか、その中でこの作品はどういう意味合いを持つのか、あるいは、その作家が活躍した時代とはどういう時代だったのか、逆に言えば、その作家が時代からどのような影響を受けていたのか、等が示されていることが必要だ。確かに、このような「解説」がなされていれば、その作品を味わい、理解するのに助けになる。
関川夏央は、多くの文庫本の解説を書いているが、このような考えを持って、解説を書いてきたのである。
そして、「"解説"はもう少し長く読まれてよかろう。仕事の報われなさに少なからぬ不満を抱いていた」のであるが、これまで関川夏央が書いた解説を、書籍の形にする提案を出版社から受け、「喜んで応じた」のである。この本はそのようにして生まれた「"解説"する文学」シリーズの2冊目であり、これまで関川夏央が書いた文庫本の解説で構成されている。
1冊目は既に感想を書いているが、司馬遼太郎の「司馬遼太郎対話選集」全10巻の解説が多くの割合を占めている。私は、この「司馬遼太郎対話選集」という本を読んだことがないが、関川夏央の「解説」を読むことにより、司馬遼太郎がどのような作家であったかの一端を知ることが出来たし、また、その「解説」だけを楽しみながら読むことが出来た。「解説はもう少し長く読まれてよかろう」という関川夏央の不満には一定の根拠があるのだ。
2冊目の本書では、ナンシー関、河口俊彦、内田樹、伊丹十三、佐野洋子といった作家による、私が読んだことがある作品の解説があり、それは読んだ本を思い出しながら「解説」を楽しんだ。佐野洋子の「死ぬ気まんまん」に至っては、関川夏央が佐野洋子から彼女の癌が転移したことを打ち明けられる場面から「解説」が始まっている。まさに「死ぬ気まんまん」がどのように書かれたかを間際で見て知っていた者しか知り得ない情報を含めて「解説」が書かれており、作品理解にはこれ以上の「解説」は考えにくい。
その他の「解説」も楽しく読んだのは1冊目と同じであり、いくつかの本は、実際に読んでみたいとも思った。この「解説」本は、ブックガイドとしての役割も果たしているのだ。