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読み終えた後、やっぱりわたしはこの著者が好きでない、ということを一番に感じました。ほんと相性なのか、嫌悪してしまう。とくにこのようなリアルに近くして書くエッセイ作品は、著者の内面が出てしまうし、ナオコーラさん自身も隠そうとしていないのが本文からも見て取れる。
内容としては、ベランダエッセイ、や、観察絵日記と言った方が良い感じ。これは嫌いではない。ベランダ菜園に勤しみ、様々な発見、喜びを淡々とつづるのは、園芸紙に寄稿してる読み物のようで楽しかった。(実際はWebちくまだから違うけど)7割以上がベランダ菜園のこと。残り3割がナオコーラさんの内面、これがほんと嫌気さすほどにうんざり。
目立った仕事をすれば叩かれる。ブスは引っ込んでろとか言われる、文学賞の候補に挙がったところで受賞に至らない…などなどそれらのリピート。よほどネックなんだろうがあざとい。好きじゃないなー、ほんと。ご本人をもちろん知らないけれど、自身が描く自分自身のを反映させるエッセイを読む限りでは、、ほんとだめだ、この人。
旦那さんの年収は200万らしく、その生活レベルに合わせる努力をしているんだけれど、自分が下げたレベルでは到底暮らせず、合わず、いまのところより6万安いマンションに引っ越すことにした。とか。
どれだけ稼いでるのかは知らないけれど、そういう風なこと、本として残す必要あるのだろうか。
けど、あとがきはなんかさみしくてよかったです。文学賞受賞して幸せだと思える日々がくるといいですね。ほんと。
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劣等感まるだしで親近感湧く。
オンナは可愛くて馬鹿がイチバン。
かしこいぶすは愛想良くするしかない。
旦那さん書店員さんって、素敵!
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ナオコーラ氏の新刊⁈ と思ったら、まさかの?園芸(中心)エッセイだった。間引き苦手の件は共感。このことば自体好きぢゃない。使わないようにすらしてしまう。個人的趣味では、ナオコーラ氏は小説が断然おもしろく、エッセイは苦手。なぜだろう、同じ人が書いてるのにね!
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「好きだ、ナオコーラ!」
と思いながら読んだ。
私生活も批判されている事も知らずに、
新刊を見かけたら嬉しくなる作家さん。
小説もいいけどエッセイも好きで良かった。
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作者の正直さが好き。世間に媚びない所が、小説の視点に現れてるって分かって、この人の作品が好きな理由が分かった。
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ベランダ菜園に関するエッセイ。
花というよりも収穫できるものを好んでいるところに共感。
あたしも食べられる植物のほうが実用的で好き。
以前、ベランダでそら豆やプチトマトなどを育てたことや(そら豆はアブラムシに悩まされた)、食べ終えたネクタリンの種をプランターに埋めたことを思い出した。
8年ほど前から田舎暮らしになり、ベランダから畑へと規模を拡大したが、雑草の勢いには勝てず3、4年で断念。
面倒見がよい、面倒くさがらない人でないと園芸やペットの飼育は無理なんじゃないだろうかというのが結論。
ただ、バジルやルッコラは食べたいので、その手のバーブ類だけはプランターでチマチマ育てているのが現状。
心を入れ替えて、家庭菜園復活させるか!?
エッセイを読んでいると見晴らしの良いマンションぐらしにも憧れます。
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ナオコーラさんのエッセイ。主にベランダ菜園の話ですが、なんだか本当に普通過ぎる文体だったので、ご本人が普段話している感覚なのかなぁ、と思ったり。何気ない日常のエッセイの中、ご結婚の報告をされていました。その後、お子さんの事で悲しい出来事があったり、と。今のナオコーラさんの心情がギューッと詰まった一冊でした。
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エッセイ。栽培。山崎ナオコーラさんの言いたいことを聞く、みたいな感じ。まあエッセイってそうか。P.99にあるような著作への大バッシングを私は知らないし、著者に興味が湧かないと読んでいられないかもしれない。
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2014.9.25ベランダ菜園についてのエッセイ。ほとんどかそのことなのだが、時々、特に後半、山崎さんの日常、そして考えていることが書かれている。それが、とっても暗くて時に投げやりでびっくりした。最後、マンションを引っ越しされるのだけれど、それが、年収200万円の夫と暮らすには住むところのランクを下げなくてはならないなんて書いてあって、こんなこと書いて大丈夫か?と思わず、山崎ナオコーラで検索してしまった。そしたら、山崎なおこ(山崎さんの本名)で反応して、山崎なおこ離婚ってあって、やっぱり〜って思ったら違う、有名な人でした。(実際はナオコーラさんの本名と同じ漢字で検索出たんですが、あえて漢字では書きません)ちょっと感覚が変わってて、好きではないけれど嫌いでもない感じです。芥川賞候補になるたびにバッシングを受けられたという作品、読みたいと思いました。
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小説じゃなくてエッセイ。同じく植物好きと知り親近感。
ベランダでプランター栽培とガーデニングをして、その記録。
というか自分と考えていたことが全く同じだったりして、面白かった。あと相変わらず強いというか強がりと思われたくなさそうというか。
年齢が近いこともあって結婚観、子供産む産まないのこととか、タイムリーだった。
結婚してたとはなー
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ナオコーラさん結婚してたんですね、おめでとうございます。植物を育てる植物エッセイ。それはまあまめまめしく育てています、時おりご主人のことも出てくるのでたのし。この本を読んでネギの下を植えてみた。
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山崎ナオコーラの「太陽がもったいない」と題されたエッセイは、小説よりもホンの少し優柔不断な作家の心情が垣間見える。エッセイなのだから当たり前とも思うけれど、この作家の綴る言葉にはいつでも作家の志向が隠しようもないくらいに溢れていて、小説を読んでいてもどこかしら作家の決意表明を読んでいるような気分となるのが常だ。 自分自身の思いが主人公に強く投影されているので、読みようによっては私小説的とも受け止められてしまうだろうと思うくらいに終始断定的な言葉が並ぶ。その響きそのものには大きな違いはないと思う。それなのにこのエッセイには、大いに迷いがある。かつてベトナムで河を渡るフェリーと間違えて乗った船に100キロメートルも離れた漁港に連れて行かれても平然としていたような思いきりの良さは影を潜める。一つひとつの選択肢に意味を与えようと思考を巡らせる作家の苦闘が滲み出る。それが迷いと読める。
山崎ナオコーラは引きこもりのようでいて行動的である、その均衡にこそ魅力があると思う。それなのに、このエッセイの中の彼女は外に出て行く気配が薄い。植物に注がれる視線と愛情ばかりが過多で、読み手の側にもその緊張感が伝わってくる。息を詰めてじっと植物の成長を見守らなければならないという作家の使命感が醸し出す息苦しさが伝播する。少々強引なくらい山崎ナオコーラは世間の有り様を自分自身の価値観で捉え直す傾向がある筈なのに、その自分に対する信頼感がいまひとつ足りていない。自己中心的なくらい一人で立っていてもそれが絶妙なバランスで嫌味にならなかったのは、外へ外へと向く視線と思い切りの良い行動による他の価値観の吸収にあったように思うので、少し心配になる。
それでも新しい小説を書く意欲も取り戻したようだし、このエッセイに書かれた時期は作家にとって種の状態になっていた時なのだろうと想像する。太陽がもったいない、と思うくらいなのであれば、燦々と陽を浴びて次なる作品に取り組んでいるに違いない。間もなく出版されるという新作に期待。
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前半は楽しい園芸エッセイと思いきや、進むにつれ表現や(奇形、とか、水仙と女性とか)小説家としての人生についても書かれていて、思いの外重たかった。真面目だった。見晴らしの良い家から、将来のことを考えて引っ越すまで。エッセイとはいえ、後書きで側から見たら最もプライベートなことについてあっさり書かれていてちょっと驚いた。人ではなく本と向き合って仕事をしていく、という決意表明。短くてスパスパ刺さる言葉。
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単なるガーデニングエッセイかと思いきや、ナオコーラさんの根底にある思想を垣間見ることのできる1冊。
共感できる部分がとてもたくさんあったので、メモしておきたいと思う。
西加奈子さんしかり、同年代の作家で共感できる想いをもって日々活動されている、そのことだけですっごく励まされる。
世間から好かれない考え方だと思うが、私は、今まで生きてきて、上の世代の人たちが言うことや、祖父母や、父母や、夫の意見を、全面的に信じたことが一度もない。失敗しても、世間からバッシングされてもいいから、自分の一存で人生の選択をしたいと思う。とはいえ、この「自分の考え」というのも、多くの人から影響を受けて作ったものなので、完璧にひとりっきりの考えではないのだろうが。しかし、知らず知らず誰かの意見をなんとなく信じてしまったときは、自己嫌悪に苛まれる。人に影響されたとしても、「自分で考えた感」を持ちたいのだ。(p68-p69)
他の意見を尊重して選ぶ、というのも、人生の選択としてありに決まっている。ただ、私は、「だったら、のちのち愚痴を言うなよ」と、つい思ってしまう。「あの人がこう言ったから」とか、「あの人のためにしたかったのに」とか、ひとことも言うなよ。その人の意見を選ぶ、と自分で決めたんだからな。数ある意見の中から、その意見を自分で選んだんだからな。私は意地悪になる。(p69)
多様性のある社会だからこそ面白いのであって、子を産まない女性に理解ある男性だけが生き残る世界は、それはつまらない社会だ。(p145)
私は、政治家の悪口は言わないことにしている。理由は、政治だけで国を作っているわけではないからだ。皆で国を作っている。経済で、雑談で、文化で、スポーツ交流で、建築で、言葉で、写真で、演劇で、通訳で、料理で、洗濯で、子育てで、インターネット書き込みで、国を作っている。どうして日本の未来を政治家だけに背負わせた気になって、傍観者のように悪口が言えるのか。
私を「ぶす」だと言って目立つ仕事をさせないようにし、ただ「いても良い」とする世間に対して、作品を発表し、仕事を続けていくのは、正直なところ、辛い。日本は生き辛い。しかし、それは、政治家が悪いのでも、批判してくる人が悪いのでもない。私が悪いのだ。書きたいことがあるのに、それを文章に起こす能力がない。社会を変えるパワーを持った、働き盛りの三十代なのに、こういう世間しか作ることができていない。この国を選んで仕事をし、この国を作っている、それなのにこの国を生き辛く感じる私が悪い。もっと文章力を身につけなければならないと思う。(p158)
自分の力ではどうにもならないこと、いや、人間の力ではどうにもならないこと、というのが世界にはある。わけのわからないものの意志によって、自分たちの休暇が訪れる。もしかすると、わけのわからないものの意志によって、いつかは、恵以会陰に続く休暇が訪れるのかもしれない。それは寂しいことだが、でも、それが世界だ。(p167)
「この場所は、私のものだ」という言葉は、人間が心の底に持つ、潜在的な欲求を表したもので、この科白をのびのび言えたらどんな���いいだろう、と憧れる。だが、この科白のせいで戦争が起こったり、ときには弱者が追い出されたりもしてきた。(p180)
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P212 文学もそうだ。私は、文学に対して片思いでいい。世界に対してそうであるように。勝手に愛させてもらえればいい。自分にとって面白く感じられる愛し方を見つけるために、読書をしたり、文章を書いていったりする。いつも章句物に対してそうしているように。