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雪国の血を引いてはいても、雪国で暮らしたことはありません。
そのため、想像はできても実感に乏しく、雪かきの大変さも灯油ストーブの煩わしさも、肌で感じたことはないのですが、そうした雪国の生活を、未経験の読者にも感覚させ、共有させるという点で、『ちちゃこい日記』は傑作ですし、そこに作者の狙いがあったのではないかとも思いました。
漫画でも小説でもいいのですが、読者と作者との感覚の共有とは、読書における最も幸福な境地であるといえます。ではいかにしてそれを可能にするかというと、まずもって細部の描写にかかっているのではないかと私には思われます。
第1話から目を惹かれるのは、背景の丁寧な描き込みです。それはたとえばリビングにある家電のなにげない配置であるとか、雪の降り積もる道にぽつんと置かれた砂箱(私は砂箱というものを知りませんでしたが)などにみられるもので、本書を読む楽しみは、ひとつにはそうした細部を読む楽しみといえます。
踏切待ちをしながら電車のなかの家族を眺めるユキコのシーン、そしてユキコとピータカがはじめて手をつなぐシーンは、以上に述べたような細部の丁寧な描き込みが、登場人物の心裡とも溶け合った、尊い瞬間であったように思い、心を動かされました。
また人物の描き方という面でもある特徴がみられます。ユキコにしてもピータカにしても、それに悪童イノの影を背負った感じにしても、相当に複雑な家庭事情をうかがわせるのですが、作者はそれを正面に据えることはせず(ユキコの家庭についてはある程度まで詳しく描かれますが)、あくまで物語の背後ににおわせることにより、読者に彼らの生活の余白を読ませる=共同参画をうながすことに成功しています。
そこにもつながるのですが、好いた惚れたといった感情の揺れ動きを、直接にではなく、ほのめかしていく姿勢とその自然さに好感を持ちました。言いたいことを直裁に伝えるのでは、スローガンと変わるところがありません。文学や漫画といった媒体は、結句迂遠な表現形式です。そうであってみればその迂遠さをいかに豊かに描くかが大切だろうと思います。
細部と感情の機微。日常生活では捨象されがちなそうした部分を丁寧にすくいあげていく『ちちゃこい日記』のあり方は、アントン・チェーホフや三浦哲郎の作品にも通じるように感じました(雪国つながりでいえば、ウラジーミル・ナボコフの自伝『スピーク・メモリー』やその他いくつかの短篇にも)。
唯一、これは私個人の感想ですが、2巻から登場するイノの存在は、いささか露骨だったように思います。ユキコと周囲に対して露悪的にふるまう彼にも彼なりの事情があるはずなのですが、結果としてユキコとピータカの仲を進展させる、一種の<機械仕掛けの神>に近い役割が主張されすぎており、なんとなくですが、<そぐわない>という感覚を覚えました。
とはいえこの<そぐわない>という感覚、成長にともなう居心地のわるさを自覚することこそ思春期であるともいえて、してみれば物語の当初、ユキコが町に対して感じていた鬱屈も、イノが抱える<そぐ��なさ>に共通するものなのかもしれません。その意味では、ユキコにもピータカにもイノにも、あるいはもうすこし大人で俯瞰的な立場にある悟にも、苦さをともなう成長の機会が等しく与えられており、思春期が人にあたえる最大の恩恵とは、もしかするとこうした苦さなのかもしれないと思いました。
再度言いますが、この漫画は傑作です。