紙の本
デクノボーとしての我ら
2009/05/17 19:48
6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:kc1027 - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書で著者は経済成長という病を静かに自省し続ける。
サブタイトルは「退化に生きる、我ら」。
今の社会を「自分ごと」として眺めたときに見えてくるのは、
人が人らしく生きる基盤が失われ、底が抜けてしまった世間で
オロオロする「我ら」の姿だ。そうなってしまったのは何ゆえか?
経済成長は「貧困からの脱出を図るための進化」という夢と共に
近代国家の至上命題となった。いつの間にやら自己目的化した
経済成長の中で人間という種族は、生きる基盤さえ直視できない程に
どうやら退化を始めてしまったようだ。著者曰く、「過剰は、
その病理に自らが気づくまでは、いかなる処方も困難なのである。」
それにしても、本書を読む私のうちに沸いてくるこの安心感にも
似た思いは何だろう。経済社会の主役である企業は、ヒトモノカネを
切り売りしながら肥大化していき、自らの過剰さという病理によって
いったんリセットされつつある。それでいいんじゃないか?ボチボチ
やるのが普通なんじゃないか?という考えは、人を落ち着かせる。
企業も政府もその辺のお役所の仕事も、本当は普通の人が普通に
頭が混乱したりしながらやっていた、ということに気づき、それを
伝えるメディアにも、これから盛り上がってくる裁判所にも特別な
人なんてあんまりいない。国家や大企業が掲げる経済成長などと
いうマクロな話に惑わされずに、自らの頭で考えて自らの体で生きて、
愛すべきものを愛するだけで充分、退化するならお互いで助け合う
しかないと腹を括ってしまえば、そんなに悪くないはずなのだ。
本書を読み終えて思ったことがある。
我らみんながやがて、生活者であり消費者であり労働者であり、
上司であり部下であり、債務者であり債権者であり、裁判員にも
原告にも被告にもなりうる世の中で、家族以外に共に退化を生きると
したら、それは「師」ではないだろうか。上手に退化していく術を
知っている「先生」だ。本書の落ち着きは、知らず知らずのうちに、
私が著者を師と感じてしまったからかもしれない。それはなぜか、
うつむき加減に田畑を歩く宮沢賢治のイメージと重なっていた。
デクノボーとしての我らは、欲もなく、決して怒らず、いつも静かに
笑い続けることが出来るだろうか?
紙の本
長期的な意識改革と短期的な経済成長の話が混濁している !?
2010/09/17 23:18
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Kana - この投稿者のレビュー一覧を見る
リーマン・ブラザーズが破綻し,人口が減少しつつあって,もはや経済成長がのぞめないなかでも経済成長によってさまざまな経済・社会の問題を解決しようとする政治から個人の意識までもが批判の対象になっている. 批判の重点は近所でたすけあうような共同体的なつながりがうしなわれてしまったひとびとのありかたに向かっているようにみえる. それは政治・経済というよりは個人の倫理の問題だろう. にもかかわらず 「経済成長」 を本のタイトルにしているところに違和感を感じる. 個人の意識から改革していかなければならない長期的なながれと,きょう,あるいはあすの雇用を確保するための経済成長とをいっしょに論じているところには,無理があるとおもわざるをえない.
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友人のtu-taさんのブログを見て、読んでみようと思った一冊。
一言でとても読みやすい本だった。
平易に書かれていたというのではなく
自分のような一般人がうまく言葉に表せない今の世の中のモヤモヤや
クエスチョンマークを書き示してくれたような感じがする。
例えば、
「果たして、消費資本主義に浸かりきった現代人は、その価値観を変更することができるのだろうか。
たぶん、価値観を変えることも、生活を変えることも恐ろしく難しいだろう。
誰もが、本心からそのように思わなければ、何も変わらないからである。(P45-46)」
「かくして、経済対策も、医療対策も、教育方針も、人口対策も、経済を持続的に成長させる
という前提のもとに設計され、施行される。経済成長は、人間の社会が達成しなければならない
ほとんど唯一の目標となる。ほんとうは、経済が成長するか鈍化するかは
人間の社会の様々な要因が生み出す結果であり、成長への期待はただの願望であり
妄信に過ぎないとしもである。しかし、なぜか経済がマイナス成長するという前提は、禁忌とでもいうように
遠ざけられ、よくとも見てみぬ振りをされてきたのである。」(P65〜66)
「グローバリズムとグローバル化は違うのである。グローバリズムの結果、世界がグローバル化してゆくのではない。
世界がグローバル化するのは、民主主義の発展や、科学技術の発展を背景にした自然過程だが
グローバリズムはアメリカないし、その随伴国が、世界の富を収奪し、貧富を固定するための
国家戦略だからである。」(P74)
「多様性。国際性。市場性。実効性。自己責任。自己実現。これらは一連のマインドセットであり、
グローバル化する世界の中で、市場競争に打ち勝つために必要な経済合理性を
担保する思考方法を構成する特徴的なワーディングなのである。」(P94)
アメリカ合理主義の参照者が褒め称えるダイバーシティーという価値観は
多様というよりは、個々の欲望の目先が細分化し、お互いがお互いを参照する必要のないところで
自己決定、自己実現しようともがいている光景だとしか思えないのである」(P97〜98)
これらはふんわりとは自覚していたものの、実は言説かされていなかったことのように思う。
少なくとも、自分自身の言葉として現れていなかった。
なぜ経済成長する必要があるのか、活性化する必要あるのか。
成長、活性化ありきの議論ではなく、その必要性を考えて見る必要があると思う。
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■いただいた本。
■エッセイというか論文というか、脈絡がないというか一貫性がないというか。
■あまり心に残らないで読了。
■当たり前のことを当たり前にやる難しさ。
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読書会をするために読んだ。少子高齢化であるし、中国や東南アジアの台頭が著しいから、色々な問題を抱えている日本がこれから経済成長を迎えていくのは困難である。経済成長は悪いことではないが起こる可能性の低い目にすべてを賭けるのは無謀である。しかし政府の政策を見ているとありったけの掛け金をつぎ込もうとしているように思える。そうではなくて経済成長しないときのためのことを考えて政策を考えるということが大事なのだろう。そういう病。ただ、現在20代の人間はおそらく、この病にはとらわれていない。マスコミたちがこれから日本に起こるであろう悪夢をすり込んだからだ。だから僕たちの世代がこの本を読むよりは、もう少し前の世代が読むべきなのだろう。バブル時代の夢から覚めない人間なんかが読むべきだろう。そういう人はこの本を手に取らなさそうだけど。
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1950年生まれの団塊の世代が経験した戦後日本の辿ってきた道を概観し、経済成長とは日本人・日本社会にとって何であったのかを身の回りで起こった些細な現象にコメントを加えながら書き綴ったものである。
経済学者岩井克人の言う資本主義社会の3要素、言語・法・貨幣。
ただ単なる交換手段であり、貨幣は貨幣であるから貨幣であるという自己循環論法からすると、それだけのものであるにもかかわらず、貨幣欲が過ぎてしまった戦後世界。
その結果、人間社会で重要な要素である言語・法への悪影響も多大であった。
二十一世に生きる君たちへで司馬遼太郎が指摘したように「いたわり」「他人の痛みを感じること」「やさしさ」この三つの言葉は、もともと一つの根から出ている。
根といっても、本能ではない。だから、私たちは訓練をしてそれを身につけなければならないのである。
はてさて、日本人に自らが適切な「訓練」方法を見出す21世紀となって欲しいものである。
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[ 内容 ]
金融危機は何を意味するのか?
経済は成長し続けなければならないのか?
なぜ専門家ほど事態を見誤ったのか?
何が商の倫理を蒸発させたのか?
ビジネスの現場と思想を往還しながら私たちの思考に取り憑いた病と真摯に向き合う。
[ 目次 ]
序章 私たちもまた加担者であった
第1章 経済成長という神話の終焉(リーマンの破綻、擬制の終焉 宵越しの金は持たない―思想の立ち位置 専門家ほど見誤ったアメリカ・システムの余命 経済成長という病 グローバル化に逆行するグローバリズム思想 イスラムとは何でないかを証明する旅 「多様化の時代」という虚構―限りなく細分化される個人)
第2章 溶解する商の倫理(グローバル時代の自由で傲慢な「市場」 何が商の倫理を蒸発させたのか 私たちは自分たちが何を食べているか知らない 街場の名経営者との会話 寒い夏を生きる経営者 ホスピタリティは日本が誇る文化である)
第3章 経済成長という病が作り出した風景(利便性の向こう側に見える風景 暴走する正義 新自由主義と銃社会 教育をビジネスの言葉で語るな テレビが映しだした異常な世界の断片 雇用問題と自己責任論 砂上の国際社会 直接的にか、間接的にか、あるいは何かを迂回して、「かれ」と出会う)
終章 本末転倒の未来図
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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(「BOOK」データベースより)
金融危機は何を意味するのか?経済は成長し続けなければならないのか?なぜ専門家ほど事態を見誤ったのか?何が商の倫理を蒸発させたのか?ビジネスの現場と思想を往還しながら私たちの思考に取り憑いた病と真摯に向き合う。
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かつて日本経済のバブルが弾けたとき、政官財の護送船団方式を批判し、否定したのは、アメリカではなかったか。そのアメリカが昨年9月のリーマン・ショック以来、なりふり構わず大企業の再建・援助に、躍起になっているのはどうした理屈であろうか。
思えば、アメリカが振りかざす「正義」の旗はなんと醜いことだろう。無理な戦争を仕掛け、世界中の富を簒奪するような金融システムを構築しておきながら、やれ自由だ、やれ機会平等だと、もっともなことをいう。
日本国内でも、100年に一度の危機という言葉が随分、あちらこちらで叫ばれている。どこかの党首は全治3年という。しかし、100年に一度の危機というのを規模で捉えるのではなく、思考パターンそのものの転換で捉えなければならぬのではないだろうか。すなわち、経済は永遠に成長し続けるというまやかしからの転換で。
現行の経済対策だけでなく、医療対策も教育対策も少子高齢対策も、すべて経済はこれからも持続的に成長する(させる)という前提のもとに設計されたうえで、実行されている。人口が減少していく日本が、本当にこれからも経済を持続的に成長させ続けることができるのか。GDPや各種企業統計などといった数字に振り回されてはいまいか。
日本の社会は概ね「成熟」したと言える。なにがなんでも「成長」にいつまでもしがみついていては、本当に捉えるべき現実が見えなくなるのではなかろうか。
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この本の注意すべきところは、経済成長そのものを悪だといっているわけではないということ、また現実的な代替案を述べているわけではないということである。
経済を成長させるといったことを前提に議論を続けることにいったん疑問を持つ。そもそも経済成長を妨げる要因に市場の縮小であったり少子化があげられたりする。だがこれは原因と結果が逆転してはいないか?経済が成長し社会が成熟してきたからこそ少子化が進んできたのではないだろうか。そうであるなら人口減少していくのは当然のこととしてこれからの社会の設計をすべきではないか、というのが筆者の主張である。
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リーマン・ショックやそれと共に起こった世界的な不況が起こった原因をあれこれ分析する本は何冊も出ているが、この本はそうした原因の追求ではなく「内的な必然」を考える、つまり社会のメンバー全体が一連の「事件」にどこかで加担してきたことを確認する本だと言えるかも知れない。社会のあらゆる問題への処方箋が経済成長という言葉でまとめられることへの疑問の呈示。人口が減少し、経済が均衡するのは原因ではなく結果ではないか。経済が右肩上がりを止めた後の社会の作り方を考えるべきではないか?そういう視点を与えてくれる本。
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2年越しでようやく読めた本。
読み進むにつれ、社会システムにまで言及されていて、真ん中をすぎたあたりから読むのが止まらなくなりました。
話題は少し古くなってしまったけど、そのことを差し引いても今のタイミングで読むことができてよかったと思いました。
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経済成長がすべて、という今の流れには自分も違和感を感じるし、これからの高齢社会、人口減少した社会に見合った経済規模にシュリンクすべきというのもわかる。ではどのようにしたらよいのか、という点がはっきりせず、もどかしい読後感でした。企業が海外進出をやめて国内で雇用創出してくれるまで待てばいいのか、僕らが余計なモノを買うのをやめたらよいのか・・・。
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難しい本です。経済哲学と呼んでもいいかもしれません。
著者は表面的にはサブプライムローン問題、リーマンショックに端を発する金融危機を取り上げ、経済が暴走する様子を批判しているように見えます。本書で著者が書いているように、本来の商売とはモノやサービスと金銭との交換で、それが経済を構成しているべきモノだという考え方には賛同します。
ですが現実には、実態のない金融商品に値段がつけられ、その値段に根拠がないことが露呈して価値を失うという現象が起こっていました。本来の金融商品は、現物(実際のモノ)の相場が乱高下して大きな金銭的損失を被るリスクを小さくするために考えられた商品でした。それが本来の意味を離れ、投機としてお金を生む手段と変容したことが、今回の金融危機を生んだといえるのではないでしょうか。
ですが作者が批判したいのは、そんな表面的な部分ではないでしょう。現代社会が大前提としている、「経済は成長しないといけない」という概念をも疑ってかかっています。経済成長を追い求めてきたことで、私たち現代社会に住む人は皆、もっと大事なものを失ってしまったのではないか、という主張が見えます。
私たちが何を失ってしまったのか、どうあるべきなのかは明確には示されていません。そのことが本書の読解を難しくさせているのですが、答えを自分たちで考えていかなければならないのでしょう。作者が答えを隠した意図は別のところにあるのかもしれませんが、自身の見解を示すことで、それが正しいか正しくないかの議論になってしまい、私たち一人一人が答えを考えなくなってしまう、という意識が働いたのかもしれません。
作者は「少子化」という表現にも疑問を呈しています。十分に安全な社会で、産んだ子供の生命が脅かされる可能性が非常に低くなったのであれば、多く子を作る必要はなく、現状の日本が自然な状態なのではないか、むしろこれまでの出生率が異常だったのではないか、ということです。日本の人口は減少に転じていきますが、それは成熟した社会において自然な姿ではなかろうか、そのように論を進めています。
人口減少が自然化と問われると疑問に感じる部分はありますが、政府や自治体が進めている少子化対策が的外れな印象を受けたり、実際に全く成果が上がっていなかったりすることを考えると、少子化問題の根本は、案外作者の意見に近いところもあるのかもしれません。
さて、日本社会、あるいは世界経済は、今後どうあるべきか。社会全体の資産を増やし、経済的に成長していくことだけが正解だとはいえなくなってきているでしょう。日本は東日本大震災の後、お金では測れない幸福や安心といったものに価値観を求めつつあります。米国はリーマンショックから立ち直ったとはいえず、モノを持つよりもシェアすることに意義を見いだす人々も現れてきました。欧州はギリシャの経済危機や、英国の暴動など、やはり先の見えない状態が続いています。
小さい範囲で、自分のことを考えてみますが、お金に頼らない生活を模索していくことが、1つの答えになるのではないかと思います。お金をかけなくてもできる生活や娯楽はありますから、そういったところに着目する。また仕事の上でも楽してもうけようとはせずに、地に足をつけた働き方をしていく、そういったことが求められているのでしょう。
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内田教授のお友達平川氏の著書ということで読んでみた。繰り返しが多かったりちょっと読みにくい所はあるけれど(まとまった論文というわけではないから仕方ないが)、全体として面白かった。いつ頃からか世の中で(主にマスコミを通じて)当然のように前提として語られることに決定的な違和感を感じるようになった。簡単に単語を羅列すれば、曰く、経済成長、説明責任、自己実現、多様化、効率化などなど。経済分野のみならず、教育や医療までもがそうした文脈の中に引きずり出されている。この本で著者はそうした状況ににズバリと切り込んでいる。特効薬などどこにもなく事態の打開は厳しいけれど、次のような言葉をしみじみかみしめる。(金融ビジネスは詰まるところ博打なのだという指摘に続けて)「賭場に出入りする素人の側が、時代に阿諛追従することのない素人の価値観を取り戻すべきだということである。素人の価値観とは、端的に金よりも大切なことはいくらでもあり、同時に人は金で躓くものだという常識の上に作られているものである」「素人であるということは、自ら知悉している日常的でありふれた生活の中に価値観を見いだし、その価値観は玄人が跋扈する世界の価値観と等価であるということをよく知っているということだと私は思う」