紙の本
連戦、連勝
2005/04/20 02:41
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投稿者:佐伯洋一 - この投稿者のレビュー一覧を見る
ともかくも日本は、戦争に突入せざるを得なくなった。最大の原因は、米国による石油禁輸措置である。石油がなくては当時誰もが認めた最高の海軍も、海に置かれた鉄屑に過ぎなくなってしまう。演習すらできない。故に日本は焦った。
昭和16年12月8日。山本五十六司令長官を頂く連合艦隊が、ハワイ真珠湾に奇襲をかけ、大戦果を挙げた。「奇襲」と書いたが、実際にはアメリカに筒抜けだったらしい。朝日新聞に潜り込んでいたゾルゲ機関の日本人スパイの例を挙げるまでもなく、当時も売国奴は沢山いたということだ。暗号が駄々漏れだったことが、最大の敗因だと私は思う。しかし、なぜかこのときだけは、「ニイタカヤマノボレ」という原始的な合図だったので、直接にはばれなかったのであるが。
太平洋戦争の緒戦。日本の前に、まさに敵はなかった。マレー・フィリピン・ジャワと、連戦連勝。空軍同士の戦闘でも、わが零戦の前に、敵はなすすべもない。陸軍にいたっては、マレーの虎として世界中にその名を轟かした山下大勝率いる日本軍将兵の前に米英もなすすべがない状態だった。
シンガポールでは、将兵たちの血のにじむ努力の末、イギリス軍を無条件降伏に追い込んだ。ほんの35年前、日英同盟の蜜月関係が、いまこうして正反対になってしまっているのは何とも皮肉な話だ。
のち、日本を占領したマッカーサーも、フィリピンでは単身逃げてしまっている。が、これは彼の高度な戦術であったのだろう。バターン半島では、有名な「死の行進」が行われる。バターンの要塞に突撃し、今度はアメリカ軍を降伏させた。アメリカ軍は口々に日本の将兵の闘魂の凄まじさを述懐している。
この際、降伏したアメリカ人に対し日本兵がそれを引率して歩くのだが、日本兵1人に対し、米兵500人を引率した例もあるほどという。しかも、米兵の半分ほどしかないような小さな日本兵が米兵を引率している。つまり、それだけの戦力差のなか、わが将兵は諦めず、戦力差を吹き飛ばしたのだ。なんということだろう。
日本兵は、自らの食料をかなり捕虜にあげてしまった。このとき日本の食糧も完全に枯渇していたのだが、困っている人を無視するような皇軍教育はなされていない。自らが飢えても乾ぱんを分ったのだという。これは、山岡氏の友人記者が現地で取材した正しい記事に基づく話だ。
にもかかわらず、「死の行進」などとして世界中に「残酷な日本」を印象付ける宣伝に利用されてしまった。朝日・中韓は歴史教科書にこのエピソードを紹介することを許しはしまい。
とにかく、日露〜WW2までの日本兵は、陸海空すべてにわたって最強だったことは微塵の疑いもない。米英独路中・・ことごとく破っているのはまさに日本以外にない。何といっても一人で10人を相手にする精神力で圧倒的なのだ。
が、戦局はやがて絶望へと変わる。敵は無限の銃弾を湯水のごとく使うが、我が方は1発の弾もなく、全ての戦局で刀で戦うようになっていくからである…。それでも滅多なことでは負けないほどに将校は大奮戦していく。
いまはまだ呉軍港に眠る戦艦「大和」の発進も近い。我が方が、挙国一致、全国民が歯軋りして戦い抜く真の太平洋戦争は、今まさに始まったばかりである…
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序盤は快進撃の日本軍
2023/02/11 20:35
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投稿者:たっきい - この投稿者のレビュー一覧を見る
開戦後、序盤は東南アジアで快進撃を続ける日本軍。その目的が、資源にあったことに恥ずかしながら、この小説を読んで初めて知りました。マレー半島、フィリピン、インドネシアと、次々と攻略。なかなか読みにくい部分もあり、読むのがしんどいのですが、まだ先は長い。
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山本は『戦争にせよ,賭博にせよ神様が喜ぶことでは決して無い。したがって正義がこちらにある時は,止むにやまれぬものとして天佑があるだろう。その天佑も信じられないような戦ならば全作戦を放棄するのが良い』と考えていた。逆にこのように考えた上で,大艦巨砲主義の思想が中心だった日本の作戦から抜け出し,航空機が海戦の勝敗を決定するような戦のやり方に日本の戦争のやり方を変えていくべきだと主張し,そうした技術を短日月の間にマスターすることを本部に求めた。
山本は決して無謀を強いるような人ではなかった。青年士官が特殊潜航艇での真珠湾強襲を申し出た時,その内容を一目見て却下した。それは航行時間は五時間だったからだ。これでは襲撃した後,帰って来れない。これは必死兵器だった。山本は戦争だから人の道を踏み外してよいというものではないと考えている。生と死はそれぞれの覚悟の上では紙一重かもしれないが,戦争は断じて自殺であってはならない。指揮者として,そのようなことをさせたら,武士道に反する。故に,『それを命じることは出来ない』と,何度も退けたが,航続時間を十六時間に増大させたことと,青年士官の純真一途な真剣さに負け,これをようやく許した。当然,帰還可能という計算の上での許可であった。
明治維新を成し遂げた子孫として,この戦争を起こしたことは決して褒められるものでもなく,戦争に踏み切ったこの子孫達は彼らから見てとても懸命な子供たちではなかったかもしれないが,維新以来の国防国家的な特異性の中で育てられて来た子供たちが,白人文明のゆがみに腹を立て,まなじりを裂いて決起したとしても,それを責めることは決して出来ないだろう。一切の不正と戦い,正しさのためには敢然死を恐れるな,と教えてきたのが明治維新を成し遂げた彼らの祖父母・父母であったからだ。その子孫たちに対し,宣戦の詔勅は昭和16年12月8日午前11時45分に発された。
戦争の勝利国から,日本の戦争指導者たちは,ことごとく人道の敵という名を冠せられて裁かれたが,それを裁く側の国民の中にも,それはおかしいという人も当然あった。その証拠に,米国内からもルーズベルトやハルのとった日米外交について多くの批判がなされているし,この裁判に臨んだインドのパル判事は,ハル・ノートを『こんなものを突きつけられたら,モナコでもルクセンブルクでも宣戦せずにはいられなかったろう』と酷評し,日本の無罪を主張している。
真珠湾攻撃と同時に,陸軍はカンボジア国境からタイに進攻した。バンコクでのタイ人の日本人に対する感情は親近感を示すというものだった。それは,彼らも長い間,白人優越の世界に住み慣らされ,白人には敵しえぬものと劣等感を脳裏に刻み付けられていたものに対し,黄色い皮膚の日本人が白い皮膚に勝ったのだということからだった。東南アジアでは,ハワイに勝ち,マレーでイギリス軍を追い払った日本人に対し,現地人の見せる笑顔は底抜けに明るかった。著者自身もマレーに渡ったらしいが,そこでは限りない友情を示してくれたという。
そんな日本の進出をイギリスも黙って見ていたわけではない。不沈戦艦プリンス・オブ・ウ���ールズ号を,イギリス海軍中,最も有能の誉れ高いトム・フィリップが率いてやってきた。1分間に6万発の火器を装備しており,それがこの巨艦をつつみこみ,飛行機は近づけないという対空砲火の装備を誇っているのだ。しかし日本軍もこれを海上に誘い出し,爆撃機隊が狂ったように食い下がり,誰もが生命の危険など全然考えることもなく,ただ,白人許すまじという思いを胸に弾幕の中に急降下していった。それにより,ウェールズ号は海底へ沈んでいった。マレー沖海戦である。
シンガポールはイギリス軍が過去一世紀にわたって東南アジア経営の策源地として利用して来た大要塞であった。ここがある限り,香港につながる中国大陸も,マレー諸島も,ビルマ,インドも英国を敵として立つことは思いもよらなかった。これに戦を挑んで,占領するものが現れようとは思いもよらなかったろう。当のイギリスも,そして,現地人もだ。そのシンガポールを目指して,日本軍は南下して行く。
途中ではイギリス・インドの混合部隊と衝突し,これを破りつつ進む。英兵2割,印兵8割の混合部隊であり,インド兵は続々と投降した。これらの降伏兵は,後にインド解放軍を組織した。日本軍がイギリス兵を破ったと知ると,ニコニコと日本兵に笑いかけてきたという。
マレー上陸から,シンガポール対岸のジョホール・バルの占領までに要した日数は55日。東京下関間に相当する1100kmの距離を突破するまでに,92回の激戦を繰り返し,破壊されていた250の橋を架けなおしている。これは毎日2回の戦闘をしながら,5つの橋梁を修理して勝ち進んだということだ。ただ,マレーの占領だけでは戦略的な意味を成さず,ジャワ・スマトラの南岸一帯の石油・ゴム・すずその他の戦略物質の確保が目的であった。
山下奉文というマレーの虎と言われた男がいる。マレーの虎は別にいたマレーのコタバルの残留邦人の谷豊という青年親分のことだったが,いつしか,山下の呼称に変わっていた。山下は総司令部とは反りがあわず,戦場を転々とさせられていた。山下は皇軍として,常に厳しい軍紀と犠牲を指揮下の部隊に要求し,同時に自分にも課していたにもかかわらず,そんな山下を司令部は変わり者の頑固者とでも考えていたのだ。
シンガポールは東西38km,南北22kmで淡路島より小さい。その島が近代設備で完全に武装化しており,島への橋も一箇所のみだ。ジョホール・バルとシンガポールの間を隔てる水道の幅は700m程度。そこには蟻一匹も通さぬほどの厳しい監視がついている。したがって,ここは奇襲などはありえず,水際の血闘にどれだけの犠牲を投入して闘魂を競うかにかかっていた。山下は霧の中,弾雨の中,そして夜間絶えまなく猛攻を加え,そして猛攻にも堪え,遂に無条件降伏を勝ち得た。それは,奇襲でもなんでもない戦いで,初めて有色人種が白色人種に刃を向き,屈服させた時でもあった。ただ,これに勝ちを得たときも山下は勝利に酔いしれることはなかった。また,シンガポールへの入城式はせず,主力部隊はシンガポール市街地へは入れなかった。兵たちからは不満が出たが,順次,市街地見物をさせてやり,これを抑えた。憎悪の生々しいうちに勝者を市内へ入れると,必ず大騒動がお��ってゆくことを封じたのである。この時の山下の頭の中には,いつこの戦の終止符をうてるのだろうかということのみが占められていた。それは,現場指揮官の山下が考えることではなく,司令部が考えることだったが,山本五十六も同様に感じていたことであった。支那事変を終わらせるにも,米英からの援蒋路を断つ事が必要であり,そのためには,重慶からタイ,ビルマの方向を日本が封じることとが必須だった。
フィリピンも宣戦布告からすぐに戦場となった。12月10日には島北部から上陸が開始され,首都のマニラに向けてひたすらに南下した。航空部隊と連携し,制空権を開戦3日で得て,意気揚々としていた。が,ここで思わぬ戦略的なミスを司令官の本間がしてしまう。本間は山下のような猛将型ではなく,理論的な,欧米型の文化的知的司令官であった。師団同士の競争があることもしらず,お互い協力せよといった,聞けばすごく真っ当な命令をして,2方面からマニラに向けて出発させた。しかし,師団同士は,お互いに我先にと一番槍を目指して,他の師団を頼る事などしないのだ。お互いの連携もとれず,結果は無残な全滅となってしまった。マニラを守る敵将はマッカーサーだ。マッカーサーは多方面から攻められることを恐れ,兵力を集中させ,援軍を待つ体制ををとった。そこに地理的にも全く無知な日本人が,現地人も足を踏み入れたこともないようなジャングルを抜けて攻め立てようとした。が,そのジャングルには未知の生物,未知の地盤,未知の気候など,人間との戦争ではない様々な苦難が待ち構えており,これを抜けることはほぼ不可能で,そのほとんどが,餓死してしまったという。そもそも日本には米英と戦う意志など元からなかったため,敵側の戦力の分析や地理的調査も全くしていなかった。この事は,その後の太平洋の各地の島々で展開された陸軍側の玉砕に多かれ少なかれ必ずつきまとって,悲劇の原因となっている。
進んでも死,止まっても死,退いても死という場面が戦場にはしばしばあった。そうした場合,,不思議なほどに果敢に前進するのが日本兵の常であった。『天皇陛下バンザイ』という時の”天皇陛下”と言う言葉には,指揮官でも,権力でもなく,そんなこととは無縁な宗教的な救いの対象であった。
バターン半島に引き下がり,日本軍に勝利を続けるアメリカ軍は,その他の戦況がよろしくないため,この勝利を最大限に宣伝し利用した。とにかく,日本軍の第1次バターン攻略作戦は失敗であった。しかし,退却を転進などと言い,司令部などは,自分の失敗を認めまいとしていた。それが,次の攻撃に際しては,日本軍の面目に賭けてもバターンの敵を撃滅しようと,たぶんに感情的な戦に導いてしまうのだ。日本としては,各所で勝利ををおさめている現状では,フィリピンの敗北は極めて屈辱であった。そして,日本は,これまで侮っていたフィリピン攻略にようやく真っ当な戦力を投入して行く。人員と銃砲火器を充実させつつ,徹底的にバターンに攻撃をかけていった。すると,戦況もかわり,次々と投降者が出てくるようになったのだ。しかし,その捕虜となった数は,住民も加え,日本軍の4倍までも膨れ上がり,日本軍3万に対し,捕虜12万という様相となってしまった。勝った瞬間から,計15��の人間を養いながら保護して行かなければいけない責任を転嫁されたのだ。日本兵がどんなに知恵を絞っても,その飢えに対処することは不可能に近かった。難民を見ると黙っている事が出来ない日本兵達であり,ある者は乾パンをわかち,ある者は水を,ある者はタバコをとするうちに,日本兵もすっからかんになる。子供たちの頭を兵隊たちは撫でてやっていたと従軍記者は記している。きっと,故郷の事が思い出されているのであろうと。しかし,これが戦後,バターン死の行進と報復喧伝され,善良な兵隊たちまで,残虐な鬼畜であるかのように印象づけられ,責任者である本間中将を銃殺させる結果となった。
従軍記者は,敵側戦力はアメリカ兵とフィリピン兵で7万近くにもなるのに,なぜ戦おうとしなかったのか,武士道として非常に腹ただしい思いに駆られたという。兵隊の勇敢さには面食らうほどの差があったのだ。日本側は兵隊自身が自身の力で戦っているのに対し,アメリカは武器,食料,その他の戦場条件で戦っているということだった。それだけ彼らが近代人だったということかもしれない。これら条件の一つが欠けても戦おうとしなくなるアメリカ兵を,アメリカ側はすばらしい英雄のように宣伝し続けた。日本の将兵達は,必要以上に腹を立てたのもこのためであろう。だが,日本兵は,戦が勝利に終わると,すぐまた人の良い日本人にかえるのだ。過去を水に流してしまうのだ。出来る限りの救済の手段を講じたのに,戦後に至って死の行進と喧伝されたのでは無念を超えて,憎悪にも似た感情を抱く。日本側にいくぶんの落ち度があったとすれば,軍司令部の幹部たちが自ら率先して俘虜をすくおうとせず,次の戦場であるコレヒドール島に向かって激しい戦意を燃やしていたことであったろうが,捕虜を可能な限り,日本人と区別することなく一緒に生きようと歩いた行軍を,死の行軍だとはいったい誰が言いだしたのか。
バターンを失ったアメリカは戦力をコレヒドール島に集中させた。ここも難攻不落と宣伝され,アメリカは意地でも守り抜かなくてはならない橋頭堡となった。バターンはフィリピン人が大半を占めていたが,コレヒドール島はアメリカ人のみが守る島であった。そういう意味では,日本側の闘魂もコレヒドール攻撃に燃えたたさずにはおかなかった。日本側の集中砲火と決死隊による攻撃の前に,アメリカが不落を喧伝していたコレヒドールは,上陸作戦を敢行してから1日足らずで落ちてしまった。フィリピン,タイ,マレーに続き,同程度の武器を持って相対すると,日本側が圧倒的に勝つのだという思いがここでも強くなっていった。
太平洋戦争のそもそもの原因は,日本側に関する限り,アメリカによって禁輸された石油の獲得戦争であり,タイ,マレー,フィリピン攻略もその目的は,攻略と言うより,その地域の安定確保いわゆる,蘭領印度という石油資源地帯への進出確保であった事は言うまでもない。蘭領印度とは現インドネシアであり,ここの軍司令官はフィリピン攻略の本間雅晴中将と同期生であった陸軍大学校の今村均中将だった。今村中将は,坂口支隊を先遣隊として送り込んだ。ボルネオは世界第3位の大きな島で,わが本土の約3倍で,そのほとんどがジャングルだ。これへの用意がされていないと,い��戦いとなっても,敵と戦わずして敗北を喫することになる。そこで,開戦に先立つこと3週間,坂口は11月19日には門司を出発し,パラオ諸島でジャングル突破の猛訓練をしてからボルネオに向かったのである。兵隊たちは,訓練のおかげでジャングルを恐れなくなり,ボルネオの対岸の島のジャワ島攻略に大きく貢献した。人生では,知ると知らぬの差は,そのまま自信と恐怖の差になることを忘れてはならないだろう。そして,ボルネオ島に渡った坂口支隊は,ジャワ海に面したバンジェルマシン市に到着し,これを落としいれ,ジャワ攻略の橋頭堡を得たのである。
ジャワ島の攻略においても,現地人は日本人に対し友好的であった。どうも日本人を救世主と思っていたようだ。3百年前,インドネシア諸島の王達は,オランダの侵略に対し,独立を失ったわけだが,愛国の志士たちの間で”やがて救いは北からやってくる”という語り伝えが残っていた。それはおそらく,戦国時代に渡航して交易をしていた日本の武士・商人達が吹き残してきた法螺であったかもしれないが,それが幸をそうし,日本軍に非常に好意的だった。このようなことが,オランダ軍の士気にも影響し,また,日本の兵力を見誤ったのも幸いし,インドネシアも日本軍が占領するところとなった。
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小説なのかどうか…たまに感情的な箇所もあるから、小説なのかな?(笑)
こういうものが、時折「誰も知らなかった太平洋戦争の真実」とか題名つけて売られてる気がする。
切ない。
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「小説 太平洋戦争〔2〕 緒戦の攻防」山岡荘八
歴史小説。ジャングル色。
全九巻の二。
日本軍はアジアの戦役において敗走を続けた、と云う誤った先入観を持っている人は多い気がする。
かくいう自分がそうでした。
開戦直後3カ月前後の、陸海軍快進撃を描く。
2巻は、マレー攻略、フィリピン攻略、蘭印攻略の途中まで。(3)
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p28.
しかし、維新以来の国防国家的な特異性の中で育てられて来た子供たちが、白人文明のゆがみに腹を立て、眦を裂いて蹶起したとしても彼らにそれを責める資格があるであろうか。
p95.
一般の兵隊は、〜戦うことがより正しい世界の創造に通ずるであろうということを、疑う余地など全く与えられていなかった。
(略)天皇と庶民とはどちらも、辞任などという言葉でその責任を回避することのできない「日本人」であったからだ…
p102.
これはもはや殉教的な信者に求める純粋な宗教的境地でなければならない。
p201.
彼は、決して正しくないのではない。が、実に、合理的であり、正しいことによってしばしば士気を損じているのである。
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第二巻。真珠湾奇襲で始まった太平洋戦争の、マレー半島、フィリピン、インドネシアでの激戦を描く。
既に、現場の状況を全く理解しない大本営や、精神主義で非合理的な決断を繰り返すリーダーたちが登場する。それに比べた個々の兵士たちの強さ。戦後の日本企業においてもいまだ引きずっているこのカルチャー。いったい根はどこにあるのだろうか。
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開戦前から作戦を立て敵地近くまで迫っていた日本軍は、緒戦各地で戦果を得る。石油の供給を断たれた日本はその確保のため蘭印を攻める。陸軍司令官を贔屓目に記述している。2018.5.14
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第 1 巻を読んだ後長く積読だった大河小説。76回目の終戦記念日のタイミングでやっと続きを。山のようにある太平洋戦争関連の小説の中でも、開戦から終戦までをストレートに描き切っている数少ない作品。感情論に走るところはあるものの、従軍記者経験が十分に生かされていて分かり易い。執筆期間は1962 年から約 10 年、その時代における明治生まれ・山岡荘八の史観だということを念頭に置いて読むべきだろう。この第 2 巻は日本軍緒戦の“快進撃”が描かれる。マレーの山下奉文、フィリピンの本間雅晴、インドネシアの今村均各司令官の対比がとても興味深い。
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開戦後、序盤は東南アジアで快進撃を続ける日本軍。その目的が、資源にあったことに恥ずかしながら、この小説を読んで初めて知りました。マレー半島、フィリピン、インドネシアと、次々と攻略。なかなか読みにくい部分もあり、読むのがしんどいのですが、まだ先は長い。