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方言の文法
2021/01/11 11:52
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投稿者:福原京だるま - この投稿者のレビュー一覧を見る
方言と共通語との違いは語彙の違いだけでなく文法の違いという観点で述べられており面白かった。例えば共通語では完了と進行形が「している」で同じ形で区別できないのに対し宇和島方言では区別ができるとか興味深い。
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日本語『標準語』の文法と、青森~沖縄の方言文法とを比較し、
『標準語』の文法が実は整っていないことや、
方言文法の方がグローバルに視て標準的(なこともある)ということ述べる。
宇和島方言における進行相「ヨル」や、
ウチナーヤマトゥグチでエヴィデンシャリティーを表す「ヨル」に詳しく、
「トル」と「ヨル」について卒論を書く際、非常にお世話になった。
ただ、動作/変化動詞を分類する際、「開く」に読み仮名が要ると思う。
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1.「あっこに花子ちゃんがいてる」――存在をいかに言い表すか
2.「桜の花が散りよる/散っとる」――標準語は世界標準じゃない!
3.「落ちよった!」――目撃者の文法・エヴィデンシャリティー
4.「生ちゅとーてーさやー」――テンスが伝えるのは時間だけじゃない
5.「花子、美人でら」――美しいのは今日だけ?現象と本質の違い
6.「おかあさん、干してある」――「シテアル」にひそむ地域差
7.「花子、元気ない」は「花子は元気だ」?――ふらふらする形容詞と形容動詞
8.「全部食べれれんかった」――可能をいかに言い表すか
9.「ねえ花子、明日学校来る↓」――質問が尻上がりイントネーションとは限らない
10.「みんなでシュラスカリア、アジューダしよる」――言語接触と日本語
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日本語の方言(琉球語を含む)からエヴィデンシャリティーやミラティヴィティーといった、文法研究の比較的新しいトピックに迫る。一般向けに噛み砕いて書かれているので、専門知識がない人も読めるはず。
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【琉球大学附属図書館OPACリンク】
https://opac.lib.u-ryukyu.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BA87792207
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桜の花が散っている。
ーこの文を見て、あなたの頭にはどちらの絵が先に浮かんだだろうか。
(1)桜の花びらが既に地面に到着して地表にある状態
(2)桜の花びらが枝から地面に向かってはらはらと動いている状態
以上は、第2章からの引用です。
(1):結果も(2):進行も、「~している」といいう表現になることからくる現象ですね。
普段何気なく使っている日本語ですが、こんな不自由さが潜んでいたことに目から鱗でした。
(1)と(2)とを言い分けたいときは、それこそ(1)や(2)のように語を増やして言い換えればいいわけですから、母語文法の窮屈さは外国語のそれよりも気づきにくいかもしれません。
ただし、本書の面白いところはここからです。
窮屈なのは標準語の方であって、宇和島方言では(1)と(2)とを簡単に言い分ける、ということを紹介が続きます。
(1)道路に木が倒れとる(結果)
(2)道路に木が倒れよる(進行)
同じ日本語なのに、一部文法が違うものがあるというのは楽しいです。
方言というと単語の違いやアクセントの違いが目立ちますが、文法の違いというのは読んだことがありませんでした。
標準語で驚いて、方言でまた驚く。1冊で2つの味が楽しめます。
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日本語の種々の方言を体系作る文法を取り上げ、「『単一性から複数性へ』『純粋性からハイブリッド性へ』『静態性から動態性・可動性へ』と日本語観が変化していき、文法とはいかようにも変化しうる『開かれた体系』であることを実感させ」(p.197)るもの。「文法とは人間のコミュニケーションを支える社会的な約束事なので、これが実に人間臭い。コミュニケーションの目的に合わせて柔軟に変化するし、欠点を抱えてもなんとか切り抜ける方法を作り出したり、経済的に運用されたりしている。」(p.7)という内容を、「日本語のさまざまな姿=方言を見つめ直し、いままで無条件に絶対正しいと思いこんできた標準語を相対化」(p.8)する試み。
6年ぶりに英語の完了形をゼロから授業することになり、あらためてテンスやアスペクトについて勉強しようと思った。熊本には「雨の降りよる」みたいな言い方があって、これが完了?とか聞いたことあったので、日本語の方言の文法について書かれた本を読もうと思ったのがきっかけ。
著者が愛媛の宇和島出身ということで、宇和島方言がたくさん紹介されるが、出来ればそれと同じくらい他の方言も取り上げて欲しかった。(もちろん東北や福岡や沖縄の話も出て来るけれど、ちょくちょく宇和島方言の話が出るので、この本では宇和島方言に特別な地位が与えられている印象。もう少し西日本方言、とか一般的な話にはならないのかなあ?でもそういう一般化はこの本の目指す言語観とは相いれないものなのか?)
なので宇和島方言の文法体系が西日本のどれくらいの方言にどの程度当てはまるものなのかという事実はこの本ではわからないのだけれど、例えば進行と完了を区別するアスペクト体系というのは、「京阪神以外の西日本の方言」(p.33)に当てはまるらしい。つまり He was running. と He had injured. では同じ「〜している(いた)」の形にならない、ということらしい。「進行と完了では表している事柄がずいぶんと違う。にもかかわらず、標準語ではどちらも『シテイル』の形で表している。標準語を日常的に話す人にとってはあたりまえのことだが、日本語教育の現場ではこのことを教えるのが難しい。」(同)とは、思いもしてなかった。こういうことがあるので、母語について知るというのは面白いなあと改めて思う。そして、「日本語の標準語のアスペクトは完成相と進行/完了相の二項対立型になっている。しかし、これは世界的に見て珍しいアスペクトの体系である。世界的によくあるのは、完成相とは別に進行は進行を表す形、結果は結果を表す形の両方を用意している三項対立型である。日本語のように、シテイルという一つの形が、主体の動作を表す動作のときは進行を表し、主体の変化を表す動詞のときは結果を表すというのは珍しい。」(p.37)ということで、さっそく標準語が相対化された。他にも、世界の言語で見られて、同時に方言でも見られる文法項目ということで、「エヴィデンシャリティー」(p.52)とか「ミラティヴィティー」(p.75)というものがあるらしい。こんなの大学で勉強した時には聞かなかったなあ。アマゾンのヤラワラ語にある「目撃を明示するエヴィデンシャリティーの形」(p.61)があって、さらに直前過去か近過去か遠過去か、話し手が男性か女性かで語形が変わるので、過去を表す形だけでも2*2*3で12通りもあるらしい。ブルガリア語の「驚異形」という語形変化(p.74)があること自体が驚異だった。あとはテンスとは、という話で、「伝える内容と発話時との時間的前後関係」(p.65)のことを「テンポラリティー」と言い、「テンポラリティーを形態論的に明示する手段がある場合、その言語はテンスがあると言う」(同)というのは分かりやすい説明だった。
「ら抜き」と「れ足す」については色んなところで言われている(こういうadding unnecessary thingsのことを「屋上屋を架す」(p.137)と言うらしい)話で、しかも直接本の内容に関係ないのだけれど、昨日見ていたテレビで元NHKのアナウンサーの人が、しきりに「行ける」ことを「行かれる」と言っていたのが気になった。明治時代まではこの形だった(p.137)らしく、これがNHK的な正式な言い方なのか?それとも方言?そして古い言い方が残ると言えば、存在を表す「いる」「ある」「おる」の話で、「和歌山周辺では、人の存在に『ある』が使われている。これは古典を学習した経験を思い出していただくとわかるように、古い日本語と同じである。(略)学校教育の中で、『恥ずかしい間違い』として急速に矯正が進み、現代の若い世代ではあまり使われていない。また、同じように人の存在に『ある』を使う方言としては、八丈島の方言が報告されている。参考までに『いる(ゐる)』は『座る』の意味の動きを表す動詞だった。八丈島の方言などでは、まだ古典と同じ意味を持っていることも報告されている。」(p.23)というのが興味深い。なんで八丈島と和歌山なんだろ?
そして、ここ数年、出張で沖縄に行ったり、沖縄の人と話したりする機会があって、ウチナンチューのウチナーグチに触れているものだとばっかり思っていたが、「彼らの用いている言葉が『沖縄の方言ですか?』と聞かれれば、正確には『伝統的な方言であるウチナーグチ(沖縄口)ではありません』と答えなくてはならない。(略)いまでは、沖縄芝居など特別なシーンでなければ生き生きとしたやりとりを聞くことはできない。」(p.177)というのはちょっと驚いた。「いま、若い世代が第一言語として習得しているのが、ウチナーヤマトグチ(沖縄大和口=沖縄日本語)である。」(p.179)ということで、これは「日本語が沖縄方言に取って替わる言語転移の過程において起こった様々な干渉又はその結果生まれてきたいろいろな言語作品などを含む多様な言語現象」(p.180)だそうだ。これは「伝統方言・標準語・西日本諸方言の接触現象が見られる。西日本諸方言(中でも九州方言)の影響が強いことは従来から指摘されているとおりで、明治以降、沖縄に赴任した役人や教師の多くが九州出身であったこともまったく関係ないとは言えない」(p.181)ということらしく、かと言ってピジンやクレオールということもなく、アイデンティティを支えるものとして作られていったもの、ということだろうか。沖縄の方言について、その基本を知った。
本書の最後ではサピアの『言語』から、「言語は、われわれの知っているうちで最も巨大で、最も包括的な芸術であり、無意識のいく世代がものした雄大な、しかも無名の作品である。」(p.193)という言葉が紹介されており、これとか言葉を教える教員として知っておくべき良い言葉だなあと思った。というかいい加減、『言語』を読まないと。確か昔買って、そのままにしてあるような…?
サブタイトルの「方言からはじめる言語学」が本書の内容をよく表していると思う。言語について学ぶ面白さを教えてくれる本。(23/01/31)