紙の本
学術ノンフィクションの傑作
2007/08/14 00:03
10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:king - この投稿者のレビュー一覧を見る
古代史研究では、古事記もそうだけれど、日本書紀の記述の信頼性というのはつねに大きな問題だ。なにぶん、文献史料がそもそも書紀、古事記程度しかない時代についてのことなので、書紀の周辺史料から書紀の信頼性を確定することができない。批判的記紀研究の先駆け津田左右吉の議論においても、やはり具体的な根拠に欠けるせいか、そうも言えるし、こうも言えるという感じで議論が明確な叩き台を得られていないように思える。これまで、書紀を用いて古代史を論ずる前に行われるべき文献学が手薄だったと著者は指摘している。
この本では、記述の表記、文体といった形式面つまり「いかに書かれているか」という観点から、書紀を徹底的に分析していくという試みになっている。いわば文献学的吟味を経て、最終的に「誰が書いているか?」を推理していくという謎解きが展開されていく。
この文献学的研究による謎解きが滅法面白い。先が気になって仕方がないうえに、謎が解かれていく推論の展開がエキサイティングな学術エンターテイメントとして楽しめる。まるで推理小説のような面白さだと学術書やノンフィクションを褒める人がいるけれど、こういう面白い研究書を読むと、話が逆だと言いたくなる。推理小説が学問的探求のような面白さを持っていることがある、と言わねばならない。現実にある、本当の謎を解いていく、解こうとする面白さは、推理小説では味わえない。
で、この本の何がそんなに面白いのかというと、全三十巻の「日本書紀」という歴史書の文体、表記、文法を様々な観点から分析することで、それぞれの巻ごとに決定的な違いが見られること、その違いから述作者がどの言語に習熟している人物なのかを判別し、その情報を元に、書紀の各巻の書かれた順番と作者をすら推理してしまうというアクロバティック(トンデモという意味ではない)ともいえる論理展開だ。一種の犯人探しゲームといえる。
その犯人探しには平安以前の上代日本語の表記、文法、音韻の専門的知識、さらに漢語で書かれた書紀を分析するのに必須の当時の中国語のそれとを総動員していて、なおかつ契沖から本居宣長、橋本進吉、そして夭逝の秀才有坂秀世といった国語学、日本語学における偉大な学者たちの学説をおさらいしつつ書かれているので、読者は近世から現代に至る研究史のエッセンスを知ることができる。
それらの方法から、書紀がまず大きく二つの群に分けられることがわかる。一つは中国語ネイティブが書いたとおぼしき中国語原音に乗っ取った万葉仮名が用いられているものと、日本人が倭音に依拠して万葉仮名を用いたものとの二つだ。最初の群においては、「ミズ」を「ミツ」と表記するなど中国語ネイティブ特有の誤記が見られることも指摘されている。これらの情報から、書紀の編修過程と述作者を具体的に特定していく。
いやあ、凄い。音韻、文法といったほとんど文字情報しかない状況から、日本書紀が立体的な像を結んでいくさまは暗号解読にも似た面白さがある。述作者と編修過程の具体的状況については論拠が少なく、やや安易に結論づけているきらいはあるが、途中の議論の展開は手堅く説得的で、隙がない。少なくとも私にはそう見える。
専門的な知識が逐一解説付きで紹介され、好奇心を刺激されながら、日本書紀中国人述作説にいたる謎解きが展開していくわけで、これが面白くないわけがない。一般向け学術書の理想的な一例といってもいいのではないか。学術ノンフィクションの珠玉の一冊。
以下に詳細記事あり
「壁の中」から
紙の本
日本書紀
2021/01/14 16:10
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:Otto - この投稿者のレビュー一覧を見る
日本書紀の音韻や文章などにふれられているので、面白いといえば面白いが、あまり興味がない部分もあり、難しかった。
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古代史と言うと何故か「作家」が適当にロマンを語ったりするイメージがあるが、本書はまさに学問と言える。
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一つの仕事を完成させるのに、中国語の方言のレベルまで熟知しないといけないとは!
文学部の仕事とはこんなことなのか、と、工学部出身のわたくしは、脳天を割られたようなショックを受けました。紙面が不足したのか、一番面白い所が省略気味に書かれていると思えるのは残念。
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[ 内容 ]
720年に完成した日本書紀全三十巻は、わが国最初の正史である。
その記述に用いられた漢字の音韻や語法を分析した結果、渡来中国人が著わしたα群と日本人が書き継いだβ群の混在が浮き彫りになり、各巻の性格や成立順序が明らかとなってきた。
記述内容の虚実が厳密に判別できることで、書紀研究は新たな局面を迎えたといえる。
本書は、これまでわからなかった述作者を具体的に推定するなど、書紀成立の真相に迫る論考である。
[ 目次 ]
第1章 書紀研究論(森への誘い;書紀概説;書紀研究の視点 ほか)
第2章 書紀音韻論(音韻学と書紀;漢字音による書紀区分論;α群歌謡原音依拠説 ほか)
第3章 書紀文章論(倭習の指摘;誤用と奇用;倭訓に基づく誤用 ほか)
第4章 書紀編修論(α群中国人述作説;β群の正格漢文と仏教漢文;「憲法十七条」とβ群の倭習 ほか)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
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☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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推理小説のように面白く読めました。日本書紀の成立順と述作者を特定した本です。日本書紀の漢文に対して音韻と和習などをもとに精緻な論考が展開されるので、日本書紀を読んだことのない人は、少し苦痛かと思います。憲法十七条を正格の漢文でないところがあると指摘し、成立年代を天武朝以降としている(196頁)ので、著書の日本書紀の資料批判をもっと読みたくなります。
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日本最古の国史である「日本書紀」、それがどのように書かれたのかを、音韻や漢文の書き方などから推理する。最後に述作者までたどり着くのは大したものだ。著者の中国語の音韻学、漢文の知識があったればこそである。しかし、日本書紀は、十七条の憲法なども含めて、漢文の文章としては間違いだらけであることには驚いた。手本もなく初めて国史を書くのだから、仕方がない一面もあると思う。しかし、間違いから逆に推理が広がるのだから、それはそれで意味があった。さらに、古代人の悩みや戸惑いを伝える点でも価値がある。
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半分以上はわかってないけど、言語の使われかたから「日本書紀」に迫っていて面白かった。個人的に「日本書紀」に思い入れはないけれど、海外の人と共にひとつの国の歴史が語れているとすれば、漠然と国際感覚みたいなものは感じた。
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「 日本書紀 の謎を解く」音韻や文体から日本書紀を3区分し、成立順序、各区分の述作者を仮説検証した本
まずは 結論に驚く。最終章だけでも面白い。特に音韻学には驚いた。音韻学は 日本人や日本語のルーツを明らかにする凄い学問だと思う
学者の仮説検証過程を追体験できる。学者の仕事の大変さ、学術的野心、文献が蓄積されることの意味を垣間見た本だった
序文「古事記が林なら、日本書紀は森だ。本居宣長が古事記伝により記紀の評価を逆転させた。しかしその評価は間違っている」
結語「真実はいつも簡単だ。森の周りを巡るだけでは、植生の秘密はとけない。内部を博捜し、深奥に到達して初めて、この森の真価を知った」
日本書紀の成立順序
α群(巻14〜21、24〜27)
β群(巻1〜13、22〜23、28〜29)
巻30
3区分
β群(巻1〜13、22〜23、28〜29)
*倭音と和化漢文により述作
*述作者は 山田史御方(文章学者)
α群(巻14〜21、24〜27)
*正格漢文により述作
*述作者は 唐の続守言と薩弘恪
巻30(持統天皇)
*述作者は 紀朝臣清人と三宅臣藤麻呂
*21の巻末も三宅臣藤麻呂
*巻30の特異性〜倭習が少なくα群に近い
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日本書紀三十巻の漢文記述の違いから、実際の著者が誰であったのかを追及する。
和風漢文と中国風の正格漢文、万葉仮名に対応する漢字の音の違いなどの多寡を分析し、構成の謎を解く。他説への言及も適切。
読み下しはついているものの、漢文の実例の提示が多いのでやや読み飛ばしつつですが、興味深く。後年の続編もあるようなので、そちらもまた。
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日本書紀」は、日本の初めての「公式」歴史文書(「正史」)だ。
「公式」とは、日本以外の誰かに対して、日本とはこういう成り立ちだ、と主張するものだ。
当時、日本が意識してたのは、世界の中心、中華たる中国だ。
したがって、公式の歴史書は、中国人が読めなければならない。
だから、「日本書紀」は中国語で書かれている。
(正史=六国史は全てが中国語=漢文で書かれている)
全30巻かけて、日本の由緒を語り、中国皇帝に日本の存在を認めたもらおうという、涙ぐましい努力の成果が「日本書紀」なのだ。
因みに、「日本書紀」と並び称される「古事記」は、全3巻。「日本書紀」の1/10の分量に過ぎない。
そして、「日本書紀」との最大の差は、「古事記」が日本語で書かれていることだ。
と言っても、文字が無かった時代、使用するのは漢字でしかない。
「古事記」の表記は、万葉仮名と言う漢字を使った日本語表記となっている。
「古事記」は、日本人向けに、自分たちの歴史として書かれたため、中国人が読めなくともよかったのだ。
本書は、全30巻中国語=漢文で書かれた「日本書紀」を音韻論分析•文体分析を通して、その作者を特定していこうと言う試みだ。
1999年に発表された新書論文だが、それまでの森の業績を総括した「日本書記」記述論の画期を成す論文だ。
発行されると直ぐに書評で取り上げられ、それを読んで直ちに入手した。
音韻分析•文体分析を通じて、明らかとなるのは、「日本書紀」には記述者が複数人居たことだ。
30巻にも達する浩瀚な文書だ、複数の著述者が居ても不思議ではない。
本書の白眉は、「日本書紀」には、中国人の書いた正しい中国語の巻と、日本人の書いた「何ちゃって中国語(正確さを欠いた中国語)」の巻が存在し、両者を明快に区分出来ることを示したところだ。
中国語ネイティブの書いた系列(α群)と、それを受け継ぎ、中国語を外国語として学んだ日本人の書いた系列(β群)のあることを明らかにしたのだ。
中国語のプロである中国人が書き始め、その指導を受けた日本人が途中からバトンを受け継いだ、と考えられる。
日本書紀の書き出しと終わりは日本人が書いたことになるので、叙述の順番は中国人か半ばを書き、その後、前後を日本人が書いたと言うことになる。
その中国人が誰であったかも特定してみせる。
飛鳥浄御原令を記述した中国人と同一人物だと言うのだ。その死後、神代期と後半部分を日本人が引き継いだと考える。
どれだけ外国語をマスターしても、長らく使ってきた母国語の発想や言葉遣いを払拭することは出来ない。
外国人が書いた日本語を、我々は直ぐに何かおかしいと感ずることが出来る。
本書の着眼はそこにある。
8世紀の中国人の視点を以て、「日本書紀」の中国語を読むのだ。
すると、全くの違和感のない巻と、物凄い違和感のある巻があることに気がつく。
著者はその違和感を「倭習」(和臭)と呼ぶ。
問題は、著者に8世紀中国(唐)の中国人の使用した中国語が完璧に分かっているかにある。
著者はそれを古代中国音韻論によっ���マスターしていると主張しているので、それをわざわざ疑う理由はない。
著者の「倭習」を嗅ぎ分ける能力を信ずることにしよう。
「日本書紀」が中国語で書かれているとして、そこには多くの歌謡も含まれている。
当然、それは中国語を借りて書かれている。
万葉仮名だ。
著者はその万葉仮名についても、古代中国の音韻に忠実な巻と、所謂「倭習」が多くの含まれる巻があるとする。
その区分は、地の区分と一致する。
著者の結論はこうだ。
「日本書紀」は、中国人の書いたα群(巻14-21、24-27)と日本人の書いたβ群(巻1-13、22-23、28-29)に分けられる、と。
8世紀の日本。
唐との交流(と言うより、中華帝国体制の末席に連なること)を通じて、自国のアイデンティティを初めて自覚し、それを確立するために、それまで話してきた日本語を、中国語を借りて表記することを余儀なくされた。
本書は、その苦闘の跡が、「日本書紀」に生々しく刻まれていることを教えてくれる。
同時期に、目的こそ異なれ、「古事記」、「万葉集」も、同じ苦闘の上に成立した。
それまで話し言葉しか持たなかった日本人が、初めて話し言葉を中国語(万葉仮名)を使って表記した時の、世界が広がるような感動と、それでも上手く表現し得ないと感ずる違和感を、想像すると、感無量だ。
彼らこそ、日本語の表記を初めて行ったパイオニアだったのだ。
その違和感を出来るだけ払拭するために、どの漢字を使用するかに情熱を傾けた日本人がいたのだと思うと、胸が熱くなる。
本書は、日本語表記誕生の物語と言える。