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kingさんのレビュー一覧

投稿者:king

231 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

紙の本妻を帽子とまちがえた男

2010/05/24 23:40

人間らしさ、ということ

17人中、17人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

心理学や脳神経科学の本では、脳機能の欠損によって人の顔が分からなくなる顏貌失認という症状や、自分の手を自分のだと認識できないといったような症状に見舞われた人の例が参照される。現象として非常に興味深く、脳機能の分析にとっても有用なのだろうけれど、では、その失認症などに罹った当人にとって、それはどういうことで、その人たちはどうやって生活しているのか、という具体的な状況は見えてこない。心理学の理論などの概説という本の性格からいって仕方がないのだけれど、そうした人たちの世界観というのはやはりとても気になるものだった。

で、ちょうど文庫化していたこの本を見つけて、タイトルからしてこれだ、と思い読んでみると、まさにど真ん中。サックス本人が診察し、観察した患者たちのありようが丁寧に描かれている。

私の興味に合致したからというだけではなく、これはホントいろんな人に読んで欲しいと思う。神経科の患者の症例集ということで、珍しく興味深い症例が豊富にあり、のぞき見的好奇心を掻き立ててしまうところもあるけれど、そういう読者の首根っこをつかんで、患者が被る社会的な問題にも眼を向けさせ、さらには通俗的な「人間性」のイメージを突き崩して、さらにより広いレンジから「人間」を捉え直そうというきわめて大切な試みがなされている。

この本で記述される患者たちの症状は、多くが認識や知能、あるいは記憶といった、「理性」、「知性」という一般に「人間らしさ」の根幹に障碍を負っている。脳、神経の障碍は、やはり身体的機能の障碍とは意味が違ってくる。人権問題にも直接繋がっていくようなきわめてデリケートな問題でもある。

表題になっている「妻を帽子とまちがえた男」は、人の顔が認識できなくなる顏貌失認の症例で、題の通り、妻と帽子が区別できなくなるというような障碍が起きる。それ以外ではごく普通の人物であるにもかかわらず、だ。

パーキングメーターを生徒とまちがえてなでてみたり、ドアノブに話しかけて返事がないのを訝しんでみたりと視覚的認知能力が失われ、音楽家としての資質があり音楽教師として優れているけれども、日常的行動にも困難を来してしまう。そんな彼だけれど、歌を歌っている限りは行動に支障を来さず生活することができる。途中で邪魔が入り、歌が中断されると途端に糸が切れたように何もできなくなってしまうため、彼の日常生活はつねに歌いながら行われる。歌がなければ生活できない。

かといって本書ではそうした悲劇的な話ばかりではない。障碍と才能が表裏一体のものでもあることがいくつもの事例で描かれている。

トゥレット症候群、というチック(つい何かに手を触れたり、体を動かしたり、奇声をあげたりといった不随意的な行動)を引き起こす障碍があり、レイという患者は攻撃性や粗暴性を抑えられず、会社勤めや結婚生活に支障を来していた。しかし、知能は高く機知にあふれ、なによりジャズドラマーとしての素晴らしい才能があった。突然襲ってくるチックの衝動性を利用した、意表を突いた即興演奏が彼のドラムの魅力だった。彼は様々なゲーム、スポーツも得意で、即興性と反射神経にあふれた機敏な動きを見せる。

ハルドールという薬をレイに投与すると、チックが抑えられると同時に、機敏さや即興性、つまりドラムの才能が失われることがわかった。二十数年チックとともに生活してきて、チックであることも自身の重要な一部だというレイにとって、自己表現の手段でもあり、生計の手段でもあるドラマーとしての資質が失われることは看過できない。そのため、彼は平日はハルドールを飲んで普通の人として暮らし、休日になると服用を辞め「機知あふれるチック症のレイ」としてドラムの才能を活用しているという。

「レイはトゥレット症にもかかわらず、また、ハルドールによって人工的なものを強いられ、よって「不自由」であるにもかかわらず、それをうまくやりくりして満ち足りた生活をしている。われわれの大半が享受している自然のままの自由という生得権をうばわれているにもかかわらず、満ち足りた生活をしている。彼は自分の病気に教えられて、ある意味では、それを乗り越えたのだ」

病者の存在を矯正すべき異常のみと見る見方、それが本書では退けられ、障碍という得難き才能、多彩な充足、幸福のあり方が取り上げられている。知的障碍、自閉症、その他の脳神経系の疾患が受けやすい偏見を取り払い、彼らにも彼らの世界、意味があるのだと指摘してみせる。彼らもまた人間であるということを強く印象づける。彼らの世界の豊穣さと同時に哀しさもまた描かれている。

彼らのそうした世界の個性、特性を無視して、健常者の社会に従属させるようなものを治療と呼んで良いのかという疑問が投げかけられる。「かわいそうな障碍を持っている」から「彼らを健常者にできるだけ近づけなければならない」というロジックが果たして正しいのか、ということ。そうした処置はしばしば、彼らの長所や充足を否定し、せいぜい平均より劣った健常者として社会に包摂する結果となる。「機知あふれるチック症のレイ」は病者の長所と健常者の社会とを意図的に使い分けることができた希な例だけれど、より重篤な自閉症や障碍となると、そうした器用な生活は難しくなる。

数に対してきわめて敏感で特殊な能力を持っていた自閉症の双子(この双子の素数による「会話」にサックスが参入したシーンは本書でももっとも印象的な場面のひとつ)が、矯正を施されて明らかに生の喜びを失い、「小遣い稼ぎ程度の仕事」に従事するより他なくなってしまった、という非常に悲しい例がその一例だろう。


ここで例示してみたのはごく一部でしかなく、私の取り上げ方もひどく単純化されたかたちに過ぎないので、是非ともじっさいに読んで欲しい。この本には、社会的にも、芸術的にも、心理学的にも、科学的にも興味深い、示唆あふれる事例と観察と議論がある。重篤な障碍を持ちつつも社会的に地位を得、生活を送れるようになるといった幸福な話も、障碍に潰されたまま、立ち直れない哀しい話もある。

とにかくも、間違いなく名著と呼ぶべき著作でまあ既に有名な本なのだけれど、まだ読んでいないという人で、ちょっとでも興味があれば是非とも薦めたい。素晴らしい。

もうちょっと長い元記事

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紙の本

紙の本ペインティッド・バード

2011/11/14 23:01

陰惨な滑稽さ

14人中、14人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

松籟社の<東欧の想像力>第七弾は、以前コジンスキー『異端の鳥』として刊行されていたものの新訳で、ポーランド生まれの亡命作家がアメリカ在住時に英語で書いたデビュー作。1965年に発表され、いまもってベストセラーとしてその地位を保っているとのこと。発表とともに、親ソ的なプロパガンダとも、反「東欧」キャンペーンの急先鋒ともみなされ、東西冷戦のさなかきわめて微妙なポジションにあった。自伝的作品も呼ばれるけれど、作者は本作をフィクションだと強調している。

舞台は、ホロコーストの影が忍び寄る第二次世界大戦下の東欧。物語は「東欧の大都市」から遠い田舎に六歳の少年が両親から離れて疎開するところから始まる。戦争の混乱のなかで連絡は途絶え、預け先の里親がすぐに死んでしまったことから、少年は身寄りなく村々をさまよい歩くことになった。しかも、白い肌ブロンドの髪、瞳は青か灰色のまわりの人々のなかで、少年はオリーブ色の肌に黒髪黒目だったため、「ジプシーかユダヤ人の浮浪者と見なされた」。

ドイツの影響下で、ジプシーやユダヤ人をかくまうことはハイリスクなことだ。一帯の村々に住む人々は、「好きでそうなったわけではないにしても、無知で残忍」だという。

「農民たちはわずかな収穫の大部分を、かたやドイツの正規軍、かたやパルチザン部隊に供出しなければならなかった。もしそれを拒否しようものなら制裁を受け、村を廃墟に変えられても文句は言えなかった。」10-11P

タイトルの「Painted Bird」というのは作中のエピソードから採られている。ある鳥の群れのなかから一匹を捕まえ、ペンキを塗りたくって群れに戻すと、群れの鳥たちは戻ってきた鳥を仲間とは見なさず、一方的に攻撃して殺してしまう。この「ペンキまみれの鳥」こそ、白い肌の人々のなかに紛れ込んだオリーブ色の肌の少年をしめす象徴的なタイトルでもある。

以上のことからも容易に推測できるように、東欧の村への少年の闖入は、まるで水にナトリウムをぶち込んだかのような劇的な反応を巻き起こす。少年は当然まともに扱われるわけがなく、かろうじて見つけた居候先で虐待まがいの暴力をふるわれるばかりか、彼という異分子が入り込むことで、村のなかでの緊張が高まり、暴力の嵐が吹き荒れて破滅を迎えるという展開がしばしば起こる。住民同士の喧嘩だけにとどまらず、人は刺され、撃たれ、建物は爆発炎上し、毎回のように村々には大きな傷を残して少年はさまよい続ける。この過剰とも言える展開はスラップスティックコメディのようでさえある。

どこへいっても異物として攻撃、排除される「ペンキまみれの鳥」たる少年の彷徨を描くなかで、人々のなかにある暴力のありようを、さまざまな形で描き出そうとしているのが本作だといえるだろう。

彼が鳥になぞらえられているほかにも、動物のイメージがしきりに出てくる。少年がどれほど自分はユダヤ人やジプシーでないといっても通じず、信用されず、さまざまな絶望の挙げ句に言葉を失うわけだけれど、これは彼のいる状況ではもはや言葉が用をなさなくなったことをも示している。さらに、ナチスドイツ影響下の人々の恐怖、欲望、暴力が前面に露呈したさまを、獣たちの熾烈な生存競争になぞらえているのかも知れない。これは、ただ単にある村の人々を獣のようだと難じているのではなく、戦争と虐殺の危機が迫るなかでは人は容易にこういう行動へと至るのだ、という冷徹な認識を示しているのだろう。

ポーランドと名指ししてはいないものの、現地の人々にいい顔をされなかったのは無理もない。


じつは本書は以前の青木日出夫訳『異端の鳥』とは底本が異なり、コシンスキが作品発表後の出来事を書いているやや長い「後記」が収録されている。

冒頭にも述べたけれど、「後記」によれば、本書が評判になると、本国ではこれをポーランドを悪し様に描いた作品として発禁になり、後半でソ連に救われる描写から親ソ的な作品としてアメリカでも非難されることにもなった。さらに、ポーランドに残してきた母親の周辺も騒がしくなっていき、当時の政治的空気のなかで、本作と作者周辺はきわめて微妙な状況に追い込まれていた。作者は複数だとか、ゴーストライター説だとか、CIAのエージェントだとかさまざまな非難が投げかけられ、コシンスキ自身の家に暴漢が侵入した事件も起こるほどだった。

作中の少年が投げ込まれた村でさまざま攻撃、排除にさらされたように、本書自体が母国からもアメリカからも、まるで「Painted Bird」のように攻撃にさらされた。ペンキまみれの鳥が集団の暴力性を浮き彫りにする様子を描いた小説そのものが、現実の人々の暴力性を露呈させているわけだ。さらに著者自身の亡命者、という属性もまた厚い「ペンキ」としてアメリカ社会のなかでの異質さを際だたせたのだろう。

「この小説が、主人公の少年と似通った役まわりを演じるようになったのは皮肉である。その土地の出身者なのによそ者になってしまうという役割、破壊的な力を行使でき、目の前を横切る者すべてに呪文をかけることができると信じられたジプシーとしての役割を、この小説は引き受けることになってしまった」285P

「ペンキまみれの鳥」のエピソードは、我々からすれば、ただペンキが塗られただけでそれが同類だとわからなくなる動物の間抜けさとして映るだろう。しかし、人間もまた、例えば民族が、宗教が、言語が、亡命者だとか、親ソだとか、反東欧だとか、『Painted Bird』作者だとか、そうしたもろもろのささいな「ペンキ」が塗られた程度で、同類を非難し、迫害し、排除し、殺す。何が動物と違うのか。日本でも朝鮮学校襲撃事件の在特会等が容易に想起されるように、この、人と動物が二重写しになった陰惨な滑稽さは、既にして私たちが生きている今、現状そのものでもある。本作は、人がこのどうしようもない滑稽さのうちにしか生きられないということを、皮肉にも虚実両面において証明してしまった。

東欧でホロコーストから逃れたサバイバーとして、母国から逃れた亡命者として、そして本作の作者としてさまざまな局面で境界線上の、異質な「ペンキまみれの鳥」として彼は生きていかざるを得なかった。作中の少年は失語に陥ったけれども、コシンスキは91年、自殺という結末を迎える。

戦争、暴力、民族、国家という、二十世紀の歴史における大きなテーマが凝縮して詰め込まれ、それがスラップスティックな、グロテスクな軽快さで描かれていること、そして母語でない言語で書かれた亡命者文学、あるいはホロコーストの危機を逃れたサバイバー文学でもあるという非常に多面的な要素があり、作者のその後もあわせてとても考えさせられる部分の多い小説だ。「現代文学」的テーマを総覧したような様子だけれど、これは二十世紀の<東欧>がいかに困難な場所だったか、ということを映し出しているからだ。

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紙の本

紙の本「ニート」って言うな!

2006/02/24 19:43

いま、大人たちが危ない!

12人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

一般に「ニート」という言葉でイメージされる人間像とはどんなものか。本文中にもピックアップされている週刊誌などの記事から見れば、「甘えている」「親に寄生している」「自分勝手」「怠けている」「無気力」「ひきこもり」等々、様々なマイナスイメージで彩られていることが分かる。というより、ニートとはいまや否定的な形容詞と化している。

しかし、本田氏の提示する統計資料はまったく違った姿を伝えている。

まず、15〜34歳までの学生・既婚者をのぞく無業者のなかから、就職活動をしている者(希望型・ほぼ失業者と重なる)、就職の意志を示しているけれども具体的な就職活動をしていない者(非求職型)、就職の意志がそもそもない者(非希望型)と、三項目に分類する。

一般にニートと定義されるのは非求職型と非希望型をあわせた数で、2002年段階でおよそ八十五万人。しかし、ニートのなかで、そもそも働きたくないという非希望型はおよそその半分でしかなく、ここ十年でまるで増えていない。就職の意志はあるが就職活動をしていないものが十万人強増えたぐらいだ。

四十万人ほどいる非求職型の男性の半分以上は留学・受験や資格取得の準備をしていて、女性の二割もそれに該当する。非希望型でも、男性の三割以上、女性の二割は留学・受験の準備中である。

いわゆるニートのなかでも、働く意志もなく、特に何もしていない人というのは全体の三分の一に過ぎない。

以上を見ても、怠け者や甘えているというネガティヴイメージがニート全体に無根拠に敷衍されていることが明らかだが、それ以上の問題は若年失業者の問題であるという。

ニートの増え方は十年間に十万人という程度だが、無業者のなかでちゃんと就職活動をしているもの、つまり失業者の数はここ十年で六十万人の増加を見せている。これは十年前に比べて若年失業者が倍増したと言うことを示している。またフリーターもここ十年で百万人増加し、倍になっている。

つまり、ニート議論で見えにくくなっているが、いま現在若年層では、明らかに就職口の不足が起こっているということである。失業者とフリーターの増加はそのことの端的な証左であり、ニートの増え方が問題にならないくらいの激増ぶりである。

いまのニート議論は、数年前の内閣府の国民生活白書ですでに指摘されていた、企業側の採用抑制という問題点を結果的に覆い隠す格好の素材として消費されてしまっている。そしてすべては若者の内面および、親たちの教育不足という問題へと収斂し、企業や社会政策には何の問題もないかのように語られる。


本田氏は上記の点を丁寧に詳述し、それに続く内藤氏のパートでは、そのように若者叩きへと議論が収斂してしまう構造の問題を鋭く追求している。青少年の凶悪事件のみが過度に報道され、大人の凶悪事件はほとんど報道されないというメディアの偏向ぶりや青少年ネガティヴキャンペーンのあり方から、内藤氏は若者だけが危険な存在だと印象づけようとする大人たちこそが幼稚なのだと切り返す。

メディアの重要な役職に就いたり、その基本的な方針を監督することのできるいまの大人たち、そしてそのメディアの消費者たちは、少年犯罪も往時に比べ激減し、中高年に比べ殺人者率も低いいまの若者をことさら危険な者として粉飾する。彼らは自分たちが何かしら問題を抱えていたり、修正しなければならない間違いを犯しているということを決して認めようとはせず、その責をすべて若者に丸投げしようとしている。

だから、それが煽動めいていても、昨今の青少年ネガティヴキャンペーンに対抗する意味において、われわれはこう叫ばなければならないだろう。

いま、大人たちが危ない!

「壁の中」から

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紙の本

紙の本ドン・キホーテ 前編1

2003/06/18 21:01

圧倒的に狂騒的な喜劇

13人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

四百年前に書かれたこの小説は、知名度と読まれている割合が反比例していることでも有名な作品だ。みんなが知っているこの有名な話を今更、しかも文庫本六冊にもなる冊数を前にして読む気がなくなってしまうというのも分からない話ではない。

しかし、本当にそうだろうか。

冒頭はこうだ。
ある名も忘れられた村に住む一人の郷士がいた。その男、暇を見つけては騎士道物語を読みふけり、蔵書は膨大な数になっていた。そして騎士道物語好きが高じて、ついには自らも騎士になるべく出発するのだ。この時点ではドン・キホーテは実はまだ騎士ではない。「狂気によって自らが騎士であると思い込んだ」、という説明がなされる時があるが、これは重大な間違いを含んでいる。彼は現実の腐敗ぶりを正そうとして、騎士道物語で活躍する騎士に自らを擬して社会に打って出ようとしているのである。その為、まず彼は騎士に必須の恋い慕う姫を捏造し、ある旅籠を城と見なし、宿の主人に騎士の叙任式を執り行わせるのである。これが狂人の行いだろうか。

「ドン・キホーテ」の物語とは、その空想的とも言える試みと現実との対決なのである。そこで彼はうまくやりおおせたり、手痛い失敗を喫したり、さまざまな活躍を見せる。古典といっても(ゆえに?)エンターテインメント的な物語性も充分だし、素っ頓狂なドン・キホーテとサンチョ・パンサとのやりとりはとても滑稽であり、深い洞察も垣間見せる。

そして、この小説が本領を発揮しはじめるのが(後篇)である。(前篇)の物語は基本は非常に単純で、一度旅に出たドン・キホーテが、みんなに騙されて郷土の人間に故郷の村まで連れ戻されるところで終っている。(後篇)はその直後から始まる。
(後篇)の最初の大きな特徴は、(後篇)の物語世界では、「ドン・キホーテ」の活躍を記した書物が広く出回っているということになっている点である。そして、ドン・キホーテは自らが主人公となっている書物に目を通すのだ!

(後篇)では、そのような奇想が随所に現われ、(前篇)とは毛色の異なる世界を作りだしている。一貫してドン・キホーテ以外のものには単なる畸人、狂人でしかなかったドン・キホーテが、ある富豪のいたずらで、まったき騎士として歓待されたり、ドン・キホーテがサンチョを連れてくる時に条件として提示した「サンチョを島の領主にする」という口約束が実際に実現してしまう下りなどは(後篇)のまさに白眉である。

このなかで狂人と正常人との単純な境界はどんどん崩壊していく。サンチョが島の政治に非常に有益な決定をしたり、ドン・キホーテがサンチョに影響されはじめたり、その当時セルバンテスの(後篇)より先に出版されたアベリャネーダの贋作の登場人物を本篇に登場させ、ドン・キホーテたちと対話させたりするなど、上下の関係や異常正常、虚偽と真実、贋作と真作の垣根をどんどん踏み跨いでいくような狂騒的な空間が現出する。

(後篇)はほとんどメタフィクションである。小説が小説であるという約束事を暴露し、パロディ化するような作品だ。そもそもこの作品は、騎士道物語のパロディである。ドン・キホーテが騎士道物語の読み過ぎで騎士になろうとした、という冒頭に提示されているように、その意図は明確で、いつでもドン・キホーテは騎士道物語のお約束を口にし、その通りに行動しようとするが、だいたいその行動は失敗か滑稽な落ちが付く。

ドン・キホーテの行動は当初、誰もがバカにする行動であった。しかし、それは単にバカにされるだけのものではない。ドン・キホーテが口にする言葉に人々がつい納得したり、説得されたりし始めるのにつれ、笑っていたものが笑われる立場に立たされる。バカにしていたものが安閑としていられなくなる。そこに出現するのは単なる「諷刺」ではない。「喜劇」だ。

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紙の本

「格差」ではなく「貧困」が問題だ

14人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

貧困というとなんだか古い話のようだが、著者はデータを提示して、貧困が現在非常に拡大しつつある状況を示し、貧困に陥った人々に対する保障がきわめて薄い現代日本の問題点を指摘している。

最近格差社会論が活発だが、いわば個々人の生き方の問題とも言える格差、ではなく、社会がその是正を行わなければならないもの、最低限の生活の維持が危うくなる「貧困」が問題なのだという。

では、貧困とはどういう状況か、ということについてから説明が始められ、貧困調査の基礎知識などが解説されなかなか面白いのだが、それは措いておく。

メディアでは誰もが貧困に陥る可能性があるということを強調するが、そうではなく、現代日本で貧困に陥るのは、特定の人びとだという。それはある不利な状況にある人びとで、現代では格差の進行により、そうした人びとが貧困から抜け出せなくなり、固定化している。そこで強い関連があるのが学歴で、大卒、高卒、それ以下、できわめて大きな差ができている。これには、高等教育を受けさせるだけの富裕な家庭でなかった、という状況が考えられ、格差固定の一例を示している。

そして、貧困という状況下では、経済的な困窮のため、安定した労働が行えないという不安要素が増大する。そうしたストレスのかかる状況で、病気になりやすくなったり、自殺してしまったりするという問題がある。特に、自殺の要因の三割は生活、経済問題が占めており、近年の中高年男性の自殺の増加ともあわせて大きな問題といえる。

貧困は社会不安を増大させる大きな要因であり、社会問題のかなりの部分は貧困を視野に入れなければ解決できないものがあると著者は指摘している。

さらに、著者は日本の保障の問題を指摘する。

「日本の福祉国家の仕組みは、高学歴かつ正規雇用者で資産も家族もある人々には「やさしい」一方で、低学歴で未婚もしくは離婚経験があって非正規雇用で転職も多く、資産も家族もない人には「やさしくない」と見ることができる」189

OECDによる国際比較で、日本の低所得層が再配分によって得た所得のシェアは、先進諸国19ヶ国中下から二番目だという。税や社会保障による所得の再配分がかなり低機能だ。

また、シングルマザーやホームレスといった人々にとって必要であろう住宅手当や失業扶助といったたいていの先進国にある保障制度がない。住所がなければ生活保護や職安の対象にすらなれないホームレスの存在を考えるとこれは致命的な問題だろう。

少子化と騒がれている割には、政府は子供を持つ親に対してはきわめて冷たい態度を取っている。ネオリベ的な企業に優しい改革をする一方、非正規雇用やシングルマザーらを批判する連中の多いこと。自分たちがすすめた改革の生み出したものを、人ごとのように批判しているようにしか見えないが。

著者は、社会保障の充実は低所得層の人権ばかりを配慮したものなのではなく、社会の安定と統合のためにも必要とされるのだと言う。

「福祉国家の歴史が証明しているように、国家が貧困対策に乗り出す大きな理由の一つは、社会統合機能や連帯の確保にあった。階級や階層ごとに分裂した社会を、暴力や脅しによってではなく福祉機能によって融和と安定に導いていくことは、国家それ自体の存在証明にもなることであった」207

ワーキングプアはじめ、生活が困難になりつつある労働者が増える一方で、企業は景気が良いらしい。低所得層の増加と不安定労働の拡大という社会の不安要素をいたずらに増大させる政策が何に帰結するのか、政府は考えているのだろうか。

以下に詳細
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紙の本

一見不合理な「神判」が求められた社会的状況を描く

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「喧嘩両成敗の誕生」の著者清水克行による新著。前著は中世から近世における紛争の事例をつぶさに見ていくことで、喧嘩両成敗という法が前近代の野蛮さを示すものではなく、当時にあって合理的な紛争解決の一手段としてあった、ということを論じる法制史の趣のある著書だったけれども、本書もまた神判―神明裁判―というややマイナーながらもインパクトのある題材を論じていくことで、紛争解決のあり方を通じて中近世社会の変遷を辿る著書となっている。

熱湯に手を入れて火傷するかどうか、あるいは焼けた鉄を目的の場所まで運べるかどうか、というどう考えても不合理な神明裁判のあり方から、科学なき時代の「合理的」解決法を描く手さばきはやはり見事で、やや付け足り的とはいえ世界史上の類似例を探って類比的に神判史をひもとく部分など、新書判の概説書として非常に行き届いた構成になっている点もポイントが高い。

本書では「起請」を軸に述べるのだけれど、そもそも起請というのは神仏に自身の主張が事実であるとの誓願を行い、それが破られた場合にそこに記した神に罰を受けてもいい、ということを記した文書、あるいはその行為そのもののことをいう。鉄火起請や湯起請はそのうえでさらに、自身を危険にさらして正しい主張をしたものには神の加護があるから大丈夫なはずだ、ということを試す裁判の形を取る。

著者が史料に現れる湯起請を見つかる限り数え上げて統計を取ってみたところ、湯起請においては有罪と無罪の確率がちょうど半々という結果が出ている。かなりそれらしい数字、に思える。内容としては犯人探し型が六割、紛争解決型が四割という内訳になっている。湯起請は室町時代に集中的に現れ、その原因にはくじ引きで選ばれた将軍、足利義教の存在が大きく、確かに彼が一時期多くの湯起請を行った。そのため湯起請は上からの専制的なシステムだというような議論も行われたけれど、義教以前にも湯起請の例が見られ、さらに民衆の側からの希望によって行われた例も多く、そうした単純化はできないと著者は言う。

ではなぜ、湯起請が求められたのかというと、著者は先行研究を要約してこう述べる

「湯起請は事件の真相を究明したり、真犯人を捕縛することに目的があったのではなく、共同体社会の狭い人間関係のなかで互いが疑心暗鬼になり社会秩序が崩壊してしまうことを食い止めるため、誰もが納得するかたちで白黒をつけることで、共同体内不安を解消することを目的としていたのではないか」

そもそも、何もやたらに湯起請が行われたわけではなく、論争や犯人探しがその前にこれ以上ない、というほど究められた後で、どうしようもなくなったところで持ち出されるのが起請だった。その意味で、秩序維持のための最終的な手段としてあったということがいえるだろう。

次に足利義教が湯起請を多用したのは何故か、という問いに進む。足利義教が湯起請を多用したのは、じつはその政権初期に集中しているという。目の上のたんこぶだった重臣がいなくなり、自身のやり方を思うように通せるようになると湯起請は行われなくなる。つまり、これは重臣たちの存在があって思い通りにならないとき、自身の恣意性を隠して意志を通そうとするときにもちいられたものだったという。

これは「喧嘩両成敗の誕生」で、「喧嘩両成敗法」が専制的な強権の発動というよりは、強権の発動ができない状況での紛争解決の手段としてもちいられるもので、むしろ強権の不在を示すものだと論じられていたことと通じる。

これは江戸初期に行われた鉄火起請についてもいえる。

「彼らが神判を許容していたのはひとえに彼らのつくりだした近世権力がいまだ未成熟で、多くの人々を納得させるだけの統治機構や理念を整えていなかったからだった。とくに、この時期に頻発していた村落間相論は、つねに複雑な利害がからみあっており、公権力とはいえ、へたに首を突っ込んで一方に肩入れすると、かえって自体を泥沼化させてしまい、自身の威信を削ぐ血管になりかねなかった。そのため、初期においてまだ不安定な近世権力は村落間相論などの問題については、主体的な理非判断を回避し、その解決を神判に委ねざるをえなかったのである」199

しかし、湯起請は室町の百年間に渡って行われたのに比べると、より過激化した鉄火起請はじつにそのピークが二十年間ほどの期間に集中していて、すぐに流行が去ってしまう。しかも、室町時代よりも近い時代にもかかわらず、湯起請の事例の半分ほどしか史料に見いだせないことから、それほど広く行われたものではなかったのだろうという。

鉄火起請はその事例を見てみると、しばしばチキンレースの様相を呈していたり、小細工をして自身を有利に導いたという話が伝わっていたりと、むしろ「神慮」を蔑ろにしかねない状況が多々見られる。「神慮」の絶対性の低下とともに、試練が過激化していく状況は神判のあり方が末期的なものとなっていたことの証とも言えるだろう。近世権力の安定とともに、鉄火起請は姿を消していく。

というわけで、各時代の起請を見ることで、法を貫徹する権力が不安定な時期における過渡的な紛争解決手段として起請が求められたありさまを見てきたわけだけれど、たとえば地域の秩序維持のために起請が行われ、犯人を見つけ出すという事例は現在においても全然他人事ではないとしか思えない。足利事件なんてその良い例ではないか。科学的捜査が進歩し、証拠に基づく合理的な犯人探しが行われるようになったような気がしているけれど、いくつかの有名な冤罪事件なんかは白黒半々の湯起請に訴えた方がまだマシでは、ということを思ったりする。

元記事

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紙の本

紙の本百姓から見た戦国大名

2007/08/14 00:04

飢餓と戦争の時代のサバイバル戦術

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

戦国時代、というと支配階級である武将の話ばかりで、直接戦争に関わらない人たちがどのような暮らしを送っていたか、ということはあまり話題にならないしよくわからない。私は戦国武将についてあんまり興味がなくて(全然知らない)、むしろ当時の日常的な生活のあり方がどうだったのかを知りたかったので、百姓を視点に据えた本書の叙述は非常に興味深く読めた。

この本ではまず、戦国時代とは戦争と飢饉の時代であることを強調する。戦争と飢饉が慢性化し日常となった時代だという。そして、戦争と飢饉のなかで窮乏にあえぐ人々は、当然その改善を大名に要求するわけで、その世直しの声が大きくなって実際に大名の代替わりの契機とすらなることを史料から指摘してみせる。

つまり、大名とはいってもやはり生産者として国を支える農民、民衆の声を無視できるわけではない、という実に当たり前のことが指摘されるのだけれど、これがなかなか新鮮だったりする。やはり大名、戦国時代などには支配者である大名とその下で年貢の重圧に苛まれる農民、といったようなわりあい一面的なイメージがあったのだけれど、本書はそういった印象を具体的な事例に基づいて丁寧にかつ鮮やかにひっくり返して見せる。

なお、戦国時代の飢饉というのは江戸後期で大飢饉と呼ばれたようなものがほとんど日常となっていたほどのものだった。作物の収穫の端境期ではつねに人の死亡率が上昇し、日々生きるか死ぬかの瀬戸際にあった。そしてさらに、文字通り戦争がたびたび起こっていた内戦の時代でもあるのだけれど、戦争はどこか空中で行われるわけではなく、常にどこかで誰かの領地において戦われていたということを忘れてはならない。ひらたくいえば、どこかに攻め込むということは同時にその領地で破壊行為を行い、作物を奪取する略奪と表裏一体だったということだ。

では、人々はその過酷な時代をどうやって生き抜いていったのか。そこで注目されるのが村だ。村とは言っても、自然に形成された人々が集まり住んでいるところ、というものとは違い、領地の占有、構成員の認定、構成員に対する徴税、立法、警察等諸権力の行使を行い、私権を制限する一種の公権力として存在する政治的共同体として形成された村だ。さらには当時の人々は皆武器を持っており、対外的に武力を行使することもあった。そして、村の行動については構成員が全員参加する寄合によって決定される。

「不作が生じた場合には、相当分の年貢等の減免を要求するが、それが容易に認められない場合、実力で抗議した。村ぐるみで、山野などに逃げ込み、年貢の納入や耕作を放棄した。こうした実力行使を「逃散(ちょうさん)」といい、中世を通じて百姓の対領主闘争の基本的な方法であった」137頁

適切な対応をとらなければ農民はよそに移動したり、没落したりして、不作発生し、年貢などの収取が滞り、国は存立の危機に瀕する。国にとっても百姓たちの村の豊かさを維持することが重要であり、それなくして大名自身の安寧もなかった。そのような社会状況のなかでは、上記のごとき領主と村との契約はきわめて大きな意味を持っていたのだろう。


この本が面白いのは、この時代における具体的生存の困難さという前提から、生きるための即物的な必要性の点から、当時の社会のダイナミクスを見ていくという視点だ。飢えた農民の声によって代替わりを余儀なくされたり、飢餓の時期に他国へ略奪に行く戦国大名、生存のために大規模な紛争まで起こす武装した村々等、即物的な俗っぷりが興味深いことこの上ない。

詳細は以下
「壁の中」から

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紙の本

学術ノンフィクションの傑作

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

古代史研究では、古事記もそうだけれど、日本書紀の記述の信頼性というのはつねに大きな問題だ。なにぶん、文献史料がそもそも書紀、古事記程度しかない時代についてのことなので、書紀の周辺史料から書紀の信頼性を確定することができない。批判的記紀研究の先駆け津田左右吉の議論においても、やはり具体的な根拠に欠けるせいか、そうも言えるし、こうも言えるという感じで議論が明確な叩き台を得られていないように思える。これまで、書紀を用いて古代史を論ずる前に行われるべき文献学が手薄だったと著者は指摘している。

この本では、記述の表記、文体といった形式面つまり「いかに書かれているか」という観点から、書紀を徹底的に分析していくという試みになっている。いわば文献学的吟味を経て、最終的に「誰が書いているか?」を推理していくという謎解きが展開されていく。

この文献学的研究による謎解きが滅法面白い。先が気になって仕方がないうえに、謎が解かれていく推論の展開がエキサイティングな学術エンターテイメントとして楽しめる。まるで推理小説のような面白さだと学術書やノンフィクションを褒める人がいるけれど、こういう面白い研究書を読むと、話が逆だと言いたくなる。推理小説が学問的探求のような面白さを持っていることがある、と言わねばならない。現実にある、本当の謎を解いていく、解こうとする面白さは、推理小説では味わえない。

で、この本の何がそんなに面白いのかというと、全三十巻の「日本書紀」という歴史書の文体、表記、文法を様々な観点から分析することで、それぞれの巻ごとに決定的な違いが見られること、その違いから述作者がどの言語に習熟している人物なのかを判別し、その情報を元に、書紀の各巻の書かれた順番と作者をすら推理してしまうというアクロバティック(トンデモという意味ではない)ともいえる論理展開だ。一種の犯人探しゲームといえる。

その犯人探しには平安以前の上代日本語の表記、文法、音韻の専門的知識、さらに漢語で書かれた書紀を分析するのに必須の当時の中国語のそれとを総動員していて、なおかつ契沖から本居宣長、橋本進吉、そして夭逝の秀才有坂秀世といった国語学、日本語学における偉大な学者たちの学説をおさらいしつつ書かれているので、読者は近世から現代に至る研究史のエッセンスを知ることができる。

それらの方法から、書紀がまず大きく二つの群に分けられることがわかる。一つは中国語ネイティブが書いたとおぼしき中国語原音に乗っ取った万葉仮名が用いられているものと、日本人が倭音に依拠して万葉仮名を用いたものとの二つだ。最初の群においては、「ミズ」を「ミツ」と表記するなど中国語ネイティブ特有の誤記が見られることも指摘されている。これらの情報から、書紀の編修過程と述作者を具体的に特定していく。

いやあ、凄い。音韻、文法といったほとんど文字情報しかない状況から、日本書紀が立体的な像を結んでいくさまは暗号解読にも似た面白さがある。述作者と編修過程の具体的状況については論拠が少なく、やや安易に結論づけているきらいはあるが、途中の議論の展開は手堅く説得的で、隙がない。少なくとも私にはそう見える。

専門的な知識が逐一解説付きで紹介され、好奇心を刺激されながら、日本書紀中国人述作説にいたる謎解きが展開していくわけで、これが面白くないわけがない。一般向け学術書の理想的な一例といってもいいのではないか。学術ノンフィクションの珠玉の一冊。

以下に詳細記事あり
「壁の中」から

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紙の本

紙の本フェルマーの最終定理

2011/12/18 21:27

世紀の難問はいかにして解かれたか

10人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「3 以上の自然数 n について、Xn + Yn = Zn となる 0 でない自然数 (x, y, z) の組み合わせがない」というのがフェルマーの定理。単純そうに見えて、というかそれゆえにか、証明することはきわめて困難で、300年以上をかけてようやく達成された。本書はいかにしてこの難問が解かれたかをめぐるノンフィクションだ。

前々から評判高く、読む前からこれは絶対面白いと見込んでいたのだけれど、その予想を軽々と上回る秀逸な出来。それ自体が興味深い題材をきわめて良質な叙述で描き出していて圧倒的だ。難問への挑戦という学問の側面と、個々個性的な研究者たちのエピソードが両立しているのがいい。

ある学問的発見がいかにしてなされたか、誰がどういう理論を展開し、どう発展していったのかを語るには、やはり短くてはダメで、ある程度以上の長さが必要だ。でなければ事項の羅列になってしまう。その点、本書は五百ページの分量をたっぷりと使って丁寧に描いている。

もちろん、現代数学の先端理論を扱うわけで、理論自体が素人に理解し切れるはずはないのだけれど、それが数学界においてどういう意味があって、どういう風にすごいのかということをじっくりと解説してくれるので、数学がわかるならより面白いだろうけれど、数学わからなくても充分に面白い。

本書はアンドリュー・ワイルズという人物の人生においても、数学史においてもきわめて重要な瞬間から説き起こされている。フェルマーの最終定理を証明したという発表が行われたときだ。そこから遡り、彼がいかにフェルマーの定理に魅了されたかを描きつつ、フェルマーの定理がどういう問題なのかということを、ピタゴラス以来の数学の歴史をたどっていく。

「フェルマーの最終定理」は数百年間、数学界の謎としてあったわけだけれど、近年はむしろあまり重要でない問題という扱いをされていた。それが現代数論の最先端の問題として浮上するきっかけになったのは、「谷山=志村予想」という予想を証明することが、フェルマーの定理の証明になるという道筋が見つかったからだという。このあたりから数学理論のわけのわからなさ、そしてその面白さがよりいっそう増していく。

谷山=志村予想というのは、「すべての楕円曲線はモジュラーである」というものらしく、「楕円曲線論」と「モジュラー形式」という異なる二つの分野で用いられている別の概念が、実は同一のものだ、という主張。で、この「モジュラー形式」というのがトンでもない。なんと、無限の対称性を持っているのだという。

「谷山と志村が研究したモジュラー形式は、どれだけずらしても、切り替え、交換、鏡映、回転をほどこしても、その前後でまったく変化がみられず、数学的対象としてもっとも高い対称性を持つのである。(中略)残念ながら、モジュラー形式は紙の上に描くことはもちろん、頭の中に思い浮かべることすらできない。正方形のタイル張りであれば二次元平面内に収まるから、x軸とy軸によって定義することができる。モジュラー形式も二つの軸で定義されるが、その軸は二つとも複素軸なのである」283P

複素、というのは実数と虚数のペアであらわされるものらしい。虚数が混じる存在って、どう想像すればいいのやらわからん。このモジュラー形式のわけわからなさがすごくてたいへんエキサイティング。無限に対称ってどういうことだかさっぱりわからないけれど、数学的にはそうなんだろう。(こういうわけのわからなさって、円城塔の小説を読んでいる時に感じるものに似ている。「レフラー球」とか)

このモジュラー形式と楕円曲線論の思いがけない共通性が、数学界においては非常に衝撃的なことだったらしく、現代数論の中心的課題とも見なされていたらしい。なんか、とんでもないことだったらしいということがなんとなくわかる。じつは数学の専門家的には、フェルマーの定理よりも、谷山=志村予想の証明の方が重要だったという。

で、谷山=志村予想とフェルマーの定理が密接に関係しているらしいという発見をきっかけに、アンドリュー・ワイルズの挑戦が本格始動していくことになる。ここからのワイルズの孤独な戦いもすごいけれども、詳しくは実際に読んでもらうに如くはなしということで。

読み終えると、数学すげえ、人間すげえって気分になる本当にドラマティックな一冊。たった一人でその偉業がなされたわけではなく、学問的営為は積み重なる試行錯誤の果ての果てにあるものだということもよくわかる。そして、「数」というものがいかに摩訶不思議なものなのか、その魅力の一端に触れることができる。

とにかく、面白い。

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紙の本

光と進化

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

これはかなりの名著だと言って良いと思う。グールド、コンウェイ・モリスらのカンブリア紀ものの本を読んだことのある人は必読だといえる。そうでなくとも、カンブリア紀の進化についてのアップデートされた知識が詰まっている。

本書はカンブリア紀の爆発的進化についての最新の学説、「光スイッチ」説をその提唱者自らが解説した啓蒙書。その新説の肝はタイトル通り「眼」にあり、眼の誕生がカンブリア紀の爆発的進化を促した、という非常にシンプルなものなのだけれど、これを納得させるために、著者は自然界の生態系において、いかに視覚が重要なものなのかを様々な事例を用いて説明している。

その前に、この本を読んでバージェス動物群ものの議論で不思議だったことがひとつ解決したのが面白かった。奇怪な生物を新しい「動物門」に分類すべきかどうかが大きな論点として存在していて、グールドはカンブリア紀の爆発を生命の多様性の爆発的増加として考え、新しい動物門を主張したりしていたけれども、生物学を学んだことのない私には、ではこの「門」というのは何なのかよくわからなかった。

本書では、門とは内部体制(ボディ・プラン)の差であると述べられている。体内の設計は、突然変異などで部品の設計が変わると生命活動に支障がでてしまうので、ある門のなかでその体内設計は基本的に維持される。けれども外部体制はそこまで厳密ではなく、たとえば角が長かったり短かったりする程度であれば、それだけで生存不能なエラーとはならず、その変異が生存の上で有利であれば子孫に受け継がれることもあるだろう。だから、同じ門とは思えない外形をしている動物も多数存在し、同じような生存環境で同じような生活をしている似た形の生物が、違う門に属している、ということもあり得る。

門の分類はそうした内部体制の差異を基にしていて、外部体制に比べ変異しにくい。そしてカンブリア紀の爆発とは著者の定義によると、それぞれの動物門がいっせいに硬い殻を獲得した出来事だという。だからこそ化石に残りやすくなり、一斉に世界でその時代の地層から化石が発見されるようになる。また、内部体制自体はカンブリア紀以前、一億から五億年まえまでにできあがっており、カンブリア紀に新しく多数の門が生まれたわけではない、と著者は強調する(ここら辺はグールドに対するコンウェイ・モリスの批判と共通)。あくまでカンブリア紀の爆発とは、外部体制の爆発的な多様化であるというのが本書の基本的な前提だ。

さて、本題。嗅覚、聴覚などの感覚は対象が何らかの動きや匂いを発しなければ感知することができない。じっと動かずにいれば、ごく近くにいても相手に感づかれないということがありうる。コウモリなどの動物は音波を発してその反射で感知することができるが、それは自分で音を発するという行動を必要とする。対して視覚では、光がある限りその存在は遠くからでも明確に把握できる。音波などの特殊な装置を使わなくとも、光が降り注ぐ地上においては対象を認知することができる。これは捕食行動において非常に重要な情報となる。そのため、動物においてはその視覚を攪乱させる、体色、体型のカモフラージュが非常に進化している。

逆に海底や洞窟など光量が著しく少ない場所では、進化のスピードがきわめて遅くなる。海底の相互に断絶した場所にいる生物同士が、数億年単位の時間を経ても、ほぼ変わらぬ姿で発見される。オオグソクムシという生物は、一億年を経てもほとんど進化しなかった。また、洞窟では奥に進むに従って体色が退化していく様子が観察できる。そして、体色の退化の度合いにかかわらず、洞窟種ではすべて眼が存在しない。「眼は非常に高く付く」道具なので、必要がなくなれば即座に退化してしまうのだという。

その他構造色(色素による色ではなく、微細な構造によって色づいているように見える。CDの盤面がそう。なので、化石からでも構造色が判別できる)にかんする議論など、光と視覚にかんする生態学的、進化論的議論を踏まえ、著者はいよいよ自説を展開する。まあ、ここまで読んでくれば、著者の説は半ば理解したも同然、という構成になっている。

眼は、カンブリア紀に三葉虫が獲得したものが最初のものだという。光を感知するだけではない、像を結ぶ視覚を獲得したのは三葉虫がはじめてらしい。そして、史上最初の活発な捕食者もまた三葉虫であったという。五億四三〇〇万年前に、地史的には一瞬にして眼が誕生した。ある試算によれば、光を感知する眼点から眼に進化するためには、控えめに見て五十万年あれば充分なのだという。

カンブリア紀になり視覚を持った三葉虫が出現し、それをきっかけに生物の生態に激変が起こった。視覚による捕食行動が活発化した結果、生物は皆それに対する適応をしなければ生き残れなくなった。それが外骨格の形成を促し、視覚に適応することを促した。光が強力な「淘汰圧」として新たに進化のメカニズムに組み込まれた。洞窟の例を見ても分かるとおり、光がないと進化は遅滞する。先カンブリア紀においては、光が降り注いでいても視覚を持つものがいなかったために進化が進む速度は緩かったけれども、一度視覚を持つ動物が出現してしまうと、新たなニッチ(生態学的地位)が出現し、それを埋めるべく大規模な進化が起こった。爆発を経てそうしたニッチが埋められると、進化は通常のスピードに戻る。それ以降、基本的な生態の仕組みは変わらない。陸に上がるという事件も視覚の獲得に比べれば小さい事件なのだという。

これが「光スイッチ説」なのだけれど、新聞で報道するときに「これは本当に新説なのか?」(こんな分かり切った話が新説か?)という疑問を出させるほど、当たり前の話に思える。先カンブリア紀とカンブリア紀での生物との眼があるかないかの違いに注目した人がいなかったのだろうか。むしろそれが不思議なほど自然な説得力のある説だ。

で、著者も最後にこれだけは返答に困窮した質問として、ではなぜカンブリア紀に眼が進化したのか、という疑問について考察している。数十億年間光がずっと降り注いでいたのなら、眼が誕生したのはなぜ五億四三〇〇万年前なのか。これにはまだ決定的な答えは出ていないようだが、たいそう興味深い謎だ。

いや、ほんとにこの本は面白い。新説だけでも面白いが、新説を説得力あるものにするために解説される光と生態、進化についての記述がとにかく面白い。貝虫に回折格子を発見したときの経緯だとか、著者の体験した調査のくだりなど、予測と、それを裏切る新事実の発見だとかのストーリーは非常に面白い。カンブリア紀の爆発についてだけではなく、光と進化というテーマが一貫しているので、そうした側面からも楽しめる本だ。

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紙の本

日本神話の二元構造

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

筑紫本とまったく同じタイトルのこの本は同じ論題を扱いながらも相当に違った論を立てていて、併せて読むととても面白い。そもそも視点からして違っていて、この本では特に当時の東アジアの国際情勢や、外国文化と土着文化の交錯といった要素が中心的なものとして扱われる。

筑紫本では折口信夫の民俗学に依拠した部分が非常に多かったのに対し、この本では冒頭からして折口の「ヒルメ」=「日の妻」説を否定しているように民俗学的な説を排し、歴史学的な実証的な方法にこだわっていることが見て取れる。書き方も、筑紫のやや独断と推測の多いものと比べ、溝口は学問的定説の部分と私見とをきちんと分けて書いており、慎重な論述を心がけている。全体に、溝口の論述は筑紫の方法に対する批判として機能するような形になっている。

溝口はここで、広開土王碑に記された五世紀当初の歴史から説き起こして、当時の王権がおかれた状況を概観している。詳細は端折るが、とりあえず四〇〇年頃、新羅を占拠していた倭軍が高句麗に大敗したことと、それからも高句麗と倭とが敵対関係にあり、かなりの緊張状態にあったことは確かだろうとしている。

そして考古学の知見に拠ればこのころ、日本では大きな文化的変動があったと言われている。大まかに言えば、倭国独自の文化から、朝鮮半島の影響を強く受けた文化への変化だという。同時に「王墓とみられる巨大古墳の設営地が、この間に奈良盆地から大阪平野へと移動した」ことが挙げられる。これを王権の交代と見るかどうかは別としても、この頃、政権内部に大きな変動が起きたことは明らかだとしている。

この変動を、溝口は黒船来航や白村江の敗北などの日本史上の画期と似た事態が起こったのではないかと見ている。黒船も白村江も、敗北後の危機感から政権の強化、国家統一への動きが起こり、その際には相手国からの文物の輸入という方法で対応したことが共通した点だ。高句麗との戦いでの敗北から後の文化変動もまた、そのような歴史的な画期だったのだろうと見る。

当時の政権ではいまだ豪族の連合というような緩いつながりでしかなく、そこから強力な国家を立ち上げるには、専制的な統一王権を支える新しい政治思想が是非とも必要となった。そこで求められたのが、「天」の王権思想だという。


アマテラスが元々は皇祖神ではなく、天武以前にアマテラスを天皇家が祀った形跡がないということについては筑紫、溝口の両氏がともに認めていることだ。溝口はそこから一歩踏み込んで、では天皇家の祖神は元々何であったか、ということについて論じている。

ここで登場するのがタカミムスヒだ。天孫降臨神話を良く見てみると、天孫降臨を命じたのはアマテラスだという伝承よりは、じつはアマテラスとタカミムスヒ、あるいはタカミムスヒのみと言うモノの方が多く、研究者の間ではこの件については、本来天孫降臨神話の主神であったのは、タカミムスヒだろうということで決着しているという。

タカミムスヒが古来の国家神、皇祖神だったことのもう一つの大きな根拠は月次祭という宮中の祭に求められる。しかも「古代に天皇親祭で行われた祭りは、この年二回の月次祭と新嘗祭のみだった」というほど重要視されていた。

この祭りで読み上げられる祝詞は、第一段でタカミムスヒを含みアマテラスを含まない宮中八神に対して、皇祖神の加護に対する感謝を述べている。この祝詞には明らかに後付のアマテラスへの言及が含まれていて、アマテラスが新しい後発の皇祖神であることが明らかになっている。つまり、天皇家の古来の皇祖神はタカミムスヒだということだ。

タカミムスヒを主神とした天孫降臨という、「天」の王権思想を前提にした天から降りてくる神が王権の正統性を根拠づける神話は、五世紀頃に朝鮮半島から輸入したものだろうというのがアマテラス誕生前史になる。タカミムスヒという神の存在感の薄さや土着の伝承があまりないのは、天の思想とともに神自体が輸入であり、土地に根付いたものではなかったことが原因だろうと思われる。

律令国家形成にあたって、タカミムスヒのかわりにアマテラスが召喚されたのは、タカミムスヒが宮中と一部の氏だけが祭るマイナーな神だったからだろうとしている。アマテラスはその点、伊勢の土着信仰であり、また広く親しまれていたため、統一国家形成のためにはアマテラスの方が有利だという考えが働いたのだろうという。

他にも著者は様々な理由を挙げ、氏族間の政治力学にも項を割いているけれど、とりあえずはこれがアマテラスの誕生の経緯、となる。


このタカミムスヒとアマテラスの交代劇ということにまつわり、著者が行っている記紀神話の解釈がかなり興味深いものになっている。

溝口はこの、海と天というふたつの要素に対する分析をもっと踏み込んで、記紀神話自体をイザナキ・イザナミ系と、ムスヒ系のふたつに腑分けすることを試みている。イザ系は国生みに始まり、オオクニヌシの国造りに至る系統を指し、ムスヒ系は天孫降臨から神武東征までの系統を指す。

溝口はイザ系の神話では多神教的世界観、海洋的世界観という二つの特徴があるという。様々なモノから神が生まれてくる生命力のある世界観であり、またオノゴロジマの形成がそうであるように、島、海というモチーフが多い。アマテラスも海辺の河口で禊ぎをすることで生まれている。八嶋、八洲という日本の古称もその証左だ。さらに因幡の素兎だとか、スクナヒコナが海の向こうからやってくるというエピソードもある。これが日本神話が一般に南方系だと言われることの一つの根拠となっている。

そして、オオクニヌシの国造りがおわり、国譲りの神話を経て、話がムスヒ系とされる天孫降臨になるのだけれど、オオクニヌシが平定し、地上には誰一人敵対する者がいないとされたのにもかかわらず、神武はなぜか九州に降り、再度平定の東征を行っている。これは、土着の伝承を元にしたイザ系の神話に、北方の王権思想に由来するムスヒ系神話を無理矢理つなぎ合わせたことによる矛盾であろうと著者は見る。

この分析は面白い。ここからいろいろな考察が可能になると思う。今でも、例えば高天原と黄泉の国という場所を、天上、地上、地底という垂直構造に捉える解釈は見られるけれど、この分析を前提にすると、こういうコスモロジーが古来存在したという議論はその正当性がかなり怪しくなってくる。神話にこの二元構造を見いだすことで、かなり議論を整理することができるだろう。

記紀神話の不整合は、イザナギからスサノヲ、オオクニヌシへとつながる土着の神話(各地に膨大な伝承が存在する)に、タカミムスヒによる天孫降臨という別系統の王権思想をつなぎ合わせ、その後、元々土着の神話の登場人物であったアマテラスにタカミムスヒの役割を移譲したために起こった、ということだろう。

以上、歴史学的により緻密な方法でアマテラスを論じた本。古代アマテラスについてはたぶん筑紫本よりはこちらの方が妥当性が高いだろうと思う。神話の二元構造を軸にした記述は記紀神話解釈としても面白く、いろいろ面白い視点を含んだ本だ。

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紙の本

紙の本日本の歴史 改版 5 王朝の貴族

2011/02/22 00:41

「お前らにできるわけがない。ざまぁみろ」

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岩波ジュニア新書で読んだ保立氏の「平安時代」が面白かったのだけれど、ちょっと通説の方も確認したいと思って、これを読んでみる。日本通史全集のうちでも名シリーズと謳われる中公文庫の「日本の歴史」、そのなかでも特に評価の高い一冊で、どんなもんかと思ったらこれが確かに面白い。

源氏物語に登場する光源氏のモデルの一人が藤原道長だという話を枕にして、そこから道長の一代記を中心にしつつ、平安時代の歴史を語っていく。

この巻では道長による摂関政治の興隆を描いていき、道長の死で幕を閉じる。そのあいだ、要所要所に当時の日記がいかなるものだったのか、儀礼はどういうものだったのか、天皇の外戚がなぜそこまで重視されるのかを当時の婚姻制度に基づいて説明したりと、基礎的な知識の解説にも余念がない。素人としてはこうした基礎の話はとても助かる。さらに、史料の読み方の具体例なんかも説明されていて興味深い。

他の巻だとわりあい読んでいて息切れしてしまうものもあるのだけれど、この巻は道長という著名人の権力獲得のドラマという題材の強みと、それを支える叙述の隙のなさが非常に巧く噛み合って実に完成度の高い本になっている。叙述の難度としては新書クラスの印象で、読みやすく分かりやすい。

解説では、土田氏の叙述にはところどころ、日記等の信頼できる史料ではなく、根拠の怪しい歴史物語から引っ張ってきた記述があるという指摘がされている。土田氏がつねづね日記等を史料とすべきで、歴史物語を史料とすべきでないと述べていたことと矛盾しているのではないか、と解説者は述べている。たぶん面白さと一般性を重視した書き方を選んだ、ということなのだろうけれど、叙述にやや史料的瑕瑾があるのは確からしい。

とはいってもこの時代の通説的理解を得るには非常に重宝する一冊。なお、保立氏の「平安時代」で批判対象となっている通説が、まさにこの本に書いてある説だったのが面白かった。たぶんこのシリーズはそうした叩き台としても使えるシリーズなんではないかと思われる。ただ、やはり古いのは否定できないので、近年の本と対照した方がいいかと思われる。

本書で特に面白かった(というか笑ってしまった)のは、解説にある土田氏の遺言紹介のところ。酒の入った歓迎会の席上でやおら居住まいを正して、二人の学生に「俺が死んだら紙に書いて国史の研究室に貼っておけ」といって述べたのが以下の「遺言」だという。

一、現代人の心で古代のことを考えてはいけない。
二、古代のことは、古代の人の心にかえって考えなくてはならない。
三、俺は長い間そうしようと思ってやってきたが、結局駄目だった。
 お前らにできるわけがない。ざまぁみろ。

「ざまぁみろ」が素敵すぎる。かなり笑ってしまったのだけれど、「俺は道長なんかと酒を飲みたくない」と言っていたという話とか、本書で歴史物語を平気で史料にしていたこととかあわせて、この土田氏はずいぶん人を食った人物だったようだ。

Close to the Wall

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紙の本

「人は自分で思っているほど、自分の心の動きをわかってはいない」

8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

最近(というわけでもないか)のSFのはやりらしい意識と脳の関係についてとっかかりが欲しいと思って見つけたのがこの本。著者は山本弘の短篇「七パーセントのテンムー」でも引用されていた実験を行ったベンジャミン・リベットの当の本を訳した人で、これは好適と読んでみて、まさに望みの通りの本だった。

この本の基本的な議論は、著者自身がセントラルドグマ(中心教義)と称する「人は自分で思っているほど、自分の心の動きをわかってはいない」ということに沿って進められている。

細かいことは本の方を当たって欲しいのだけれど、ここで示されている「意識」についての議論は非常に興味深い。わたしたちは、意識と行動の関係について、まず何かをしたい、しようとする意志、欲望に基づいて行動に移している、と思っているのだけれど、いくつかの実験においては、そのまさに逆のことが観察されるという。悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ、という言い方はしばしばなされることがあるけれど、それよりももっと踏み込んで、人は、自分がどうしてそういう行動をとったのかがわからずに、自分のを事後的に適当に解釈してしまうことがある。

分割脳という脳梁を切断された患者に対する実験で、言語機能のない側の半球の視野(左視野)にだけ提示された命令を拒否した患者は、自分が何を拒否したのかに答えられなかったという。あるいは、左視野に笑え、という教示をすると、患者は笑うことはできる(指示を行動に移すことはできる)けれども、なぜ笑ったのかを訊ねると、実験者たちが「ほんとうにへんちくりんだから」というような取って付けたような理由しか答えることができないという例もある。

この手のもので有名なところでは盲視覚というのがある。本人はまったく目が見えないのに、たとえば飛んでくるボールをよけることができ、しかも本人は何故よけたのか説明できない。似たようなことは次のような実験でも体験できる。被験者が上下左右の反転した眼鏡をつけて生活し、慣れたところでその人にボールを投げると、上手い具合にキャッチすることができる。しかし、被験者にどこから飛んできたのか、と問うとしばしば答えられない。

これは、生物の脳の構造として、運動系の機能と認知系の機能の二つの経路があり、運動系のものが生物として基礎的なもの(しばしば「下等」と呼ばれることもあるけれど、言い換えればもっとも基層にあるということでもある)であるために上記のような現象が起こるという見方が示されている。

これらのことからわかるのは、人間の知覚のうち、みずから意識できる部分というのはきわめて限られているということだ。五感から入力される知覚をすべて意識していたのでは、意識の処理能力を超えてしまう。だから、前意識の段階で知覚情報がある程度処理された上で意識に上ってくる、というようなことだろうと著者は言う。

「視知覚情報処理の大部分は、われわれの意識にとってアクセス不能であり、われわれはたかだかその処理の結果(=出力)を知覚現象として経験するにすぎない」

もっといえば、わたしたちの意識、主観、感情というものは、脳の活動に対する事後的な解釈にすぎないと言えるのかも知れない。

ただし、意識の境界は絶対的なものではなく、ある程度の訓練を積むことで、自律神経をも意識的に操作できるようになる人というのも存在する。たとえば、アスリートや超人的な能力を持つ人たちは、訓練などの結果、この普通の人には意識することができない領域にもアクセスできるようになったと言えるのではないか。

十年前の本になるのでこれからどれだけの研究の進展があったのかは私には判然としないけれど、この手の脳科学、認知科学のとっかかりには非常に良いのではないかと思う。

ただ、著者の問題意識として、そのようなサブリミナルな人間観と、いま現在の社会で採用されている人間観との齟齬を問いたいというのがあるのだけれど、ここはちょっと微妙なところがあるなと感じる。人間が主体的な判断をし、責任能力を持つというのは、たとえフィクションであっても、現代の制度の前提として採用されているのであって、事実言明として正しいかどうか、というのとはややレイヤーの異なる話だと思っているので。


あと、タイトルから連想されるサブリミナル効果にかんして。サブリミナル効果はトンデモだ、という話が結構広まっていて、私も漠然とそうした印象を持っていたのだけれど、人の行動をコントロールするようなものではないにしろ、「サブリミナル単純呈示効果」という、意識できない刺激に対して、何度も経験したものの方により好感を抱く、というような実験が報告されている。この「サブリミナル単純呈示効果」にかんしては追試もされていて、「サブリミナル効果」はある、と言える。また面白いのは、本人がそれを以前に見たと認識しているかどうかには関わらず、この効果は出現する、ということ。これも認知と意識との齟齬から来る現象で、心理学的にきちんとした研究の対象でもあり、トンデモというわけではないのがわかる。

姉妹編に講談社現代新書「〈意識〉とは何だろうか」があり、こちらは錯視という魅力的な題材で意識についての議論を進めていて非常に面白い。

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紙の本

紙の本日本人はなぜ無宗教なのか

2010/02/03 22:11

「無宗教」の近代史

8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

日本人が無宗教だという俗説には疑問があった。無宗教とはいうが、そんなのは少なくとも国家神道解体以降のことでしかないし、それでも無宗教というのは妥当か、というような疑問だったのだけれど、ちょうどその事を論じた本があったので読んでみると、自分の疑問をかなり具体的に整理することができ、非常に面白かった。

まず著者は、日本人の自称する「無宗教」というのが、教祖、教義、教団を持つ「創唱宗教」ではないということであって、宗教心自体を否定してはいないことを指摘する。ある調査では、回答者の内の七割が無宗教だと答えているにもかかわらず、また七割の人間が宗教心が大切だと回答している。これは「無神論」とは明らかに異なる。

「宗教心」が大切だ、というのは宗教心を持っている、ということと同じとは言いにくいが、「無宗教」が宗教の全的な拒絶ではないことは推測できる。

著者は「創唱宗教」に対するカテゴリとして「自然宗教」を提示する。これはたとえば村上重良が、民族などの共同体のなかで生まれた信仰と、特定の創始者を持つ宗教とを分けて、前者を民族宗教、自然宗教、後者を創唱宗教と呼んだのを踏まえたものだろう。

年明けには初詣に出かけ、盆には里帰りし、神社に神頼みに行き、建物を建てるときには地鎮祭、とこれだけ宗教的でありながらなおも自らを無宗教だと明言してはばからないのは、日本人にとっては「無宗教」は「創唱宗教」の信者ではないという意味で、「自然宗教」の信者だという可能性を排除しないからだという。「自然宗教」は特別な教義こそ持たないが、様々な年中行事という強力な教化手段で、人々の生活にアクセントと平安を与えている宗教なのだ、と著者は述べている。

もう一つ、著者は無宗教を人々が標榜する理由を、宗教という日常とは異なる論理への恐れから来るのではないかと論じている。宗教とはこの世の不条理や悲しみ、苦悩を認識し、その解決を試みる営みだ。そのために教理や理論体系があるのだけれど、日常を平穏に生きている人にとっては、宗教というのはその日常と異なる論理でもって日常を脅かす存在に見えるのではないか、と。人生への疑いを忌避し、楽観的に人生を生きたいというという人には、自然宗教たる年中行事や死後の平安を保障する葬式仏教がある以上、改めて宗教を信ずる理由がないと指摘している。

さて、著者はこの分析を土台にして、日本の宗教思想史を概観しながら、日本人が「無宗教」を標榜するに至る経緯、理由を論じていく。本書で示されている論点は多岐に渡っているけれど、特に興味深いものとして国家神道非宗教論がある。

明治時代、キリスト教を布教する目的もあって諸外国から「信教の自由」を導入することを迫られていた日本が、外面的には「信教の自由」を標榜しつつも、天皇を絶対とする国家神道を強制するために生み出した二つの詭弁だ。

ひとつは天皇を絶対化する神道(当時、天皇自体民衆から忘れられていた存在だったとはよく言われる。つまり、この時点で天皇崇拝を伝統的習慣であるかのように言うのは不可能だった)という推進する側が宗教だと認識していたものを、表向き宗教ではないかのように偽装する、というもの。

もうひとつは、内面は自由だが、外形は法的拘束に縛られる、という「外顕」と「内想」という二分法を援用して、内面の自由は侵害されないのだから外形をどうしようが信教の自由には抵触しない、というものだ。

この二つの論理を用いることにより、国家神道が国民に強制されていても、日本には「信教の自由」があるのだと標榜することができた。この皇祖神アマテラスを中心とした国家神道への再編成の過程で、日本人の信仰のあり方は非常に深刻な打撃を被っていく。「神仏判然令」(廃仏毀釈)、「神社合祀令」といった政策は、この再編の過程で生まれ、結果として「神社から仏教色が一掃され」、「地方によっては仏教寺院の全面的破壊、僧侶の強制的還俗にまで進んだ」。

このため、神仏習合の世界観のなかで、仏という中心理念とその実体的延長としての神々、という関係が破壊されることになった。この過程のなかで、日本人の宗教観はきわめて貧困な痩せたものになってしまった、と著者は嘆く。

現在の「無宗教」の直接の起源はこの戦前期の国家神道政策が戦後破綻したことによって生まれたものだと思われる。「宗教心」を極度に政治化したツケといえばいいのか。

話はそれるけれど、この宗教の政治利用と同じことは現代の国旗国歌法においてもまた行われている。「外顕」と「内想」というのは国旗国歌の強制において用いられている論法そのままだからだ。教員に対する職務命令を正当化する人々はよくこの論理を口にするのだけれど、これが国家神道の強制に用いられた論理だったことを考え合わせるとなかなか歴史の皮肉を感じさせる。同時に、国旗国歌強制により、外面のみで計られる愛国心の強要が、どれだけ内面の愛国心を破壊するかを愛国者は考えるべきではないかと思う。それを無視するならば、愛国心を、ただお上の命令を絶対化するための方便に自ら貶めることになるだろう。その後には「無宗教」が来たように「愛国心」もまた形骸化する結果をもたらすことになるのではないか。


身近な疑問から出発し、歴史的経緯をたどりつつさまざまな学問的蓄積を縦横に駆使して興味深い知見がちりばめてあり、いわば新書としての模範的な内容と構成で非常に秀逸な出来だと思う。著者自身は浄土真宗の信者で、宗教についての確たる信念を持って書いているのがよくわかるのも良い。

もうちょっと詳しく書いた記事はこちら

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紙の本

紙の本深海生物学への招待

2010/01/17 20:34

自然史における二〇世紀最大の発見

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

奇怪な生き物が多い深海生物のことを探していたら、熱水噴出孔生物群集なる聞き慣れないものがあることを知った。口も消化管もない生物が、深海の真っ暗闇のなかで密生しているらしい。

これらの生物は、消化器官を持たない代わりに、体内にバクテリアを飼っている。それらの共生バクテリアは海底から噴出するチムニーに含まれている硫化水素やメタンを摂取し、化学合成を行い有機物を生産している。ハオリムシやシンカイヒバリガイといった熱水噴出孔生物群集は、そうしたバクテリアが産出する有機物を栄養にして生きている。

私たちは普通、光合成を行う植物を起点とした生態系に暮らしている。深海生物の多くも、海の表層から降りてくるものに依存しており、つまり生物はすべて太陽の恩恵によって生きていると思われていた。けれども1969年に行われた深海調査において、太陽の光に依存せず、地中から吹き出すチムニーからの硫化水素やメタンを栄養源とする生物が発見されたことで、その視点は大きく転換を迫られた。

私たちが属する光合成生態系とは異なる化学合成生態系の発見は「自然史における二〇世紀最大の発見」とまで言われている。

というわけで、こんな面白い発見がされていたのか、と生物学とかにはとんと疎かったので、非常に新鮮な驚きを味わった。これは面白い、とネットで見られる資料だけではもの足りず、よりじっくりとこのハオリムシとか熱水噴出孔生物群集について紹介したものはないかなと探して見つけたのが本書。

ハオリムシ(チューブワーム)をはじめとした熱水噴出孔生物群集を核に記述したもののなかで、たぶんもっとも手頃なものがこれだろう。他は深海生物全体について概説したものぐらいしか見つからず、この独特な生態系の意味を論じた本が他に見つからなかった。

本書は深海探査挺の乗組員として実際に深海調査をしている著者の経験を交えながら、ことに熱水噴出孔生物群集について丁寧に説明をしていて、非常に面白く読めた。本の流れも考えられていて、探査挺でだんだん海底に近づいていく経緯を語りつつ、その時々で出てくる海洋知識についての解説や、海底探査の逸話、またSF小説、文学、詩などの引用を縦横に挟み込みながらの叙述は引き込まれる。

チューブワームについても結構満足のいく解説が読めるけれど、この本で面白いのは、光合成に依存しない(というわけではないらしいという説もあるとのこと)生態系というものが意味する事態についての試論だ。

生命の起源について、従来は栄養を自前で作り出すのではない、従属栄養生物が起源だという「従属栄養仮説」が主流の説だった。けれども、「パイライト仮説」という化学合成独立栄養生物が生命の起源だったのではないかという説が新たに出されているらしい。パイライト仮説に従うなら、最初の生物はハオリムシなどに共生しているイオウ酸化バクテリアだったという可能性を著者は指摘している。また、光合成の起源は、熱水を噴出するチムニーを発見するための赤外線センサーにあったのではないか、という新説も紹介している。

地球生命の起源について、この奇妙な生態系は興味深い仮説の土台となっているようだ。

また、著者はこの太陽光に依存せず、海底地殻運動の産物である熱水噴出から糧を得る生物群の存在から、地球外生命の可能性を指摘している。火山活動のある木星の衛星イオ、同じく表面が氷に覆われているものの海水の存在が指摘されているエウロパには、海底熱水活動があるのではないかという。そして、海底熱水活動があるならば、そこには地球の熱水噴出孔生物群集のような、化学合成生態系が存在しているのではないか、と著者は考える。

これは面白い。結構可能性があるんじゃないかと思わされる。なにしろ、光の届かない海底に、熱水を栄養としている生物が現に居るわけで、なかなかの説得力。このことについては同著者のこれも非常に面白い「生命の星 エウロパ」に詳しい。

海にはまだまだ謎がいっぱいだなと楽しくなってきた一冊だった。

ちなみに江ノ島水族館にはハオリムシ等この種の生物を集めた化学合成生態系水槽があるので必見。深海生物のなかでもよく知られている体長45cmにもなるダンゴムシの仲間、ダイオウグソクムシとかもいる。私も何年か前に見に行ったのだけれど、これは面白かった。
http://www.enosui.com/exhibition_deepsea.php

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