サイト内検索

詳細検索

ヘルプ

セーフサーチについて

性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示を調整できる機能です。
ご利用当初は「セーフサーチ」が「ON」に設定されており、性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示が制限されています。
全ての作品を表示するためには「OFF」にしてご覧ください。
※セーフサーチを「OFF」にすると、アダルト認証ページで「はい」を選択した状態になります。
※セーフサーチを「OFF」から「ON」に戻すと、次ページの表示もしくはページ更新後に認証が入ります。

  1. hontoトップ
  2. レビュー
  3. kingさんのレビュー一覧

レビューアーランキング
先月(2017年5月)

kingさんのレビュー一覧

投稿者:king

231 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

妻を帽子とまちがえた男

紙の本妻を帽子とまちがえた男

2010/05/24 23:40

人間らしさ、ということ

11人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

心理学や脳神経科学の本では、脳機能の欠損によって人の顔が分からなくなる顏貌失認という症状や、自分の手を自分のだと認識できないといったような症状に見舞われた人の例が参照される。現象として非常に興味深く、脳機能の分析にとっても有用なのだろうけれど、では、その失認症などに罹った当人にとって、それはどういうことで、その人たちはどうやって生活しているのか、という具体的な状況は見えてこない。心理学の理論などの概説という本の性格からいって仕方がないのだけれど、そうした人たちの世界観というのはやはりとても気になるものだった。

で、ちょうど文庫化していたこの本を見つけて、タイトルからしてこれだ、と思い読んでみると、まさにど真ん中。サックス本人が診察し、観察した患者たちのありようが丁寧に描かれている。

私の興味に合致したからというだけではなく、これはホントいろんな人に読んで欲しいと思う。神経科の患者の症例集ということで、珍しく興味深い症例が豊富にあり、のぞき見的好奇心を掻き立ててしまうところもあるけれど、そういう読者の首根っこをつかんで、患者が被る社会的な問題にも眼を向けさせ、さらには通俗的な「人間性」のイメージを突き崩して、さらにより広いレンジから「人間」を捉え直そうというきわめて大切な試みがなされている。

この本で記述される患者たちの症状は、多くが認識や知能、あるいは記憶といった、「理性」、「知性」という一般に「人間らしさ」の根幹に障碍を負っている。脳、神経の障碍は、やはり身体的機能の障碍とは意味が違ってくる。人権問題にも直接繋がっていくようなきわめてデリケートな問題でもある。

表題になっている「妻を帽子とまちがえた男」は、人の顔が認識できなくなる顏貌失認の症例で、題の通り、妻と帽子が区別できなくなるというような障碍が起きる。それ以外ではごく普通の人物であるにもかかわらず、だ。

パーキングメーターを生徒とまちがえてなでてみたり、ドアノブに話しかけて返事がないのを訝しんでみたりと視覚的認知能力が失われ、音楽家としての資質があり音楽教師として優れているけれども、日常的行動にも困難を来してしまう。そんな彼だけれど、歌を歌っている限りは行動に支障を来さず生活することができる。途中で邪魔が入り、歌が中断されると途端に糸が切れたように何もできなくなってしまうため、彼の日常生活はつねに歌いながら行われる。歌がなければ生活できない。

かといって本書ではそうした悲劇的な話ばかりではない。障碍と才能が表裏一体のものでもあることがいくつもの事例で描かれている。

トゥレット症候群、というチック(つい何かに手を触れたり、体を動かしたり、奇声をあげたりといった不随意的な行動)を引き起こす障碍があり、レイという患者は攻撃性や粗暴性を抑えられず、会社勤めや結婚生活に支障を来していた。しかし、知能は高く機知にあふれ、なによりジャズドラマーとしての素晴らしい才能があった。突然襲ってくるチックの衝動性を利用した、意表を突いた即興演奏が彼のドラムの魅力だった。彼は様々なゲーム、スポーツも得意で、即興性と反射神経にあふれた機敏な動きを見せる。

ハルドールという薬をレイに投与すると、チックが抑えられると同時に、機敏さや即興性、つまりドラムの才能が失われることがわかった。二十数年チックとともに生活してきて、チックであることも自身の重要な一部だというレイにとって、自己表現の手段でもあり、生計の手段でもあるドラマーとしての資質が失われることは看過できない。そのため、彼は平日はハルドールを飲んで普通の人として暮らし、休日になると服用を辞め「機知あふれるチック症のレイ」としてドラムの才能を活用しているという。

「レイはトゥレット症にもかかわらず、また、ハルドールによって人工的なものを強いられ、よって「不自由」であるにもかかわらず、それをうまくやりくりして満ち足りた生活をしている。われわれの大半が享受している自然のままの自由という生得権をうばわれているにもかかわらず、満ち足りた生活をしている。彼は自分の病気に教えられて、ある意味では、それを乗り越えたのだ」

病者の存在を矯正すべき異常のみと見る見方、それが本書では退けられ、障碍という得難き才能、多彩な充足、幸福のあり方が取り上げられている。知的障碍、自閉症、その他の脳神経系の疾患が受けやすい偏見を取り払い、彼らにも彼らの世界、意味があるのだと指摘してみせる。彼らもまた人間であるということを強く印象づける。彼らの世界の豊穣さと同時に哀しさもまた描かれている。

彼らのそうした世界の個性、特性を無視して、健常者の社会に従属させるようなものを治療と呼んで良いのかという疑問が投げかけられる。「かわいそうな障碍を持っている」から「彼らを健常者にできるだけ近づけなければならない」というロジックが果たして正しいのか、ということ。そうした処置はしばしば、彼らの長所や充足を否定し、せいぜい平均より劣った健常者として社会に包摂する結果となる。「機知あふれるチック症のレイ」は病者の長所と健常者の社会とを意図的に使い分けることができた希な例だけれど、より重篤な自閉症や障碍となると、そうした器用な生活は難しくなる。

数に対してきわめて敏感で特殊な能力を持っていた自閉症の双子(この双子の素数による「会話」にサックスが参入したシーンは本書でももっとも印象的な場面のひとつ)が、矯正を施されて明らかに生の喜びを失い、「小遣い稼ぎ程度の仕事」に従事するより他なくなってしまった、という非常に悲しい例がその一例だろう。


ここで例示してみたのはごく一部でしかなく、私の取り上げ方もひどく単純化されたかたちに過ぎないので、是非ともじっさいに読んで欲しい。この本には、社会的にも、芸術的にも、心理学的にも、科学的にも興味深い、示唆あふれる事例と観察と議論がある。重篤な障碍を持ちつつも社会的に地位を得、生活を送れるようになるといった幸福な話も、障碍に潰されたまま、立ち直れない哀しい話もある。

とにかくも、間違いなく名著と呼ぶべき著作でまあ既に有名な本なのだけれど、まだ読んでいないという人で、ちょっとでも興味があれば是非とも薦めたい。素晴らしい。

もうちょっと長い元記事

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

現代の貧困 ワーキングプア/ホームレス/生活保護

「格差」ではなく「貧困」が問題だ

14人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

貧困というとなんだか古い話のようだが、著者はデータを提示して、貧困が現在非常に拡大しつつある状況を示し、貧困に陥った人々に対する保障がきわめて薄い現代日本の問題点を指摘している。

最近格差社会論が活発だが、いわば個々人の生き方の問題とも言える格差、ではなく、社会がその是正を行わなければならないもの、最低限の生活の維持が危うくなる「貧困」が問題なのだという。

では、貧困とはどういう状況か、ということについてから説明が始められ、貧困調査の基礎知識などが解説されなかなか面白いのだが、それは措いておく。

メディアでは誰もが貧困に陥る可能性があるということを強調するが、そうではなく、現代日本で貧困に陥るのは、特定の人びとだという。それはある不利な状況にある人びとで、現代では格差の進行により、そうした人びとが貧困から抜け出せなくなり、固定化している。そこで強い関連があるのが学歴で、大卒、高卒、それ以下、できわめて大きな差ができている。これには、高等教育を受けさせるだけの富裕な家庭でなかった、という状況が考えられ、格差固定の一例を示している。

そして、貧困という状況下では、経済的な困窮のため、安定した労働が行えないという不安要素が増大する。そうしたストレスのかかる状況で、病気になりやすくなったり、自殺してしまったりするという問題がある。特に、自殺の要因の三割は生活、経済問題が占めており、近年の中高年男性の自殺の増加ともあわせて大きな問題といえる。

貧困は社会不安を増大させる大きな要因であり、社会問題のかなりの部分は貧困を視野に入れなければ解決できないものがあると著者は指摘している。

さらに、著者は日本の保障の問題を指摘する。

「日本の福祉国家の仕組みは、高学歴かつ正規雇用者で資産も家族もある人々には「やさしい」一方で、低学歴で未婚もしくは離婚経験があって非正規雇用で転職も多く、資産も家族もない人には「やさしくない」と見ることができる」189

OECDによる国際比較で、日本の低所得層が再配分によって得た所得のシェアは、先進諸国19ヶ国中下から二番目だという。税や社会保障による所得の再配分がかなり低機能だ。

また、シングルマザーやホームレスといった人々にとって必要であろう住宅手当や失業扶助といったたいていの先進国にある保障制度がない。住所がなければ生活保護や職安の対象にすらなれないホームレスの存在を考えるとこれは致命的な問題だろう。

少子化と騒がれている割には、政府は子供を持つ親に対してはきわめて冷たい態度を取っている。ネオリベ的な企業に優しい改革をする一方、非正規雇用やシングルマザーらを批判する連中の多いこと。自分たちがすすめた改革の生み出したものを、人ごとのように批判しているようにしか見えないが。

著者は、社会保障の充実は低所得層の人権ばかりを配慮したものなのではなく、社会の安定と統合のためにも必要とされるのだと言う。

「福祉国家の歴史が証明しているように、国家が貧困対策に乗り出す大きな理由の一つは、社会統合機能や連帯の確保にあった。階級や階層ごとに分裂した社会を、暴力や脅しによってではなく福祉機能によって融和と安定に導いていくことは、国家それ自体の存在証明にもなることであった」207

ワーキングプアはじめ、生活が困難になりつつある労働者が増える一方で、企業は景気が良いらしい。低所得層の増加と不安定労働の拡大という社会の不安要素をいたずらに増大させる政策が何に帰結するのか、政府は考えているのだろうか。

以下に詳細
Close to the Wall

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

「ニート」って言うな!

紙の本「ニート」って言うな!

2006/02/24 19:43

いま、大人たちが危ない!

11人中、11人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

一般に「ニート」という言葉でイメージされる人間像とはどんなものか。本文中にもピックアップされている週刊誌などの記事から見れば、「甘えている」「親に寄生している」「自分勝手」「怠けている」「無気力」「ひきこもり」等々、様々なマイナスイメージで彩られていることが分かる。というより、ニートとはいまや否定的な形容詞と化している。

しかし、本田氏の提示する統計資料はまったく違った姿を伝えている。

まず、15〜34歳までの学生・既婚者をのぞく無業者のなかから、就職活動をしている者(希望型・ほぼ失業者と重なる)、就職の意志を示しているけれども具体的な就職活動をしていない者(非求職型)、就職の意志がそもそもない者(非希望型)と、三項目に分類する。

一般にニートと定義されるのは非求職型と非希望型をあわせた数で、2002年段階でおよそ八十五万人。しかし、ニートのなかで、そもそも働きたくないという非希望型はおよそその半分でしかなく、ここ十年でまるで増えていない。就職の意志はあるが就職活動をしていないものが十万人強増えたぐらいだ。

四十万人ほどいる非求職型の男性の半分以上は留学・受験や資格取得の準備をしていて、女性の二割もそれに該当する。非希望型でも、男性の三割以上、女性の二割は留学・受験の準備中である。

いわゆるニートのなかでも、働く意志もなく、特に何もしていない人というのは全体の三分の一に過ぎない。

以上を見ても、怠け者や甘えているというネガティヴイメージがニート全体に無根拠に敷衍されていることが明らかだが、それ以上の問題は若年失業者の問題であるという。

ニートの増え方は十年間に十万人という程度だが、無業者のなかでちゃんと就職活動をしているもの、つまり失業者の数はここ十年で六十万人の増加を見せている。これは十年前に比べて若年失業者が倍増したと言うことを示している。またフリーターもここ十年で百万人増加し、倍になっている。

つまり、ニート議論で見えにくくなっているが、いま現在若年層では、明らかに就職口の不足が起こっているということである。失業者とフリーターの増加はそのことの端的な証左であり、ニートの増え方が問題にならないくらいの激増ぶりである。

いまのニート議論は、数年前の内閣府の国民生活白書ですでに指摘されていた、企業側の採用抑制という問題点を結果的に覆い隠す格好の素材として消費されてしまっている。そしてすべては若者の内面および、親たちの教育不足という問題へと収斂し、企業や社会政策には何の問題もないかのように語られる。


本田氏は上記の点を丁寧に詳述し、それに続く内藤氏のパートでは、そのように若者叩きへと議論が収斂してしまう構造の問題を鋭く追求している。青少年の凶悪事件のみが過度に報道され、大人の凶悪事件はほとんど報道されないというメディアの偏向ぶりや青少年ネガティヴキャンペーンのあり方から、内藤氏は若者だけが危険な存在だと印象づけようとする大人たちこそが幼稚なのだと切り返す。

メディアの重要な役職に就いたり、その基本的な方針を監督することのできるいまの大人たち、そしてそのメディアの消費者たちは、少年犯罪も往時に比べ激減し、中高年に比べ殺人者率も低いいまの若者をことさら危険な者として粉飾する。彼らは自分たちが何かしら問題を抱えていたり、修正しなければならない間違いを犯しているということを決して認めようとはせず、その責をすべて若者に丸投げしようとしている。

だから、それが煽動めいていても、昨今の青少年ネガティヴキャンペーンに対抗する意味において、われわれはこう叫ばなければならないだろう。

いま、大人たちが危ない!

「壁の中」から

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

百姓から見た戦国大名

紙の本百姓から見た戦国大名

2007/08/14 00:04

飢餓と戦争の時代のサバイバル戦術

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

戦国時代、というと支配階級である武将の話ばかりで、直接戦争に関わらない人たちがどのような暮らしを送っていたか、ということはあまり話題にならないしよくわからない。私は戦国武将についてあんまり興味がなくて(全然知らない)、むしろ当時の日常的な生活のあり方がどうだったのかを知りたかったので、百姓を視点に据えた本書の叙述は非常に興味深く読めた。

この本ではまず、戦国時代とは戦争と飢饉の時代であることを強調する。戦争と飢饉が慢性化し日常となった時代だという。そして、戦争と飢饉のなかで窮乏にあえぐ人々は、当然その改善を大名に要求するわけで、その世直しの声が大きくなって実際に大名の代替わりの契機とすらなることを史料から指摘してみせる。

つまり、大名とはいってもやはり生産者として国を支える農民、民衆の声を無視できるわけではない、という実に当たり前のことが指摘されるのだけれど、これがなかなか新鮮だったりする。やはり大名、戦国時代などには支配者である大名とその下で年貢の重圧に苛まれる農民、といったようなわりあい一面的なイメージがあったのだけれど、本書はそういった印象を具体的な事例に基づいて丁寧にかつ鮮やかにひっくり返して見せる。

なお、戦国時代の飢饉というのは江戸後期で大飢饉と呼ばれたようなものがほとんど日常となっていたほどのものだった。作物の収穫の端境期ではつねに人の死亡率が上昇し、日々生きるか死ぬかの瀬戸際にあった。そしてさらに、文字通り戦争がたびたび起こっていた内戦の時代でもあるのだけれど、戦争はどこか空中で行われるわけではなく、常にどこかで誰かの領地において戦われていたということを忘れてはならない。ひらたくいえば、どこかに攻め込むということは同時にその領地で破壊行為を行い、作物を奪取する略奪と表裏一体だったということだ。

では、人々はその過酷な時代をどうやって生き抜いていったのか。そこで注目されるのが村だ。村とは言っても、自然に形成された人々が集まり住んでいるところ、というものとは違い、領地の占有、構成員の認定、構成員に対する徴税、立法、警察等諸権力の行使を行い、私権を制限する一種の公権力として存在する政治的共同体として形成された村だ。さらには当時の人々は皆武器を持っており、対外的に武力を行使することもあった。そして、村の行動については構成員が全員参加する寄合によって決定される。

「不作が生じた場合には、相当分の年貢等の減免を要求するが、それが容易に認められない場合、実力で抗議した。村ぐるみで、山野などに逃げ込み、年貢の納入や耕作を放棄した。こうした実力行使を「逃散(ちょうさん)」といい、中世を通じて百姓の対領主闘争の基本的な方法であった」137頁

適切な対応をとらなければ農民はよそに移動したり、没落したりして、不作発生し、年貢などの収取が滞り、国は存立の危機に瀕する。国にとっても百姓たちの村の豊かさを維持することが重要であり、それなくして大名自身の安寧もなかった。そのような社会状況のなかでは、上記のごとき領主と村との契約はきわめて大きな意味を持っていたのだろう。


この本が面白いのは、この時代における具体的生存の困難さという前提から、生きるための即物的な必要性の点から、当時の社会のダイナミクスを見ていくという視点だ。飢えた農民の声によって代替わりを余儀なくされたり、飢餓の時期に他国へ略奪に行く戦国大名、生存のために大規模な紛争まで起こす武装した村々等、即物的な俗っぷりが興味深いことこの上ない。

詳細は以下
「壁の中」から

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

日本神判史 盟神探湯・湯起請・鉄火起請

一見不合理な「神判」が求められた社会的状況を描く

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「喧嘩両成敗の誕生」の著者清水克行による新著。前著は中世から近世における紛争の事例をつぶさに見ていくことで、喧嘩両成敗という法が前近代の野蛮さを示すものではなく、当時にあって合理的な紛争解決の一手段としてあった、ということを論じる法制史の趣のある著書だったけれども、本書もまた神判―神明裁判―というややマイナーながらもインパクトのある題材を論じていくことで、紛争解決のあり方を通じて中近世社会の変遷を辿る著書となっている。

熱湯に手を入れて火傷するかどうか、あるいは焼けた鉄を目的の場所まで運べるかどうか、というどう考えても不合理な神明裁判のあり方から、科学なき時代の「合理的」解決法を描く手さばきはやはり見事で、やや付け足り的とはいえ世界史上の類似例を探って類比的に神判史をひもとく部分など、新書判の概説書として非常に行き届いた構成になっている点もポイントが高い。

本書では「起請」を軸に述べるのだけれど、そもそも起請というのは神仏に自身の主張が事実であるとの誓願を行い、それが破られた場合にそこに記した神に罰を受けてもいい、ということを記した文書、あるいはその行為そのもののことをいう。鉄火起請や湯起請はそのうえでさらに、自身を危険にさらして正しい主張をしたものには神の加護があるから大丈夫なはずだ、ということを試す裁判の形を取る。

著者が史料に現れる湯起請を見つかる限り数え上げて統計を取ってみたところ、湯起請においては有罪と無罪の確率がちょうど半々という結果が出ている。かなりそれらしい数字、に思える。内容としては犯人探し型が六割、紛争解決型が四割という内訳になっている。湯起請は室町時代に集中的に現れ、その原因にはくじ引きで選ばれた将軍、足利義教の存在が大きく、確かに彼が一時期多くの湯起請を行った。そのため湯起請は上からの専制的なシステムだというような議論も行われたけれど、義教以前にも湯起請の例が見られ、さらに民衆の側からの希望によって行われた例も多く、そうした単純化はできないと著者は言う。

ではなぜ、湯起請が求められたのかというと、著者は先行研究を要約してこう述べる

「湯起請は事件の真相を究明したり、真犯人を捕縛することに目的があったのではなく、共同体社会の狭い人間関係のなかで互いが疑心暗鬼になり社会秩序が崩壊してしまうことを食い止めるため、誰もが納得するかたちで白黒をつけることで、共同体内不安を解消することを目的としていたのではないか」

そもそも、何もやたらに湯起請が行われたわけではなく、論争や犯人探しがその前にこれ以上ない、というほど究められた後で、どうしようもなくなったところで持ち出されるのが起請だった。その意味で、秩序維持のための最終的な手段としてあったということがいえるだろう。

次に足利義教が湯起請を多用したのは何故か、という問いに進む。足利義教が湯起請を多用したのは、じつはその政権初期に集中しているという。目の上のたんこぶだった重臣がいなくなり、自身のやり方を思うように通せるようになると湯起請は行われなくなる。つまり、これは重臣たちの存在があって思い通りにならないとき、自身の恣意性を隠して意志を通そうとするときにもちいられたものだったという。

これは「喧嘩両成敗の誕生」で、「喧嘩両成敗法」が専制的な強権の発動というよりは、強権の発動ができない状況での紛争解決の手段としてもちいられるもので、むしろ強権の不在を示すものだと論じられていたことと通じる。

これは江戸初期に行われた鉄火起請についてもいえる。

「彼らが神判を許容していたのはひとえに彼らのつくりだした近世権力がいまだ未成熟で、多くの人々を納得させるだけの統治機構や理念を整えていなかったからだった。とくに、この時期に頻発していた村落間相論は、つねに複雑な利害がからみあっており、公権力とはいえ、へたに首を突っ込んで一方に肩入れすると、かえって自体を泥沼化させてしまい、自身の威信を削ぐ血管になりかねなかった。そのため、初期においてまだ不安定な近世権力は村落間相論などの問題については、主体的な理非判断を回避し、その解決を神判に委ねざるをえなかったのである」199

しかし、湯起請は室町の百年間に渡って行われたのに比べると、より過激化した鉄火起請はじつにそのピークが二十年間ほどの期間に集中していて、すぐに流行が去ってしまう。しかも、室町時代よりも近い時代にもかかわらず、湯起請の事例の半分ほどしか史料に見いだせないことから、それほど広く行われたものではなかったのだろうという。

鉄火起請はその事例を見てみると、しばしばチキンレースの様相を呈していたり、小細工をして自身を有利に導いたという話が伝わっていたりと、むしろ「神慮」を蔑ろにしかねない状況が多々見られる。「神慮」の絶対性の低下とともに、試練が過激化していく状況は神判のあり方が末期的なものとなっていたことの証とも言えるだろう。近世権力の安定とともに、鉄火起請は姿を消していく。

というわけで、各時代の起請を見ることで、法を貫徹する権力が不安定な時期における過渡的な紛争解決手段として起請が求められたありさまを見てきたわけだけれど、たとえば地域の秩序維持のために起請が行われ、犯人を見つけ出すという事例は現在においても全然他人事ではないとしか思えない。足利事件なんてその良い例ではないか。科学的捜査が進歩し、証拠に基づく合理的な犯人探しが行われるようになったような気がしているけれど、いくつかの有名な冤罪事件なんかは白黒半々の湯起請に訴えた方がまだマシでは、ということを思ったりする。

元記事

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

眼の誕生 カンブリア紀大進化の謎を解く

光と進化

8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

これはかなりの名著だと言って良いと思う。グールド、コンウェイ・モリスらのカンブリア紀ものの本を読んだことのある人は必読だといえる。そうでなくとも、カンブリア紀の進化についてのアップデートされた知識が詰まっている。

本書はカンブリア紀の爆発的進化についての最新の学説、「光スイッチ」説をその提唱者自らが解説した啓蒙書。その新説の肝はタイトル通り「眼」にあり、眼の誕生がカンブリア紀の爆発的進化を促した、という非常にシンプルなものなのだけれど、これを納得させるために、著者は自然界の生態系において、いかに視覚が重要なものなのかを様々な事例を用いて説明している。

その前に、この本を読んでバージェス動物群ものの議論で不思議だったことがひとつ解決したのが面白かった。奇怪な生物を新しい「動物門」に分類すべきかどうかが大きな論点として存在していて、グールドはカンブリア紀の爆発を生命の多様性の爆発的増加として考え、新しい動物門を主張したりしていたけれども、生物学を学んだことのない私には、ではこの「門」というのは何なのかよくわからなかった。

本書では、門とは内部体制(ボディ・プラン)の差であると述べられている。体内の設計は、突然変異などで部品の設計が変わると生命活動に支障がでてしまうので、ある門のなかでその体内設計は基本的に維持される。けれども外部体制はそこまで厳密ではなく、たとえば角が長かったり短かったりする程度であれば、それだけで生存不能なエラーとはならず、その変異が生存の上で有利であれば子孫に受け継がれることもあるだろう。だから、同じ門とは思えない外形をしている動物も多数存在し、同じような生存環境で同じような生活をしている似た形の生物が、違う門に属している、ということもあり得る。

門の分類はそうした内部体制の差異を基にしていて、外部体制に比べ変異しにくい。そしてカンブリア紀の爆発とは著者の定義によると、それぞれの動物門がいっせいに硬い殻を獲得した出来事だという。だからこそ化石に残りやすくなり、一斉に世界でその時代の地層から化石が発見されるようになる。また、内部体制自体はカンブリア紀以前、一億から五億年まえまでにできあがっており、カンブリア紀に新しく多数の門が生まれたわけではない、と著者は強調する(ここら辺はグールドに対するコンウェイ・モリスの批判と共通)。あくまでカンブリア紀の爆発とは、外部体制の爆発的な多様化であるというのが本書の基本的な前提だ。

さて、本題。嗅覚、聴覚などの感覚は対象が何らかの動きや匂いを発しなければ感知することができない。じっと動かずにいれば、ごく近くにいても相手に感づかれないということがありうる。コウモリなどの動物は音波を発してその反射で感知することができるが、それは自分で音を発するという行動を必要とする。対して視覚では、光がある限りその存在は遠くからでも明確に把握できる。音波などの特殊な装置を使わなくとも、光が降り注ぐ地上においては対象を認知することができる。これは捕食行動において非常に重要な情報となる。そのため、動物においてはその視覚を攪乱させる、体色、体型のカモフラージュが非常に進化している。

逆に海底や洞窟など光量が著しく少ない場所では、進化のスピードがきわめて遅くなる。海底の相互に断絶した場所にいる生物同士が、数億年単位の時間を経ても、ほぼ変わらぬ姿で発見される。オオグソクムシという生物は、一億年を経てもほとんど進化しなかった。また、洞窟では奥に進むに従って体色が退化していく様子が観察できる。そして、体色の退化の度合いにかかわらず、洞窟種ではすべて眼が存在しない。「眼は非常に高く付く」道具なので、必要がなくなれば即座に退化してしまうのだという。

その他構造色(色素による色ではなく、微細な構造によって色づいているように見える。CDの盤面がそう。なので、化石からでも構造色が判別できる)にかんする議論など、光と視覚にかんする生態学的、進化論的議論を踏まえ、著者はいよいよ自説を展開する。まあ、ここまで読んでくれば、著者の説は半ば理解したも同然、という構成になっている。

眼は、カンブリア紀に三葉虫が獲得したものが最初のものだという。光を感知するだけではない、像を結ぶ視覚を獲得したのは三葉虫がはじめてらしい。そして、史上最初の活発な捕食者もまた三葉虫であったという。五億四三〇〇万年前に、地史的には一瞬にして眼が誕生した。ある試算によれば、光を感知する眼点から眼に進化するためには、控えめに見て五十万年あれば充分なのだという。

カンブリア紀になり視覚を持った三葉虫が出現し、それをきっかけに生物の生態に激変が起こった。視覚による捕食行動が活発化した結果、生物は皆それに対する適応をしなければ生き残れなくなった。それが外骨格の形成を促し、視覚に適応することを促した。光が強力な「淘汰圧」として新たに進化のメカニズムに組み込まれた。洞窟の例を見ても分かるとおり、光がないと進化は遅滞する。先カンブリア紀においては、光が降り注いでいても視覚を持つものがいなかったために進化が進む速度は緩かったけれども、一度視覚を持つ動物が出現してしまうと、新たなニッチ(生態学的地位)が出現し、それを埋めるべく大規模な進化が起こった。爆発を経てそうしたニッチが埋められると、進化は通常のスピードに戻る。それ以降、基本的な生態の仕組みは変わらない。陸に上がるという事件も視覚の獲得に比べれば小さい事件なのだという。

これが「光スイッチ説」なのだけれど、新聞で報道するときに「これは本当に新説なのか?」(こんな分かり切った話が新説か?)という疑問を出させるほど、当たり前の話に思える。先カンブリア紀とカンブリア紀での生物との眼があるかないかの違いに注目した人がいなかったのだろうか。むしろそれが不思議なほど自然な説得力のある説だ。

で、著者も最後にこれだけは返答に困窮した質問として、ではなぜカンブリア紀に眼が進化したのか、という疑問について考察している。数十億年間光がずっと降り注いでいたのなら、眼が誕生したのはなぜ五億四三〇〇万年前なのか。これにはまだ決定的な答えは出ていないようだが、たいそう興味深い謎だ。

いや、ほんとにこの本は面白い。新説だけでも面白いが、新説を説得力あるものにするために解説される光と生態、進化についての記述がとにかく面白い。貝虫に回折格子を発見したときの経緯だとか、著者の体験した調査のくだりなど、予測と、それを裏切る新事実の発見だとかのストーリーは非常に面白い。カンブリア紀の爆発についてだけではなく、光と進化というテーマが一貫しているので、そうした側面からも楽しめる本だ。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

アマテラスの誕生 古代王権の源流を探る

日本神話の二元構造

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

筑紫本とまったく同じタイトルのこの本は同じ論題を扱いながらも相当に違った論を立てていて、併せて読むととても面白い。そもそも視点からして違っていて、この本では特に当時の東アジアの国際情勢や、外国文化と土着文化の交錯といった要素が中心的なものとして扱われる。

筑紫本では折口信夫の民俗学に依拠した部分が非常に多かったのに対し、この本では冒頭からして折口の「ヒルメ」=「日の妻」説を否定しているように民俗学的な説を排し、歴史学的な実証的な方法にこだわっていることが見て取れる。書き方も、筑紫のやや独断と推測の多いものと比べ、溝口は学問的定説の部分と私見とをきちんと分けて書いており、慎重な論述を心がけている。全体に、溝口の論述は筑紫の方法に対する批判として機能するような形になっている。

溝口はここで、広開土王碑に記された五世紀当初の歴史から説き起こして、当時の王権がおかれた状況を概観している。詳細は端折るが、とりあえず四〇〇年頃、新羅を占拠していた倭軍が高句麗に大敗したことと、それからも高句麗と倭とが敵対関係にあり、かなりの緊張状態にあったことは確かだろうとしている。

そして考古学の知見に拠ればこのころ、日本では大きな文化的変動があったと言われている。大まかに言えば、倭国独自の文化から、朝鮮半島の影響を強く受けた文化への変化だという。同時に「王墓とみられる巨大古墳の設営地が、この間に奈良盆地から大阪平野へと移動した」ことが挙げられる。これを王権の交代と見るかどうかは別としても、この頃、政権内部に大きな変動が起きたことは明らかだとしている。

この変動を、溝口は黒船来航や白村江の敗北などの日本史上の画期と似た事態が起こったのではないかと見ている。黒船も白村江も、敗北後の危機感から政権の強化、国家統一への動きが起こり、その際には相手国からの文物の輸入という方法で対応したことが共通した点だ。高句麗との戦いでの敗北から後の文化変動もまた、そのような歴史的な画期だったのだろうと見る。

当時の政権ではいまだ豪族の連合というような緩いつながりでしかなく、そこから強力な国家を立ち上げるには、専制的な統一王権を支える新しい政治思想が是非とも必要となった。そこで求められたのが、「天」の王権思想だという。


アマテラスが元々は皇祖神ではなく、天武以前にアマテラスを天皇家が祀った形跡がないということについては筑紫、溝口の両氏がともに認めていることだ。溝口はそこから一歩踏み込んで、では天皇家の祖神は元々何であったか、ということについて論じている。

ここで登場するのがタカミムスヒだ。天孫降臨神話を良く見てみると、天孫降臨を命じたのはアマテラスだという伝承よりは、じつはアマテラスとタカミムスヒ、あるいはタカミムスヒのみと言うモノの方が多く、研究者の間ではこの件については、本来天孫降臨神話の主神であったのは、タカミムスヒだろうということで決着しているという。

タカミムスヒが古来の国家神、皇祖神だったことのもう一つの大きな根拠は月次祭という宮中の祭に求められる。しかも「古代に天皇親祭で行われた祭りは、この年二回の月次祭と新嘗祭のみだった」というほど重要視されていた。

この祭りで読み上げられる祝詞は、第一段でタカミムスヒを含みアマテラスを含まない宮中八神に対して、皇祖神の加護に対する感謝を述べている。この祝詞には明らかに後付のアマテラスへの言及が含まれていて、アマテラスが新しい後発の皇祖神であることが明らかになっている。つまり、天皇家の古来の皇祖神はタカミムスヒだということだ。

タカミムスヒを主神とした天孫降臨という、「天」の王権思想を前提にした天から降りてくる神が王権の正統性を根拠づける神話は、五世紀頃に朝鮮半島から輸入したものだろうというのがアマテラス誕生前史になる。タカミムスヒという神の存在感の薄さや土着の伝承があまりないのは、天の思想とともに神自体が輸入であり、土地に根付いたものではなかったことが原因だろうと思われる。

律令国家形成にあたって、タカミムスヒのかわりにアマテラスが召喚されたのは、タカミムスヒが宮中と一部の氏だけが祭るマイナーな神だったからだろうとしている。アマテラスはその点、伊勢の土着信仰であり、また広く親しまれていたため、統一国家形成のためにはアマテラスの方が有利だという考えが働いたのだろうという。

他にも著者は様々な理由を挙げ、氏族間の政治力学にも項を割いているけれど、とりあえずはこれがアマテラスの誕生の経緯、となる。


このタカミムスヒとアマテラスの交代劇ということにまつわり、著者が行っている記紀神話の解釈がかなり興味深いものになっている。

溝口はこの、海と天というふたつの要素に対する分析をもっと踏み込んで、記紀神話自体をイザナキ・イザナミ系と、ムスヒ系のふたつに腑分けすることを試みている。イザ系は国生みに始まり、オオクニヌシの国造りに至る系統を指し、ムスヒ系は天孫降臨から神武東征までの系統を指す。

溝口はイザ系の神話では多神教的世界観、海洋的世界観という二つの特徴があるという。様々なモノから神が生まれてくる生命力のある世界観であり、またオノゴロジマの形成がそうであるように、島、海というモチーフが多い。アマテラスも海辺の河口で禊ぎをすることで生まれている。八嶋、八洲という日本の古称もその証左だ。さらに因幡の素兎だとか、スクナヒコナが海の向こうからやってくるというエピソードもある。これが日本神話が一般に南方系だと言われることの一つの根拠となっている。

そして、オオクニヌシの国造りがおわり、国譲りの神話を経て、話がムスヒ系とされる天孫降臨になるのだけれど、オオクニヌシが平定し、地上には誰一人敵対する者がいないとされたのにもかかわらず、神武はなぜか九州に降り、再度平定の東征を行っている。これは、土着の伝承を元にしたイザ系の神話に、北方の王権思想に由来するムスヒ系神話を無理矢理つなぎ合わせたことによる矛盾であろうと著者は見る。

この分析は面白い。ここからいろいろな考察が可能になると思う。今でも、例えば高天原と黄泉の国という場所を、天上、地上、地底という垂直構造に捉える解釈は見られるけれど、この分析を前提にすると、こういうコスモロジーが古来存在したという議論はその正当性がかなり怪しくなってくる。神話にこの二元構造を見いだすことで、かなり議論を整理することができるだろう。

記紀神話の不整合は、イザナギからスサノヲ、オオクニヌシへとつながる土着の神話(各地に膨大な伝承が存在する)に、タカミムスヒによる天孫降臨という別系統の王権思想をつなぎ合わせ、その後、元々土着の神話の登場人物であったアマテラスにタカミムスヒの役割を移譲したために起こった、ということだろう。

以上、歴史学的により緻密な方法でアマテラスを論じた本。古代アマテラスについてはたぶん筑紫本よりはこちらの方が妥当性が高いだろうと思う。神話の二元構造を軸にした記述は記紀神話解釈としても面白く、いろいろ面白い視点を含んだ本だ。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

深海生物学への招待

紙の本深海生物学への招待

2010/01/17 20:34

自然史における二〇世紀最大の発見

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

奇怪な生き物が多い深海生物のことを探していたら、熱水噴出孔生物群集なる聞き慣れないものがあることを知った。口も消化管もない生物が、深海の真っ暗闇のなかで密生しているらしい。

これらの生物は、消化器官を持たない代わりに、体内にバクテリアを飼っている。それらの共生バクテリアは海底から噴出するチムニーに含まれている硫化水素やメタンを摂取し、化学合成を行い有機物を生産している。ハオリムシやシンカイヒバリガイといった熱水噴出孔生物群集は、そうしたバクテリアが産出する有機物を栄養にして生きている。

私たちは普通、光合成を行う植物を起点とした生態系に暮らしている。深海生物の多くも、海の表層から降りてくるものに依存しており、つまり生物はすべて太陽の恩恵によって生きていると思われていた。けれども1969年に行われた深海調査において、太陽の光に依存せず、地中から吹き出すチムニーからの硫化水素やメタンを栄養源とする生物が発見されたことで、その視点は大きく転換を迫られた。

私たちが属する光合成生態系とは異なる化学合成生態系の発見は「自然史における二〇世紀最大の発見」とまで言われている。

というわけで、こんな面白い発見がされていたのか、と生物学とかにはとんと疎かったので、非常に新鮮な驚きを味わった。これは面白い、とネットで見られる資料だけではもの足りず、よりじっくりとこのハオリムシとか熱水噴出孔生物群集について紹介したものはないかなと探して見つけたのが本書。

ハオリムシ(チューブワーム)をはじめとした熱水噴出孔生物群集を核に記述したもののなかで、たぶんもっとも手頃なものがこれだろう。他は深海生物全体について概説したものぐらいしか見つからず、この独特な生態系の意味を論じた本が他に見つからなかった。

本書は深海探査挺の乗組員として実際に深海調査をしている著者の経験を交えながら、ことに熱水噴出孔生物群集について丁寧に説明をしていて、非常に面白く読めた。本の流れも考えられていて、探査挺でだんだん海底に近づいていく経緯を語りつつ、その時々で出てくる海洋知識についての解説や、海底探査の逸話、またSF小説、文学、詩などの引用を縦横に挟み込みながらの叙述は引き込まれる。

チューブワームについても結構満足のいく解説が読めるけれど、この本で面白いのは、光合成に依存しない(というわけではないらしいという説もあるとのこと)生態系というものが意味する事態についての試論だ。

生命の起源について、従来は栄養を自前で作り出すのではない、従属栄養生物が起源だという「従属栄養仮説」が主流の説だった。けれども、「パイライト仮説」という化学合成独立栄養生物が生命の起源だったのではないかという説が新たに出されているらしい。パイライト仮説に従うなら、最初の生物はハオリムシなどに共生しているイオウ酸化バクテリアだったという可能性を著者は指摘している。また、光合成の起源は、熱水を噴出するチムニーを発見するための赤外線センサーにあったのではないか、という新説も紹介している。

地球生命の起源について、この奇妙な生態系は興味深い仮説の土台となっているようだ。

また、著者はこの太陽光に依存せず、海底地殻運動の産物である熱水噴出から糧を得る生物群の存在から、地球外生命の可能性を指摘している。火山活動のある木星の衛星イオ、同じく表面が氷に覆われているものの海水の存在が指摘されているエウロパには、海底熱水活動があるのではないかという。そして、海底熱水活動があるならば、そこには地球の熱水噴出孔生物群集のような、化学合成生態系が存在しているのではないか、と著者は考える。

これは面白い。結構可能性があるんじゃないかと思わされる。なにしろ、光の届かない海底に、熱水を栄養としている生物が現に居るわけで、なかなかの説得力。このことについては同著者のこれも非常に面白い「生命の星 エウロパ」に詳しい。

海にはまだまだ謎がいっぱいだなと楽しくなってきた一冊だった。

ちなみに江ノ島水族館にはハオリムシ等この種の生物を集めた化学合成生態系水槽があるので必見。深海生物のなかでもよく知られている体長45cmにもなるダンゴムシの仲間、ダイオウグソクムシとかもいる。私も何年か前に見に行ったのだけれど、これは面白かった。
http://www.enosui.com/exhibition_deepsea.php

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学

一かゼロかではなく、具体的な量を考慮する

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

元毎日新聞記者、そして現科学ライターである著者が、自身の体験を具体的に交えて、メディアが垂れ流す「健康情報」がいかにでたらめなのかを明らかにしている。また、健康情報もそうなのだけれど、「科学的」な装いがいかに無根拠なものか、「マイナスイオン」「水からの伝言」等も取り上げて批判している。

そこで著者が強調するのは、嘘健康情報やニセ科学そのものだけではなく、それを好んで話題に挙げるメディアの問題だ。わかりやすく、フックのある話題を優先するあまり、科学的に間違っていたり、二、三十年前の認識のままなされる発言、言動などが社会に浸透してしまうことを危惧している。それが、メディアにより情報の取捨選択、「メディア・バイアス」というわけだ。

内容、記述が具体的で簡潔なので、さくさく読める上に日々接している食べ物などにかんする記述が多いので、身近に感じることができる話題が多いのが良い。「あるある事件」直後と出版のタイミングとしても時宜を得たもの。

さて、この本の肝は第二章での、量の大小こそが大事なのだと主張している部分だ。ここをきちんと把握しておけば、たぶん嘘健康情報のたぐいに騙されることはなくなるだろう。

食品添加物などの危険性を指摘する声は多いが、その多くは、何をどれだけ食べたら危ないのか、という観点が欠けている。著者の説明によれば、普通、食品添加物は動物実験を繰り返して、実験動物が一生涯毎日食べても大丈夫な無毒性量を算出する。そこにマウスなどと人間とは毒物に対する感受性が異なる可能性を考慮し、その無毒性量を十分の一にする。さらに、幼児や老人などを考慮し、そこからさらに十分の一にした百分の一を、人間が一日に食べてもよい量だと指定する。この時点で、相当の厳重さでリスク対策をしていることがわかる。物質の特性によっては千分の一にする場合もあるという。

動物が毎日食べても影響が出ない量の百分の一を、人間が一日に食べても安全な限度とする。ここまで念を入れた安全策をどう考えるか。

逆に、安全だと思われている無農薬野菜、有機農業についても面白い指摘をしている。普通、無農薬といえば安全な食品だと思われているが、そう話は単純ではないという。農薬を使わずに育てると、病害虫などに対抗するため、天然の農薬を作物が体内で有毒物質を作る現象が見られるという。

ある実験では、農薬を使ったものと使っていないものと、最初だけ使った三つの種類のリンゴを調べてみると、一部の人にアレルギーを起こすアレルゲンが、無農薬栽培のものから最も多く検出され、農薬を使ったものはもっともアレルゲンが少なかったという結果が出たという。

また著者は無農薬野菜に懸念されるリスクとして、微生物汚染が存在していることも指摘している。端的に農薬を悪役扱いするという黒白思考が、無農薬野菜が安全だという神話を作り出してしまう。なお、無農薬、有機農業が必ずしも味がよいわけではない、という指摘は面白い。

もちろん、だからといって無農薬の方が危ない、ということではなく、農薬を使うことと使わないことのリスクの差を慎重に検討することが求められるのであって、ただ単に農薬を使わなければ安全な食物が作れるわけではないということだ。

食品添加物が使われたとしても、どれだけ使われたかという量が問題だということだ。また、添加物を使わなかった場合、当然ものは腐りやすくなり危険性も増大するのだが、そういうリスクは考えられているのか。

健康情報トリビアとしても面白いが、このほかにも、様々なニセ科学に頁が割かれていて、そうした情報がどうしてメディアに大きく載せられてしまうのかを丹念に追っている。なかでも、環境ホルモン騒ぎにかんして、資金をもらうために派手に危険性を吹聴した研究者の存在は興味深い例だ。

以下詳細
Close to the Wall

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

〈野宿者襲撃〉論

紙の本〈野宿者襲撃〉論

2006/02/12 21:51

ルールの過剰な内面化がもたらす暴力ではなく、ルールそのものを見直すこと。

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

野宿者、ホームレスといって、特に興味も関心もない人は、怠け者であるとか、自分で望んでやっているとか、リストラされたりして失業したのはそうなる理由があるからだ、という先入観を抱いていることがある。しかし、野宿者とは根本的に「失業問題」であり最悪の形での「貧困問題」であると著者は指摘する。野宿者になる最も多い理由は失業であり、多くの野宿者は仕事をしたいと思っているという。しかし、さまざまな社会的制度的障壁がそれを阻んでいる。

病気、リストラなどで失業し、収入がたたれ、家賃も払えなくなる時、人は野宿者になる。しかし、一端野宿者になってしまうと、住所がないために職安や生活保護からも門前払いを受け、保険もないので病気の治療もできず、一日十時間以上はたらいても千円にもならないような空き缶、段ボール拾いなどの低賃金日雇い労働に従事せざるを得なくなる。野宿者のほとんどは五十代の男性で、どこか体を悪くしている人だという。そこから定職を見つけるのは至難の業である。

そして最終的に野宿者を待っているのは冬期の路上での凍死である。大阪市内だけでも年に二百人以上の野宿者が死んでいるという。

しかし、この本が提起する問題はそれだけではない。近年、そもそも少年犯罪は減少傾向にあり、さらに日本の若者は世界でもっとも人を殺さないという指摘がある。そんななか、路上で生活している野宿者たちにいやがらせをしたり集団で暴行を加え死に至らしめたり、ガソリンで火をつけたりするという事件がいくつも起きているが、その犯人はほとんどの場合十代二十代の少年たちであるという。

世界でもっとも人を殺さない日本の少年たちは野宿者を襲撃している、というのだ。この事実はいったい何を意味するのか? 前置きが長かったがむしろそれが本書の本題である。

野宿者を襲撃する子供たちをはじめ、集団で暴力行動に走る子供たちには一連の共通性があるという。「家庭」「学校」「友人関係」のなかで全く自分に自信が持てず、仲間はずれを恐れて過剰に仲間に同調したり、親からの叱責や過剰な期待によるストレスなどが圧力要因として指摘できるという。いじめなどに見られるように、それがつねに弱者を生み出し、過酷な勝ち負けゲームへの過剰適応がもたらされる。

「いじめ、そして野宿者襲撃は、他者への攻撃による「生の実感」=「自己の存在確認」と、攻撃での一体的な「連帯」=「仲間関係への過剰適応」が対となって働く行為だと言えるだろう」

つまり、襲撃に走る子供たちには、家があっても自分たちが安心して帰属できる居場所(ホーム)がない。野宿者たちもまた「日本社会の中で居場所がない」のである。野宿者襲撃とは、そんな両者が最悪の形で出会ってしまった例だった。

しかし、両者が連帯できる可能性があるはずだと著者は言う。90年、釜ヶ崎での警察官の暴力団との癒着が報道され、日々署員に痛めつけられていた労働者たちが起こした暴動に突如混ざりだした少年たちがいた。それに参加した子供たちは警察に虐げられる労働者を見て、自分もまた家や学校でさらされる自分と重ね合わせ、「自分の問題だと思った」ようなのだ。

抑圧され、居場所がない人々が、さらなる弱者を見いだして暴力をふるうのではなく、上から押しつけてくるものに対する抵抗において、一瞬の「共闘」が立ち現れた。著者はその現場を見て、いま高校生などを対象に野宿者についての授業などを行っているという。授業後の反応や野宿者支援の活動に興味を持つ生徒たちの感想から、著者は、上記のような過酷な勝ち負けゲームではない、別のルールを構築していく可能性を見る。

「壁の中」から

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

ドン・キホーテ 前編1

紙の本ドン・キホーテ 前編1

2003/06/18 21:01

圧倒的に狂騒的な喜劇

8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

四百年前に書かれたこの小説は、知名度と読まれている割合が反比例していることでも有名な作品だ。みんなが知っているこの有名な話を今更、しかも文庫本六冊にもなる冊数を前にして読む気がなくなってしまうというのも分からない話ではない。

しかし、本当にそうだろうか。

冒頭はこうだ。
ある名も忘れられた村に住む一人の郷士がいた。その男、暇を見つけては騎士道物語を読みふけり、蔵書は膨大な数になっていた。そして騎士道物語好きが高じて、ついには自らも騎士になるべく出発するのだ。この時点ではドン・キホーテは実はまだ騎士ではない。「狂気によって自らが騎士であると思い込んだ」、という説明がなされる時があるが、これは重大な間違いを含んでいる。彼は現実の腐敗ぶりを正そうとして、騎士道物語で活躍する騎士に自らを擬して社会に打って出ようとしているのである。その為、まず彼は騎士に必須の恋い慕う姫を捏造し、ある旅籠を城と見なし、宿の主人に騎士の叙任式を執り行わせるのである。これが狂人の行いだろうか。

「ドン・キホーテ」の物語とは、その空想的とも言える試みと現実との対決なのである。そこで彼はうまくやりおおせたり、手痛い失敗を喫したり、さまざまな活躍を見せる。古典といっても(ゆえに?)エンターテインメント的な物語性も充分だし、素っ頓狂なドン・キホーテとサンチョ・パンサとのやりとりはとても滑稽であり、深い洞察も垣間見せる。

そして、この小説が本領を発揮しはじめるのが(後篇)である。(前篇)の物語は基本は非常に単純で、一度旅に出たドン・キホーテが、みんなに騙されて郷土の人間に故郷の村まで連れ戻されるところで終っている。(後篇)はその直後から始まる。
(後篇)の最初の大きな特徴は、(後篇)の物語世界では、「ドン・キホーテ」の活躍を記した書物が広く出回っているということになっている点である。そして、ドン・キホーテは自らが主人公となっている書物に目を通すのだ!

(後篇)では、そのような奇想が随所に現われ、(前篇)とは毛色の異なる世界を作りだしている。一貫してドン・キホーテ以外のものには単なる畸人、狂人でしかなかったドン・キホーテが、ある富豪のいたずらで、まったき騎士として歓待されたり、ドン・キホーテがサンチョを連れてくる時に条件として提示した「サンチョを島の領主にする」という口約束が実際に実現してしまう下りなどは(後篇)のまさに白眉である。

このなかで狂人と正常人との単純な境界はどんどん崩壊していく。サンチョが島の政治に非常に有益な決定をしたり、ドン・キホーテがサンチョに影響されはじめたり、その当時セルバンテスの(後篇)より先に出版されたアベリャネーダの贋作の登場人物を本篇に登場させ、ドン・キホーテたちと対話させたりするなど、上下の関係や異常正常、虚偽と真実、贋作と真作の垣根をどんどん踏み跨いでいくような狂騒的な空間が現出する。

(後篇)はほとんどメタフィクションである。小説が小説であるという約束事を暴露し、パロディ化するような作品だ。そもそもこの作品は、騎士道物語のパロディである。ドン・キホーテが騎士道物語の読み過ぎで騎士になろうとした、という冒頭に提示されているように、その意図は明確で、いつでもドン・キホーテは騎士道物語のお約束を口にし、その通りに行動しようとするが、だいたいその行動は失敗か滑稽な落ちが付く。

ドン・キホーテの行動は当初、誰もがバカにする行動であった。しかし、それは単にバカにされるだけのものではない。ドン・キホーテが口にする言葉に人々がつい納得したり、説得されたりし始めるのにつれ、笑っていたものが笑われる立場に立たされる。バカにしていたものが安閑としていられなくなる。そこに出現するのは単なる「諷刺」ではない。「喜劇」だ。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

フェルマーの最終定理

紙の本フェルマーの最終定理

2011/12/18 21:27

世紀の難問はいかにして解かれたか

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「3 以上の自然数 n について、Xn + Yn = Zn となる 0 でない自然数 (x, y, z) の組み合わせがない」というのがフェルマーの定理。単純そうに見えて、というかそれゆえにか、証明することはきわめて困難で、300年以上をかけてようやく達成された。本書はいかにしてこの難問が解かれたかをめぐるノンフィクションだ。

前々から評判高く、読む前からこれは絶対面白いと見込んでいたのだけれど、その予想を軽々と上回る秀逸な出来。それ自体が興味深い題材をきわめて良質な叙述で描き出していて圧倒的だ。難問への挑戦という学問の側面と、個々個性的な研究者たちのエピソードが両立しているのがいい。

ある学問的発見がいかにしてなされたか、誰がどういう理論を展開し、どう発展していったのかを語るには、やはり短くてはダメで、ある程度以上の長さが必要だ。でなければ事項の羅列になってしまう。その点、本書は五百ページの分量をたっぷりと使って丁寧に描いている。

もちろん、現代数学の先端理論を扱うわけで、理論自体が素人に理解し切れるはずはないのだけれど、それが数学界においてどういう意味があって、どういう風にすごいのかということをじっくりと解説してくれるので、数学がわかるならより面白いだろうけれど、数学わからなくても充分に面白い。

本書はアンドリュー・ワイルズという人物の人生においても、数学史においてもきわめて重要な瞬間から説き起こされている。フェルマーの最終定理を証明したという発表が行われたときだ。そこから遡り、彼がいかにフェルマーの定理に魅了されたかを描きつつ、フェルマーの定理がどういう問題なのかということを、ピタゴラス以来の数学の歴史をたどっていく。

「フェルマーの最終定理」は数百年間、数学界の謎としてあったわけだけれど、近年はむしろあまり重要でない問題という扱いをされていた。それが現代数論の最先端の問題として浮上するきっかけになったのは、「谷山=志村予想」という予想を証明することが、フェルマーの定理の証明になるという道筋が見つかったからだという。このあたりから数学理論のわけのわからなさ、そしてその面白さがよりいっそう増していく。

谷山=志村予想というのは、「すべての楕円曲線はモジュラーである」というものらしく、「楕円曲線論」と「モジュラー形式」という異なる二つの分野で用いられている別の概念が、実は同一のものだ、という主張。で、この「モジュラー形式」というのがトンでもない。なんと、無限の対称性を持っているのだという。

「谷山と志村が研究したモジュラー形式は、どれだけずらしても、切り替え、交換、鏡映、回転をほどこしても、その前後でまったく変化がみられず、数学的対象としてもっとも高い対称性を持つのである。(中略)残念ながら、モジュラー形式は紙の上に描くことはもちろん、頭の中に思い浮かべることすらできない。正方形のタイル張りであれば二次元平面内に収まるから、x軸とy軸によって定義することができる。モジュラー形式も二つの軸で定義されるが、その軸は二つとも複素軸なのである」283P

複素、というのは実数と虚数のペアであらわされるものらしい。虚数が混じる存在って、どう想像すればいいのやらわからん。このモジュラー形式のわけわからなさがすごくてたいへんエキサイティング。無限に対称ってどういうことだかさっぱりわからないけれど、数学的にはそうなんだろう。(こういうわけのわからなさって、円城塔の小説を読んでいる時に感じるものに似ている。「レフラー球」とか)

このモジュラー形式と楕円曲線論の思いがけない共通性が、数学界においては非常に衝撃的なことだったらしく、現代数論の中心的課題とも見なされていたらしい。なんか、とんでもないことだったらしいということがなんとなくわかる。じつは数学の専門家的には、フェルマーの定理よりも、谷山=志村予想の証明の方が重要だったという。

で、谷山=志村予想とフェルマーの定理が密接に関係しているらしいという発見をきっかけに、アンドリュー・ワイルズの挑戦が本格始動していくことになる。ここからのワイルズの孤独な戦いもすごいけれども、詳しくは実際に読んでもらうに如くはなしということで。

読み終えると、数学すげえ、人間すげえって気分になる本当にドラマティックな一冊。たった一人でその偉業がなされたわけではなく、学問的営為は積み重なる試行錯誤の果ての果てにあるものだということもよくわかる。そして、「数」というものがいかに摩訶不思議なものなのか、その魅力の一端に触れることができる。

とにかく、面白い。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

世界文学全集 3−01 わたしは英国王に給仕した

「チャップリンですら思いつかないほどのグロテスクな喜劇」

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

現代チェコ文学の代表的存在といわれるボフミル・フラバルの長篇。

チェコという「小さな国出身の小さな男」、名字も「子供」の意味があるヤン・ジーチェという駆け出しの給仕人を語り手に、彼の成り上がりと没落の物語を、マサリクの共和国、ドイツの保護領となったナチス時代、社会主義政権下のスターリニズム時代と移り変わる激動のチェコ現代史を背景に、人間味あるユーモアに満ちた悲喜劇のうちに語り倒す。

『あまりにも騒がしい孤独』に比べてオーソドックスなサクセスストーリー風の構成になっていて、非常にポピュラーな魅力のあるものになっている。なので、東欧文学に興味のある人にもない人にもお勧め。とにかく、良い小説。

ジーチェの語りは、とにかく水の流れるように多彩なエピソードをのべつ幕なしに喋り続け、とどまるところを知らない。「百万長者」になりたいと願うジーチェが、停車駅で釣り銭を渡すのにわざと手間取ることで急ぎの客からお釣りをせしめる小狡いやり方を学ぶ話とか、小銭を通路にばらまいて大人たちが必死に拾い合い喧嘩になる様を見て、人が何で動くのかを学ぶ話などが滑稽な調子でつづられていく。

しかし、序盤はともかく、英国王に給仕した給仕長の下で働いていたとき、あるきっかけでエチオピア皇帝に給仕を許されたことを同僚たちに妬まれることになる中盤あたりから、ジーチェは次第に孤立し始め、さらに物語は民族対立、戦争、社会主義体制を背景にした「グロテスクな喜劇」として展開していくことになる。

1930年代のチェコではズデーテン地方に住むドイツ人問題によってチェコ人とドイツ人に軋轢が広がっていた。このことからズデーテン・ドイツ人の保護を名目にナチスの侵攻を招き、チェコスロヴァキア共和国がドイツによって保護領とされ、解体される結果をもたらす。さらにこのことは戦後、ドイツ人の財産没収、追放政策に帰結する。

そんななかで出会ったドイツ人女性と関係を深めていくうちに、彼はホテルの同僚はもとより、プラハ中から追い出され、彼女と結婚してもなお、他のドイツ人たちからも等閑視されることになる。

「わたしはチェコの愛国者が処刑されている時に、ドイツ人女性の体育教師と結婚できるかどうかナチスの医者の検診を受け、ドイツ軍がソ連軍と戦火を交えている時に結婚式を挙げ、「旗を高くかかげよ、隊列を詰めろ」を歌い、国中の人が苦しんでいる時にドイツ軍や親衛隊に給仕するドイツのホテルや宿で快適に過ごしていた。」152-153

機知と機転によって成り上がる物語は、歴史の激動のなかで居場所をなくした男の悲喜劇の様相を呈することになる。そして終盤、そのドイツ人が追い出されたズデーテン地方で道路補修の奉仕活動に従事しながら、チェコとドイツに引き裂かれた彼は、狭間の存在として自らを捉えるようになっていく。

「もしここで死んで、噛まれずに残った骨が一部しかなくても、あの小さい丘の上にある墓地に埋葬してほしいと思っています。分水嶺の真上にわたしの棺を置き、時間が経って棺が崩れ落ちたあと、分解されたわたしの残余物が雨で流れ出し、世界の二つの方向に流れていくようにしてほしいんです。その水とともにわたしの身体の一部分が一方ではチェコの小川に流れていき、もう一方では国境の有刺鉄線を越えてドナウに続く小川に流れついてほしいんですよ。つまり死んだ後も世界市民であり続けたいんです。」225

成り上がり者の栄光と没落、という物語の背景に現代チェコの歴史と民族問題が流れているのがよくわかると思う。当初の滑稽でユーモアに満ちた軽快さは、どんどんと深刻でグロテスクともいえる展開をたどることになるのだけれど、ユーモアだろうと悲喜劇だろうとそこには人間味あふれる語りがあって、それが深い印象を残す。

小さな国―チェコの複雑な現代史を、小さな男の人生のなかにぎゅっと圧縮して見せ、対立と紛争を越える祈りを埋め込んだ小さな傑作。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

やわらかな遺伝子

紙の本やわらかな遺伝子

2010/02/03 22:06

「生まれ」は「育ち」を通して

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

人間の性質を決めるのは生まれか育ちか、というのは昔から大きな議論の対象となってきた。男女問題から政治問題まで広い範囲で厄介な問題を含むため、議論はしばしば紛糾する。

たとえば、女性と男性の性差を決定的だと見なす人々にとっては、性別役割分業を正当化する強い根拠となるし、遺伝子によって人間の優劣が決まるとなれば、優生学への誘惑が強まるだろう。また、生物学的にはすでに捨てられている分類手法であるという「人種」間での優劣を根拠づけようと言う言動にもつながっていく。

前世紀の後半になると、根強い遺伝決定論への反動として、環境決定論的な論調が強まる。ある学者は、自分に健康な赤子をくれれば、学者にも犯罪者にも育ててみせると豪語したし、ソ連の農政失敗の原因となったルイセンコの遺伝学説も、環境決定論の一例だろう。ジェンダー論などでも、構築主義だとかブランク・スレート説は、環境に人間の性質の原因を求めるものと言える。

そうした生まれか育ちかの二項対立、言い換えれば遺伝と環境の対立を、マット・リドレーは本書で一貫して批判する。たとえばこういう風に。

「つまり、恵まれない境遇で生まれ育った人を差別したり、普通でない家庭で育った人を警戒したりするのは、根拠のないことなのである。貧しい子ども時代を送った人が、必ずある種の性格になるのではない。環境決定論は、どう見ても遺伝決定論と同じぐらい冷酷な信条なのだ」118P

本書の主張はしごくシンプルで言われてみれば当たり前だと思えるようなことだ。それは、Nature VS Nurture(生まれか育ちか)ではなく、Nature via Nurture(生まれは育ちを通して。本書の原題)ということだ。

遺伝子は確かに、人の多くの部分を規定する。遺伝子の命令によって脳や身体が形作られる以上、人間の様々な性質は遺伝子に端を発すると言えるだろう。趣味趣向、性格、行動、思考は脳の配線の仕方に原因を求めることができる。そう考えれば、その人のすべては遺伝子によって決定されていると考えられる。

しかし、遺伝子はいわば人体のレシピだ。そのレシピのスイッチがオンになり、レシピに応じたアミノ酸、タンパク質の生成が行われなければならない。さらに、遺伝子のセットからはつねに同じものが生成されるわけではなく、スプライシングという工程によって、ある遺伝子からはいくつものレシピを引き出すことが可能だという。遺伝子が同じだとしても、どのレシピが機能し、何が生成されるかはその時々の環境の影響を強く受ける。遺伝子は環境を通じて発現する、ということだ。マット・リドレーはこれを「生まれは育ちを通して」、と表現した。

遺伝子はすべてを決定するわけでもないけれど、環境次第で人がどんな風にもなれるわけでもない。スティーヴン・ジェイ・グールドの言い方をヒントに言い換えれば、遺伝子とは決定なのではなく“可能性”だ、ということになる。

素直な感想を言えば、本書はむちゃくちゃおもしろい。出てくる科学史的なエピソードや具体的な数々の調査の結果などは、いちいち興味深く、とにかく読み応えがある。遺伝子、遺伝というもの、生まれか育ちかという議論に興味があるという人には是非とも読まれることを勧める。読んでみれば、読者の人間観に多かれ少なかれ確実な変化を与えるだろう。

また、扱っている話題が話題なだけに、ただ読んで面白いというだけではなく、きわめて考えさせる本でもある。私が最初に書いたような紛糾しがちな議論を少しでもましなものにするのにも役に立つだろう。

人間にとって遺伝子とは何か、ということについてとても刺激的な議論を提供する一冊。傑作。しかし、取り扱い注意。

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

説教師カニバットと百人の危ない美女

「ブス」であることの矜持

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「絶叫師タコグルメ」つながりで、カニバットを再読。

やっぱりカニバットは傑作だと思う。笙野頼子という作家の特質、美質がとてもよく出ている。ホラー漫画経由かと思われる笑えるスプラッタ、徹底して私に即してその内面をサラしてしまうことで既成の通俗観念が隠蔽するものを容赦なく暴き立てる強靱さ、そして悪趣味でぶっ飛んでて強烈な独特の言語感覚。「醜貌の女性」といういまでもまだ「見えない存在」っぽい問題について、徹底的に自分を素材にすることで可視化することに成功した希有な作品。

この小説では、偏執的な結婚願望(結婚によって救われようとしている存在)に取りつかれた女ゾンビたちが、結婚していないくせにその境遇に不満を抱いていない主人公八百木千本に、独身・醜貌の惨めさを認めさせようと徹底的な攻撃を繰り返してくる。で、「巣鴨こばと会残党」を名乗るゾンビ—百人の危ない美女—たちのその攻撃、八百木千本のファックスに一日で二万以上の紙代を費やすほどの文書が送られてくる。

上品な言葉遣いを志向していながら書かれている内容はきわめて差別的かつ暴力的で、そこでは古風な結婚観や道徳観、差別的な女性観が、グロテスクなまでに誇張され戯画化された形であらわになっている。男尊女卑思想の露骨なパロディが、延々悪趣味な文章でつづられるあたりは「レストレス・ドリーム」などでも用いられた彼女の“得意技”といっていい。そこでは単に言論的に暴力的ばかりではなく、じっさいにゾンビたちによって行なわれた様々な虐殺行為が連綿と語られる。こういうところで笙野は冴える。

後半、八百木千本がなぜ巣鴨こばと会残党による攻撃を受けたのかを説明する下りで、封建的な結婚観、道徳意識、女性観を内面化しすぎてゾンビ化してしまった女性たちの苦しみへの視線が生まれてくる。自分自身が結婚もしないで満足していることを、結婚したくても出来ないこばと会の面々の前で彼女たちへの優越感と悪意を込めて語ってしまったことで、彼女たちの逆鱗に触れてしまったのだと理解する。そこから、恋愛と結婚を拒否した立場から世の女性たちに感じていた優越感を省み、その苦しみの根源は何かと問うていく展開はなかなかに感動的だ。

この小説は女ゾンビの露悪的な語りを通して、フェミニズムにすら無視されてきた女性たちの怨嗟を掬いあげようとしている。封建的な女性観を否定しつつもその恋愛勝者・敗者のヒエラルキーを固持することでこぼれ落ちてしまう醜貌、未婚などの「上品でない」問題を、笙野頼子は暴いてみせる。その批判は単なる批判ではなく、自分自身への鋭い切り込みとともになされていて、その二面作戦を可能にする自省の生々しさと戯画化の悪趣味さがブレンドされたスタンスは、笙野頼子の最大の美(!)点の一つだと思う。

で、忘れてはならないのは説教師カニバットこと、彼女たちの背後にある男の傲慢さに満ちた存在だ。八百木はこう言う。

「私は知っている。最悪のこばと会よりも凶悪なもの、それはごく普通の善良な男性」

こばと会の女性たちが内面化して/せざるをえなかったのは、男に都合の良い「良妻賢母」で貞淑なおとなしい主体性のない女という存在だ。カニバットとは、「タカ派文化人にして女性差別的女性論を書き続けた貴族趣味エッセイスト」であり、「古風な日本の妻との正しい結婚」やら「きれいごとと男尊女卑とを並べたてたような「男の物の見方」講義」を女性に「説教」するというねじくれた存在だった。それは間接的なかたちでの男の欲望の発露に他ならず、そのイデオロギーをささえる多数の男をやはり問題にしなくてはならない。だから、当然今作の続篇は「百人の「普通」の男」と題される。

「壁の中」から

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

231 件中 1 件~ 15 件を表示