紙の本
またここで大江健三郎の作品世界が広がったように感じた
2023/09/28 21:19
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投稿者:まなしお - この投稿者のレビュー一覧を見る
大江健三郎は長編作家だと思っていた。初期には、いい短編がたくさんあったが、途中から長編に絞って作家活動を続けていたように思えた。この作品は、この後に続く短編連作の最初だと思う。またここで大江健三郎の作品世界が広がったように感じた。
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大江さんが光さんのお父さんになる前の作品は、読んでもちーとも頭に入ってこないのですが、光さんが家に来てからは激変した、と思うのです。森がそばにある生活を、小さい頃に経験できて良かった、と思いました。
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どこへも行かない、どこへも行けない.
久しぶりに読んでみたら、前と同じように凹みました.
We never learn.
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こないだ読んだ短編に比べて全然パッとしない上に、イライラさせるし、なんだかなーって思ってたけど、約半年の後に思い出に残ってるのはこっちのほうです。
よほどムカっとしたというか、本当イラついた。
私はわからずやは嫌いだし、そんなわからずやを、「しょうがないな〜」なんて言いつつかまってあげるような人も好きじゃない。
なにより難しすぎて何が言いたいのかわからない、それでいてめちゃくちゃ。
まるで現実じゃないみたい。
もちろんこれはお話なんだから現実じゃないみたいなんて表現はもともと合ってないんだけど、なんというか堅く知的な文章であるにも関わらず浮足立ってる、どこか宙に浮いてて捕まえとかないとどっかに行っちゃいそうな感じのする短編集なのです。
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文章がぜんぜん頭に入ってきませんでした・・・!
この読みにくさはなんなんだろうか。
読みにくい話とそうでない話が交互で、半分読んだ地点で疲れて放り出してしまいました。
だめだ、ちょっと時間を空けてから再チャレンジしよう。
馬鹿なのに自分のハードルを上げ過ぎたよ。そこも馬鹿だな。
09.07.06
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荒廃しきっていた自分の魂が救われた一節がある。
読んでから何年も後の話。
石垣島でブーゲンビリアを触った時に
急に涙が出て止まらなくなった。
この本が根っこにあったのだと、更に後になってから気付いた。
この人の作品は
深く深く深いところで、ひっそりと息をしている。
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文章も物語も濃密で、そこに奇妙な魅力を感じてしまう。レイン・ツリーという共通のモチーフはあんまり感じ取れなかったけど、おもしろかった。
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頭のいい「雨の木」を発端とした連作短編集。アレンギンズバーグがなんでもないふうにでてくるところもカッコいいし、どの短編をとってもすごくおもしろかった。現実からはじまってうまくフィクションの形におとしこむ力もすごい。あいかわらずエロいのもいい。楽しかった。
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ハワイ大学のセミナーに出席した著者が、某精神病院で「雨の木」と呼ばれる木と出会う。「雨の木」が暗示する、「人が死にむけて年をとる」という事実を、描く短篇集。
人の死と、その後に残された者たちの悲嘆を描いている。
余り前向きなメッセージは伝わってこずに、ただ重苦しい生のアワれというような感情が後に残る。小説としての完成度が非常に高い。
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大江健三郎の本は初めて読んだ。
会話の途切れ目が分からない会話文が特徴だと感じた。
官能表現を、あえて官能に訴えない直接的な表現にすることで、視覚的な刺激を受けたように感じさせるような手法(であるかどうかは別として)には驚いた。
レイン・ツリーという共通したメタファーを探る幾つかの物語だが、それぞれの物語に固有のメタファーも存在し、短編としても、長編としても楽しめる作品だと感じた。
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雨の木のイメージをめぐる様々な物語。どの登場人物も心に傷を負っていて、その心のひだや闇が、優しく、神秘的に描かれている。メッセージがまだ読み取れていないので、また読み返したい一冊。
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「雨の木」を主題とした5編の中短編からなる連作集。小説家を職業とする中年男を語り手とした、私小説的な叙述になっている。
難しいことはよく分からないが、高安カッチャン、ペニー、カルロス、猪之口さんなどのアクの強い登場人物たちと語り手「僕」の関係が独特。マンゴーまみれになる大江氏を想像しておかしくなった。
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この本は好きだ。表紙がとてもキレイだったし。この写真のような表紙ではなくて、最初に出てた本は、もっと薄いブルーだった。
それから、アレンギンズバーグが出てくるとこ。
彼が若い男性の恋人と一緒にいるシーンがあったように記憶してる。昨晩やりすぎて疲れた顔をしてる、とか、そんな描写だったような。
大江健三郎は、すごい。原発のデモでも彼の存在感は大きかった。彼には、空想的な理想主義者みたいなところがあってバカにする人もいるけど、そういう理想主義者も必要なんだよ。
大江健三郎の本は、難しすぎて、誰も読まないし、オレも上手く読みこなせないし、村上春樹みたいな誰でも読める分かりやすい人気作家に比べれば、世界的な認知度も低く、スピーチもヘタクソで、ノーベル賞授賞式のここ1番のジョークも国際的にスベってたけど、ノーベル文学賞って、彼みたいに、売れないけどがんばってる人に送るべき賞だと思う。
彼の小説は、いつも新しい。
逆に、大江健三郎に比べれば、村上春樹なんて軽すぎるし時代遅れだ。
彼の好きだった物、たとえば、MD聞きながらジョギングするとか、アイヴィーファッションだとか、ビーチボーイズだとか、アメリカ文化への強烈な憧れ、だとか・・・そんなものは、とっくの昔に過ぎ去ってしまった。
今ではもう誰もMDなんかで音楽を聴かないし。
アイヴィーファッションもしない。
アメリカ文化に憧れたりもしない。
それに、村上春樹の原子力への言及は、あまりにも口先だけだった。
村上春樹の小説は、健三郎にとっての小説のような、人生そのものなのではなく、ただの仕事。
午前中に小説書いて、午後からジョギングしたり、水泳したり、ビールを飲んだり、音楽を聴いたり、趣味で翻訳したり。
そういうライフスタイルはオレも好きだし、彼の小説が世界各国の市場で売れたり、カフカ賞をとったりしたのは、うれしいことだし、彼のスピーチだって健三郎よりずっとうまいけど、流行作家以上ではない。
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「雨の木」を共通のメタファーとして書かれた5つの連作短編集。全体として長編小説「雨の木を聴く女たち」を構成していると言えなくもないが、最後の「泳ぐ男」は他とは異質な感が否めない。5つの小説は時系列に並べられ、この時期(1982年)の大江自身の行動や体験と概ねは重なるのだが、アクチュアルなものとフィクショナルなものが、意識的に混淆される小説作方をとっている。したがって、読者の中にこの一連の物語を大江の私小説として読むかもしれない。そして、おそらく大江はそのことも重々承知した上で小説を仮構しているのだろう。
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松本健一引用。死語の回復のため、ことばを実体のあった過去に閉じていく。それが保守であるなら、言葉が実体を伴わないことを前提に、架空のメタファーの提出を通して逆襲をくわえてやる。その一例としての作品。