紙の本
市民概念の重層性
2001/02/27 22:18
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投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者は本書で、ヨーロッパの市民概念の重層性について論じ、その起源をなす古代ギリシャの都市国家におけるそれを「シヴィック」と、近代国民国家におけるそれを「シヴィル」とそれぞれ名づけている。ここでいう「シビック」とは、ポリスにおける公的関心や共同利益という次元から出でくるもので、日本語の「公民」に近いのに対して、私的権利や私的関心などから出発した近代的な「シヴィル」は、むしろ「私民」とでもいうべきものを指している。
《われわれ戦後の日本人は、もっぱら、近代的な「市民=シヴィル」を進んだものとして受け入れようとしてきた。「市民社会=シヴィル・ソサイエティ」は、われわれが西欧から学んだ理想のモデルであった。しかし、実際には、ヨーロッパにおいては、近代的な「市民=シヴィル」の背後に、確実に古代的な「市民=シヴィック」がある。……ヨーロッパ人は誰も自分を「市民」だなどということは意識しないであろう。しかし、それにもかかわらず、「市民意識」というものをわれわれはヨーロッパ人に確実に感じることがある。これは「市民=シヴィック」の精神がいちいち論じる必要もないぐらいに、身体になじんでいるからであろう。ここにヨーロッパの歴史の、あるいは精神の習慣の力を感じ取ることは容易である。》
近代ヨーロッパにおける「市民=私民」(そこには、自由な市場システムのもと、ひたすら私利私欲を追求する合理的・打算的な経済人の一面が潜んでいる)の背後にはりついた古代的な「市民=公民」の精神。これを一言でいえば、個を超える公共的な事柄への関心に根ざしたもの、つまり具体的な経験を通じて歴史的に形成された「公共性」の精神にほかならないだろう。
しかし、このような精神の習慣としての市民意識、すなわち「市民精神」は西欧固有のものではない。佐伯氏は、晩年の福沢諭吉が「痩我慢の説」で、一国の独立を支え文明の基盤をなすものは一身の独立であり、その根本は日本古来からの精神の伝統としての「士風」(一家、一国の存亡の危機において、敗北を恐れず死を賭して抵抗する気風、すなわち痩我慢)にあると唱えたことに注目している。
《むろん、それを日本の「市民精神」だ、などという気は毛頭ない。しかし、西欧の「市民精神」の同位対応物とでもいおうか。「市民」ではなく、むろん「私民」でもなく、いわば「士民」のようなものとでもいうべきであろうか。福沢のいう「上流士人の気風」は、文脈は異なっているものの、西欧における「市民精神」に本来、対応すべきものであったのではなかろうか。》
佐伯氏が主張しているのは、「日本古来の精神」の再興などではない。現代日本で日常語として使われるようになった西欧由来の「市民」や「市民社会」という言葉を、表面的にとらえ抽象的で皮相な理念としてまつりあげるのではなく、「その背後で息づいている、歴史の積み重なりが届けてくれるある種の精神」を探り当てることなのである。ここでいう「ある種の精神」こそ、個を超える公共的な事柄への関心という意味での、生き生きとした「公共性」の精神であった。
「私民」が闊歩する戦後日本の社会を更新するためには、西欧の市民精神を改めて移植しなおす必要はない。かといって、明治以前の精神的伝統(の良質な部分)へと復古することも不可能だろう。いまここから、現代の政治・経済・文化状況のただ中から、具体的な経験の積み重ねを通じて新しい精神の習慣を、つまり「公共性」の精神を築き上げていくしかない。佐伯氏の議論は、そのような実践を曇らせるイデオロギー化した「市民」概念を、その重層性や歴史性を腑分けすることによって鍛え上げるための基礎作業を試みたものである。
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耳に心地いいだけの言葉に感じる「胡散臭さ」を足がかりに、日本・欧州の歴史を紐解きながら検証する。筆者の考えに同感するところ大。
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非常に共感するところが多かった。
読書メモです。
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「市民主体のまちづくり」など市民主権を宣言しているまちが多いように思われる。だけど日本で言われている「市民主権」はキレイごとを並べているだけであり、空虚なものであることが述べられている。
日本で「市民」という言葉が用いられる文脈には市民(=民主主義)が官僚(=権力)に対抗する構図がある。しかし日本人には「個人の意見」というものが確立していないため民主主義(=市民社会)が育っておらず、それが育っている欧米に比べ劣っているという感情がある。この市民VS権力という構造は、マルクスの持つ進歩史観に基づいているという。つまり古代→封建社会→絶対主義社会という前近代社会を支配していた権力から脱出するために革命を起こし、市民が主導権を握る「近代社会」への移行し、市民社会が成立したということである。ここには共同体(国家)から個人の解放という意味も含まれていて、戦後民主主義化を目指す日本はそれを目指した。
しかし、佐伯氏はそのような進歩史観+革命による前近代から近代への脱出→共同体から脱出することで個が成熟→自律した個々人による市民社会ができる、とは考えない。むしろ欧州人が前近代から近代へと連綿と持ち続けている「市民」認識に注目し、日本で一般的に流布している市民社会成熟の過程を否定する。
まず、市民としての認識はギリシャにまで遡る。ギリシャのポリス市民は元祖市民自治ともいえるが、その団結力には排他性や特権的意識も持つ。一方そのような性格が共同体への愛着を持ち、公共的事柄に積極的にかかわろうとする。この共同体は都市的アソシエーションというよりかは農村的共同体ともいえる。つまり「市民」に必要な属性は民主的であることではなく公共的であることである。これは封建的だと言われた中世都市、絶対主義的国家から欧州人が持ち続けている意識である。
筆者は「国のために死ぬこと」が市民には必要であるという。このような文脈は日本では忌み嫌われていることだが、欧米では憲法で明確に示されている。さらにこれを根拠づける理論にルソーの社会契約論がある。ルソーは自然状態では自然権を守ることができないため、それを守る共同体を結成するのだが、守られるには義務が必要になる。その義務は共同体構成員すべてのものが共有する意思である一般意思であり、もっともわかりやすいのが「国家を守るために戦うこと」である。人は共同体が崩壊し自然状態へ戻るよりも国家を守ることを選択するのだという。
市民には「個人の意見」を持つが、そのバックには共同体がいる。その共同体への愛着・守ろうとする意思がある。もちろん家庭やサークルなどの私的な領域も大事にするが、「私」と「公(「共」の方が日本人には親しみがあるけど)」の理論を峻別している。市民社会の一形態として市民運動があるが、私的利害だけを声高に叫ぶ市民運動は市民運動ではない。それはただの個人的な欲求を叫んでいるのと変わりがない。
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授業で市民についての輪読を行ったので読んでみた。
西洋の市民という概念を紹介したのち、日本での「市民」概念に迫っている。
納得なっとく。
でもだからといって「市民」という呼称はなくならないだろうし、ぼやっとした概念のままだろうと思う。
そう感じる時点で、今の日本の状況を表しているのかな。
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何というか、無意識のうちに持っていたしこりを解いてくれた本だった。
「日本人が西欧について表面的な理解しかしていない」確かにそのとおりである。
市民という言葉しかり、公共という言葉しかり、自らの「勝手な」解釈によって本来の概念が持っていた意味や奥深さに蓋をしてしまった。
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[ 内容 ]
「市民」のためと銘打つ政党が結成され、また、外国人ジャーナリストによる官僚社会批判が「市民運動」のテキストとしてベストセラーとなる現代日本。
そこで描かれるのは、権力を我がものとする官僚VS.「市民」が主役の民主主義、という構図である。
「市民」が、単なる「都市の住民」であることを超えて、神聖な存在に祭り上げられた思想的背景とは何だったのだろうか?
戦後日本の思想の歪みを鋭く衝いた意欲作。
[ 目次 ]
第1章 二十一世紀は「市民の時代」か
第2章 戦後日本の「偏向」と「市民論」
第3章 「近代市民革命」とは何だったのか
第4章 ポリスの市民、都市の市民
第5章 「祖国のために死ぬ」ということ
第6章 日本人であることのディレンマ
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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ヨーロッパにおける市民社会について歴史的考察も交えて述べてい ます。市民性については、やはりポリス的動物として市民の義務を果たす古代ギリシャの考えとロールズ流の権利としての市民性の対比を行っています。そして市民といえども選好意識、選民意識を伴っているとの指摘は当を射たものと思われます。
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(2011.11.04読了)(2010.10.02購入)
【11月のテーマ・佐伯啓思を読む(その1)】
何年か前に他の著者と間違えて「「欲望」と資本主義」を読んでみたら、面白かったので、佐伯さんの本を何冊か買い集めたのが、5冊ほどたまったので、まとめて読むことにしました。でも、この本は「はずれ」でした。
最近の市民運動家は、国民や庶民と区別するように「市民」ということばを使いたがる。
官僚の権力に対峙して市民の民主主義という形で使われるようです。
市民には、国家に対する忠誠という考えはないようなので、西欧の市民という概念とは異なるようです。という風に論じていって、西欧の市民には、「重層的な歴史観」があるけれど、日本に持ち込むときに、「重層的な歴史観」は切り捨てられてしまったという。
ところが、最後に福沢諭吉を持ち出して、日本にも同様の考えはある、といい出して、終わってしまいました。
いったいなんだったんだろうと、唖然としてしまいました。
この本の執筆は、著者のほうから持ちかけたのではなく、出版社からの誘いで書いた物ということです。どちらから持ちかけたかで、いい本ができるかどうかが決まるわけではないのでしょうが、この本に関しては、残念な結果のようです。
この本で取り上げられている本で気になるものをいくつか書きだしておきます。
「人間を幸福にしない日本というシステム」ウォルフレン著、1994年
「都市の論理」羽仁五郎著、1968年
「市民政府論」ジョン・ロック著
「社会契約論」ルソー著
「文明論之概略」福沢諭吉著
章立ては以下の通りです。
第1章、二十一世紀は「市民の時代」か
第2章、戦後日本の「偏向」と「市民論」
第3章、「近代市民革命」とは何だったのか
第4章、ポリスの市民、都市の市民
第5章、「祖国のために死ぬ」ということ
第6章、日本人であることのディレンマ
●官僚批判の図式(15頁)
官僚批判において、ジャーナリズムを中心に組み立てられた図式は、官僚の権力VS,市民の民主主義、という図式であった。
悪いのは常に、権力をわがものとしている官僚たちであり、彼らは、善良な市民を主役とする民主主義を踏みにじっている、というわけである。
●ウォルフレンの主張(19頁)
彼が主張するのは、「権力者」の行動を批判的に吟味せよ、ということである。「政治的主体」としての市民とは、権力的政治に対する批判的チェックを行うものを意味しているのである。
●羽仁五郎の夢(49頁)
「万国の労働者は団結し、市民のたたかいが労働者の組織に守られて、一般的解放の運動が高まるとき、都市自治体は連合するのである。ルネサンスの自由都市共和国が到達しようとして果たし得なかった自由都市連邦がわれわれの現代の国家の新生の方向を示しているように見える」
●ソ連社会主義の崩壊(58頁)
「社会主義」は、ヨーロッパでは、主として、社会主義政党によって指導される、いわゆる社会民主主義さす。だから、それは民主主義や平等を要求する運動の一つで、プロレタリア独裁という社会主義はない。これに対して、共産主義は共産��による一党独裁なのである。そこには民主主義はない。当然、市民社会もない。
●歴史発展の図式(64頁)
多くの社会科学者にとって、古代的社会→封建社会→絶対王制→近代市民社会、という歴史発展の図式は自明のものであった。そして、その図式に立てば、近代社会の形成は、市民による絶対権力に対する抵抗、すなわち革命を経なければならないのである。ここに、権力に抵抗する市民層、権力に抵抗するものとしての民主主義という固定観念が形成されることとなる。
●フランス革命(78頁)
欧州共通教科書によると、フランス革命の最も重要な意味は、各国にナショナリズムの観念を植え付けたことにあるのであって、自由や民主主義や人権の理念を打ち出した点にあるのではない。
●フランソワ・フュレ(89頁)
フュレは、革命前夜のパリ・ブルジョワジーの社会史的研究を通して、正統派の言うような、ブルジョワジーと貴族層の対立などという事実はどこにも見られない、という。そもそも「絶対王制」という言葉で呼ばれるような強力な王権は存在しないし、「封建性」という名で呼ばれるような閉鎖的な貴族支配も存在しない、というのである。
●ルソー(145頁)
「市民は、法によって危険に身をさらすことを求められたとき、その危険についてもはや云々することはできない。そして統治者が市民に向かって『おまえの死ぬことが国家に役立つのだ』というとき、市民は死ななければならぬ」
☆関連図書(既読)
「市民社会」清水幾太郎著、創元文庫、1952.10.30
「大臣 増補版」菅直人著、岩波新書、2009.12.18
☆佐伯啓思の本(既読)
「「欲望」と資本主義」佐伯啓思著、講談社現代新書、1993.06.20
(2011年11月6日・記)
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著者は最近「反幸福論」などで話題を集めているが、基本的に氏の戦後民主主義に対する疑念・懸念に同じような考えを持っている。
もともとはヨーロッパからの言葉を訳した「市民」が日本においては欧州と異なる定義・意味で使われている。一般に日本では市民は「自由・平等を求め国家からの束縛・義務を回避する民」を意味している。
結局のところ端的に言えば、市民を強調する日本人は反抗期にある中学生のようなものなのである。保護され、教育され、囲われる立場にありながらしだいにカミソリのような脆い自我の目覚めを保護者との作用‥反作用によって確認していくものである。何故民主主義を明治期に導入しながら、戦後になって遅まきながら反抗期を迎えることになったのかについての考察は長くなるので後日したい。
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西洋における「市民」という概念の歴史をたどることで、日本の戦後民主主義が理解する「市民」概念の歪みを明らかにした本です。
戦後民主主義の中で、マルクス主義に基づく進歩史観が広く受け入れられ、「市民」という概念は共同体や国家からの解放された自由な主体を意味する言葉として受け止められてきました。そうした考え方は、私的な権利を主張し保護を要求する放埓な人びとを生み出してきました。
しかし、西洋の歴史の中で「市民」という概念は、ギリシア時代のポリス以来の伝統を持っており、自分たちの共同社会を守るために戦う義務を負う者として考えられてきたと、著者は論じます。共同体を防衛することがみずからの生命や財産の安全につながるということを明確に自覚し、そのため「祖国のために死ぬこと」すら厭わない美徳を持った「市民」という発想が、西洋における「市民」の概念の中に息づいています。
著者は、こうした西洋における「市民」概念の重層性を指摘するとともに、日本古来の精神の伝統としての「士風」を重視した福沢諭吉の、「一心独立して一国独立す」という考え方に、わが国における「市民」概念のあるべき形を見ようとしています。
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もう10年以上前に書かれた本です。図書館のリサイクル市でもらってきました。佐伯先生の本はまだ3冊目くらいですが、どれも読みやすい。第5章「祖国のために死ぬ」ということについて。市民は国家に守られている。だから、その国家が脅かされていれば、それを守る義務がある・・・。こんな感じで書かれた憲法が多いようですが、日本の憲法はそうなっていない。私自身、「祖国のために死ぬことができるか」と聞かれれば、ただちに「NO」と答えるでしょう。日本という国に生まれ、日本文化の中で育ち、日本語でものを考えているのだから、日本がなくなってしまっていいとは思いません。しかし、それほどの強い思い入れがない。この辺、ヨーロッパやアメリカとはずいぶん感覚が違うのでしょう。いや、日本でも年代によってはずいぶん感覚が異なるのでしょう。さて、本書は9.11以前に書かれています。以後ならば書き方が少しは変わっていたのでしょうか・・・。
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大学生の時に読んだ本。ヨーロッパにおける「市民」と日本における「市民」を比較して述べた本。
同意できる部分と、同意できない部分があった記憶。大学生だった私にとっては、市民という実態的意味をポリスから遡って考えるきっかけ、そして公と私について考えるきっかけとなった本でした。ただ、少々まわりくどくて読みにくかった記憶。
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市民という言葉から、現代日本のかかえる問題を述べた本。
1997年の本だが、今でも通用するようなことが書かれている。それはつまり、20年前と今で同じ問題をかかえているとも言える。
日本で市民と言うと、権力や国家と対になるものと認識されているが、それは戦後社会がマルクス主義的な革命史観の中で作り上げた誤解を含む。
結局は、ルソーの社会契約説に行き着くが、それがすべてなのだろうと思った。
国家や社会に属する以上、権利を手放して権利を得る。人民は国家や社会に責任を負うものであり、対立する存在ではない。
日本では人民の中に含まれる、臣民と市民という考えのうち、市民のみが切り離されている。本来は国家に責任を負う面も持ち合わせている。