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  3. オリオンさんのレビュー一覧

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先月(2017年6月)

オリオンさんのレビュー一覧

投稿者:オリオン

734 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

〈私〉のメタフィジックス

紙の本〈私〉のメタフィジックス

2001/03/07 21:22

「子どもの感覚」に言語的表現を与えた奇跡的な著作

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。


 本書が出版される少し前のこと、京都で関西哲学会(だったと思う)の会合が一般公開のかたちで開催されると知って、当時、哲学への関心と哲学者(というより「哲学研究者」)への根拠のない不審感を募らせつつあった私は、哲学者とはそもそもどういう種類の人間で、彼・彼女らはいったいどのような議論をしているのか、覗きに出かけたことがある。

 確か「超越論哲学と分析哲学」といったテーマのもと、シンポジウム形式で議論が展開されていて、そこに永井氏がゲストパネリストとして招かれていた。私の記憶では、「永井の〈私〉」対「超越論的主観その他」の論争軸に沿って、関東からの論客を迎え撃つ関西の論客たちがよってたかって(私の印象)永井氏の所論を吟味するといった趣で進行していたように思う。

 その時やりとりされていた議論の内容はほとんど思い出せないが、若き永井氏の端正な容貌とスマートでどこか「素人」っぽい(私の印象)語り口はいまでもありありと覚えている。そして、こういう議論をする人が日本にもいたのだと、それこそ目から鱗を何枚も落として、永井氏の著書の刊行を心待ちにしたものだった。

 さて、こうして『〈私〉のメタフィジックス』[1986]にめぐりあった私は、以来、繰り返し読み直しては、何度も何度もこの著書によって初めて言語的に表現された(と私は思う)「哲学的問題」へと立ち返ることになった。(少なくとも、そこにおいて永井氏の思索が決定的な深化を遂げた——と私は思う——論文「他者」[1990]が発表されるまでは。)

 ふつう、再読に耐える古典的名著は、読み返すたびに新しい発見をもたらすことをもってその名に値するものとされるのが一般的ではないかと思う。しかし、こと永井氏の著書に関しては事情がやや異なっていて、読み返すごと新たにもたらされるものは実は同じ事柄の発見である──というより、最初に読んだときの「驚き」がまったく同じ感覚を伴って再び出現するといった「問題感覚」あるいは「哲学的不安」(いずれも永井氏の言葉)の再現なのだ。

 それは、現在の知覚体験のなかに過去の想起体験が重ね合わされる「既視感」とちょうど正反対の感覚、つまり過去の想起体験のうちに現在の知覚体験がリアルに重ね合わされる「永遠回帰感」とでも表現できそうな体験である。

 このような読書(再読)体験のよってきたるおおもとは、永井氏によって言語的に表現された「問題」そのものがもつ構造にある。──ある問題を「哲学的問題」として言語的に定式化したとたん、言語がもつ指示機能や意味作用の働きによって問題が一般化・概念化され、そのことによって実は問題が問題でなくなってしまう(問題が隠蔽されてしまう)という、私や他者をめぐる「哲学的問題」がもつある構造。

 一般概念としての「私」でも発話主体としての「私」でもない〈私〉(独在性のわたし)とは、それにしても把握し難い存在だ。それを把握し続けるのはもっと困難なことである。私はこれまで、永井氏の文章に接するごとに〈私〉をめぐる「問題感覚」を(再)発見し、しばらく経つと見失うことの繰り返しだった。(問題を問題として感じ続ける緊張に耐えられず、要するに、などと概念化を企てようものなら、「問題」はたちどころに雲散霧消し、あとに残るのは白々とした自己意識だけ。)

 ——要するに本書は、「子どもの感覚」(永遠回帰感、あるいは神秘感の伴わない神秘体験?)に言語的表現を与えた奇跡的な著作である。

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紙の本

場所と産霊 近代日本思想史

紙の本場所と産霊 近代日本思想史

2011/09/30 19:03

「表現」としての近代日本思想史

4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。


 この書物は論考、評論のかたちをとった「表現」である。いいかえれば言語による芸術作品、すなわち小説。著者自身の言葉でいえば、フィクションとして再構築された歴史なのである。
 そのテーマは、書名のうちに端的に示されている。西田幾多郎の「場所の哲学」と折口信夫の「産霊(ムスビ)の神学」、この二つのものを一つに調停すること。以下、第二部「霊性と曼荼羅」(第八章「場所と産霊」)からの抜き書きで、そのプロセスを垣間見てみよう。

《その[西田と折口の]類似は、彼らがともに学問の究極の目標として定めた「神」の問題においても、またその「神」に近づいてゆくための独特の方法においても、顕著なものがある。西田も折口も、いまここに存在する自分が、その存在のあるがまま、つまりは有限の精神と身体をもったまま、超越の時空と、すなわち無限の「神」と合一できることを願ったのである。そのためには、私(個=多様なもの)と神(普遍=一なるもの)が、それぞれ接近し合い、同一の地平を占めなければならなかった。自己と他者、私と神、多と一、個と普遍──それら、根源的に対立する二つの極が、共通の場をもつこと。そして、そこに一元的な領野が開かれること。西田も折口も、哲学と民俗学において、ただそのことだけを追求していたのだ。
 そのような一元的な地平で、対立する二つの項を一つにつなぐもの。自らの心の奥底に存在する内在の場と、神という超越の場を一つにつなぐもの。それさえも、この二人は共有してもっていた。西田にとっても折口にとっても、二項対立を徹底して無化してしまうものとは、なによりも言語だった。直接性の言語、表現性の言語、個と普遍を相互に矛盾するまま一つにつなぐ言語。西田の哲学も折口の民俗学も、この特異な言語をめぐって組織された表現についての学だった。》

 西田と折口のあいだに切り開かれた一元的な地平。それはまた、鈴木大拙の「霊性」と南方熊楠の「曼荼羅」とが偶然かつ必然の出会いを果たす場所でもあった。
 そしてそこから、近代日本思想における「真に独創的な表現の系譜」が生みだされ、さらには、「フランスとアメリカの間に切り開かれた「翻訳」という新たな表現の時空、新たな表現の地平」へと、すなわち新旧両大陸にまたがる日本近代思想史の起源へとつながっていく。

《しかも折口の「産霊」は、その起源をたどってゆけば、平田篤胤の「産霊」にまで至る。篤胤は、キリスト教を消化し、「産霊」を中心とした宇宙生成論である『霊能真柱[たまのみはしら]』(一八一三年刊)を完成した。篤胤の同時代人に、ボードレールやマラルメの詩的世界の源泉になったエドガー・アラン・ポーがいる。ポーもまた、篤胤とほとんど同じヴィジョンを用いながら自身の特異な宇宙論である『ユリイカ』(一八四八年刊)を完成した。コレスポンダンスとアナロジーの詩法の起源には、篤胤とポーの“宇宙”が存在していたのである。そこから西洋と東洋が「翻訳」によって混在する「迷宮と宇宙」の文学史がはじまることになる。
 折口の「産霊」において、大拙の「霊性」において、西田の「場所」において、一と多、外と内、超越と内在は矛盾しつつ一つに調停される。大拙の「霊性」を媒介として、折口の「産霊」と西田の「場所」を一つに重ね合わせてみること。民俗学と哲学を通底させる宗教的思惟の原型を取り出すこと。それは近代日本思想史が成立する過程そのものを捉え直すことを可能にするとともに、その到達点をも明らかにしてくれるであろう。》

 文中の「コレスポンダンスとアナロジーの詩法」は、「詩人たちの王者」ボードレールによって導き出されたものだ。
 本書の第一部「神秘の薔薇」は、スウェーデンボルグのコレスポンダンス(照応)とフーリエのアナロジー(類似)に始まり、ポー、ボードレール、ランボー、マラルメ、さらにボルヘスを経て、ウィリアム・ジェイムズやパースによる「表現としての自然哲学」とイェイツによって完成されたオカルティズムという二筋の流れの合流点に、日本近代思想史の起源を見定める。
 そして、その到達点。「はじめに」に記された言葉によれば、それは、霊性と曼荼羅、場所と産霊という四つの概念が「一つの身体」へと集約されていくことである。それはまた、「霊性と場所に媒介されて可能になった産霊の身体、曼荼羅の身体」である。具体的には、折口信夫が『死者の書』に描いた両性具有の少女であり、南方熊楠が『ロンドン抜書』のうちにその手記(後に、ミシェル・フーコーによって復刻される)を書き写したある両性具有者の身体であった。
 あざといまでに華麗な大仕掛け。驚愕、驚嘆、驚倒すべき書物である。

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紙の本

画面の誕生

紙の本画面の誕生

2007/03/19 13:33

「メカニックな手つき」でデザインされたドキュメンタリー

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 鈴木一誌は、『レヴィ=ストロース『神話論理』の森へ』に収められ、後に単著『重力のデザイン』に収録された「重力の行方」を、こう書き始めていた。「しごとを終えたあと、邦訳されたクロード・レヴィ=ストロースの著作を読むのが、二か月ほどのならいとなった。」
 その模倣というわけではないけれども、私もまたここ七か月ほど、鈴木一誌の『画面の誕生』をほぼ毎日一節ずつ、仕事と仕事の合間、たいがいは昼食後の午睡の前に、読み進めるのをならいとしてきた。
「日課のようにその著述を読むのはふしぎな体験だった。これほどレヴィ=ストロースの文章は淡々としたものだったのか。……だが、魅力がないわけではけっしてなく、叙述の平らかさが飽きのこない読書体験をもたらし、信仰をもつ人間の枕頭の書とはこういうものかもしれない、と思わせる習慣性を到来させたのだが、それにしても、行の意味は読む端から砂粒のようにこぼれ去っていく。」(「重力の行方」)
 この文中の固有名を「鈴木一誌」に置き換えると、それはそのまま、『画面の誕生』が私に与えてくれた読書体験の質をいいあてた文章になる。
 ゴダールの『映画史』とワイズマンのドキュメンタリー映画を論じた文章を双璧に、レヴィ=ストロースの写真集『ブラジルへの郷愁』やアニメ作品『攻殻機動隊』、安彦良和の漫画『虹色のトロツキー』等々をめぐる文章群で構成されたこの書物は、それらの作品が著者の身体にもたらした体験の痕跡を、ショット(鮮やかな警句としての断言)とシークエンス(一つ一つ几帳面にタイトルを付された節)の正確無比な編集作業を通じて、読者の身体において、「生きられている体験」として上映されるドキュメンタリー作品へと、七年の歳月をかけて織り上げていったものだ。
 「重力の行方」には、また次のように書かれていた。
「レヴィ=ストースを読むことは、書き手の熱意や使命感によって問題が設定され、疑問がつぎつぎに繰りだされていき、記述を読み進めることが書き手と読者の一体化であると錯覚させるような、線型の読書体験ではない。……このとき読み手の眼前にせり上がってくるのは、著者の「対比し、示す」、なかばメカニックな手つきだろう。レヴィ=ストロースの著作は、作者の〈器用しごと〉を見せるドキュメンタリーと見える。」
 鈴木一誌の文章がもたらす「メカニック」な感触と、それが最終的に「生きられている体験」へと沈降していくさまを、鈴木一誌よりうまく言葉にすることは、私にはできない。

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紙の本

生命記号論 宇宙の意味と表象

生きることとそれを記述することとの一致

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 細部にちりばめられた話題や知見や引用や比喩や洞察の数々が未消化のまま私の脳髄のそこかしこにわだかまり、跳梁し跋扈してしだいに内圧を高めていく。それと同時に、ここで論じられていたのは畢竟するに何であったかがしだいに朦朧かつ不分明になっていく。こういう心理状態を物狂いとでも呼ぶのだろうか。しばらく寝かせ、機をとらえてもう一度読み込む。あるいは座右に常備し、折節拾い読みをしては読後の興奮を宥めつつ、混沌を身のうちに飼い慣らす。処方箋ははっきりしているのだが、しばらくは呆然と余韻を楽しみたい。
 「全ては虚空に浮かぶものから始まった」。著者は最終章の末尾で本書全体を概観している。「まずは、私たちが自然法則と呼ぶ習慣がそこから生じて来る」。なぜなら、自然には習慣化する傾向があるからだ(パースの形而上学の要点)。次いで「習慣が生命の出現をもたらし、生物に固有である予測能力がこの習慣から産まれて来た」。同時に予測間違いも生まれたが、もし間違いが多すぎなければ、生物は遺伝物質の中のメッセージの形で生き残ることができる。「それは現在の痕跡を未来へと取り込ませることを意味する。やがて、これらの痕跡は撚り合わされ、ますます洗練の度を増していくような洞察の基盤を形作る、関係のネットワークが生じて来る」。
 この記号論的なネットワークのことを著者は「記号圏」と呼ぶ。頭脳と感覚器官の出現とともに記号圏は膨らみ、そして「最後に、この記号圏の真ん中で、完全な自意識を持った人間が出現した」。人間は「この世界に自意識ほど価値を持つものはない」と想像するようになったが、「こうした考えやその破壊的な副次効果は全て錯覚である」。なぜなら「私たちが意味を発明したのではない」からだ。「この世界は常に何かを意味しているのだ。世界がそれに気づいていないだけで」。
 ──このような「要約」を読んだところで、それでいったい本書の何がわかるというのか。それだとまるで砂糖が水に溶けるの待たずに砂糖水を飲むようなものではないか(ベルクソンの引用)。『生命記号論』を理解するためには『生命記号論』を読まなければならない。小説を「理解」するためには小説を読まなければならないように。小説は読んでいる時間の中にしかない(保坂和志の引用)。というのも、小説とは生命だからだ。それは比喩ではない。文字通り小説とは生命そのものなのだ。なぜならそこには「記号そのものを担う物質」と「記号によって表現されるもの」と「記号の解読者=翻訳者」という「パースの一般的な記号の三項関係」が成り立っているからだ。
 このパースの記号論を踏まえた「生命記号論」は、生命現象そのものの稼働原理であると同時に、生命現象を認識し記述する方法でもある。大雑把に言ってしまえば、物質と精神、つまり物の秩序・連結と観念の秩序・連結(スピノザの引用)、あるいは行為と認識の双方に通底する存在(生成)の論理である。記述すること、認識し理解すること、解読・翻訳し解釈すること。存在(生成)すること、行為すること、生きて死ぬこと。このふたつの推論過程すなわち「記号過程」が一致する。そのような事態──「自分も描き込まれている地図を描くこと」(檜垣立哉『西田幾多郎の生命哲学』参照)──を著者は見すえている。
 松野孝一郎氏は訳者あとがきに書いている。《少なくともこの地球上に出現した生命は現在に至るまでの約三八億年の間、一連の内部記述によって記述され続けて来た対象であった。ホフマイヤーが本書で明かしたのはこの内部記述の正体である。》

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紙の本

連続性の哲学

紙の本連続性の哲学

2001/11/24 21:37

パースは深い

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 パースに倣って、本書の「三項」構成、すなわち「推論」と「事物の論理」と両者の関係(カテゴリー論)を「縮減」的に概括しておこう(このcontractionというニコラウス・クザーヌス由来の言葉は、本書の肝の部分で使われていた。《そのような一切が普遍であり何も個物でないような存在の、潜在性の曖昧さが縮減するにつれて、諸形相の世界が出現するのである。》(256頁)──そういえば、同じ岩波文庫から『連続性の哲学』と同時に刊行されたのが、クザーヌスの『神を観ることについて他二編』だった。編集の妙!)。
 第一項。パースは『連続性の哲学』第一章で「諸科学の分類」を試みている。諸科学をその対象の抽象度に応じて序列化するコントの分類原理に従い、「数学」─「哲学(論理学─形而上学)」─「特殊諸科学(法則的科学─分類的科学─記述的科学─技術)」という系列を提示した上で、すべての科学はより抽象的なものへ、つまり形而上学へ、次いで論理学へ、そして「数学という中心」へ向かってゆっくりと、しかし確実に収斂していくとパースは述べている。この探求の論理が演繹・帰納・仮説形成的推論の三つの推論であり、関係項(述語関数)の論理学である。それでは当の数学はどこへ向かっているのか。それは「実在する潜在性」あるいは「イデアのコスモス」である。
 第二項。具体的なものから抽象的なものへと向かうこのような「科学の歴史」、つまり認識活動の歴史とパラレルな関係を切り結ぶのが事物の論理であり、第六章で論じられる存在の歴史、つまり「進化の過程」の問題だ。この最終章には、とりわけ美しい文章がちりばめられている。たとえば「多数世界」もしくは「可能世界」と「現実世界」をめぐる次の文章(ただし、ここに出てくるプラトン的世界云々は、「潜在性」をめぐる本書全体の叙述を踏まえて読まれなければならない)。《原初の連続性からは、…相互作用するシステムが多数出現することができる。そして、これらのシステムのそれぞれがまた、…さらに大きなシステムを形成し、そのなかで元の線は個体性を溶融させていくことであろう。このようなことはすべて、現存するわれわれの宇宙の秩序について述べたのではなく、プラトン的な世界について述べたものであることを忘れないでほしい。こうしたプラトン的世界は、それ自身がひとつのシステムとして互いに並行し、あるいは階層をなす形で、多数存在していることになる。そしてこれらの多数のプラトン的世界にひとつから、最終的に分化し具体化してきたものが、われわれがたまたま存在している、この現実の宇宙ということになる》(266-267頁)。
 第三項。パースは、「われわれが何かを理解しようと試みるとき──何かを探求しようとするとき──、そこには必ず、探求の対象自体が、われわれが使用する論理と多少の相違はあっても、基本的には同一の論理に従っているという想定が前提されている」(254頁)と述べている。ここで言われているものこそ、探求(推論)と事物(存在)を通じる論理、すなわち第一性(質)、第二性(関係、作用・反作用)、第三性(表象)というカテゴリーの三肢構造に他ならない。
 パースの「見通し」にはさらに大きな仕掛けがあって、それは、感情や本能という「魂の実質的部分」(20頁)をなしているものと「魂の部分のなかでもっとも表層的で誤りやすい部分──理性」(46頁)による認識活動との関係をめぐる、パースのプラグマティシズムの根幹にかかわる(と私は思う)議論である。──それにしても、パースは深い。

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紙の本

脳とクオリア なぜ脳に心が生まれるのか

心脳問題をめぐる「可能性の書」

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。


 本書は、心と脳の問題への優れた導きの書であると同時に、おそらく今後この問題について思索をめぐらせようとする者が避けては通れない論点(たとえば、「認識におけるマッハの原理」や「相互作用同時性の原理」といったオリジナルな概念)を体系的かつ明晰に提示した書物である。

 自ら運営するホームページで著者が「青春の書」と紹介しているのを読んだ記憶がある。「青春の書」とは、若書きであることの謙遜の辞というよりも、以後の展開のすべてを、少なくとも原理的に胚胎させた「可能性の書」の意に解するべきである。

 その後の茂木氏の論考をつぶさに見ると、本書第二版の刊行が近いことが予想される。しかし、仮に将来、第三版、第四版と書き換えられ、本書がその原型をとどめないほどに乗り越えられることになったとしても、その「青春の書」としての輝きが失せることはないだろう。

 計見一雄氏が『脳と人間』で、『脳とクオリア』は「脳─こころ(Brain-Mind)問題の今後の戦略図のようなものである」と賞賛しているのを読んでいたく共感を覚えたことを付記しておきたい。

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紙の本

他者と死者 ラカンによるレヴィナス

「中間的なもの」にとどまる強靱な知性

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。


 レヴィナスの著書はまだ読みきったことがない。最小限の「蔵書」をモットーにしている部屋の本箱には、ここ数年来、講談社学術文庫の『実存から実存者へ』と『存在の彼方へ』、ちくま学芸文庫の『レヴィナス・コレクション』がほとんど手つかずのまま眠っていて、どうしても「整理」することができない。いつの日にか必ずや耽読することになるであろうという確信がある。というのも、これまでに読んだレヴィナス関連本(たとえば熊野純彦の『レヴィナス入門』と『レヴィナス』、合田正人の『レヴィナスを読む』、小泉義之の『レヴィナス』)がいずれも劣らず印象的かつ刺激的だったからだ。

 昨年『死と身体』に続いて読んだ内田樹の『他者と死者』は、これまでに読みえたレヴィナス本やレヴィナス関連本のなかでも群を抜いたとびきりの面白さだった。それ以来、折にふれては部分的に読み返し、そのつど世界の様相が一変するような驚愕を覚え、しかしすぐに忘れ、また読み返しては随所にちりばめられた叡智の言葉に感嘆することの繰り返しで(なんといおうか、「中間的なもの」にとどまる強靱な知性の膂力に圧倒されたとでも)、軽々に感想文や書評めいた小文を認めて本箱から「整理」することができなかった。

 もうすっかり内田節に魅了されてしまって、「時間論」と「身体論」が論じられるというライフワーク「レヴィナス三部作」の完結篇を心待ちにしつつ、レヴィナスの「師弟論」「他者論」「エロス論」が考察された前作『レヴィナスと愛の現象学』を眺めては禁断症状の予防につとめていた。そうこうしているうちに、ちくまプリマー新書から新刊が出た。(以下、『先生はえらい』へ続く。)

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東電OL症候群

紙の本東電OL症候群

2004/04/03 17:34

チープな時代のディープな神話

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 先に続編を読んだ。本編(『東電OL殺人事件』)はまだ読んでいない。そもそもこれまでこの事件自体にほとんど関心を払ってこなかった。だから「孤独の淵のぎりぎりまで追い詰められながら、それでもなお他者との関係をあきらめたくない都会の女性」たちが殺された東電OLの「磁力とか巫女性」に感染して著者に寄せた手紙に心を動かされることはなかった。「代々木練兵場に近い円山町で起きたOL殺人事件に私が激しく発情したのは、二・二六事件の青年将校たちを処刑する銃声や、大杉一家が最後にあげた断末魔の声が、その事件の底からかすかに聞こえてくるような気がしたからかもしれない」とか「私は彼女とこの事件に強く「発情」したからこそ、その根源を探るため、続編まで書いている」という著者の文章に深く感じ入るところもなかった。それどころか東電OLの心の闇と冤罪にさらされたネパール人被告をめぐる司法の闇の二つの物語の交点がいまひとつ腑に落ちなかった。

 著者は「この事件を追いながら、殺された渡辺泰子の視線をずっと背中に感じてきた」「私にとって東電OLは、闇の世界に向かって想像力を羽ばたかせる黒い翼のようなものだった」といい、死んだ東電OLの「まなざしに憑依された視線のなかで、二審裁判長の高木の歪んだ心性があぶり出されたように感じた」と書いている。しかしそれは現代における聖なるもの(拒食症の街娼)とチープなもの(少女買春する裁判官)とを強引に結びつける物語的想像力の合理化の弁でしかない。それもたとえばダムに沈んだ村と円山町のラブホテル街とのつながりから東電を連想し、殺された東電OLと父親との関係をエレクトラ・コンプレックスに擬すといった「チープな」想像力(スキャンダル的想像力)でしかないものであって、表象不可能なもの(闇・欲望)を強制的に表象化する装置としての司法制度やマスコミがその根源にかかえている想像力と同根だ。

 「この事件の「罪」は一体誰が背負うのか。「罰」は誰に科されるのか。東電OLを衝き動かした心の闇は、人として生まれてしまった孤独さゆえに誰かに繋がりたいという性の欲求にさいなまれる人間存在の原罪を問うように、いまも彷徨い憑依しつづけているのだろうか」と著者はこの作品をしめくくっているのだが、ここにあるのは現代の神話作家(実名報道による高級ゴシップ作家)の舞い上がりでしかない。

 ──以上に書いたことはほぼ二月近く前、本書を読み終えた直後のあの名状しがたい感銘の質を裏切っている。『M/世界の、憂鬱な先端』(吉岡忍)に匹敵する、もしかすると『冷血』(カポーティ)にさえ拮抗しうる読後感。たとえば次に引用する文章などに私は痺れたし、深く感応したはずだった。だのにどうしてこういうことになるのだろう。当事者以外の人間にとって所詮はチープな時代のチープな事件にすぎなかったということなのだろうか。よくわからない。

《渡辺泰子は、東電のエリートOLからかさぶただらけの式部となって畜生道に墜ちていった。彼女は、人びとの胸に沈澱した「物語」を紡ぎ出させる強力な巫女性の持ち主だった。泰子の磁気は、それにふれたキャリアウーマンたちを痺れさせただけでなく、彼女たちが立っている地面ごとどこかへ滑り落としてしまった。》

《この事件は、なぜこうも多くの人びとを感応させ、つき動かしてしまうのだろうか。それはおそらく、この事件が、人間存在にとって最も根源的なものをあまりにも多くはらんでいるからだろう。性、権力、親と子、組織と個人、肉体と言語、孤独。この事件には、人間というものに生まれてきてしまった者の実存の不安と哀しみが、決壊寸前のダムのようにあふれている。》

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ノヴァーリスと自然神秘思想 自然学から詩学へ

豊かで清冽な香気、澄み切った響き

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 このような書物にめぐり会えることこそ「生きる歓び」というものだ。どの頁を開いても濃厚、濃密といった言葉とは少しニュアンスの違う何かしら豊かで清冽な香気、猥雑なまでに豊饒なものを蒸留した澄み切った響きのようなものが立ち上がってくる。

 それは随所に引用されたまるで未来語で綴られたような──「生成途上にある」(435頁)思索が畳み込まれた──断章群と、ノヴァーリスの未完の生を愛おしみながら──かつ冷徹な解剖学者(パラケルススは森羅万象、万物がそれに従ってつくられる原型を知ることを解剖学と呼んだ)の手捌きをもって──これらの断章を整序編集する著者の端正で静謐な文章とが相まって醸し出す香気であり響きである。

 抽象化と具象化(ヒュポスターゼ)。純粋な意味作用。

《ノヴァーリスにとって「抽象化」は、「浄化」「精髄化」でもある。数学、音楽、結晶、スコラ哲学などの抽象的なものの美とその美による魂の浄化の感覚がノヴァーリスにはある。》(268頁)

 ──折しもベンヤミン「ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念」の新訳(浅井健二郎)が出た。中井氏がノヴァーリスや初期ロマン主義の現代性・同時代性の「発見」に関連して参照すべき文献として掲げるメニングハウス『無限の二重化──ロマン主義・ベンヤミン・デリダにおける絶対的自己反省理論』ともども、本書によって啓示され告知された鉱脈への探索行の必携本として再読すべきだろう。

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カンバセイション・ピース

紙の本カンバセイション・ピース

2003/08/09 23:15

会話的平和

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 最初は“CONVERSATION PEACE”だと思っていた。死者の記憶が匂いのよう漂う場所で生者と死者が会話を交わしながら共生する究極の平和。それを「話をはずませる小物」を意味する“CONVERSATION PIECE”とかけているのかと思っていた。
 会話といっても生者からの一方的なコミュニケーションでしかないのだが、そもそもコミュニケーションの語源的意味は「共に生きる」ことなのだから、存在様式を異にする死者と生者が言語的に構築された一つの世界のうちに共生する可能性を追究した小説にふさわしいタイトルだと思った。

 保坂和志は朝日新聞のインタビューで、「『生きる・死ぬ』ということと『いる・いない』ということは、ほとんど同じだと思われるけど、僕は違うと言いはりたい。ただ物理的に『ある』というだけじゃない、別の『あり方』が存在することを考えたかった」と語っている。
 ここでいう別の「あり方」については、作品の最底部でずっと流れていた浩介のブルース・ギターの音や綾子の歌に託して語られる。それは音楽がもつ「容れ物の力」がもたらすものであり、「暫定的なフレーム」としての私が媒介項となって橋渡しする季節の移ろいの中で、かつての伯母の「声がすることがいまと一緒にある」といった、視覚と聴覚、空間と時間が融合する「抽象」のうちに実現するものでもある。
 音楽という容れ物が人間や植物や死んだ動物たちに対して及ぼす浸透力や、暫定的なフレームが複数の過去の声を「いま・ここ」に喚起する力になぞらえられる「会話的平和」。

 ところが先のインタビューによると、この小説のタイトルはヴィスコンティの『家族の肖像』に由来する。映画に出てくる老教授は、十八世紀の英国で流行した上流家族の肖像画を収集していたのだが、この一家団欒図のことを美術史では“CONVERSATION PIECE”という。
 なるほど、そうするとこの作品は和やかで温かな会話につつまれた一家団欒の情景を、視覚や聴覚によってではなく言語的に表現したものだったのだ。言葉を通じて言葉の外にあるリアリティと接触することのうちに「生きることの充足感」を描くこと、そしてそれがまた日常のありふれた情景をなりたたせている根底に息づくリアリティでもあるということを、視覚や聴覚とは異なる抽象的な次元において叙述することをめざした作品が『カンバセイション・ピース』だったのだ。

 それでも私は、最初の直観にしたがって、この六人の人物と三匹の猫による九重奏楽団が奏でる会話のうちに表現されるものを、あの世とこの世をつなぐ「会話的平和」と名づけておきたいと思う(スティービー・ワンダーに“CONVERSATION PEACE”というアルバムがあることだし)。

 ──ところで保坂和志は、「遠く離れた二人の人間が同じときに同じことを思っていたかどうかとか、百年後に生きる人間がいまの私たちの努力をわかってくれるかどうか、というチェーホフに始まったモチーフ」(『小説修行』)に、『残響』と『世界を肯定する哲学』でそれぞれ小説的思考とエッセイ的思考をもって取り組んだ。
 死者の世界と生者の世界、あの世とこの世、記憶と知覚、言葉以後と言葉以前、総体と個別等々を、切り離しつつ媒介する「抽象」を言語でもって構築する『カンバセイション・ピース』の「神学的」ともいえる作業は、コミュニケーションの可能性もしくは不可能性をめぐるこれまでの仕事を集大成するもの(小説的思考がもたらす存在喚起力への賭け)だったのかもしれない。

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ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念

ベンヤミン的な書物

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 パサージュ論を除くベンヤミンの主要な文章のほとんがハンディな文庫本で、それも周到に練られた新訳と詳細かつ懇切で示唆に富んだ訳注・解説つきで読める。いい時代になった。ちくま学芸文庫版のベンヤミンは、安易な一気読みを許さない粘度と濃度と深度を備えた奥深い闇を湛えている(訳注と原注と解説が相互に参照され引用され言及され本文と対位法をなす叙述の迷宮的な構成。しかも原文そのものがこれと同様に構成されている。訳本は原本の叙述形式を反復しているのだ。運動としての本を読むこと。このベンヤミン的な書物!)。

 ──ベンヤミンの博士論文はたぶん二百年以上の長きにわたって政治と表現を含む西欧精神史の基底をなしたに違いない初期ロマン主義の実質を余すところなく叙述しきっている。私にはとりわけノヴァーリスの神秘的術語群(累乗、ロマン化、律動、無限、自己浸透、観察=実験=翻訳、等々)に拮抗する数々のベンヤミン語(叙述=析出、ロマン主義的メシアニズム、反省媒質、質料的浸透、反省の胚細胞、秘儀、等々)の光彩が眩しかった。

 その構成は実にシンプルだ。第一部「反省」の末尾で示される「ロマン主義の対象認識理論の根本命題」──《すなわち、ある存在[本質]が他の存在[本質]によって認識されることは、認識されるものの自己認識、認識する者の自己認識、および、認識する者がその認識対象である存在[本質]によって認識されることと、同時に起こる。》──が、第二部「芸術批評」での「批評が芸術作品の認識であるという限りにおいて、批評は芸術作品の自己認識である」とか「批評による作品の破壊」といったベンヤミン特有のモティーフへと反復されていく。

 ──浅井氏が「解説」で書いているように、認識者(ベンヤミン)がその認識対象(初期ロマン主義)によって認識されることの「ひとつの姿を、われわれは目撃しているのである」。そして読者(認識者)もまた書物(認識対象)によって認識されている。

《ある対象を認識するときの、そのあらゆる認識と同時に、この対象そのものが本来的に生成するのだ。というのも認識とは、対象認識の根本命題によれば、認識されるべきものをはじめて、それがAとして認識されるところのそのAにする過程だからである。それゆえノヴァーリスはこう述べる。「観察過程は、主観的であると同時に客観的な過程であり、観念的であると同時に実在的な実験である。観察過程がまったく完全であるならば、命題と所産は同時に成らねばならない。観察される対象がすでにひとつの命題であり、[観察]過程がどこまでも思考のなかにあるという場合には、その[観察の]結果は……同一の命題、ただし、より高次の段階における同一の命題であるだろう」。ここに引いた断章の最後の一文とともに、ノヴァーリスは、自然観察の理論を越えて、精神的な形成物の観察の理論へと移行する。ここで彼が考えている「命題」とは、芸術作品でもありうるのだ。》

《批評は、実験と同じように、理由づけ[動機づけ]を必要としない。批評は、実際また、芸術作品のなす反省を展開することによって、芸術作品を対象とする実験を行なうのである。(中略)批評とは、作品それぞれのうちにあるプローザ的核心の、その叙述[析出]なのである。その際、〈叙述〉という観念は、化学にいう意味で、すなわち、他の諸過程を支配下におくある特定の[規定を受けた]過程を通じてなんらかの素材[物質的要素、質料]を生み出すこと、と理解されている。》

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西洋音楽史 「クラシック」の黄昏

「諸君、脱帽したまえ、名著だ!」

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 西洋音楽史を「私」という一人称で語り、「私」という語り手の存在を中途半端に隠さないことに徹しようとする志が素晴らしい。歴史はたんなる情報や事実の集積ではない、事実に意味を与えるのは結局のところ「私」の主観以外ではありえないとする断念が潔い。音楽と音楽の聴き方(「どんな人が、どんな気持ちで、どんなふうに、その音楽を聴いていたか」)とを常にセットで考え、だから西洋クラシック音楽を、たとえそれが世界最強のものであるとしても徹頭徹尾「民族音楽」として、つまり音楽を聴く場に深く根差した音楽として見るその視点に惹かれる。「ただ一つ、本書を通して私が読者に伝えたいと思うのは、音楽を歴史的に聴く楽しみである。」著者はそう書いている。
 西洋芸術音楽は「書かれたもの(エクリチュール)」である。そのルーツは中世グレゴリオ聖歌に遡るが、それはまだ日本の声明にも似た一種の呪文であって、建築のように設計され組み立てられたものではなかった。西洋芸術音楽はまた必ずしも耳に聴こえる必要はなかった。たとえばバッハのフーガの凄さは楽譜を「読んだ」時に初めて理解できるものだし、その「純粋な運動感覚」としての面白さは演奏家にしか実感できない。
 そのような西洋芸術音楽の誕生と転身、興隆と衰退の歴史を、著者は記譜法や楽器の開発といった技術面、教会・王侯貴族・教養市民といったパトロン層や音楽が演奏される場の推移、そして宗教や民族意識といった精神史的系譜との関係をたくみに織り込みながら達意の文章で物語る。躍動感をもって綴られるその叙述には過不足がない。あまつさえクラシック音楽という、私たちが好むと好まざるとにかかわらずその中に生きている「音楽環境」もしくは「音楽制度」をあたかも異文化として聴く=読む態度へと導いてくれる。
 とりわけ惹かれたのは、第二次大戦後の現代音楽の状況を前衛音楽・巨匠の名演・ポピュラー音楽の三つの相に分節して論じ、かつては福音であった実験・過去の伝統の継承・公衆との接点という三位一体がなぜ20世紀後半以降ことごとく呪縛に転じたかを描く終章だ。著者はそこで「一つ確実にいえることは、われわれはいまだに西洋音楽、とりわけ一九世紀ロマン派から決して自由にはなっていないということ、その亡霊を振り払うのは容易ではないということである」と語る。そしてその唯一の例外が1950‐60年代のモダン・ジャズであったと書いている。
 読後あらためて感じたのは、本書の通奏低音をなす宗教と経済、すなわち西洋音楽の始点に位置する「神の顕現する場としての音楽」とその対極をなす「商品としての音楽」、そしてそれらの中間にあって両者を媒介する「感動させる音楽」、すなわち西洋音楽史のハイライトたるロマン派との三つ巴の相互関係の複雑かつ精妙なありようである。本書最終章の末尾で著者は次のように綴っている。
《今なお音楽は、単なる使い捨て娯楽商品になりきってはいない。諸芸術の中で音楽だけがもつ一種宗教的なオーラは、いまだに消滅してはいない。カラオケに酔い、メロドラマ映画の主題歌に涙し、人気ピアニストが弾くショパンに夢見心地で浸り、あるいは少ししか聴衆のいない会場で現代音楽の不協和音に粛々と耳を傾ける時、人々は心のどこかで「聖なるもの」の降臨を待ち望んでいはしないだろうか? 宗教を喪失した社会が生み出す感動中毒。神なき時代の宗教的カタルシスの代用品としての音楽の洪水。ここには現代人が抱えるさまざまな精神的危機の兆候が見え隠れしていると、私には思える。》

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動的平衡 1 生命はなぜそこに宿るのか

福岡伸一の「流れ」と「淀み」

17人中、16人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ひと頃、著者の連載コラム「エレメント・フラグメント・モーメント─等身大の科学へ─」を読むためだけに、毎月『ソトコト』を購入していたことがある。たかだか見開き二頁に綴られた文章なのに、奥深く広大な思考世界がその背後に息づいているのが伝わってきた。いつか単行本になったらまとめて読みたいと思っていた。
 本書は、その連載記事に再編集と加筆をほどこし、別の雑誌に執筆した文章も取り込んで、プロローグと八つの章に仕立て直したものだ。「汝とは「汝の食べた物」である」「人間は考える管である」「生命活動とはアミノ酸の並び替え」「「飢餓」こそが人類七○○万年の歴史」「全体は部分の総和ではない」「生命は分子の「淀み」」「なぜ、人は渦巻きに惹かれるのか」──目次からいくつかの章名や見出しを引いてみるだけで、短い文章のうちに結晶した著者の「思考細片」ともいうべきものの感触が蘇ってくる。
 著者はあとがきにこう書いている。「それら[思考細片]はいずれも、文字通り、要素[エレメント]であり、断片[フラグメント]であり、揺らぎ[モーメント]であった様々な思いが言葉となった何かであり、私の思考のすべてはここから生まれた」。たとえば次の文章を読むと、そこで語られているのは生命現象一般についてというより、福岡伸一の思考そのものであるかのようだ。

《…私たちの身体は分子的な実体としては、数ヶ月前の自分とはまったく別物になっている。分子は環境からやってきて、一時、淀みとしての私たちを作り出し、次の瞬間にはまた環境へと解き放たれていく。
 つまり、環境は常に私たちの身体の中を通り抜けている。いや「通り抜ける」という表現も正確ではない。なぜなら、そこには分子が「通り過ぎる」べき容れ物があったわけではなく、ここで容れ物と呼んでいる私たちの身体自体も「通り過ぎつつある」分子が、一時的に形作っているにすぎないからである。
 つまり、そこにあるのは、流れそのものでしかない。その流れ自体が「生きている」ということなのである。シェーンハイマーは、この生命の特異的なありように「動的な平衡」という素敵な名前をつけた。
 ここで私たちは改めて「生命とは何か?」という問いに答えることができる。「生命とは動的な平衡状態にあるシステムである」という回答である。
 そして、ここにはもう一つの重要な啓示がある。それは可変的でサスティナブルを特徴とする生命というシステムは、その物質的構造基盤、つまり構成分子そのものに依存しているのではなく、その流れがもたらす「効果」であるということだ。生命現象とは構造ではなく「効果」なのである。(略)
 サスティナブルなものは、一見、不変のように見えて、実は常に動きながら平衡を保ち、かつわずかながら変化し続けている。その軌跡と運動のあり方を、ずっと後になって「進化」と呼べることに、私たちは気づくのだ。》

 ひとつ成果があった。「自然は歌に満ちている」と「豚は思考しているか」という素敵な見出しを付された文章に、ライアル・ワトソンの二つの近著が紹介されていて、それらは著者の翻訳によって今年中に木楽舎から刊行される予定だという(邦題『エレファントム』『思考する豚』)。


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人間の条件

紙の本人間の条件

2001/02/27 22:23

政治的なものの復活

11人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。


 アレントの思想の根幹をなすのは、全体主義と大衆社会への徹底的な批判、そして人間の自由に立脚し、複数の人間の意識的な相互活動から織りなされる「公的なもの」による新しい社会の「始まり」の構想である。『人間の条件』は、そのような思想を体系的かつ詳細に叙述した主著の一つである。

 アレントはまず、人間の基本的活動力として、労働(labor)・仕事(work)・活動(action)の三つを掲げる。それぞれ、生存のために必要な消費財の生産(労働)、有用性と耐久性をもつもの、つまり消費に抗する道具や器具、美的永続性をもつ芸術作品などの人工物の製作(仕事)、談話すなわち言語によるコミュニケーションや英雄的個人の偉業(活動)を典型とするものである。

 これらのうち、アレントが重視しているのが第三の類型、すなわち言論と実践を通じて「私とはだれか」(アイデンティティ)を他者の前に明らかにしつつ、多数性の条件に羈束された人間社会への参入を果たし、人と人との関係の中から新しい価値や意味を生み出していく、人間の自由に立脚した「活動」である。その典型あるいは理想型は、いうまでもなく古代ギリシャのポリスにおける政治生活であった。

 古代ギリシャ世界から抽出された「ポリス(都市空間)=公的領域」と「オイコス(家空間)=私的領域」との区別は、中世ヨーロッパにおける「教会=天上的世界」と「世俗=地上的世界」へと推移する。そして、近代になって「社会的なもの」という第三の領域が現われ、公的領域と私的領域との原理的な区別を解消してしまう。

 産業と商業の勃興による「社会」の出現は、西洋近代における「労働する動物の勝利」がもたらした現象であり、その実質は国民全体にまで拡大された「オイコス」にほかならない。すなわち、社会という新しい領域の出現によって、古典的二分法によれば私的領域に属する「経済」(個体の維持にかかわる機能)が公的領域を制覇し、その結果、政治は「公共生」を喪失し、「労働」の論理(生命の必要の論理)に立脚した「家政」へと変質していった。

 こうして、公的領域と私的領域は「社会的なもの」によって制覇され、近代的な意味での公私の観念が生み出されていく。やがてもたらされることとなったのが、「必要」を超える無制約の「欲望」に支配された社会である。それは、「活動」が成り立つための前提条件(人間社会の「多数性」、いいかえれば個人間の差異としての個性)を圧殺する画一主義的な大衆消費社会であり、「ついには世界の物が、すべて消費と消費による消滅の脅威に曝されるであろうという重大な危機」が支配する社会であった。

 以上が、現代社会へのアレントの診断である。それでは、このような状況下にあって、いかにして「公共性」を恢復することができるのか。いいかえれば、いかにして「活動」を再構築すべきか。この点に関してアレントが示唆する処方箋は、言語を媒介とする人々の相互作用を可能ならしめる場の復活、すなわち古代ギリシャのポリスにも比肩しうる「公的空間」の創出である。

《正確にいえば、ポリスというのは、ある一定の物理的場所を占める都市=国家ではない。むしろ、それは、共に行動し、共に語ることから生まれる人々の組織である。そして、このポリスの真の空間は、共に行動し、共に語るというこの目的のために共生する人びとの間に生まれるのであって、それらの人びとが、たまたまどこにいるかということとは無関係である。「汝らのゆくところ汝らがポリスなり」という有名な言葉は単にギリシアの植民の合言葉になっただけではない。活動と言論は、それに参加する人びとの間に空間を作るのであり、その空間は、ほとんどいかなる時いかなる場所にもそれにふさわしい場所を見つけることができる。右の言葉はこのような確信を表明しているのである。》

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政治の精神

紙の本政治の精神

2009/08/02 16:07

政権を選択することの意味

11人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 可能性の術としての政治。政治的統合。政治的思考。政党政治の精神。──本書にちりばめられたこれらの語彙は、単なる心理学や経済学には還元されない、(最古の学問と言ってもいい)政治学に固有の概念を指し示している。
 それらはいずれも燦然たる、もしくは惨憺たる人類の歴史の過程を通じて培われてきたものなのであって、私たちは、(昔の人がたとえば「論語」を繰り返し素読することで先哲の思想を体得していったように)、丸山真男、福沢諭吉、ハンナ・アレント、ウォルター・リップマン、マックス・ヴェーバー、シュムペーター、トクヴィル、マキアヴェッリ、等々の綺羅星のごとき思想家の言説を、今ここでの現実かつ喫緊の政治的課題に照らし合わせながら読み解くことを通じてしか、これらの概念の内実をわが身に吹き入れることはできない。
 しかし政治や政治学を職とするならまだしも、繁忙を極める現代人にはそのための時間的余裕がない。その時間を節約し、来たるべき「政権選択」の時において考慮すべき論点に即し最短距離でそのエッセンスを提示するために、この書物は書かれた。
 政治権力すなわち政権をめざし、協調して行動する人々の集団を「政党」という。著者によると、その政党の最大の機能のひとつは、言動を通じた内部競争を通じて質の高い政治リーダーを育成することにある。日本の政党政治の実情が機能不全(リーダー不在)をきたしているとして、それは有権者のあり方と表裏一体である。無関心やシニシズムを克服し、有権者を投票場に向かわせるものは何か。
 それは、「正しく理解された自己利益」(トクヴィルが定式化した概念で、「ささやかで日常的な[市民相互の]協力関係を構築することによって人間の弱さを共同で克服することを目指す」もの)の「体験学習」を通じて、投票=選択という「公的アリーナでの活動が自分自身を変化させ、啓発するという快感」を(そして、失望を)知ることである。

《二00八年秋以来の世界市場の大混乱は、他の先進国以上に日本に深刻な経済的スランプと社会的ストレスを生み出し、改めてこれまでの政策の貧しさと行き詰まりを浮彫りにした。……踏みなれた利益政治の道に沿って微調整を試みる政治ではなく、正しく「頭脳で行う活動」としての政治の真価が問われる歴史的段階に入ったのである。……政党は国民の自己統治のための手段であり、手段が手段としての機能を持つことが政党の存続のための条件である。その機能を果たせない政党には退場してもらうまでのことである。》

 この本書末尾に綴られた文章を読み、また著者の活動歴(「21世紀臨調」代表)を参照して、いわゆる「二大政党」の一方に肩入れしていると見るのは早計である。著者の筆鋒は日本のこれまでの政党政治の実体そのものに、そしてその現実と表裏をなす有権者のあり方にも及んでいる。

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