紙の本
潔(いさぎよ)い文体−読む訓練(2)
2007/03/17 22:58
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:夏の雨 - この投稿者のレビュー一覧を見る
恐るおそる、読む訓練を続けている。
また山口瞳である。まだ山口瞳である。山口ならまた読めると思ったし、確かに頁を繰るのが楽しかった。先の頁に書かれているものを待ちきれずに読んでいる途中で次の頁を開こうとする気持ち。それが読書の醍醐味かもしれない。それがもどってきたら、もう大丈夫かもしれない。でも、山口の作品はどうしてすっと読めたのかしら。書かれていることだけでなく、そんなことを考えるのも、本を読む愉しみのひとつだ。
よく山口の文章はセンテンスが短いと言われる。そのことは『中年篇』の解説がわりとなっている「担当編集者座談会」の中でも指摘されている。引用する。「センテンスが短いというんじゃなくて、文章のテンポなんだよ。だから、テンポの作家、リズムの作家なんだ」(『中年篇』380頁)文章のリズム感が読む行為をも楽にしているし、そのことで読む快感が生まれているともいえる。しかし、山口は自らリズムを意識していたのだろうか。私は山口の文章の短さは潔(いさぎよ)さにあると思っている。戦中派山口にとって、潔(いさぎよ)さは特攻隊に通じる美意識であり、戦後のうだうだした世相の中で自分を律するものはそれしかありえなかったような気がする。それが山口の文体に見事に結晶化している。
思想的な話ではない。日常茶飯の風景を描いても山口の文体は潔(いさぎよ)い。この本の「春時雨」という短文から引用する。「雪割草が咲いている。これは春の序曲の前の音あわせの段階である。ヒヤシンスの芽が出ている。ヒヤシンスなんかは嫌いなのであるが、とにかく早く芽が出て早く花が咲くので目印のつもりで球根を埋めてある。カタクリが一本だけ、赤い芽を出した」(140頁)みごとに春の風景を切り取っている。こういう文体なら読書がすすむのは当たり前だ。読むことに悩んだら、ここに戻ってくればいい。少し自信のようなものがついた。もう大丈夫かもしれない。
最後に、ひとつ提案なのだが、駅にある書店でもっと山口瞳の本を並べられないものだろうか。電車の中で眠っているだけではもったいない。
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著者の作品を初めて読んだ。選んだ作品が悪かったのか、人気作家であることは実感できず。何から読めばよかったのか?
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規則正しい生活をする。特に運動を欠かさないようにする。
外国人が飛行機から降りるときは、必ずスチュワーデスにナイストリップと声をかける。
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筆者の書くエッセイは大好きで、ずいぶん前からいろいろと愛読しているのに、有名な「男性自身」シリーズは読んだことがなかった。これは、山ほどある「男性自身」(これは週刊新潮で31年続いた連載エッセイである)から、嵐山光三郎氏が選び出して一冊の本にしたものである。
好き、嫌いを書いてある部分を読んでにんまりと笑ったり、僕にとっては日本文学史上の人間である人が生き生きと登場したりする中で、軍隊と徴兵制については、毅然とした態度で書いてあるのに驚いた。こういうスカッとした意見は好きだ。ふわっとした文章の中に混じっているとなおさらはっとする。本当は、他の文章が「ふわっと」しているわけではないのかもしれない。厳しい何かを包む層のようなものが、若輩者には考えられないほど分厚いのかもしれないと思い、それが魅力なんだと思う。
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山口瞳の小説を読んだことはない。
だから、僕にとって、エッセイストという印象が強い。
晩年の連載を抜粋したものであるが、
入院したときに、親しい人の死を知るというのは、
なんとも不思議な因縁だな、と思う。
それから、向田邦子に関する記述は興味をそそられる。
なんとも魅力的に描かれているのだから……
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山口瞳の手による「男性自身」というコラムがあり、それは31年の長きに渡って週刊新潮に連載されていた名物コラムであった、ということは知っていたけれども、私は週刊誌を全くと言ってよいくらい読まないので、実際に読んだのは、この文庫本が初めてのことだ。身辺雑記に近いものなのに、また、特に劇的なことが何か起こるわけでもないのに、飽きずに最後まで読ませる本、たいしたものだな、と思う。
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最近のエッセイは自分語りが多いけど、これは身辺雑記。
自分の日常を書いているけれど、自分語りではない。
この辺りの兼ね合いが、上手いなーと思う。
絵画、俳句、将棋、相撲観戦など趣味が多才。
国立市を愛している。
酒のみで、偏屈で、愛すべきじーさん山口瞳。
不器用で頭が悪いから、ガスの点火ができないなんて書いていて、「あはは…」と笑って読んでいたら、戦時中、軍隊にいた彼の体験が書いてあった。
子どもがいじっていた不発弾が爆発して、家族全員が血まみれになって軍医に治療してもらいにきた。
その光景がずっと忘れられず、爆発物を異常に恐れるあまりガスの点火ができない。これは戦争ん後遺症だろうと言う。
“戦争となると、不思議なことに、死ぬことは怖くなくなってくる。しかし、私が死んだら母が歎き悲しむだろうと思うと辛くなってくる。それは本当に辛い。「君死に給うことなかれ」と母親や愛人に言わせることが辛いのである。”
実際に軍隊経験をした戦中派としての心からのことば。
死ぬことよりも、母を悲しませたくない。
殺すことにより、彼らの母を悲しませるのも嫌だ。
それは理想主義かもしれないけれど、理想がなくてよりよい現実が起こり得るだろうか。
“人は、私のような無抵抗主義は理想論だと言うだろう。その通り。私は女々しくて卑怯未練の理想主義者である。
私は、日本という国は滅びてしまってもいいと思っている。皆殺しにされてもいいと思っている。かつて、歴史上に、人を傷つけたり殺したりすることが嫌で、そのために亡びてしまった国家があったといったことで充分ではないか。”
ただし私は、これとはちょっと違うように考えている。
この先戦争へ向かって行こうとする日本であるのなら、日本という国は亡びてしまってもいい。
でも、皆殺しにはされたくない。
どこの国の国民になったっていいじゃないか。人は生きろ。と思っている。
これも理想主義なんですけどね。
国民を大事にしない国家なら亡べばいい、と結構本気で思っている。