読割 50
電子書籍
感じない男
著者 著:森岡正博
一人でした後の、何とも言えないむなしさ。なのにまたしてしまうという、厄介さ。実は男は、根っこのところで「感じていない」のではないか。だからこそ制服少女を目にしてはゾクッと...
感じない男
感じない男 (ちくま新書)
商品説明
一人でした後の、何とも言えないむなしさ。なのにまたしてしまうという、厄介さ。実は男は、根っこのところで「感じていない」のではないか。だからこそ制服少女を目にしてはゾクッとし、美少女写真集を見てはあらぬ妄想を膨らませてしまうのではないか。にもかかわらず、多くの男が自分の「不感症」に気づかずにいるのは、なぜか。この問いに答えるべく本書は、著者自らの体験を深く掘り下げながら、問題のありかを探っていく。禁断のテーマに真正面から挑み、「男の性」を根本から問い直す、衝撃のセクシュアリティ論。
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紙の本
自分を見つめることから始めるセクシュアリティ論。
2005/02/15 04:43
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちひ - この投稿者のレビュー一覧を見る
男性の「セクシュアリティ」(自分に染みついた、性についての感じ方や考え方のこと:本文より)を正面から見据えて書かれている。「はじめに」や帯に書いてあるとおり、〈男性のセクシュアリティはこういうものなのだ〉的な決めつけではなく、〈男性であるわたしのセクシュアリティはこういう感じです〉というところから、注意深く、それでいて大胆に論が展開されていく。
セクシュアリティの告白だけでは著者の経験をのぞき見させるだけだが、そんなことにはなっていないし、個別の経験や思いこみを無批判に垂れ流し、それを評論や学問と混同し勘違いするようなサブカル本でももちろんない。
自分自身を棚上げにしない営みである「生命学」を提唱し、まさに実践している著者は、この本でも著者自身の経験や思いを語ることから開始して、読者に自分自身がどうであるのかを考えさせながら、それを極めて学問的な営みへと昇華させていく。
多くの読者には自分自身のことを考える「呼び水」のように作用するのではないかと思う。わたしの場合は、否応なしに自分が自分自身のことをどう感じどう考えているのかを見つめなければならなくなり、非常におろおろし、ときどき著者に対して「それは違う!」と力説したい欲求にかられた。そもそも経験や考え方は人それぞれに固有・個別なのだから、複数の人間のセクシュアリティがぴったり重なり合うことなどあるはずがない。しかしそれでいて、著者が本書において白日の下に晒け出す著者自身のセクシュアリティと、個別の読者のそれとがある程度以上に重なり合っていることも事実だろう。わたしがおろおろしたり反論したくなったりする、それこそがセクシュアリティの個別性と共通性のはざまの何かであるのだと思う。
いずれにせよ、この「読みやすさ」と「学問性」の両立は稀有だと思う。それでいて自分自身をいちいち振り返って確かめながらでないと読めない。そういう意味で哲学書である。
著者のサイトはこちらです。
紙の本
知らず知らずのうちにあなた自身と向き合ってしまうでしょう
2005/09/06 15:53
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちゅう子 - この投稿者のレビュー一覧を見る
随分昔のことのような気がしますが、
まだ半年しかたっていません。そう発刊は平成17年2月でした。
題名にびっくり仰天して、こわごわ?いえ、恥ずかしいなと思いながら、それでも書店で購入してしまった、という読者も多いのではないでしょうか。
さて、あなた自身はどのような期待を持ってこの本を手にしたのか、そして読み進めるうちに、そのあなた自身の気持ちの中に、そうかなぁ、ホントにそうなの?あるいは、違うでしょう、という感覚が生まれ、すっかり著者の思う壺にはまってしまうようです。そして、なぜ著者はそんなことを言うの?私の場合はこうだよ、と、いつのまにか主張している自分に愕然としてしまうのです。
性について我々は、己れの気持ちを覆い隠してしまうことを推し進めていると言えそうです。もちろん、昨今では性描写は氾濫しているのですが、これは複数の人々の中であって、実は個々人の心の中ではまだまだタブーを美として存在しているのかもしれません。
著者はこれまで、この社会には我々を癒すかのように、或いは誤魔化すかのように、また気づかせないかのように進んでいく波が潜んでいると指摘し、「無痛文明」という捉えで語ってきました。そしてその流れの中で、我々が正面から語ることを躊躇してきた「性」について、「感じない男」が語られています。著者が男性だから「男」であるだけのことです。そう、男性も女性も、これまで口にすることが少なかった人々こそ、つい自分の性への葛藤、或いは快楽を主張し始めてしまうようです。
今、性としての己れと向き合える、この時間を素直に受け入れてみたいあなたに是非おすすめしたい一冊です。
紙の本
セクシャリティを語ること
2005/03/31 21:06
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オリオン - この投稿者のレビュー一覧を見る
フロイトは幼児の性欲を語って世人の顰蹙をかったというが、森岡正博は男の不感症を語って失笑をかうのだろうか。
森岡は「男の不感症」と「感じない男」を区別する。前者は、射精が一種の排泄の快感でしかなく、射精後一気に興奮が醒め全身が脱力し暗く空虚な気持ちに襲われるということだ。後者は、自分が不感症であることを素直に受け入れず、どこかにもっとすごい快感があるんじゃないかと思い、快感では女に勝てないと思い、だから女の快感を支配したいと思い、自分の体を汚いと思い、だから自分の体を愛することができず、制服フェチやロリコンに走ったりする男のことだ。
いや、制服フェチやロリコンに走るのは男一般ではない。「制服フェチとは、少女の体になりたいということだ」とか、「ロリコンの男は、自分がその中へと乗り移るに値する少女の体を求めて」いるといった、「不感症で汚い自分の体からの脱出願望」という仮説で説明できるのは、森岡自身のセクシャリティである。だから、「不感症なのだけれども、やさしくなりたい」という道を探してみるのも、「ひとつの男の生き方ではないだろうか」といわれるとき、それは森岡が進む道であって男一般の道ではない。
《不感症なのだけれども、射精してよかったと心から思えるようになること、射精したあとの墜落感や疎外感を味わいながらも、やさしい気持ちが心に広がり、人間や世界をいつくしみたくなること。私が求めているのは、このようなことだと思う。》
ここでもまた失笑を浮かべるしかない。だってそれだと「真の快楽」の追求と変わらないじゃないか。森岡がそれとは別の道を歩もうと思うのは、「彼らのように真のオーガズムを追求する方向に行ってしまうと、自分のセクシャリティのねじれや、対人関係のねじれを維持したまま、「性の快楽への欲望」だけが肥大することになりかねないからである」。ここで「真のオーガズム」や「性の快楽への欲望」を「やさしさ」に置きかえれば、それはそのまま森岡の進もうとする道についてもあてはまる。
「やさしさ」への欲望だけを肥大させないかたちで森岡の道を進んでいくことは可能か。可能であるとすれば、それは禁欲の道なのではないか(あるいは友情の表現としての性愛)。セクシャリティのねじれを矯正しようとすることが、正しい(ねじれていない)セクシャリティという妄想(=もう一つのねじれたセクシャリティ)を生み出すことになる。だとすると、セクシャリティを超えること、いや、そこから不断に抜け出そうとすることでしか「ねじれ」はただせないのではないか。
こうして、私もまた失笑をかうことになる。失笑をかうことでしかセクシャリティは語れない。なぜなら、セクシャリティとは「自分に染みついた、性についての感じ方や考え方のこと」だからである。セクシャリティ(のねじれ)は語りえない。それは一種の無意識だからである。
語りえないセクシャリティ(のねじれ)をめぐって、もっと豊かで多様な語り方はないのか。たとえばジョン・ケージが『小鳥たちのために』で語った「キノコの性」のように(一つの種類のキノコに八十の雄と百八十の雌のタイプがあって、ある組み合わせでは繁殖できるが他の組み合わせではできない…)。あるいは、本書の最後に記された「他人を欲望の単なる踏み台にしないような多様なセックスのあり方」という森岡の(もう一つの)性幻想を直接に語ること。
(こんなくさしているのか擁護しているのか分からない評言をだらだら並べるより、栗山光司さんのレビューにあるように「不快感を抱くとしたら、内容でなく、その人の振る舞いだと思います」と突き放してしまう方がいっそ潔かったかもしれない。でも、森岡さんの続編への期待を込めて、本書に一票。)
紙の本
これはレビューではないかもしれません。誤読かもしれません、現在只今の僕の感想です。
2005/03/05 23:53
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:栗山光司 - この投稿者のレビュー一覧を見る
スキャンダラスな教授の性告白というちょっぴり刺激的な惹起文に惹かれてこの新書を手に取った人がいるかも知れない。「生命学」、「無痛文明論」のことはまるきっり関心のない人達をもターゲットにしたのではないかという戦略は著者の『感じない男』という掲示板をHP上にアップした事情でも窺い知れる。それが良かったのか悪かったのか、つっかえ、つっかえ読み終わった感想は、長年に渡って鋤を入れて様々な文体が乱入しながらも、これからも添削されていくであろう未完の大作『無痛文明論』の著者だからこそ、何かあるだろうと、期待して読んだのですが残念なことに僕にとって新しい発見はなかったという想いです。それは僕の読解の能力の足りなさを露呈していることになるかも知れないが、大部の『無痛文明論』は刺激的に読めたし、新しい発見も多々あった。
著者の自己を相対化し、被験者とし、性告白の闇に果敢に挑んだとの表白は、読者の一人として実際の語られた言葉で判断するしかない。生命学なら一歩も二歩も引いて、学者としての言葉をまず拝聴するしかないが、性にまつわることは、個別的で特殊な体験をリアルにみんな持っている。一人一人が一家言持っているということです。その特殊性をいかに説得力を持って語るかは結構むずかしい。深く掘り下げれば言葉にならない底が抜けている闇が性であることは間違いない。
それは多分に自己探しのような困難なものですが、問題は僕のように自己探しなんか、欺瞞だよと考えるスタンスでは、性を語る、自己を語る振る舞いは肝心なものを隠す身振りではないか、そんなのへそ曲りの読解かもしれないが、著者の性を語るエクリチュールは森岡正博氏独自の特殊性がない。本人も気がつかないのかもしれないが、何か肝心なものを隠している。そうでなければ、こんな決まり文句のフレーズで、又は荒っぽい独りよがりな論理の展開で書けるはずがないと思いました。著者自身は<私の告白>を強調するが、その告白があまりにも通り一遍で、教科書的だったということです。ちょいと、厳しい評かも知れませんが、僕は余人をもって代えがたい特殊性が森岡正博氏の真骨頂と思っていたので、残念です。
あとがきで著者は《ただ、ひとつだけここで謝っておかねばならないことがある。それは、大学の教師である私が、こんなものを書いてしまったということについてだ。研究の自由を撤回するつもりはまったくないが、しかし大学で学んでいる若い学生諸君は、この本に対して様々な不快感を抱くことであろう。それについては、この場をお借りして謝罪したいと思う。お許しいただきたい。この本の内容については、私の授業ではいっさい触れないつもりである。》かような予防線を張るほど、良俗に反する本でもなく、助平な本でもなく、過激でもない、それに手軽な新書版で出版しているのだから、むしろ積極的に授業の場でテキストとして利用すべきでしょう。
それとも、今の大学は僕が考えているよりは近代主義の最後の砦として右も左も世俗主義に毒されているのか、大学の場こそが無痛文明の中心なのかと、疑念を持ちました。大学人以前に一人の学者として責任を持って書いたはずなのですから、堂々としてればいいと思います。不快感を抱くとしたら、内容でなく、その人の振る舞いだと思います。森岡さんは正直な人なんでしょう。★印は保留とせざるを得ません。
千人印の歩行器