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  3. 栗山光司さんのレビュー一覧

栗山光司さんのレビュー一覧

投稿者:栗山光司

237 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

紙の本原発のウソ

2011/07/12 11:17

安全な被曝量は存在しない!って、ホント?

24人中、18人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 本書を読むと目からウロコ状態になって僕自身の無知であったことを次から次へと気づくきっかけになりました。文章は平易でわかりやすい。それだけでなく、小出さんが何故、原子核工学を専攻しながら、反原発運動にシフトしていったのかと言う動機、履歴が素直に語られ一人の人間の生き方として好感を持ってしまう編集構成です。
 無駄のない章立てで興味のあるところから読んでもいいと思う。
 第一章(福島第一原発はこれからどうなるのか)第二章(「放射能」とはどういうものか)第三章(放射線汚染から身を守るには)第四章(原発の常識は非常識)第五章(原子力は未来のエネルギー」か)第六章(地震列島・日本に原発を建ててはいけない)第七章(原子力に未来はない)
 3・11まで小出裕章という人を知らなかった。それ以降ネットで小出さんを知ると、その語り口の「理屈」と「情」の見事なバランス、佇まいに惹かれてしまった。それに比して推進派と言われる人たちの胡散臭さが露呈されて僕自身どちらの派と言明するだけの初歩的な知見を持っているわけではないのに、小出さんは信頼出来るよなぁ、と次第に小出さんの視点を通して原発について考えるようになりました。これも洗脳かなぁ(笑)。
 反対、推進、中間のポジショントーク以前に小出裕章という漢がクールでチャーミングです。そんな背景があるから小出さんの言葉がどんどん浸潤してしまう。でも、積極的に原発推進を画策する政治家であれ学者、言論人でカリスマ性を持った人はいないねぇ。
 バイパスで『「反核」異論』を書いた吉本隆明が『思想としての3・11』で「これから人類は危ない橋をとぼとぼ渡っていくことになる」とつぶやいているが、推進派の連中は鬱状況なのでしょうか、それにしても「脱・原発」になかなか結集しない。理屈、合理性でない「空気の流れ」で動いてしまう国民性について嘆いてしまった言論人がいたが相変わらずの「依存症候」なのか?
 2007年、町内会の社会見学で、関西電力大飯原子力発電所の見学に行って来ましたが、 
 ■僕が興味を持ったことは一体、火災保険、地震保険はどうなっているのか?
 もし、保険契約を結ぶとしたら、原子力発電所はどのような査定になるのか?
 そんなことを質問したのですが、僕の質問もよくないのか、ナットクのゆく答えがなかったです。
 本書によると、
≪原子力損害賠償法が最初に設定した賠償措置額は50億円。「それ以上の被害が出たら国が国会の議決を経て援助を行う」と定めています。この法律はほぼ10年ごとに見直されており、2009年にも改定されて賠償措置額は1200億円になりました。/1200億円というと私たちからすれば想像もつかない大金ですが、電力会社は「どうせ保険だし、それで済むなら原子力発電をやってみるか」と思ったのでしょう。ただし「それ以上の賠償金は国で支払ってくれ」ということにして、今日までやってきたのです。逆に言えば、もし全ての被害を電力会社が賠償する制度だったら、原子力発電をやろうとはしなかったはずです。p106≫
 かような合理的なアンサーをしてくれれば是非はともかく納得できます。僕らの見学者に対して「安全神話」の洗脳一本やりでしたねぇ。
 「もしも事故が起きたらこういう事故処理、手当があります」なんての話はありませんでした。だからいじわる質問したわけです。広報のやり方としても古臭い、制御社会(コミュニケーション社会)に対応した広報をしなくては、前近代的な管理社会に対応した広報ですよ。
 意図的に隙を見せて(原発のデメリットを開示して)、制御(コミュニケーション)の渦を巻き起こす。そうやって侃々諤々の論争を巻き起こしより良い着地点を見出す。そんな大人の対応が欲しい。
 小出さんは反原発の論者だけど大人ですよ。それに比して「現場で働く人たち」にはリスペクトするけれど、推進を広報する人たちの「やらせメール」と言いあまりにも餓鬼の振る舞いが多い。

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紙の本

紙の本「ニート」って言うな!

2006/01/21 23:33

昨日は「ひきこもり」、今日のネガティブキャンペーンは「ニート」、明日は?

12人中、12人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 三人の著者のセッションは微妙にズレて、そのズレ方が各パートの奏者の楽器が例えば、内藤朝雄はアルトサックス、後藤和智はベース、本田由紀はピアノと、あまり相手のことは気にせずにそれぞれが得意な奏法で、「ニート」を奏でたということでしょうか、熱いジャムセッションにノレましたという読後です。
 ただ、もしこれからお読みになる方に耳打ちするなら、第二部の『「構造」—社会の憎悪のメカニズム 内藤朝雄』を最初に読んで、第三部の『「言説」—「ニート」論を検証する 後藤和智』を次に、最後に『「現実」—「ニート」論という奇妙な幻影 本田由紀』というパート順がいいんじゃあないかと思いました。アルトサックスが「ニート」を越えて咆哮し、ベースがクールに主題の「ニート」を刻む。アルトサックスの「歪んだ教育」という音符を「本来の教育」という音符に引き戻してメロディラインに乗せる。
 何せ内藤朝雄は透明な社会と決別して、日本を不透明な成熟した社会にしようと目論むのですから、その過激な問題提議の吹きは幕開けに相応しい。後藤和智は沈着冷静に社会学者の火照りを追跡して「ニート」を俗流若者論の言説市場から生み出されたご都合主義の記号であると、その胡散臭さを暴いてゆく。そして終曲に向かって本田由紀は若年就労問題を「ニート」という曖昧模糊とした概念を持ち出さないで、あくまでも労働市場の設計という位相で議論されるべきであると至極マットウなことを弾く。
 労働市場における典型雇用(正社員)、非典型雇用(フリーターなど)の移動障壁を低くし、処遇や社会保険の格差も縮小する。そして「学校経由の就職」の割合を少なくし、「まっさらな人材」を採用するというシステムから「教育の職業的意義」を強調して学校制度そのものに切り込む。それ故、「教育」という言葉に対するスタンスは内藤朝雄と本田由紀とでは違います。本田提案は明日からでも実施出来得る具体的なものです。
 本書で通底音として歌われているものはメディア論です。メディア・リテラシーを常に学習しなければ、知らぬ間にとんでもない穴ぼこに落っこちる。そんな知力、度胸を改めて自分に問うきっかけに本書はなりましたね。このような本こそマスメディアが取り上げるべきでしょう。
 「ニート」っていう言葉にお目にかかったのは玄田有史・曲沼美恵共著『ニート』を読んでからです。そのときの印象ではひきこもり、フリーターとどう違うのか新たにネーミングする意味はなんだろうと本書を読んだのですが読後霧が晴れないまま、疑念があったのです。
 本書で少なくとも問題の有り様がわかりました。人々の不安の元凶のターゲットの一つが青少年に向けられ、その眼差しが『ニート』という使い勝手のいい道具概念に権威づけられ、イギリス発祥であるけれど、日本風に工夫され、メディア、便乗文化人がネガティブキャンペーンを張っている状況でしょう。果たして何時までの賞味期限でしょうね。そのあたりの見取りは三方ともあり、それ故、『ニート』という言葉が風化しても本書に書かれた視点、分析、哲学は生き残るはずです。そのような足腰の強い内容になっています。ちなみに後藤和智はbk1で御馴染みの書評者ですね。
千人印の歩行器

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紙の本

紙の本わたしの戦後出版史

2008/09/15 00:42

今でも「理想の時代」を突っ走る狂いの「全身編集者」

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

昭和一桁生まれの人は強かで適わないと思う。戦後が青春のスタートであったわけだ。松本は東北大学を卒業して都立高校夜間部の時間講師をする。それもちゃんと正規の教員の口があって給料が三分の一なのに、わざわざ、それを蹴るようなバカなことをする。夜間部の働きながら学んでいる学生たちに出会えることに魅力を感じたというのですねぇ。今から言えば「狂っている」と言われ兼ねない。
 本書の扉に松本と縁の深い花田清輝の『復興期の精神』の跋から《個人のオリジナルティーなど知れたものである。/時代のオリジナルティーこそ大切だ。》という言葉が採録されているが、そんな「理想を信じる」ことの出来る時代だったんだと改めて思う。
 「理想」が磁場となっているから「一目惚れ」が稼働して濃い過ぎる人のネットワークが色んな局面で松本を支えたんだと思う。「理想の内容」を後付で冷笑したり、アイロニカルに批評しても松本の「生き抜いた」という実感に抗しきれないだろう。
 本書はベタに熱い「聞き書き本」です。でもそれが素直に受信できたのは、聞き手の元名物編集長お二人の大出版社の役員として清濁併せ呑む世渡りしたある種の痛恨の思いが、松本昌次に対する潔い見事な生き方に「とてもマネできない」と、敬服しているのが、端々に感じられたから、僕自身も感応したのかもしれない。
 花田清輝の『アヴァンギャルド芸術』、丸山真男の『現代政治の思想と行動』、埴谷雄高の評論、本田秋五の『転向文学論』、橋川文三の『日本浪漫派批判序説』など、25歳の時から未来社で30年、、1983年から影書房を創業して現在に至っているのですが、関わった書籍が2000点というから驚きます。
 編集者になる前に竹内好が後に「タタキ大工」と名づけた庄幸司郎との出会いが松本にとって何よりも代え難いものだったと思う。夜間高校の教師と生徒の関係だったのですが、松本は夜間高校を一学期でクビになってしまう。だけど、生徒たちが松本の首切り反対のハンガーストライキを校門前でやりその首謀者が大工の庄幸だったのです。以後、50年間亡くなるまで交友を続けるわけです。
 クビになった松本は庄幸のところに大工として弟子入りするが、使いものにならない。お前はいかにも労働者の手だけれど、俺はダメだ。インテリは本を読むしか能がないのだ。その代わり、君が働いている間、俺が本を読んでそれをダイジェストして教えてあげよう、それでおあいこだと、奇妙な二人三脚が始まったわけです。何という友情。それから未来社に入社するわけです。
 そのような友情エピソードが編集者、作家、学者、演劇人と問わず松本との間にふんだんにあるが、やはり未来社の創業者の西谷能雄と庄幸司郎とは特別でしょう。
 面白いことに庄幸は松本が手掛けた執筆者の家を建てたり造作したり、原稿依頼をしながら、庄幸の大工仕事の営業までやってしまうのですから笑ってしまう。でも、庄幸も物心両面から松本の出版活動を支える。
 63年に「庄建設株式会社」になり、野間宏、平野謙、竹内好、西郷信綱などが寄稿して松本が営業パンフレッドを作成したと言うのだからこれ又驚き。
 今の出版界は失われた12年と言われるように毎年業界全体の売上げが減少と疲弊しているが、委託制度、再販維持制度を手放さないでご都合主義のマーケティング理論で乗り切ろうとする浅はかさよりは、松本のように売れる売れないは余り念頭になく、著者に惚れるから出版するという「理想」だけで50年あまりも出版活動を持続できたことに頭をたれてしまう。
 そこに「狂い」がある。出版市場を計算高くマーケティングする以前に「狂い」があるのです。その狂いが時には当たる。それが出版界の摩訶不思議なところでしょう。
 読み終わった時に僕は松本さんに嫉妬しましたよ。何と、素晴らしい生を生き抜いたかと。いや、まだ、80歳現役進行中です。
葉っぱの「歩行」と「記憶」

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紙の本

紙の本NHK問題

2006/12/17 21:20

アイロニカルに語る果てに公共性があるのではないか?

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 公共放送のNHKだから、うっかり商品名を言っちゃあいけないんだよ、だから即、公共性を体現しているというわけではない、資本主義自由経済体制の競争原理に忠実だからと言って民放が公共性を実現出来ないというわけでもない。何が公共性かと言うことはもの凄く悩ましい問題で常に検証が要請される。
 共同体と公共性とはズレがあるのです。国家=官=共同体ではあるけれど、重なる部分が多くとも、即公共性ではないのは当然です。下り(ダウンロード)、上り(アップロード)の双方性の時代がもう目の前で地上波のデジタル化がくまなく行き渡れば民主主義政体は御安泰とはいかない。放送は文字通り、送りっ放しですが、放送と通信の融合はインタラクティブ(双方性)の技術進化で、ばっしりとした環境が整ったわけでしょう。だからと言って僕たちは民主義政体になくてはならないツールを手に入れて未来は明るいと手放しの見立ては出来ない。
 NHK問題を通して、果たして共同体=公共性であるのか、そのズレについてアイロニカルに本書は語る。武田徹が首尾一貫して啓蒙活動している「メディア・リテラシー」の文脈に位置するのです。恐らく、僕たち一人一人が他者と関わって生きて、暮らしてゆく上で「公共性」は最後の拠り所でしょう。だからメディア論は「生きる」の問いにつながる。
 イギリスのBBCがフォークランド紛争で「我が軍」と呼ばずに「英国軍」と呼び続け、サッチャーに批判攻撃されても方針を変更しなかった有名なエピソードは共同体=公共性かという根源的な問いを投げかけてくれる。
 武田はローティの『偶然性・アイロニー・連帯』における「ずれてゆくリベラル・アイロニスト」は自分自身のローモデルだと明言する。《ジャーナリズムは苛まれた人たちを発見し、その声を報じようとする。しかし、そこには状況認識の間違いがあるかもしれない。その報道に応じて政策が決定されれば、n人の犠牲の下にm人を助ける結果になるかもしれない。そこでn人の犠牲を出さずに済む方法はないか検討するためにあらためて報道を続ける。それが反照的均衡を探る報道だ。そしてそれは最初のものの見方をずらしてゆくリベラル・アイロニーのあり方でもある。》
 本書ではそのようなアイロニストとして冗談音楽、CMソングで一世を風靡した三木鶏郎が登場しますが、若い人たちには馴染みが薄いでしょうね、そう、爆笑漫画の太田光の元祖と言ってもいい。CIEの検閲で問題にされたコントを紹介しよう。この番組の担当者は丸山真男の兄である鐵雄です。
《A「標語を書くのに紙がないんでね、古いポスターの裏を使ったのはわかるがね、ちょっと驚いたよ」/B「ホホウ」/A「民主主義! と書いてある裏にだね」/B「何て書いてあった?」/A「八紘一宇って書いてあったよ」》
歩行と記憶

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紙の本

紙の本自壊する帝国

2006/08/13 18:12

帝国が、ゆれる、崩れる、それも必然なのでしょうか、

9人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ああいう不幸な事件が起き独房生活を余儀なくされなかったら、このような著作を読む出会いがなかったでしょう。著者の中にはあの事件に対する後悔はないんだろうなあ…。
 書く行為の中に「書かねばならない」という強い思い、「狂い」が全身を浸し、佐藤優は書き上げた。それが読み手にも感染したのか、ちょっぴり興奮しながら読んでしまった。
 好きになりたくないと思っているのにやむなく接してみたら、その魅力に惹き入れられて歯軋りした、そんな腹立たしくも、でも良かったという不思議な感動です。
 処女作『国家の罠—外務省のラスプーチンと呼ばれて』もそういう本でした。僕は辻元清美が好きでマスコミで濾過された彼女の目を通して、鈴木宗男、佐藤優を見ていたから、典型的なアンチヒーロー二人組と見なしていたわけですよ、たった一冊であっても、本は人びとを揺り動かす力がある、少なくとも僕の中であの一連の事件に対する見方が大分変わったことは否めない。
 「書く力」は技術的なものだけではない、裡にマグマを宿命として抱え込んでいるかどうかでしょう。ロシア共産党第二書記のイリインは、「マルクス・レーニン主義でもキリスト教でも、あるいは愛国思想でも、信奉しているイデオロギーは何でもいいんだが、信念をたいせつにする人と信念を方便として使う人がいる。君は信念を大切にする人だ」と佐藤優に言ったことも間違いないだろうと、思える。
 佐藤優の顔が見えるんです。それだけでない、ここに登場する主要な登場人物だけでなく、白タクの運ちゃんの顔すら見えてくるんですよ、まあ、アントニオ猪木の顔は存分に知っているが、それでも佐藤優にかかると政治家の猪木はこんなにもチャーミングであったのかとその記述の力にまいるわけです。
 ソ連の崩壊はこのように軋みながら進行して行ったのか、ソ連でなくとも、帝国が、国が、崩壊する時は何が内側を蝕んでいたのか、でもこれは帝国の崩壊であったかも知れないが、新しい国が誕生したとも言える。国の拠り所はなんなんだろう、戦争に負けたにもかかわらず、昭和天皇は生き残り、日本という国は崩壊しなかった。それで、良かったのか、新しい国の誕生の芽を摘み取ったことにならなかったか、勝ってしまったアメリカという帝国は崩壊しないで一人勝ちの栄華を謳歌している。でも、実際、アメリカの内部は蝕まれていないか、戦後イスラエルという国が誕生したことは希望の灯が点火されたように見えた。しかし、今や紛争の火種になっている。ソ連も希望の地であったはずだ、なのに、いとも簡単に崩壊した。
 このことの検証に『国家の崩壊』(にんげん出版)が理論的側面から記述しているとのこと、さっそく読まざるを得ないですね、彼は政治的な人間ではない、官僚というくくりでも馴染まない、宗教家でもない、学者のスケールからも逸脱する。出世主義者でも野心家でもない、佐藤優という一人の男を引き受けざるを得ない倫理的な男なのでしょう。
 その倫理が時として社会の底を踏み破ろうと、そのことに関して後悔しないだけの覚悟のある人だと言える。そういう人の書くものはやはり、ある種の清涼感があります。すべてを書くことに投げ出した。悩んでいるけど、前に駆動する迷いのない本です。これからもどんどん書いて欲しい人ですね、一連の仕事が一段落したとき、何を書いてくれるんだろうと想像するとわくわくしますよ、そんな才を感じます。
歩行と記憶

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紙の本

女に依存しない自己肯定の思想を構築しますか、

10人中、9人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 《解消すべきは、生物学的な性を社会的・文化的な性のありようと同一のものとして結びつけるような考え方や社会構造であり、異なるジェンダー間の権力関係であり、差別構造であって、ジェンダーそのものでないはずだ。(山口智美 p259)》至極もっともなことを書いているし、何が問題なのか実のところよくわからない。
 恐らく、ジェンダーフリーの言葉自体がそれぞれの論者で、それぞれの文脈で手前勝手に道具概念として装填されているもんだから、バックラッシュ言説と反バックラッシュ言説とが噛み合わないのでしょうか、小山エミの「『ブレンダと呼ばれた少年』をめぐるバックラッシュ言説の迷走」にしても小山エミの水も漏らさぬ論述は説得力があって僕なんか素直に頷いてしまうのですが、バックラッシュ側は見たくないもの、聞きたくないものを閉ざしてしまうのでしょうか、まあ、反バックラッシュ側の言説を体系的に読んだことのない、僕としてはそのことに対してとやかく言う資格がないのですが、恐らく理屈でなく「情」で読まなくてはいけないのでしょうが、「情」として読むためには発話者が強烈なキャラでもって僕にオーラを浴びせることが前提条件ですが、少なくとも僕にはかような光線を感じることが出来ないのです。
 問題はバックラッシュをしている人々が本書をクールに読んでくれるかどうかで、編集者が再三、ブログでもまえがきにも書いているように次なるステージへの叩き台として読んでもらいたいと謙虚に書いて、第三の道を提示してはいるが、そのような啓蒙活動が彼らの神経を逆撫でバリアをより強固にするおそれがありますね。
 それより、ジェンダーフリーという言葉を使わないでタダ単に「男女平等」の一点張りで運動として効果があれば、それでいいでしょう。憲法上、国際法上認められた差別撤廃は当たり前のことなのです。当たり前のことを当たり前にやる。その実践をそれぞれの人々が日常の暮らしの場で学習の場で働く場所で「男という抑圧」、「女という抑圧」から自由になってまず、自分の頭で考え抜くことでしょう。
 その前提で僕の最低限の自明の一線は問題の解決を個人の意識に還元するのではなく、制度の問題として問いを立てる。運動が稼働すれば、その中でアイデンティティとしての「男らしさ」、「女らしさ」が骨格となってバーバラ・ヒューストンの言う(p213)“fredom from gender bias”の具体的な姿が個々に出現する。それは勿論、終りのない更新で問題解決をする。一つの解決が別の問題を生む。そんな連鎖に忍耐強く付き合うことでしょう。そんな運動の中でギリギリに個に落とし込んだ「男」、「女」、「それぞれの性」が立ち上げる。多様性こそ、豊饒の謂いであり、そのモラルは最低限手放したくありません。
 僕が本書で宿題を負わされた気になったのは上野千鶴子さんの次の言葉です。
≪女についてはもっとあからさまに、男に認められることが女の価値だといわれてきました。それに対してフェミニズムは、「男に選ばれようと選ばれまいと、私は私」という思想の装置を提供してきた。「私の価値は私が決める。男に選ばれることによって、私の価値は決まらない」フェミニズムは、そのように女の自己解放のために思想を鍛えてきたわけです。いま、そのような自己解放のシステムを、男がつくれるかどうかが問われています。(p432)≫
 そのような言葉をそっくり返して、「オレの価値はオレが決める。女に選ばれることによってオレの価値は決まらない」と男を鍛えますか?
歩行と記憶

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紙の本

「パン」をメタに「ペン」をマジに

9人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 教科書的に堺利彦と「平民社」は幸徳秋水、大杉栄、荒畑寒村達の文脈で知っていたが、「売文社」のことは寡聞にして知らなかった。
 平民社の週刊「平民新聞」が創刊されたのが、1903年11月で「自由・平等・博愛」を旗幟として、社会主義を宣言、日露開戦にも反対、共産党宣言の邦訳を掲載するなどして、とうとう1905年1月発禁となる。
 その後、日刊「平民新聞」として発刊されるが(1907年1月)、4月に発禁。そうした流れのなかで危機感を持った国策捜査で1910年の大逆事件が起こり、幸徳秋水らが一斉検挙される。
 年開けて1月24日、25日に12人が処刑される。入獄していたがために大逆事件に連座を免れた出獄して間もない堺利彦らは秋水らの死体の引き取りと火葬を行う。
 そんなタイトな時代背景、個人的にも疾風怒濤の中で入獄中に「売文」をビジネスモデルにした「編集・出版プロダクション」の構想を練り出獄して今で言う「ベンチャー企業」を立ち上げたわけです。
 明治・大正のホリエモンか、出版と映画などメディア戦略で駆け抜けた角川春樹、「太った豚より痩せたソクラテスになれ」と東京オリンピックの年、東大の卒業式で大河内一男総長が言ったとされるリンクで妄想すれば、現在のマスメディアで働く人々は堺利彦らと比べて果たして「自由」である覚悟の哲学を持っているか心許ない。
 多分、「パンとペン」どころか、パンをメタと処理するどころか、マジに「パンのために就活」する。「ペンはメタに過ぎない」と、その孤立した無縁社会では「孤立の自由」しかない。博愛はルサンチマンに変色し、平等は死語で格差が益々実体化する。
 恰好良く言えば、堺利彦の「売文社」の「パンとペン」は絶妙なバランスに立った「パンをメタにペンをマジに」の強かな処世であり、「孤立した個」ではなく、「孤独の個」を受け入れた個人主義の基底の元に他者とどこまでもつながるダイナミックな生き方だったと思う。
 だからこそ、普遍性を信じる哲学、思想があったし、「言葉の戦い」があった。何ものにも替えがたいものが「言葉」であるだろうし、色んなものに替えることが出来るものが「お金」のお金たる所以だし、お金で買えない「言葉」はある。
 そんな言葉を僕らは「詩」と言って聖域に祭り上げる。「思想」もそうだ。投げ銭されても、それはお賽銭。
 売文社のビジネスモデルは翻訳、出版企画、演説原稿、大学卒業論文やレポートの代行、ゴーストライターなど、「或る女から或る男への手切れ金請求の手紙」まで代筆している。足袋屋の広告文、自殺しようとする男の遺言の草稿を真面目に引きうけ要求通りの文案をつくったりもする。
 作者は「神は細部に宿る」とばかり、微に入り細にわたって堺利彦にまつわるエピソードを渉猟する。
 内容もさることながら、他書に類を見ない本書の特長の一つに本文中でも巻末でも引用されている膨大な参考資料にあると思う。
 例えば、あまりに堺の逸脱するキャパの広さに同時代のジャーナリスト宮武外骨を思い出したが、 案の定、作者はこんなことを書いてくれている。
 《また、この翌年の『日本一』七月号と八月号にも、宮武外骨と堺利彦のコンビで「奇想凡想 ハガキ問答」が掲載されている。これは、同誌編集部のからの依頼で始まったそうだが、まるで漫才のように面白い。ただし、伏せ字だらけの上、その筋の圧力を受けて、残念ながら二回で中止になった。(p387)》
 この雑誌を読んでみたくなったが、手に入れるのは大変でしょう。
 『古書の森 逍遥-明治・大正・昭和の愛しき雑書たち』を上梓している黒岩さんならではのこだわりであり、国会図書館にも蔵書のない資料も沢山ある。古書会館で資料集め、古本渉猟、本書を上梓するまでの作者の全身全力投球ぶりが伺え、「書き下ろし」の筆圧に圧倒される思いでした。
 聞くところによると、作者が最初に編集者デビューした出版社は色んなことをこなす「売文」社のようなところだったらしい。そんな作者の編集者体験が「平民社」の堺利彦ではなく「売文社」の堺利彦に感染してフォーカスしたのか。
 でも、残念なことに本書が店頭に並び、サイン会、トークイベントもやられ盛況だったのに黒岩さんは11月17日に旅立ってしまった。あまりにも信じられないあっけなさでした。1933年1月23日、堺利彦永眠。
葉っぱのブログ

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紙の本

終わりではなく始まりの物語

9人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「1Q84」であれ、「1984」であれ、作者の手になるフィクションであるのは自明であって、月が二つ空にかかっていようがいまいが、読み手が奥深いところから、感染して行く一種の症候に犯されたと身震いするような作家の言葉に浸されて時、その作品はリアルなものとして立ち上げる。
読者の僕は逃げることの出来ない当事者性を獲得する。多分、すぐれた作品はそのような意味で読者を拉致するのであろう。
拉致され得ない安全地帯で村上春樹の小説を批評しても見当違いか砂を噛むような思いになるのは春樹の小説にはある種のイニシエーションが要請されるのかもしれない。
アイロニカルな僕は春樹ワールドの住人の資格はないかもしれない。にもかかわらず、リアルタイムで春樹の重要な作品はほとんど読んでいたが、ただ、ファンタジー、エンターテイメントとして春樹の物語を楽しんでいたと思う。
それは、肩肘張ったいわゆる純文学に対峙する構えではなかった。今回の新作にしたところで、物語を存分に楽しむぞ!っていうスウィッチが入る。
物語というクリシェな乗り物をバカにしながら、乗り物のない作品でどう踊り狂っていいやら途方に暮れる。僕にとって現代における純文学とは、乗り物のない作品で、多分、フリージャズに近いものだろう。
春樹のジャズは違う。背景に豊饒な物語がある。何の変哲のない料理にしたところでそうだ。手作りの物語を仕込む。音楽であれ、アイロンのかけ方であれ、ワイン、ビールであれ、春樹のレシピが美味しく提示される。僕は脱力して物語の森を彷徨い楽しむ。
春樹ワールドのメロディーラインが僕を森の中に消せない。いつか必ず出口(希望)の光が見えるという予感がある。安全基地が安全基地たり得るのは「愛」を信じることが出来るからであろう。
マネーは勿論、宗教、思想が信じられなくとも「愛」という軸があれば、天動説の世界であれ、地動説の世界であれ、上空に月が星のごとく無数に光っていようが、そこは安全な王国であろう。「空気さなぎ」が胚胎するものが、「虚無」か「愛」かリトル・ピープルの絶え間ない作業を見守るしかないのであろうか。
ただ、空気は絶え間なく変容する。その絶え間ない格闘が他罰的な外部の問題ではなく、一人一人の内部の問題として考え続けなくてはならないのだろう。その作業に耐えることが出来るには「愛がなくては」(paper moon)は叶わない。

1945年8月6日午前8時、爆撃機「エノラゲイ」は、「リトル・ボーイ」と命名された原爆を搭載し、僚機「グレートアーティスト」と一緒にヒロシマめがけて、飛行していた。
二つの月の暗喩は爆撃機とも言える。僕たちはヒロシマの惨劇を知っている。「リトル・ボーイ」が黒い涙を流し戦後アメリカ型民主主義に犯されたとも言える。リトル・ピープルは善悪を超えているとしても、<空気さなぎ>が胚胎したものが、KYな人々を排除する世間と言うものであったかも知れないが、それらは綻び始めている。Book2は終わりではなく、始まりなのでしょう。

春樹の文学はアメリカ文学の土壌の上に花開いたものであっても、少女作家「ふかえり」の朗吟する『平家物語』を召還する。
ジョージ・オーウエルの『1984』、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』、チェーホフの『サハリン島』、1968年、オウムの1995年、それらが物語のフレーム内にしっかりと腑分けされている。
だからこそ、村上春樹ワールドの謎解き本のようなものが欲望されるのであろう。謎が渦をまいて、Q&AではなくQ&Qで謎の月が中空に立つ。
僕はそのような謎解きにはあまり興味がない。ただ僕のクロニクルに伴走した、この国の現代史の全体小説として読んで楽しんだことは間違いない。でも、どうやら、今回は単なるエンターティメントとして楽しむには重い課題を突きつけられ喉元に<青豆>の銃が…。
《「ほうほう」とはやし役のリトル・ピープルが言った。/「ほうほう」と残りの六人が声を合わせた。/「天吾くん」と青豆は言った。そして引き金にあてた指に力を入れた。》

葉っぱのBlog

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紙の本

読後、何かバカげたことをしたくなる本、又は格好いい台詞を吐きたくなる本

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 標題のなが~い「だれも買わない本は、だれかが買わなきゃ ならないんだ」ってハードボイルドの名探偵フイリップマーロウが言いそうな台詞だなぁと感心したら、ヤンゴンで打たれた報道写真家長井建司の「だれも行かないところは、だれかが行かなくちゃならない」の名台詞から示唆されたみたい。
 恐らくここで取り上げられた本の殆どは著者が大新聞の読書面で取り上げたところで、数千部で上がりというささやかなものでしょう。でも、とても気になるし、読んでみたい気にさせる。
 著者の語りは批評家のそれではなくて、「面白かったよ」との熱が伝わる。単にナイーブに感動を伝えると言うと薄ら寒さを感じるが、著者はそんな偏執狂的読解でも、その炎を消さないで、時にはアイロニカルにユーモラスに暑苦しくなく伝えてくれる。一種の話芸だなぁーと著者の世界に引き入れられてしまった。
 第一章は「本屋に出会う」ですが、日本のユニークな本屋さんだけではなく、バンコク、台湾の本屋も紹介される。第二章は「本に出会う」で、延べ百冊近い雑誌や本がピッキングされているのに、殆ど僕のアンテナに引っかかってなかったものばかり、普通なら、それだけで、読み続ける気がしなくなるのに、著者のレビューを読むと「ここにオレの知らなかった世界がある」みたいな驚きがうまれて、読みたくなるのです。
 第三章の「人に出会う」にエントリーされた大竹伸朗、篠山紀信、大竹昭子、吉永マサユキ、小林紀晴、北村公、トニー・ホークス、ウィスット・ポンニミット、小沢昭一、こうざいきよ、のコラムは彼らに触発されて浮かび上がってくる著者の自画像がとてもチャーミングなのです。
 第四章「イメージに出会う」は主にアート・写真集をメインにしたレビュー集ですが、復原なった幻の三号雑誌『血と薔薇 全三巻』から頑張っている広河隆一の報道写真雑誌『DAYS JAPAN』なども取り上げられている。
 でも、ほとんど、普通の本屋さんではなかなかお目にかからない本がほとんどで、それは第一章の「本屋~」にもつながる金太郎飴のリアル書店の氾濫というより、そんな金太郎飴でないと商売が出来ない出版流通業界の厳しさもあるのですが、ルポライターとしての著者の怒りと嘆きに通底する。
 そのことが朝日新聞読書面で連載していた書評を突然辞めることになったエピソードに繋がる。《1999年に春に始めたから、もうすぐ6年目という長い仕事だった。/最後に書評するはずだった本が『トーキョー・ソープオペラ』。/牧野智晃という1980年生まれの若い写真家が発表した、初めての写真集だ。/「東京に住む熟女116人の“昼メロ”をテーマにした、/お笑いだけど力作でもあるこの本に向けた書評が、/ようするに朝日新聞の“良識”に触れて突然の連載終了という事態に至ったわけだが、/さてここで問題:以下にあげる文章が書評の原稿でしたが、/これのどこが新聞として不穏当な表現だったのでしょう。/問題となった単語と、その理由を簡潔に述べて下さい。p268)》
 担当者は著者に言う。「とにかく読者にはいろんな人がいるので、抗議があったら困りますから」、抗議は勲章ではないの、抗議を怖れて紙面作りをやってもらったら、読者が困ってしまう。非常に基本的なことだと思うのですが、大新聞社の場合は違うのかなぁ。
 しかし、『だれも買わない本は、だれかが買わなきゃ ならないんだ』の都築響一を尊敬してしまうよねぇ。格好良すぎる。やっぱし、フイリップ・マーロウだなぁ。「さよならは、ちょっとだけ死ぬこと」か。
葉っぱの「歩行」と「記憶」

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ほら吹き星の王子さま

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 僕は星新一を愛読したわけではないが、PR雑誌を始めとした様々なメディアで、「ショート・ショート」を読んでいるはずなのに、どんな内容だったか全く思い出さない。
 最相葉月も中学生だった70年代、図書館にあったシリーズを全部読み終わって熱中したのにもかかわらず、その後、読まなくなって、忘れられた作家になっていたということです。
 平成13年夏、東京新聞で随筆依頼があり、そのテーマが「科学と幸福」であった。
≪ さて、何を書こうかと思案しながら神田の新刊書店に立ち寄り、文庫の棚で何気なく手にとったのが星新一の『ボッコちゃん』だった。二十五年ぶりの再会である。ぱらぱらとページをめくって斜め読みをしてみると、あれほど熱心に読んだのに内容をまったく覚えていないことに気づいた。ためしに、題名が気になった終りの一編「最後の地球人」を立ち読みしてみることにした。一組の夫婦に一人しか子供が生れなくなり、徐々に人口が減って人類滅亡のときを迎えた未来を描いた作品である。改行の多い、たった十ページほどの短編。ぐいぐいと引き込まれながら読み進めて最後のページにたどり着いたとき、思わず息を飲んだ。星新一はこんなこんなことを書いていたのか、と。≫
 あとがきに書いているように、このことが、『あのころの未来 星新一の預言』につながり、今回の大作を生んだのです。
 僕の書店員としての記憶では星新一を小松左京、筒井康隆のようにSF作家としてカウントするよりは、安岡章太郎の「なまけもの」、遠藤周作の「ぐうたら」、北杜夫の「マンボウ」に並べてへそ曲りのエスプリを効かせた「ユーモア小説・コラム」のように売っていた記憶があります。SFファンの方というより、あくまで星新一ファンで、小松、筒井よりは安岡、遠藤、北の読者層とダブっていましたね。中高校生が中心だったと思う。
 だから僕は安部公房を含めて、小松、筒井は愛読していたけれど、星新一の本は平積みしてよく売っていたが買ってまで読むことはなかった。
 大人が読むには気恥ずかしさがあったのですが、本書を読むと、僕は星新一を誤解していたんだと、大いにナットクしました。それどころか、無性に星新一の本が読みたくなったのですから、単なる星新一の評伝を越えて、文庫の発行部数は3000万部という驚異的な数字ですが、僕のようなオヤジを新たに読者に加えて記録を伸ばす販促効果があるかもしれない。
 どんどん、翻訳もされているらしいですね。彼の『ショート・ショート』の作風は一方では限りなく民話に近づき、他方、固有性を削ぎ落としてどの時代、どの国でも読んでもらえるような普遍性に向かう作品つくりなのでしょうが、サンテグジュベリの『星の王子さま』がいまだに世界の人びとに読み継がれている秘密と星新一の作品との違いはなんだろうと考えると、ひょっとして「1001話」に拘ってしまったことにあるのではないかと思ってしまう。
 安岡章太郎、北杜夫、遠藤周作、小松左京、筒井康隆、僕の大好きな半村良にしろ、結構、日本文学史に刻印される作品を思い浮かべることが出来るが、はてさて、星新一となると、代表作と問われれば、迷ってしまう。『1001話のショート・ショート』としか答えようがないとしたら、寂しいものを感じる。でも、潔いか、清らかか。
 作品以上に、「星新一」という、本名の「親一」とともに、「星一家」の物語が本書では書き尽せぬものが、まだまだ、沢山ある読後感でした。作者に別の視点から続刊を書いて欲しいですね。「星新一」が好きになってしまった作者の愛情こもった禁欲的な「清らかな」ものを感じるが、どろどろした星の王子さまも、もう少し、読んでみたかった。
葉っぱの「歩行と記憶」

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放射線もがんも制圧出来ない科学技術の罪と罰

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本書はNHKで放映されたスペシャル『立花隆 思索ドキュメント がん 生と死の謎に挑む』の完成台本を資料に書籍化されたもので、そのような経緯から付録として、番組のDVDが添えられている。
懇切丁寧に「がんの最前線」にも触手を伸ばしたルポライター立花隆の真骨頂が随所に見られる奥の深い「がん情報本」になっている。
でも知れば知るほど「がんの正体」がわからなくなる。
あるレベルで了解したつもりが、当事者として治療をスタートし、ネットや、医者や患者から様々な情報を収集するにしたがって段々と闇が深くなる。患者としての作者の悩みに同じく僕自身も共振するところがある。
癌になったある科学者は科学者としての決断から積極的に攻撃的な治療を選択する。抗がん剤の副作用も厭わない。患者としてそのような治療をすることが次代につながるという科学者としての倫理が彼をそのような過激な治療に駆り立てる。
本書で言及されたエピソードではないけれど、よく聞く挿話で再発がんで転移したがん患者が医師の抗がん剤処方で段々とグレードアップしてゆき、患者は亡くなった。
だけど、医師が遺族に患部の画像を見せて「抗がん剤が見事に効いていましたね、がんが消えている」と興奮の面持ちで叫んだと言う。ありそうな話です。癌は消えて、副作用で死ぬ。この倒錯は怖いですよ。

僕がそれで連想したのは原発選択のクリーンエネルギーという言説。地球温暖化防止に寄与しても地球が放射線に汚染される。ここに似た倒錯がある。

そもそも、現時点の最先端の科学技術をもってしても、 (1)放射線をコントロールできない。(2)がん撲滅が出来ない。
この連立方程式がフリーズしているわけです。本書を読んでも解決の糸口、希望さえ見えない感じがする。
だからこそ、放射線専門医の近藤誠に「抗がん剤は効かない」と端から三行半がくだされる。
戦後、この国は「原発大国」の道を歩んだわけですが、長寿国で「がん大国」でもある。「原発大国」と「がん大国」がどこかの回路で通底しているのでしょうか。
年間200ミリシーベルト以上被曝線量があれば、癌になるリスクが高くなるいわれています。でも現在進行中で東電の作業員、下請け作業員がFUKUSHIMAで働いている。
癌になっても完治治療が可能、又は予防接種のような処方が可能ならば、放射線に被曝しても恐れるに足りない。そうではないわけです。
放射線がコントロール出来ないならば、せめて「癌に罹っても」完治する治療法があるとの信頼があれば、まだしも同じように僕たちは「がんをコントロール」出来ていないのです。希望の萌芽はあるのか。

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果たしてハードとしての書物の存在理由は?デジタルコンテンツが出版流通のメインストリームになる時代がもう目の前にあるのかも知れない。

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本書を読んで新鮮な驚きがあったのは、「出版流通」をメディアとして論考している視点でした。出版・書店・読者としての文化を語りながら、メディア論を展開することにはそれなりの蓄積があり、了解があるけれど、むしろ取次機能を歴史的に検証しながら、取次のメディア性を特化して出版→取次→書店→読者(消費者)を串刺したダイナミックなメデイア論に着地する手際は見事でした。
先日、堺に巨大流通倉庫を発足させたアマゾンや、グーグルによる書籍デジタル化の動きと相俟って「出版流通問題」をグローバル経済の枠組みの中で検証しがちなのですが、著者は研究者として地道に近世から民俗、習俗にまで目配りしながら、文化としての「出版流通」を記述して行く。
《日本の出版産業は流通に最大の特徴があり、これに大きく依存している。しかしながら、大手取次業者が寡占的に流通段階を維持するという構造から、議論はその権力性への批判に集中した。流通過程というものは通常見えない存在で、第三者の統制管理的な関与ではじめて顕在化するため、往々にして否定的な側面が強調されがちである。流通を軸とした産業構造は相対化の「危機」にあるが、そこにおけるパースペクティブは「流通業者」を論じるのではなく、「流通」そのものを論じ、とらえるところにしか生まれてこない。出版流通の本質と日本の特殊性を理解し、その支配的作用すらもポジティブなものとして活用しうる可能性を見いだすこと、それによって今日的な問題への足がかりを得ること。それが筆者のめざす方向であり、本質の目的である。p30》
著者は大手取次に20年勤務し、退職して東大大学院学際情報学府に入学する。2007年1月、修士論文『出版流通のメディエーションー近代日本の購書構造』を書き上げ、この論文を骨格として本書が上梓されたわけです。
巻末の膨大な文献一覧表を見ると、資料的価値のある懇切丁寧な編集になっている。僕は研究者でもなく一介の元書店員なので、本書を在野の研究者小田光雄や、現役の店長である『希望の書店論』の福嶋聡のように的を得た批評はできないけれど、大まかなザル目で見取り図を行うと、(1)佐野眞一のようなルポルタージュ的なアクセスでもなく、(2)書店員としての購書空間から発信された書店論でもなく、(3)出版社主として流通システムの完結さに比して取次の金融機関としてのどんぶり勘定的な正体を赤裸々に分析して見せた小田光雄とも違い、(4)の人と出版物とをふたたび媒介して、可能態としての「流通」にアクセスして、長谷川一のいう「コト編み」、そのエディターシップに著者は希望を託しているように僕は解したのです。
《個別の多様性をとりこむなら、それはあくまで産業システムの外に立つ個人であるべきなのだ。ここに、個人化の示唆する二つ目の論点がある。差異化の復讐は、すでに購書空間の構造の中に変化をもたらし始めている。たとえばサイバースペースにあるオンライン書店の出現は、無限の在庫という可能性を人々に知らしめた。同じように、個人単位での古本の掘り出しは、表に出ていない本の存在を新たな価値として提示する機会になった。これらによって商品の裾野は一気に顕在化し、「書店」に発想の転換が起きる。「書店」はその空間の中に、ふたたび古本を招き入れたのである。近年、大手書店を中心に展開が本格化しつつある「古書併売」であるが、それは「とりこみ」ではなく共存という形をとる。このように、いくつかの購書空間は新たな連環をもって、排他ではなく裾野をひろいあげる準備を始めている。ならばあと一つ残されているのは、そこに「本に出会うリテラシー」の回路を取り戻すことだろう。p216》
と述べてアソートメント(ばらばらに点在するものを「意味ある集積」)に組み換える道行きを説くのですが、ここがもう一つよく分からなかった。そこに新たな購書空間が生まれるというのです。《近代日本が形成した出版流通はこの新たな購書空間にあってこそ、同一化と差異化、公共性と個別性のジレンマから解放され、本来のダイナミズムを実態として発揮する機会を与えられるのではないだろうか。》と穏便なソフトランディングしているが、それより福嶋聡が言う『書物の「優位性」とは何か?そもそもそれは存在するのか?』というラディカルな問いを発する地平で出版流通を考えるべきところに来ているのはないか。
本というものは安いから買うものではなく、高いから買わないものでもない。コンテンツが購書空間において光り輝き欲望の対象となる。だから再販維持制度・委託制によって支えられた出版流通のインフラはもはや電子デジタルが本格的に駆動する時代にあっては、かってのように重大な意味を持たないであろう。
デジタルコンテンツ/書物とどう違うのか、そこのところの考察を待ったなしでやるべきでしょう。「書物を媒介としたコミュニテイ」ではなく、「コンテンツを媒介としたコミュニティ」の土俵の上で、さて書物をどうしたもんだと、デジタル>書物の位相で考えるべき時かも知れない。
大日本印刷、凸版印刷が出版流通に乗り出してきている現在では余計そのことが問われるだろう。
葉っぱのBlog

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生きるとは死者とともに延命する営為なのか

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本のタイトルにしてから、何やらアヤシゲで、トンデモ本かと思いきや、さにあらず、読み進むにつれて身につまされた。というのは、1巻目は1999-2002年にぶんまおというハンドルネームでネットアップされたもので、ホームページのアーカイブで今も読むことが出来るが、ボク自身はちょうどこの頃からネットをはじめたのに、「ぶんまお」さんのこのHPのことをまるっきり知らなかったのです。ひょんなことで、1巻、2巻と読む機会を得たのですが、ぶんまおさんは、ご迷惑かもしれないが、ここにボクの分身みたいな人がいるって奇妙な既視感があったのです。
勿論、ぶんまおさんのような教養と知見がないけれど、感覚的に同質的なものを感じてしまった。だから身につまされるところが多かったのでしょう。どうやら、ぶんまおさんは一流大学で宗教・哲学・思想を講じているらしいけれど、編者の東大末木文美士教授とどのような関係にあるのか、部外者が忖度したって仕方がない。目に見えないから「実体がない」とも言い切れないし、生の末木教授に会ったこともないから、ボクの中でぶんまおさんを実体として感じて読んでもいいわけですが、偶々末木文美士著『日本宗教史』を読んでいて、どうしてもリアルな末木さんの実体は揺るがしようがない。
それに引き換え、ぶんまおさんは、何か風通しの良い例えば、ボクもぶんまおさんの分身2って言っても許されるような乗り心地の良さなのです。帯文でこんなことを書いている。
≪ボクは大学の先生。近所の八百屋のおばさんは、ボクのことをいつも「キョウジュ、キョウジュ」と呼ぶ。なんだかエラそう。でもボクは、自分がどう生きたらいいのかわからない。男でもなく女でもなく、右でも左でもない、自殺に惹き込まれ、死者と共に生きたい。――こんな日々の生きにくさ、違和感を、徹底的に考えてみたいんだ。≫
ボクはキョウジュでもなく、自分がどう生きたらいいのかわからないところまで突き詰めるより「少しでも延命を…」と、病院通いをしているがん患者です。
僕のは「がんもどき」ではなく、正真正銘の「がん」であるから、遺伝子情報のコピーが傷ついて本来正常細胞が実体であるのに、宿主と寄生が逆転して、PSAという数値に一喜一憂して、癌細胞が主人公みたいな日々を送っている。
僕のがんちゃんは、性ホルモンを栄養にして大きくなるから、定期的に去勢注射をしてもらい、「男でも女でもない」身体の状態に保つ処方箋が実践されているのです。癌細胞でない僕の正常細胞も右でも左でもないが、そんな状態では、どうせ死ぬんだからと観念としてではなく実感として身につまされているから、自殺について考えていないです。そこがぶんまおさんと一番違うところでしょう。
2巻で、ボクと同じようなことを言う人が出てきたと内田樹の『他者と死者』をぶんまおさんは取り上げてレヴィナスの他者論を死者論と読むことを提案していますが、僕もそうですそうですと頷いてしまいました。
やはりどこか僕と似たところがある。ひょっとして癌化したぶんまおさんが、僕かなぁと勝手に分身想像してしまいました。
本書は末木さんが編者となって、多少ネットのコンテンツを推敲していますが、始まりの「それは舞子さんから始まった」から終わり近くの赤木智弘に言及する「戦争は始まっている」までの10年分がネット保存されているのも不思議と言えば不思議。ユニークな出版指針を持っているトランスビュー社ならではの英断かもしれない。僕は本を読みながら並行でネットの方も読みました。
哲学するのは、あくまで自分で考え考え抜いて思考停止しない営為であって、確かに哲学者は大学にいないかも知れない。実践する宗教者と宗教学、宗教史を講ずる先生とは別物であるように。ぶんまおさんの違和感は、そうでありながら、アカデミックな場に居つづける自己批評をこのブログで行うことで、宿主と寄生(分身)とのバランスを取ったのかもしれない。
ヒトの身体は60兆個の細胞で出来ているが、その細胞は更新している。更新しながら、当然、癌細胞も出現するけれど、単に2分法で「癌細胞排除」ではなく、仲良く付き合いながら、延命する。それがぶんまおさんの言う死者とともに生きることではないか、どのようなヒトであっても誕生の瞬間から正常細胞の中に傷ついた遺伝子を持つ可能性を宿しているのです。
終りある日常

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紙の本

局面を登る冒険家たちの「最善手」

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 インター・ジャンルとは聞き慣れない言葉だと思うが<インター・ナショナル>(国際)とは、例えば、《「私は日本人だから××なのだ」と言うのは逃げでしかない。》そのような思考停止ではなく、海外で生まれ、その地の言葉、文化で人格形成されても、日本人の友達がいなくても、《それでももしとてつもない困難に直面したときの選択が、他の民族と自分が違っていたら、そのとき「自分は日本人なんだなあ」》と思わざる事態になってしまう、事後に立ち現れる、初めて思い当たる。そのようなナショナルの核にあたるものが、羽生の考えている棋風、個性というものだろう。
 単にジャンルを越えてではなく、ジャンルの核を発見して、それが横断的に他のジャンルと繋がるということだろう。
 保坂は羽生を暗喩として、小説家という表層で人生論を語ろうとしているわけでは勿論なく、技術論や消息通ぶったことを書こうとしているわけでもありません。旧版の方でオリオンさんが、レビューで書いていますが、《将棋観戦記で有名な倉橋武二郎の娘が『季節の記憶』や『もうひとつの季節』のモデルとなった人物の奥さんだったり、学生時代の友人が『将棋世界』の編集長だったりすることが保坂和志と将棋の関係を解き明かすヒントなのではなくて、というより、そもそも「保坂和志と将棋」ではなくて「保坂和志と羽生善治」だったのだということがよくわかった。》
 まさにその通りで、保坂は小説家という穴を徹底して堀抜いた作業の末に、一方で羽生は局面の「最善手」を見いだす思考の掘削作業を考え抜いて、その果てに小説家の世界にも繋がったということでしょう。
 そしてそれは又、解説に書いているように茂木健一郎の「名付け得ぬもの」にも繋がるし、他方そのようにジャンルを横断して全体にアクセスしようとする力業が効き過ぎて、旧版刊行時(97年)に将棋界で抹殺に近い扱いを受けたというのは、なんとなくわかる。
 保坂は政治にあまりコミットメントしない姿勢を貫いているが、珍しくも本書ではぽろりと書いている。
《いま日本人が世界に理解されないのも、交渉のはじめに「日本人だから……」と言ってしまうからだろう。すべてを他の国の人と同等の条件でやってみて、それでも「日本人なんだなあ」と思わざるをえないような事態をよその国の人は見たいと思っているのだろう。》
 外交の振る舞い方、小説を書くこと、盤面上の一手、旋盤名人の音を聞き分け、指先での判断などはコンピューターでプログラミングされた情報量よりも多いシーンで鬩ぎ合うわけでしょう。
 小説家は言葉で持って「語り得ぬもの」を書くわけで、「最善手」を考え抜く営為は人間のエレガントな力業でしかなし得ない。
 《人は将棋を指しているのではなくて将棋にさされている。一局の将棋とは、その将棋がある時点から固有に持った運動や法則の実現として存在するものあって、棋士の工夫とはそういった運動や法則を素直に実現させるものでなければならないし、そのような指し方に近い指し方のできたものが勝つはずだ(結論の出ないゲームとはそういう風にできている。運動・法則というのが、人間にとって一番促えがたいものだから)。》
 小説もそのような運動と法則を持って駆動してゆくものでしょう。そこに立ち上がってゆくものがリアリティであり、クオリアであり、コンピュータ将棋の一手先をゆく「人間の将棋」なのでしょう。ジャンルは違っても、彼らは冒険家なのです。
歩行と記憶

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紙の本

紙の本日米交換船

2006/07/03 17:12

「一番病」から「負ける側」にいたかったという転向

8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 1942年6月18日、第一次日米交換船グリックスホルム号、ニューヨーク港からポルトガル領東アフリカ、ロレンソ・マルケスに向けて出航。同年6月25日交換船浅間丸は横浜から、6月29日同じく交換船コンテ・ヴェルデ号、上海からそれぞれロレンソ・マルケスに向け出航。そして7月23日にロレンソ・マルケス港で日米双方の帰還者約1500名が交換されるのです。そして浅間丸とコンテ・ヴェルデ号は8月20日、横浜港に帰着。
 約二ヶ月の長い航路の船中で鶴見俊輔は20歳の成人を迎える。鶴見俊輔の大きな仕事に『共同研究 転向』(平凡社)がありますが、「転向」を書いた動機に日米交換船の記憶があると言う。交換船がニューヨークからロレンソ・マルケスまでと、ロレンソ・マルケスから横浜までとは、同じ乗客の日本人が、がらりと変わったという印象ある、そのことを書いてみたかったという。
 『無思想の発見』の養老孟司なら「世間」が変わったに過ぎない当然の身体反応というかも知れない。しかし、その時から63年も経っているのに日本社会は「世間」というみんながそう思っているであろうあいまいな社会通念を仮構して自明視し、相変わらず融通無碍の「世間」に生きている。
 鶴見さんの鼎談集『戦争が遺したもの』(新曜社)では上野千鶴子、小熊英二が鶴見さんの引き出しから本書に触れる部分を沢山引っ張りだしていましたが、こちらの本と合わせて読むと理解がいっそう深まるかもしれない。
 『日米交換船』の鼎談面子は加藤典洋、黒川創である。500頁近い大作ですが、後半は作家黒川創の「交換船の記録」で一万ページに渡るテキストを渉猟した貴重な記録集になっている。だから、本書は鼎談集と黒川さんの労作との合本集と理解していい。ここに登場する人々は勿論、物故した人々が多い。今年84歳の鶴見さんは乗船客の中で若かったのです。でも子供達もいました。鶴見さんは船中で子供達とよく遊んだらしい。鶴見さんの師でもある同船者、都留重人は今年の2月5日に93歳で物故しました。もう、数ヶ月長生きすれば、本書を手に取ることが出来たのです。鶴見和子さんは元気です。
 本書で特別な章立てとして加藤典洋の『竹久千恵子』、黒川創の『天野芳太郎』、鶴見俊輔の『ハーバート・ノーマン』、『大河内光孝』、鶴見さんの三つの会見記、松村たね、武田清子、鶴見和子があります。
 本書を読み終わって、やはり63年後というのは長すぎる。もっと早く上梓されてもよかったはずだと思いますが、長い時の発酵が必要だったのでしょうか、ぎりぎりに間に合った後生に贈る「これも又戦争なんだ」と国家と個人の生き様を語る貴重な一冊です。20歳を迎えようとしていたハーバード大学生鶴見俊輔はアメリカ政府の役人から「交換船が出ることになった。乗るか、乗らないか」と訊かれて、「乗る」と即答する。
 そうしてその決断はぼんやりとした思想と見通しだが、「負ける時に負ける側にいたい」という鶴見さんらしい美意識なのです。それは鶴見さんにとって「一番病」からの転向だったと言える。
歩行と記憶

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