紙の本
そうなんです
2002/12/13 01:57
10人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:鳥居くろーん - この投稿者のレビュー一覧を見る
時間というものは未来から過去へと一方的に流れる。すぎさった過去へは二度と戻ることができないし、また、いまだ来ぬ未来をあらかじめ見ることもできない。
だが、物理学の世界では、時の流れの一方向性に、なんら必然性がないことが証明されているという。過去も、未来も、そしてもちろん現在も、全てはまやかし、そういうことになる。
時間とは、いったい、なんだろうか。
著者は言う。時間という概念は、二つの全く異なった意味を表している、と。ひとつが、時計を見て計れるような「もの」としての時間。もうひとつが「いま、行くよ」という言葉で使うこの「いま」のように、無意識的に人が使っている「こと」としての時間。
本書では、時間の本質をみきわめるにあたって、この「こと」としての時間とは、いったい何だろうか、という問いにスポットが当てられる。著者は、いくつかの精神病をひきあいに出し、その症状を考察することで、「時間」と、それとは切っても切りはなせない「自己」について考え、より深い理解へと、読者を導いていく。
おもしろかった。
「刹那的ないまが一瞬も止まらずに消え失せるのは時間が進行するからだ、と考えるのは錯覚である。時間が未来から過去へと連続的に流れるというわれわれの体験は、むしろいまの豊かなひろがりが、いまからといままでの両方向への極性をもちながら、われわれのもとにとどまっていることから生まれる」。
「いまから」が過去や現在を侵蝕して、自分自身すら未知の存在になってしまうのが「いつも前夜祭」分裂病。「いままで」が現在や未来を侵蝕して、今現在から未来永劫まで取り返しつかなくなっているのが「いつもあとのまつり」うつ病。未来も過去もすっぽ抜けて現在オンリーになってしまうのが「いつも祝祭日」てんかん・躁病。
三つの狂気。
そして狂気は、あなたの中にも住んでいる。祝祭日とは、限定された「生」がひそかに望む自由、すなわち「死」への開放を意味するものに他ならないからだ。……「死」にとっては過去も未来も意味がない。そして同じことが、死のない「生」にもあてはまる。そこには、永遠の現在があるだけだ。それはもう時間とは言えない。
あなたは「生」をのぞむ? それがたとえ時間のない世界でも?
そうか、そうか。
投稿元:
レビューを見る
大学の先生がテキストに選んだ本です。初めて、哲学的な視点でものを見ることを教わりました。目には見えない時間を、頭の中でイメージすることは難しい…
投稿元:
レビューを見る
時間という現象と、私が私自身であるということは、厳密に一致する。自己や時間を「もの」ではなく「こと」として捉え、西洋的独我論を一気に超えた著者は、時間と個我の同時的誕生を跡付け、更に精神病理学的思索を通じて、普通は健全な均衡のもとに蔽われている時間の根源的諸様態を、狂気の中に見て取る。前夜祭的時間、あとの祭的時間、そして永遠の今に生きる祝祭的時間――「生の源泉としての大いなる死」がここに現前する。
投稿元:
レビューを見る
精神病理学という、精神医学のなかの、あるいはそれを批判する学問分野で有名な人の本。哲学的な人間学的な観点から精神病を分析する。独特の理論がこの本で軽く説明されている。哲学の入門にもいい本だと思う。ハイデッガーが分かるようになるかも。
投稿元:
レビューを見る
こんなにワクワクする本、今まで読んだ事がありませんでした。
この「時間と自己」から読書にハマりました。
また近いうちに読みます。
投稿元:
レビューを見る
木村敏さんの思想に、私としては目新しいことはほとんどなかったが、新書ということもあり、いつもより平易な語り口で、木村敏入門として、よくまとまった本だと思う。
投稿元:
レビューを見る
鬱病者と分裂病者の時間感覚について論じたもの。とてもわかりやすく読みやすい。「鬱病者にとって、自己を規定しているのは役割演技」であるという旨の記述はとても納得できる。
投稿元:
レビューを見る
[ 内容 ]
時間という現象と、私が私自身であるということとは、厳密に一致する。
自己や時間を「もの」ではなく「こと」として捉え、西洋的独我論を一気に超えた著者は、時間と個我の同時的誕生を跡づけ、さらに精神病理学的思索を通じて、ふつうは健全な均衡のもとに蔽われている時間の根源的諸様態を、狂気の中に見てとる。
前夜祭的時間、あとの祭的時間、そして永遠の今に生きる祝祭的時間――「生の源泉としての大いなる死」がここに現前する。
[ 目次 ]
第一部 こととしての時間(1 ものへの問いからことへの問いへ 2 あいだとしての時間)
第二部 時間と精神病理(1 分裂病者の時間 2 鬱病者の時間 3 祝祭の精神病理)
第三部 時間と自己-結びにかえて
あとがき
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
☆☆☆☆☆☆☆ おすすめ度
☆☆☆☆☆☆☆ 文章
☆☆☆☆☆☆☆ ストーリー
☆☆☆☆☆☆☆ メッセージ性
☆☆☆☆☆☆☆ 冒険性
☆☆☆☆☆☆☆ 読後の個人的な満足度
共感度(空振り三振・一部・参った!)
読書の速度(時間がかかった・普通・一気に読んだ)
[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
投稿元:
レビューを見る
もの と こと の関係において、時間を考えることができる。
もの は、時間を考えなければ、そのまま同じ状態である。
こと が起きると、時間とともに変化していく。
自己についても、こと と 時間の関係で描写できるだろう。
ps.
野口 悠紀雄著 「続「超」整理法・時間編―タイム・マネジメントの新技法 」 の参考文献に本書が掲載されている。
投稿元:
レビューを見る
新書なのだけれども、新書レベルの内容ではないという意味で収穫の一冊。
時間考察がメインであり、ハイデガーを手がかりとして、木村独自の「時間論」を展開させてゆく。ハイデガーは、『存在と時間』において、「人間=現存在とは、時間によって定義されうる」といったことを示そうとしたと言われている。要するに、人間という生き物は、「いま」という特定の時間を生きることによって、自己を自己足らしめることができる。もし、いまがなければ、人間とは一つの位置に固着できない不安定な存在となりうる、といったことがここにおいて示される。逆を言えば、時間がうまれたときに人間が生まれた、と言える。そして、人間とはいましか生きれない以上は、過去も未来も、ともに「未来性」を持ちうる、といった見解が示されていると木村は解釈している。
だが、木村からするとこのあたりがいくらか乱暴なのである。まず、人間が人間たるには「いま」が必要である。そのため、まず最初にあるのは、「絶対的ないま」であろう。そこにおいては人間は「個々」としては「未分化」であり、不連続ないまを生きていると言える。この状態は、「祭りの最中(イントラ・フェストゥム」と呼ばれ、これが極端になったものを癲癇、躁うつ病、さらに言えば、癲癇の発作時に見受けられる「アウラ状態=死から現実を見やる快感状態」と言うことになる。そして、ここから「個々」に人間が「分化」する中で、未来と過去という時間が成立することとなる。この未来と過去とは「いまの拡大」によってうまれたものであり、それゆえ未来と過去の根源にあるのは「いま」である。そして、いまより前が過去であり、いまより後が未来となり、その位置は、「個体としての死(≠アウラ状態における死)」によって前後付けられるのである。そして、未来性によって脅かされる場合、つまり、「自己が自己として未来においても一貫し続けている」ことへ不安を抱くことこそが「祭りの前(アンテ・フェストゥム)」であり、それが極端になれば分裂病になる。逆に、過去に対して、既存の過去へと依存することが、「祭りの後(ポスト・フェストゥム)」であり、これが行き過ぎて、過去を「取り返しのつかない、けれど未済」のものとまで捉えてしまうと、うつ病(単極型=うつのみ)になる。ちなみに、うつ病→躁うつ病へとなることがあるが、これは、ポストフェストゥムが根源ということではなくて、原初的状態がイントラフェストゥムである以上、うつ病者も分裂病者も、誰もが、イントゥラフェストゥムを持ちうる、といったことを指し示している。そして、人間が人間である以上、すなわち、個々の人間である以上は、誰もがこの三つの状態を持ちうるのであり、そのバランスが著しく崩れ、何かが極端となったときに分裂病などが発症する、といったことになるのだろう。
ちなみに、「こと」と「もの」という区別はそれではどこに出てくるのかと言えば、われわれ人間における「本質」とは「こと」なのであろう。だが、本質と言う言葉自体が「もの化」されてしまっているように、言葉を使う上で、ことは確実にもの化されてしまう。しかし、反面で言葉以外でわれわれはことを認識しえないのだ。つまり、アウラ状態では、われわれはことを認識できないだろう。しかし、だらかこそ、アウラ状態は純粋なことに近い。われわれがアウラ状態を認識するのは、事後や症例を通してしかありえず、それはもう「もの化」されてしまっている。これは、過去と未来をもつわれわれが「もの」を避けては生きられないことを示しており、しかし、過去と未来をもつからこそ、われわれは個別の人間足りえる、だとすれば、われわれ人間個々は「ものとことのあいだ」を生きていると言えるだろうし、われわれが「未来」と「過去」の「あいだ」の「いま」を生きているとすればやはり、「ものとことのあいだ」にわれわれが位置しているとも言えるだろう。
投稿元:
レビューを見る
上から見下ろした知識がいっぱい詰まっている
その割に面白く読み始められたのは
知識をつなぎ合わせているところに少しだけスリルがあるからだろう
しかしそのスリルもじきに飽きてくる
なぜなら継ぎ接ぎだらけで、全体を包んでいるしなやかな心がないからだろう
「もの」と「こと」を語りながら、話は掻き集めた知識ばかりの「もの」的でしかなく、底が浅い。
下野に降りて語れる勇気と力さえ持っていれば
くたびれずに読めるだろうにと、残念に思う
ともあれ西洋的学問から抜け出せていない古臭さがある
にもかかわらずどことなく一歩踏み出しているような
おもしろさも感じられた
あとがきに至ってこれを最初に読んでいれば
本文を随分と素直に読めただろうと思った
内容としては丸ごと同感であったからこそ
随所で面白さに惹かれていたのだとわかった
わずかなズレが魅力となるかと思えば違和感ともなることを
証明してくれたような本であった
論文というものの固さによる危うさかもしれない
だとしたら読み手がその分しなやかであらねば調和できない
硬さと柔らかさで脈打つことが現象の条件だともいえる
脈打ち損なえばそれまでのことで
リラックスして混沌という羊水に体を委ねて反芻してみよう
投稿元:
レビューを見る
「もの」としての時間と、「こと」としての時間。
われわれは「もの」として意識することでしか、すなわち「もの」化することでしか、「こと」を意識できないのであって、それは時間についても同じである。
カレンダーや時計などの計量される時間が、まさにその代表。
しかし、「もの」としてしか意識できないとしても、「こと」としてある「いま」。
この「いま」について、木村敏は次のようにいっている。
「いまは、未来と過去、いまからといままでとをそれ自身から分泌するような、未来と過去とのあいだなのである」(傍点略)
われわれが未来あるいは過去についてなにかしらを語るとき、われわれはあたかも未来または過去なるものが、あらかじめ未来や過去を起点として存在しているかのような、いわば「分断点」としてそれを意識しがちである。
しかし、そのような過去/未来がまずあって、その「あいだ」に「いま」がはさみ込まれているのではない。
「あいだとしてのいまが、未来と過去を創り出すのである。」
このような「あいだ」という「こと」的な感覚。
平常われわれはこの感覚とともに、未来と過去、いままでとこれからの「あいだ」にある「いま」を、「…から…へ」という移行性のなかで生きている。
ところが、この「こと」としての時間感覚が失われる場合がある。
本書では、そうしたなにかしらの均衡が失われた時間感覚について、精神病と関連づけながら論じられている。
時間感覚から精神病についてみていくことが大変興味深く、その病気について理解が深まるとともに、「自己」と「時間」のつながりが、あるいは「自己」である「時間」、「時間」であるところの「自己」を考えさせられる。
新書のわかりやすさ、手に取りやすさを有しつつも、よくある多くの新書よりもはるかにタメになり、かつ興味深い一冊!
投稿元:
レビューを見る
昔NHKで「私の1冊 日本の100冊」という番組をやっていて、玄侑宗久が挙げていたのが本書であった。それ以来気になっていた1冊だったのだが、ようやく読み終えてやはり名著だなと感じた。
精神医学的アプローチは哲学的アプローチとは違い、実証性が求められる。よって約40年前の本だし、現代医学では否定されている部分もあるのかもしれないし、そもそもこの種の議論に適しているのだろうか?という疑問を持ちながら読み進めていったのだが、観念論に陥る事なく上手い具合に哲学的議論へと昇華しているような印象を受けた(和辻・ハイデガーの影響を受けているせいか、その偏りが多少あるようにも思えたが)。
「時間と自己」に関しては最近の哲学界隈では個別に論じられるようだし、分離説が優勢のように思えるのだが、医学的には統合説になるのだろうし、後者の方が実感的には受け入れられやすく一般的な共感も得られやすいだろうとは思う。最後のまとめの章で言語の問題が出てきたが、ここは流石に医学領域ではないので検証不足に終わってしまったように思えたが、実は時間と自己の大きな問題として横たわっているのかもしれない(それを論じたのがウィトゲンシュタイン?)。
投稿元:
レビューを見る
自己とは時間であり、時間とは自己である。私がいまいるということ。
未来への希求と恐れによる統合失調症、既成過去の役割期待に縛られた鬱病、そして癲癇と躁病の祝祭的な現在。
こんなふうに乱暴にまとめてしまうことからさて勉強の始まりである。
投稿元:
レビューを見る
最高の出来。まさに天才的。時間論をここまで縦断的に、かつ切れ味よく語れたものとは思わなかった。あまり知られていない名著の一つ。