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商品説明
頻発する青少年の野宿者襲撃。彼らはなぜ襲うのか。社会で居場所を失った2つの「ホーム」レス(野宿者/少年・少女)に連帯の道を開くにはどうすればよいか。少年による野宿者への集団暴行から若者の「いま」を鮮烈に捉える。【「TRC MARC」の商品解説】
著者紹介
生田 武志
- 略歴
- 〈生田武志〉1964年千葉市生まれ。同志社大学在学中(数学史専攻)から大阪・釜ケ崎に通い、さまざまな日雇労働者・野宿者支援活動に携わる。野宿者ネットワーク、釜ケ崎・反失業連絡会などに参加。
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紙の本
ルールの過剰な内面化がもたらす暴力ではなく、ルールそのものを見直すこと。
2006/02/12 21:51
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:king - この投稿者のレビュー一覧を見る
野宿者、ホームレスといって、特に興味も関心もない人は、怠け者であるとか、自分で望んでやっているとか、リストラされたりして失業したのはそうなる理由があるからだ、という先入観を抱いていることがある。しかし、野宿者とは根本的に「失業問題」であり最悪の形での「貧困問題」であると著者は指摘する。野宿者になる最も多い理由は失業であり、多くの野宿者は仕事をしたいと思っているという。しかし、さまざまな社会的制度的障壁がそれを阻んでいる。
病気、リストラなどで失業し、収入がたたれ、家賃も払えなくなる時、人は野宿者になる。しかし、一端野宿者になってしまうと、住所がないために職安や生活保護からも門前払いを受け、保険もないので病気の治療もできず、一日十時間以上はたらいても千円にもならないような空き缶、段ボール拾いなどの低賃金日雇い労働に従事せざるを得なくなる。野宿者のほとんどは五十代の男性で、どこか体を悪くしている人だという。そこから定職を見つけるのは至難の業である。
そして最終的に野宿者を待っているのは冬期の路上での凍死である。大阪市内だけでも年に二百人以上の野宿者が死んでいるという。
しかし、この本が提起する問題はそれだけではない。近年、そもそも少年犯罪は減少傾向にあり、さらに日本の若者は世界でもっとも人を殺さないという指摘がある。そんななか、路上で生活している野宿者たちにいやがらせをしたり集団で暴行を加え死に至らしめたり、ガソリンで火をつけたりするという事件がいくつも起きているが、その犯人はほとんどの場合十代二十代の少年たちであるという。
世界でもっとも人を殺さない日本の少年たちは野宿者を襲撃している、というのだ。この事実はいったい何を意味するのか? 前置きが長かったがむしろそれが本書の本題である。
野宿者を襲撃する子供たちをはじめ、集団で暴力行動に走る子供たちには一連の共通性があるという。「家庭」「学校」「友人関係」のなかで全く自分に自信が持てず、仲間はずれを恐れて過剰に仲間に同調したり、親からの叱責や過剰な期待によるストレスなどが圧力要因として指摘できるという。いじめなどに見られるように、それがつねに弱者を生み出し、過酷な勝ち負けゲームへの過剰適応がもたらされる。
「いじめ、そして野宿者襲撃は、他者への攻撃による「生の実感」=「自己の存在確認」と、攻撃での一体的な「連帯」=「仲間関係への過剰適応」が対となって働く行為だと言えるだろう」
つまり、襲撃に走る子供たちには、家があっても自分たちが安心して帰属できる居場所(ホーム)がない。野宿者たちもまた「日本社会の中で居場所がない」のである。野宿者襲撃とは、そんな両者が最悪の形で出会ってしまった例だった。
しかし、両者が連帯できる可能性があるはずだと著者は言う。90年、釜ヶ崎での警察官の暴力団との癒着が報道され、日々署員に痛めつけられていた労働者たちが起こした暴動に突如混ざりだした少年たちがいた。それに参加した子供たちは警察に虐げられる労働者を見て、自分もまた家や学校でさらされる自分と重ね合わせ、「自分の問題だと思った」ようなのだ。
抑圧され、居場所がない人々が、さらなる弱者を見いだして暴力をふるうのではなく、上から押しつけてくるものに対する抵抗において、一瞬の「共闘」が立ち現れた。著者はその現場を見て、いま高校生などを対象に野宿者についての授業などを行っているという。授業後の反応や野宿者支援の活動に興味を持つ生徒たちの感想から、著者は、上記のような過酷な勝ち負けゲームではない、別のルールを構築していく可能性を見る。
「壁の中」から
紙の本
ホーム(居場所)のない若者たちと野宿者
2006/02/09 12:27
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:栗山光司 - この投稿者のレビュー一覧を見る
作者は現在高校で、野宿者問題の授業をしている。HPは情報がつまっており本書を読む前に粗読して置くと理解が深まると思う。丁度、読書中にカンヌで大賞をもらった『ある子供』を見ました。主人公達の間に赤ん坊が生まれるのですが、若者には自分の子どもだという実感がない。ブリュノは子どもを売ってしまう。ソニアは気を失う。恋人のあまりの深い傷にブリュノは過ちに気付いてゆく。その変わってゆく姿を静かに映像化してラストで希望を見させてくれるのです。
釜ケ崎で活動する生田の作品に登場する若者達はブリュノではないかと思いました。生田はホームレスという言葉をなるべく使わないで「野宿者」という言葉を使っている。墨田区で若者達に襲撃されて殺された小茂出さんは地域と交流があって殺害現場での追悼会で近所の人が「ホームレスではなかった、ここがホームだった」と言ったとのこと。
ここで言うホームは居場所なのでしょう。寄る辺のない若者達はハウス(家)があってもホーム(居場所)がない、小茂出さんにはハウスがなくともホームがあったということなんでしょう。
生田はイエスの「善きサマリア人の譬え」で言う「隣人愛」について語る。
≪「国家・会社・家族」の相互連携によって総中流社会を実現した日本社会は、従来、「隣人」の概念を(イエスが激しく批判したユダヤ教のように)共同体の中に解消することで存続してきた。しかし、「他者とは何か」という問いは、最もラディカルな場合、共同体ではない「社会」とは何かという問いの形を取る。社会は、必ずしも「国家・家族・学校・会社」の共同体の形をとらないからだ。事実、特に1990年代以降、日本社会はそれまで見なくてすませてきた外部に「ホームレスが隣人になる」という形で直面するようになった。そのとき、日本社会の「原理」の限界、言いかえればポスト冷戦期の「普遍」的問題を通して「社会と自己との関係」づけの新たなかたちが問われるのである。(中略)そして、これは宮台真司の言う「公的なものの暴力的な具体」としての「天皇」ではなく、むしろ共同体への批判である「隣人愛」の一般化としての「普遍」である。したがって、それは「資本・国家・家族」を離れて、例えば遠い他国の人、次世代の人々、あるいは「敵」として現れる人々への関係としてわれわれの前に現れる。/「隣接性」は、「善きサマリア人の譬え」で語られるように、従来の共同体に「運命をはらんだ葛藤」をもたらす。しかもこの「葛藤」は、「共同体の中断」によって「普遍性の最初の投影」をもたらすだろう。そして、「瞬間によってはじめて歴史がはじまる」ように、そのとき「隣接においてはじめて社会がはじまる」はずなのである。(p168)≫
「瞬間」、「隣接」概念は少しわかりにくいかもしれませんが、本書で確認してもらうとして要はこちらからサマリア人のように具体的にアクションを起こすことでしか、隣人は現れないということでしょう。生田が書くように襲撃を行うのが若者だとしても野宿者問題に激しい反応を示し、サマリア人のように「その人を見て、はらわたをつき動かされ、近よって」来るのも若者なのだ。『ある子供』のブリュノにとって「その人」はソニアであったし、そして、ソニアは又、ブリュノを「その人」として気付く。そこに希望の萌芽があるのだし、本書にも人って変わるんだ、世界も変わるんだという人を動かす駆動力がある。
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