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カテゴリに困った。文化論というか組織論でもあるしリーダーシップ論、ビジネス書として読む人も多いでしょうね。
西岡さんの「木に学べ」を読み終わった直後に書店で目にし、すぐ手が伸びてしまった。これも聞き書きなので、語り口が「木に学べ」にそっくり。ただ、人の育て方、統率の仕方が主軸になっているかな。
人を信じ、どんどん任せろ、自分でなんでもやろうとするな、ということかな。難しいのだよね、それが。
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口伝木は方位のまま使え木の癖は工人の心組み百工あれば百年あり、これ一つに統ぶる。これ匠長の器量なり。
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弟子を育てる宮大工棟梁の思想。
『結局は誰も教えてはくれない。
自分で自分を育てると言うこと。
その環境と機会を与えるというのが、人育ての方法やないか』
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この本を読んで、「本から得た知識」と「体験から得た知識」は全く別物だと教わりました。人との関係から学ぶことの大切さを感じました。
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数少ない現在の徒弟制?大工の棟梁の経験談。対局のメーカに勤める者として、色々考えるところあり。木材そのものを国内調達できないこと、それに対しどう考え、行動すると良いか、という話に驚き、感嘆。他の技術系職人の話(西堀氏、岡野氏・・・)と一味違う視点を得られた。
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棟梁として40年やってきた人の弟子の育て方について。
責任が人が育てる。修業期間は10年をめどに独立する。そうすると下の世代に責任感が出て成長する。
道具とけがと弁当は自分持ちの世界。
機械化すると失われる技術がある。
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2008年に出版された本。の、文庫版です。
神社仏閣の建築補修を手掛ける、宮大工さんというお仕事。
西岡常一さんって言う方が、なんとなく有名な気がするのですが、
この本はその西岡常一さんの、恐らくは一番弟子さんだったんであろう、小川三夫さんという人が、まあ語り下ろした本です。
小川三夫さんという方は、1947年のお生まれで、どうやら未だご健在のようです。
60年代から宮大工として西岡さん門下で働いて、やがて独立というか自分で一家を構えて、
若い希望者の方々と、合宿生活的な育成システムと表裏一体の寺社建築会社「鵤(いかるが)工舎」を設立。
数多くの育成も手掛けている人だそうです。
本の内容は、小川さんの、簡単な自伝。
そして、お仕事上の意見とか、まあ、仕事論、人生論、教育論ですね。
で、まあ、面白いところはいっぱいあったんです。
お寺や神社を、ぼーっと見に行くの、好きなので。
なんですけど、この手のものの宿命で、
「俺は人生とは仕事とは育成とは人間とは、~~~~だと思う」
みたいな箇所は、まったく面白くありません(笑)。
まあ、ほとんどは、それなりに成功した人の自慢話(笑)。
「俺って変わってるからさ」「俺って馬鹿だからさ」みたいに言いながら、必ず「だけどもね」という接続詞があって、結局は自慢話(笑)。
飲み屋で聞かれてもいないのに語りたがる上司の自慢話を聞いているようなものです。
まあ、ほとんど「俺はこうしたもんね」という自賛に過ぎなくて、論にせよ語り口にせよ、なーんにも面白くありません。
なんですけど。
こういう本の特徴で、そういうところはツマラナくっても、
「で、例えば、××寺の修復のときにこういうことがあってね」
とか、
「俺の宮大工のグループでは、こういうしきたりでこういう序列があってね」
とか、
「宮大工として一人前になるっていう技術的条件はね」
とか。
そういう具体例はところは、「へ~~~」って面白いんですね。
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備忘録的に覚えていることを、そこはかとなく書き付けますと。
●ミクロン単位の削りをできるようになるための、刃物道具をとにかく、研ぐ。その研鑽が基本。
うーん、こりゃすごい。もちろん、コンクリートでビル作るようなときは不要な技術なんでしょうね。
それが凄い。
●「直角」「直線」「並行」「垂直」と言ったコトについての、峻厳さ。
「市販の三角定規、あんなのは、ほとんど100%、ホントの直角じゃないんだ。必ず買ったモノは、自分で測って調整してからしか使わない」
「初対面の相手含めて、大工同士で協業する場合に、はじめに"定規合せ"(じゃなかったけど、そんなような言葉)を、する。つまり、尺度となる道具がずれていたら、オオゴトだから」
●薬師寺とか、歴史的建造物の大きな柱が、デジタルに言うと、微妙に垂直じゃないらしい。ところがそれは、建物の安定のため���、わざとそうしてあるらしい。
●建物を作るときに、木材は「山単位」で買って使う方が良い。
●更に、「北に生えている木は、建物の北に使う」とかの方が良いらしい。
●更に、歪んている木や曲がっている木は、特徴を活かせばかえって強い建物が出来るらしい。なんだけど、今はそういう木材がない。機械に入らない木材は作らない、伐採しなくなってしまっているらしい。
●80年代90年代00年代でも、やっぱり「宮大工」「量より質の、100年単位、1000年単位の木造建築」にあこがれて、やってくる若者たちがいる。そしてその修業の仕組み。
まずは研ぎ、そして料理雑用から始まって…10年単位。うーん、すごいなあ。
一歩間違うと、戸塚ヨットスクールなんだけど(笑)。でも、「余所で大工をやったことのある人が、どうしても、と入門する」という話を聞くと、なんとなく、そうなんだあ、と思う。
やっぱり大工、建築、という現場の人にとって、やっぱり寺社建築木造ってロマンがあるんだろうなあって。
まあ、観るだけの僕も、やっぱり寺社建物見るのって好きですからねえ。
●「コンクリートの基礎なんて、却って危ない。木造でちゃんとする方が良い」という論があるのだけど、「だってコンクリートの基礎なんて、もっても100年とか200年だ」とおっしゃってるところが、凄い。
100年持てば良いのでは?とマンションなんかで言うと思っちゃうんだけど、まあ、そこは寺社を手掛けている人ですから。
「1000年単位で考える」っていうのが、いじましい我々の生活感覚からすると、壮大愉快、思わずクスリとしてしまいました。うん、素敵。
●木造建築、寺社建築。師匠の西岡さんは、法隆寺の宮大工さんだったそうですね。
西岡さんのお父さんは、息子さんを、一人前の宮大工の棟梁にするために、どうしたかというと、農業大学に行かせたそうです。
「結局は、木が判らないと、だめだ。そのためには、土が判らないと、だめだ」
という発想だそうです。すごいなあ。
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そんなこんなで。
それなりに面白かったです。読み易くて、あっという間の一日で読み終わっちゃいました。
で、小川三夫さんの語り口ですが。
まあ、無論のこと、大工さんの棟梁の、成功者の口伝ですから。前記の通りの印象もあるんですが。
でも、結構、謙虚というか客観的だったり、実際的だったりして、好感も持てました。
●父親は銀行員。いわゆる団塊の世代。それが高校生のとき、法隆寺を見て、「こういうの作りたいと思った」。というお話とか。
●結局は仕事、現場の数があったから、グループとして成長できた、という実際的な部分。
●自分の会社、グループが、育成教育機関でもあるけれど、「そりゃ、人件費の安い、やる気のある労働力がないと、赤字が出るからさ」という、物凄い実際論。
つまり、一人前のオッサンの大工を10人使うと、金がかかる。だから、「宮大工やりたいっす」という弟子的な若者を共同生活させて、修業させながら使ってる。
●そして、そのシステムのために、ある程度まで成長した人は、卒業させるというシステム。これも、精神論より先に、「そうじゃないと会社がもたない」という実際論。
●何度も仰ってる、「俺は教える専門家じゃないから。修業したい人は修業できる、自分で学べる状況を作ってやるだけ」。それは、なるほどなあ、と。
(で、一方で、矛盾するような教育論も、おっしゃってるんですけどねー(笑))
でも、いちばん思ったのは、
日本の寺社建築=木造建築=木という特質、みたいなところにやっぱりなるんだなあ、と。
確かに、見物に行って、理屈抜きで、「ああ、よかったなあ」と思う寺社が、
コンクリだったりプレハブだったりすることは、ないですからねえ。
そういう意味では、小川三夫さんのお師匠さんの西岡常一さんが、そういう本、いろいろと出されているそうなんですね。
小川さんとしては、そういう、お師匠さんの本も、自分の本をきっかけで、もっと読まれたらなあ、という思いもあるようです。
ほんと、次は西岡さんの、そういう本、木と寺社建築についてみたいな本を、読んでみたいなあ、と思いました。
■
教育論?人材育成論?的なところで、似ているなあ、と思ったのは、内田樹さんの本ですね。
結局、小川三夫さんのおっしゃってることの、是々非々はともかくとして。
とにかく、短時間では成功だの失敗だのって言えない。長い時間が経過しないと、成功か失敗かなんか、判らない。
そういう類の仕事をしていらっしゃる。
そういう類の仕事人を育てようと、学んでもらおうとしている。
だからまあ、その道を歩いて生きてきて、偶然か必然か、ある種の特殊例外少数技術者になって。ほぼオンリーワンで。
という中で、仕事して生きている人って、強いよなあって思いましたね。
だって、その人の仕事は、5年や10年では判断できない。ある部分信用するしかない。
で、それは小川さんも百も承知。だから、技術をおろそかにできない、良い物作りたいっていう、オタク心が、情熱がある(んだろうなあ)。
それ自体は、当たり前ですけど「俺は株で1億儲けた!」みたいな話よりは、オモシロイ。
■
いっつも、ちょっと思うのは。
仏教、と日本神道。
一応、というか、宗教としては、別物のはずなんですけどね(笑)。なんていうか、西欧中東、大陸的な、教義ロジック、ドグマ、主義、みたいな考え方で言うと。
なんだけど、「寺社建築」っていう言葉からしてもう、ぐっちゃになってる(笑)。
もうこの辺、結局、島国の大らかさ?というか、適当さ、というか。
「ま、どっちにしても、モトはともかく、俺たちニッポン村の、なんとなく尊い精神権威的な機能っていう意味では同じだからサ」
という感じの(笑)。
オモシロイですよねえ。
さすがに、「寺社教会建築」とか言わないものねえ。
そういうこと、もっと考えるのも愉しいのですけどね。
■
実は、この本、もう3年くらい前に書店で衝動買いした本だったんです。
ずーっとなんとなく読まずに、本棚にあって。
でも、「あ、これちょっと面白そうだし、薄いから、読みたいんだよなあ」と。ずーっと思ってたので。売らずに手元に置いてて。
な���となく、ふらっと先日手に取って、読んじゃいました。
買いだめておくのも、良いことあるんですよね。
こういうの、目につくところに売ってることは、そんなにしょっちゅうはないですからねえ。
■
こういう本を、何かしらか「組織学」とか「経営」とか「人材育成」、と言った、
ある種の実用というか、自己啓発というか、そういう役に立つ本、という味わい方もあるんだろうなあ、と。
実際、そういうニュアンスで売られている気もします。
売り方はともあれ、こちらは、本と出会えれば良いので、有難いことなんです。
しかし、そういう手合いの読み方っていうのが、いつも疑問に思うんです。
というのは、
「それは成功した人が言っている結果論に過ぎない。一般的な実用性はない。もし、あるんだったら、絶対他人に漏らさないもん」
「結局そういう成功者がいちばんしないのは、そういう本を、ためになる本だと思って読むようなコトなのではないかしらん」
「成功者として語るコトは、絶対気持ちいい訳だから、正直に失敗や汚点を言うはずがない。だって、僕なら絶対言わないもの。
だから、結局こういう本は、事実真実の一部でしかありえない。もっとハッキリ言うと、嘘が絶対に入っているはず。
だから、大事なことは、読み物として、オモシロイかどうか、でしかないのでは?」
と、言うような疑問を素朴思ってしまいます。
しかし、そういう疑問を超えて、何かしらか自己啓発的な本の読み方、そういう読書の愉しみっていうのも、あるんだろうなあ、とは思うんです。
それはそれで、興味はあるんですよね。
「自己啓発な読書の愉しみ」というような論考を、丸谷才一さんあたりがしてくれたら面白そうなんですが。それこそ、読み物として…。
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宮大工で有名な鵤工舎の棟梁のお話しです。
人を育てる方法は自分なりに経験を積めるように、上が身を引きながら下を育てることに気を使っているな、と感じました。
寺社の修復はそうそう数がないので、下手すると数年待ちになったりするとか。その上で気をつけていることも幾つか。
・新人に食事や掃除をさせるのには理由がある。
「掃除をさせたらその人の仕事に向かう姿勢、性格がわかる」
「飯を作らせたらその人の段取りの良さ、思いやりがわかる」からや。
・こっち側から一生懸命相手を見てるけども、逆に弟子から見られるようになったらだめだ。弟子に「親方はこういう人だ」なんて言われるようになったらだめだ。何考えてるかわかんねえ、なんていうぐれえでねえとあかんのやわ。
・どんな仕事でもそうや。自分が惨めになるような考えに持って行ったらあかん。苦しい中にも楽しいことを、見つけ出すことや。
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棟梁である著者の口伝を纏めたもの。そもそもの『現場』数が少ない宮大工。『育てる』よりも『育つ』環境をまず揃える。 『叱られる』事で気付く。『あの時は』と思い出して褒める。『任せる』とは立場で人を育てる為に、責任を追う事。 ほか、特異な職種ではあるが、普遍的気付きが多い。著者の親方、西岡さんの本も読んでみよう。
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法隆寺最後の宮大工・故西岡常一の唯一の内弟子である小川三夫が、いかにして技を伝え、いかにして人を育てるかを、飾らずに語っている。
小川氏は、21歳で西岡氏に入門し、その後、法隆寺三重塔、薬師寺西塔、薬師寺金堂の再建で副棟梁を務め、30歳で徒弟制度による寺社建築会社を作り、以後30年間共同生活によって弟子を育て、2007年に60歳で引退した。この聞き書きは、その引退直後に行われたものである。
「重しを外さないと下は伸びない」
「やれるかどうかなんて考えることは必要ねえんだ。どうやったらできるかを考え、やりながら次を見通すんだ」
「一つのことに打ち込んでおれば、人間は磨かれる」
「ほんとうを覚えるのには時間がかかる。時間はかかるが一旦身についたら、体が今度は嘘を嫌う。嘘を嫌う体を作ることや。それは刃物研ぎが一番よくわかる」
「単純は強いわ。人も建物も図面も、単純できれいに無駄のないものじゃなくちゃだめだな」
「その人が完成してから任せたらだめなんだよ。未熟なうちに任せなくちゃだめなんだ。できないということをわかっていて親方は任せて・・・そして任せたら余計なことを聞いたらあかん。・・・黙って、機を見て「できたか」って聞けばいい」
「法隆寺なんかは、不揃いの部材でできているということや。それでも千三百年持ってるんだ。もしかしたら、それだから千三百年持ってるのかもしれん」
「棟梁は人の癖を見抜き、木組みをするように人にも働いてもらわねばならんということやな。大きな建物になれば、一人ではできない。大勢の力がいる。大勢集まれば癖のあるやつが大勢いる。それを上手に使ってやらねばならんぞというんやな」等
小川氏が「言葉では教えられない」というものを伝えるために、心に留めてきた思いの数々が心に響く。
(2012年4月了)
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修行はただただ浸りきることが大事。
任せるのが遅いと人は腐るが、任せるのが早いと
人は潰れる。
普段触れない大工の棟梁による生の話。人は木同様、一つとして同じものはなく、言葉で育てるのではなく、生活を共にすることで息が合ってくるもの。偶々だが、この本の前に、木村剛さんの本を読んで、この2冊の共通点、学校は育成の弊害になる事もある、金のためだけに働くんじゃない、という言葉を見つけ、強化された感がある。素直さが必要。自信があるかないかではなく、任されたらやる、それで工夫をして乗り切るしかないし、そういう奴じゃないと育たない。学校卒はやる前に、自分の感情に合わせて理屈を組み立てる。つまり、自信がないなら、やらない理由を。
人のせいにして、自分が正しいと思い込もうとしても無駄。自分を騙しているだけ。目的のために、そこにいる事を思い出せ。
やっとわかった。
力強い言葉が並んで、本著は、いわゆる自己啓発本なのだが、喋る人が違う。本を作る目的が、金儲けが先かどうかで、熱の伝わり方が違う。それと、自己啓発本は当たり前の事ばかり書いている。この事は、その通り。だが、自己啓発本とはそもそも、心の処方箋みたいなもので、まいってる時に読むものではないか。当たり前の事で躓いている時。そんな時、一歩前に進ませてくれる言葉は、理屈で理解するとか、知らない知識で納得させるとか、そういうのとは違う。当たり前の事を気付かせ、ハッとさせる事が重要だ。自殺しようとする人を踏み留まらせるのも一緒。理屈ではない。だから、書いている事は当たり前の事でいいいんだ。
こういう発見もまた、私にとっては修行である。
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法隆寺最後の宮大工故西岡常一氏に師事した著者が、若手職人を育てながら全国の寺社仏閣の補修や新築との両立をいかに成し遂げて来たかを語ります。著者の育て方はいわゆる徒弟制度。昭和世代の私には心に響く言葉が満載でした。いくつか抜粋します。
「新人に食事や掃除をさせるのには理由がある。
『掃除をさせたらその人の仕事に向かう姿勢、性格がわかる。飯を作らせたらその人の段取りの良さ、思いやりがわかる』」、「任せるのが早いと人は潰れるが、遅いと人は腐る」、「何も言わない叱り方もある。叱られたかどうかは本人が感じること」、「刃物を研ぐのはセンスを磨くこと」など他にも本書の全編にわたって共感できる言葉が満載です。
しかし最も驚いたのは、文化財の維持に際して最も深刻な問題は技術伝承ではなく、日本の森林資源の枯渇だという事です。大規模な寺社仏閣の「心柱」に使えるような幹の太い良質のヒノキがもはや国内ではほとんど存在せず、カナダのヒバなどを使わざるを得ない状況で、木の種類が変われば、そこに用いられる技術も変化せざるを得ず、日本の文化材維持のためにも森林資源の保全が必要との著者の発言は、長らく文化財の再建に携わってきた著者ならではの視点だと感じます。
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◆時間との闘い◆
法隆寺が建立されたのは1300年前。日本が誇る数々の木造建築は宮大工という特別な技術をもつ人たちで造られ補修されてきた。徒弟制度という独特の環境の中で、技を伝え、人を育てる。木は同じものがなく、それぞれの癖を活かして建物を造る。
現代は学校でも職場でも効率の良さを求め同じ型にはめようとするが、「千年の」という時間と闘うには、じっくり確実に取り組む必要がある。人間を作るのも同様ではないかと著者は言う。
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教育関係者や経営者は、ぜひ一度読むべき本。
“ 学校では先生が教科書を使い、黒板を駆使して教えてくれます。
子供達は教わることが当たり前だと思っています。
教わればわかると思っています。
教わらないことは知らなくて当然だと思っています。
学校は一年が経てば進級し、三年経てば卒業します。学校には期限があります。
(中略)
進級するには最低、決められた点数を取ればいいのです。
その点数を取るためには近道があり、早道があり、要領があります。
学校ばかりでなく、塾も予備校も、家庭教師も、それを教えてくれます。
このすべてが技や感覚を師匠から受け継ぐための障害になるのです。”
実は並行して『人生は勉強より「世渡り力」だ!』(岡野雅行:著)を読んでいたのだが、岡野さんと小川さんの言うことはかなり違う。
一口に「ものづくり」と言っても、建物と機械では、受注体制、相手先、生産体制など違う面がずいぶんあると思うが、それにもましてこの二人の性格の違いによるのではないかと思った。もちろんどっちが正解だとかいうことではなくて。
そして、さらに興味深いのは、これだけ性格の違う二人が期せずして同じことを言っている部分もあったことだ。
以下、感銘を受けた文の抜き書き。ただし一部のみ。本当は、この本全体を書き写したいぐらい。
“「育てる」と「育つ」は違う。
「育てる」というのは大変な仕事や。
導き方によっては、どこへ行ってしまうかわからんぞ。人の人生がかかってるんや。無責任にはできないわ。(中略)
しかし、「育つ」となれば話は別や。
育つための環境と機会を用意してやればいいわけだ。学びたい者は来て、その中で自分でやっていけばいい。時間はかかるし、近道も早道もないけども、自然に育っていくやろ。”
“ 職人の修行は学校じゃねえから、八十点取れば合格ということはないんだ。人のお金で仕事をするんだから、自分の力を出し切って百点でなければならんのだよ。”
“ 今のような複雑な道具を使う人は、その道具ができる範囲でしかものを考えねえと思うんだ。
そんだから、道具は複雑じゃなくて単純な方がいいんだ。”
“ できる最高のことをする。それが基本や。
自分で枠を決めてしまったら、そこまでのことで満足してしまうやろ。それじゃあ、修行にならん。一歩でも前に行かなあ。”
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今、「木の家」を普請してもらっている。
先日に「竹木舞」がようやく終わって、
今週から、「壁塗り」が始まっている。
棟梁もまだ50代という若さだけれど
そこに集まってくださっている頭領たちも
40代の若い人たちである
普請の合間に
鑿、掛矢、玄翁、鉋、鋸…
「木組み」の話、「道具」の話をさせてもらうのが
なによりの楽しみでもある
今も「手業」を持ち続け
精進し続けておられる職人さんたちが
ちゃんとおられることが
ほんとうに うれしい
見学に来てくれる人たちと
話していると
必ず塩野米松さんの本の話が
当然のことながら 出てくる
それも またうれしい