紙の本
人間の本質
2017/10/10 07:53
6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ニッキー - この投稿者のレビュー一覧を見る
プリーモ・レーヴィは、ホロコーストサバイバーである。彼は、アウシュヴィッツでの体験を書いている。本書もその一冊である。比較的平和な社会に生きる私たちにとって、その体験は衝撃である。しかし、彼の体験記は単なる体験記ではない。もちろん、単なる体験でも衝撃をもって読まれるだろう。彼は、人間とは何かという本質から体験を見ている。ナチスの人間とは何だろう、収容所のユダヤ人はどのような人間だろうかと、問いかけながら、自分の体験を話している。それは、現代にも通じる問でもある。
紙の本
ひどすぎる
2017/12/21 21:06
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:飛行白秋男 - この投稿者のレビュー一覧を見る
収容所
よくぞ生還され、記録を残されました。
人間への対応ではない。
残酷すぎる。
抑えに抑えたタッチが余計に恐ろしさを感じます。
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打ち負かされるのは一番簡単なことだ。与えられる命令をすべて実行し、配給だけ食べ、収容所の規則、労働規律を守るだけでいい。経験の示すところでは、こすうると良い場合でも3か月以上はもたない。ガス室行きの回教徒はみな同じ歴史を持っている。いや、もっと正確に言えば、歴史がないのだ。川が海にそそぐように彼らは坂を下まで自然に転げ落ちる。収容所に入ってくると、生まれつき無能なためか、運が悪かったか、あるいは何かつまらない自己のためか、彼らは適応できる前に打ち負かされてしまう。彼らあは即座に叩きのめされてしまうので、ドイツ語を学んだり、規則や禁制の地獄のようなもつれ合いに糸口を見つけたりすることもできないうちに、すでに体はダメになり、何をもってしても選別や衰弱しから救い出せなくなっている。彼らの生は短いが、その数は限りない。彼らこそが溺れるもの、回教徒であり、収容所の中核だ。名もない
非人間の塊で、次々に更新されるが、中身はいつも同じで、ただ黙々と行進し、働く。心の聖なるひらめきはもう消えていて、本当に苦しむには心が空っぽすぎる。彼らを生じゃと呼ぶのはためられる。彼らの死を死と呼ぶのもためられる。死を理解するにはあまりにも疲れきっていて、死を目の前にしても恐れることがないからだ。
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1919年にトリーノに生まれた作者は44年2月アウシュビッツ強制収容所に抑留。45年1月ソ連軍に解放され、同年10月イタリア帰還。
実話。
ナチ統治下のドイツ地図があり主要収容所および抹殺収容所の場所が点在していてその数の多さに驚かされる。
ユダヤ系のイタリア国民だというだけで生きる権利を奪われる。
人でなく物として、いくつあるか数えられる。
何百人も軍用列車で運ばれて、たまたま列車の片側に降りたものが収容所に入り、残りはガス室行きになった。
ここでは、収容所の中での暮らしが事細かに書かれている。私たちの常識のような規範で生きていたらすぐ命はなくなる。
こういうことがあった歴史を知ると、いまがどんなものでもありがたくなった。
あんまり、本を誰かに勧めたりはしないけどこれは読んでほしい。と思った。
それにしても、よく生き延びたな。
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アウシュヴィッツ強制収容所から生還した著者が解放後すぐに執筆に取りかかり出版した収容所の記録。淡々とした筆致はそこで起こったことを、それ以上でも以下でもなく、怒りが荒ぶることもなく克明に後に残している。あの場所を生きた人にしか書けない本だった。
読むのがとても困難だった。次々いろんな人たちが入れ替わり立ちかわり出てくるけど、人の出入りが激しいのはきっとみんなそれぞれ途中で死んでってるからなんだろうなと思うし、ダッハウやマウトハウゼン、ザクセンハウゼンを訪れたときのあの突き抜けるような快晴の、空っぽの空気が蘇ってきて。
これが人間かと聞かれたら、人間ではないと思う。ズルをするとか抜け駆けするとか、それをいちいち咎めてたらこの人たちは死んでる。生き延びるにはなにも考えないこと、とレーヴィは語る。自尊心や希望は人を殺す、から、体を壊さないように人格の方を先に自ら壊してしまう。
一度でも自尊心を完膚なきまでにボコボコにされた人はその経験にはできるだけ蓋をしたい、語りたくない、わたしは同じ体験なんてできないけど、きっとなにも語りたくない惨めだから。だけどこの人はただ語るのだという強い思いでこの本を残してくれた。すごい勇気だと思うし、大事にされるべき本。
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プリーモ・レーヴィ(1919~1987年)は、ユダヤ系イタリア人の化学者・作家。
レーヴィは、トリノに生まれ、第二次世界大戦中、ナチスに対するレジスタンス活動を行ったが、1943年12月にイタリア・アルプスの山中で捕らえられ、アウシュヴィッツ収容所に送られた。1945年1月にアウシュヴィッツが解放され、1947年に『これが人間か』 を発表して注目される。1987年、自宅アパートの3階(日本式の4階)の階段の手すりを乗り越え、階下に飛び降りて死亡した。
本作品は、アウシュヴィッツ収容所からの生還者が、自らの壮絶な体験を描いた記録として、オーストリアの精神科医V・フランクルの『夜と霧』(1946年)と並んで有名なもので、34ヶ国で翻訳され(2017年時点)、仏高級紙ル・モンドの「20世紀の100冊」(1999年)、英高級紙デイリー・テレグラフの「110冊の必読書」(2008年)にも選ばれている。
また、本作品は、1947年に初版、1958年に第二版、1973年に学生版が発表されたが、現在世界中で広く読まれているのは第二版である。本書は、1980年に学生版を底本に刊行された日本語訳『アウシュヴィッツは終わらない』の改訂完全版であるが、学生版のみにある「若い読者に答える」と地図をそのまま収録し、かつ、今回、学生版ゆえに省かれていた部分を加えたものとなっている。
本書において中心的なテーマとして提示されているのは、「人間の内面の破壊」である。飢えと強制労働と(冬は)寒さいう極限状態の中で、人間はいかに変化するのか、特に、その内面がいかにして破壊されるのか、そしてそうされた人間はどうなるのか、という問題が提示されているのだ。ナチスの強制収容所に関してまず第一に語られるのは、膨大な数のユダヤ人をガス室で殺戮したという残虐行為である。その一方で、僅かな食糧で過酷な労働をさせられ、肉体も精神も破壊されて、(解放まで生き残った人びと以外は)消耗して死んでいった多数の人びとがいる。後者は、ある意味では、前者の瞬間的な死よりも更に惨い死ともいえるが、本書は、その過程を詳細に描いているのである。
次のような記述がある。
「カー・ベー(診療所)とはラーゲルから肉体的不自由を除いたものなのだ。それゆえ、まだ意識の核を失っていないものは、ここでまた意識を取り戻す。つまり、労働のない日々が長々と続くと、飢えや労働以外のことが話題になり、何とみじめな状態にいることか、どれだけものが奪われたか、この生活は何とひどいことか、などと考えてしまうのだ。カー・ベーで束の間の平安を味わって、私たちははっきりと学ぶことができた。人の人格は崩れやすい。特にここでは、命よりもずっとあやうい状態にさらされている、と。」
「彼らこそが溺れるもの・・・名もない、非人間のかたまりで、次々に更新されるが、中身はいつも同じで、ただ黙々と行進し、働く。心の中の聖なる閃きはもう消えていて、本当に苦しむには心がからっぽすぎる。彼らを生者と呼ぶのはためらわれる。彼らの死を死と呼ぶのもためらわれる。死を理解するにはあまりにも疲れきっていて、死を目の前にしても恐れることがないからだ。」
「私たちは古参の囚人になっていた。私たち���知恵は、「分ろうとしないこと」、未来のことを考えないこと、いつ、どのように終わりが来るか考えて、身をさいなまないこと、質問をしないこと、されないことだった。」 等
レーヴィは、本作品を通して『これが人間か』と問い続けたのだが、更に、自分は、ガス室送りになる人間が選ばれる際に、取り違えの結果生き残った、自分は他人に取って代わって生きている、と死ぬまで思い続けたのだ。。。(遺書は残っておらず、自死か否かはいまだにわからないという)
人間として絶対に忘れてはならないことが書かれた、全人類必読の書の一つと思う。
(2020年5月了)
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強制収容所での体験談を読むのはこれが初めてだと思う。一人の体験談として読んでやっと実感が湧いてきたというか、移送の段階を含めて収容されていた人たちが何を思っていたのかとかが今までは自分の想像力を超えていた。
2011年にアウシュビッツ・ビルケナウ収容所を見てきたけど、あそこからは数キロ離れたところに入れられていた。というかあのアウシュビッツの収容所が管理していた収容所群というのがいっぱいあったとまず驚かされるのが最初に出てくる地図。
それから人々が内面を破壊されていく過程。木靴や縦縞の服。囚人のヒエラルキー。食事。選別。いろんなことがぶっ飛んでいる。人類史の中で出てきたユダヤ人の絶滅という政策というか事象というか、あれは一体なんだったんだろう。いまだによく理解できていない。
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タイトルの「これが人間か」が疑問の投げかけなのか、納得の言葉なのか。
アウシュヴィッツ生還者(こういう表現が適切か不明だが)のレーヴィが感情を極力抑えて、一種の記録資料として後世のために書いた作品。思い出すだけで血が凍るという表現が文中にあるように、彼がどれだけの苦しみを味わいながら本書を完成させたのか、想像は到底できない。
最後にある若者からの質問への回答に、彼の人間性がよく伺える。
必読書。
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強制収容所は、狂気を前提とした社会。人格、命が簡単に壊されてしまう。平和というものが、また、死者を悼むということが、人間が「人間らしく」生きていくために必要なのだな。
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人間から名前、名誉、尊厳、希望、顔(表情)を奪い去るナチ統治下の強制収容所(ラーゲル)に抑留され、ソ連軍の解放で母国イタリアに帰還したユダヤ人化学者の体験証言です。〝労働は自由をもたらす〟と掲げたラーゲルの門をくぐった著者は、無言の労働と行進、罵りと殴打を浴びる毎日、飢えと寒さと病いに耐えるだけの、人間の魂の抜け殻が蠢く収容所を奇跡的に生き残ったのでした。本書はファシズム、ナチズムの罪禍をとおして、政治体制に煽動されたホロコ-ストを繰り返す危機感への大いなる警鐘となる魂の叫びです。
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ここ数年の世界情勢の変化のなかで、全体主義がわたしのテーマの一つとなっていて、全体主義を考えるときの基本文献の一つともいえるのがプリーモ・レーヴィの「これが人間か」。
読む必要は感じつつも、アウシュビッツの記録を読むのはつらい。数年前に頑張って、フランクルの「夜と霧」を読んだのだが、なかなかそれ以上に読み続けるのはしんどい感じがしていたのだが、ジュディス・バトラーのユダヤとイスラエル問題について論じた「分かれ道」でレーヴィについての言及があって、やっぱ読む必要があるのかな〜と思い購入。
が、なかなか読み始めることができなかったのだが、ついに読んでみた。
内容について、なにか書くことは難しい。私的には、「夜と霧」以上のインパクトであった。
つらい話しであるが、こういうことが現実に起きたのだということは、やはり知っておくべきな義務、責任だな。
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著者が強制収容所から生還した経験を書いたノンフィクション。過酷すぎる飢えや労働、伝染病の蔓延する劣悪な環境で、名前もアイデンティティも奪われ、人間が人間で無くなっていく様子がよくわかる。強制収容所は世界中にあれど、ナチスが他と違うのは抹殺を目的にしたところだそう。ひとつの民族を根絶やしにするなんて愚かな考えだが、殺す側も殺される側ももはや人間ではなかった。ただの昔話でなく、地続きな現代においても必読書だと思いました。
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アウシュビッツを生き延び、イタリアに帰還した後、自らの体験を書き留めた著者による主著。
完全版として翻訳された本書は、読む者の魂を揺さぶるに違いないです。
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追体験をしてしまった。だから読んでいて苦しかった。だからなかなか読み進めなく、読了まで時間がかかった。もし自分なら、気が狂って暴れて射殺されるか、高圧電線に自ら飛び込んでいたか......生きていたくない、絶対に。しかし、現在でも絶滅収容所とまではいかなくとも、独裁国家では人権を無視した収容については枚挙に暇がない。日本だって入管では外国人に対して人権を無視した扱いが行われている。憲法を変えられてしまったら、国民に対しても牙が向けられるのは自明な気がする。まずは選挙で戦わなくては!
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アウシュヴィッツは終らないの 改訂完全版ということですが
その本は読んだ事がありませんが
アウシュヴィッツから 生還した 著者が書いた本というので 読んでみました。
ラーゲルと いう 言葉を 見ると
シベリア抑留についての内容を思い出しましたが
かなり似ています。
劣悪な状況の中 著者はどうして 生きて出られたのか。
収容所の中では 誰もが 非人間的になると 書かれていました。
勿論 収容されてる人に 体罰などを加える人達は
非人間的ですが 収容されてる人達も 非人間的になると。
非人間的というと 悪者というイメージですが
収容されて 希望もなくなり 飢えと寒さなどに 襲われていき人らしい 心を失っていく。
この冬一番の寒さと言われる日でも
私達には 暖かい食事や 服があります。
だから 収容されていた 人達がどれほど過酷だったかは想像するしかできませんが
生きるか死ぬかの 境目は 収容所の中では
予測不能です。
著者は 最後伝染病になり 多くの仲間が移動していくけど 置いていかれた から 寒い中死なないでいられた。
つらかったでしょうけど
こうして 何があったかを 記録に残してくれて
良かったです。
さらっと 読んでしまいましたが
また ジックリ再読したい本の一つになりました。