紙の本
一流のインタビュアー
2015/11/18 16:04
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:テラちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
引退を発表した直後の藤圭子さんにインタビュー。関係者への迷惑を考えてお蔵入りになっていた著作だが、藤さんが亡くなったため、また周囲の人たちも大部分が他界したことから出版されたという。決して、売ることが目的の発売ではないと思う。それほどに優れたインタビューだと受け止めたからだ。一流の書き手は、一流のインタビュアーでもあると認識させられた。当然とはいえ、取材力がなければ、ノンフィクションにしろ、小説にしろ、秀作を門雄することはできないのだから。本書は、実際には無口ではなく、イメージ作りのために寡黙な少女を演じていた藤さんの心境など、興味惹かれるエピソードが満載である。
投稿元:
レビューを見る
こういうものが封印されていたことが後書どおりとするなら、もう沢木耕太郎らしい色気と矜恃で眩暈がする。
藤圭子、28歳の芸能界引退前のインタビュー。
沢木自身も認める、二人の会話が連なる野心的な作品だった。でもそれは方法に囚われた自己満足だったのではないか、そして内容が藤圭子の今後の復帰を足を引っ張るのではないか、という気持ちから封印したという。
今年、藤圭子が自死し、宇多田ヒカルに煌めく28歳の藤圭子に触れさせたいということから刊行したという。そこにはやはり、沢木耕太郎の色気と矜恃があるが、やはり今、このタイミングでというところの批判は出るんだろうなあ。
ただありがたくも、私も知ることが出来た。煌めく28歳の藤圭子は、かなり魅力的な女性であった。あまりにも魅力的で、こんなに夢中に本を読んだのも久しぶりだった。
冒頭、「深夜特急」の後日談のような、日本に帰る間際、パリで沢木と藤圭子はすれ違っていたことに驚く。
二度、流星ひとつ落ちた。
晩年、藤圭子は海外を飛び回っていた。沢木のスペインの話が影響していたんじゃないかな。と、考えたりする。
投稿元:
レビューを見る
読み始めると止まらなくなった。
久々に若い頃の沢木耕太郎に会った、という感じがする。
それもそのはず、本編の文章は、30年以上前、沢木耕太郎が31歳の時に完成したまま事情により眠っていたものである。
『流星ひとつ』というタイトルは、確かに「いささか感傷的にすぎる」とも言える。しかし、藤圭子が自らこの世から去ってしまった今となっては、これ以外のタイトルはどれもふさわしくないだろう。
読んでいてまず気づくのは、彼女が「言葉」を持っている人だということ。
自分や、自分をとりまく状況、自分の心情など語る、適切な言葉を持っている。
そして歌や音楽に対しても、言葉を持って分析し考えていた人だな、ということ。ただ感覚のまま歌っていたのでなく、かなり考えていたのだな、と。意外という印象を受けるほどに。
彼女について何度も「豪儀」「男らしい」という言葉が出てくるが、短調でどろどろと重苦しい彼女の歌の曲調とは対称的に、真っ直ぐで潔い彼女の眼差しが浮かび上がってくる。
4章の中で、沢木はかなり彼女を問いつめる。たたみ掛けるように問いかけていく。もちろん意地悪な質問で苦しめているのではなく、彼女から真情を引き出していく。丁々発止とも、鬼気迫るとも、真剣勝負とも言える、そのシーンの緊迫に、読みながら寒気を感じるほどだった。
このインタヴューが「テロルの決算」から「一瞬の夏」の間にあったと知ると、なるほどと思う。ノンフィクションの方法を模索し、時に無鉄砲と言ってもいいようなエネルギーをまだねじ伏せ切ってはいない頃。会話だけで綴られているせいもあるだろうが、そこには熟慮よりも反射神経のようなものによって浮き上がってくる、逃れられない時代の片鱗があり、2人の若者の肖像がある。
かたや18歳でデヴューし、普通の人が覗けない高みを見、10年間の疾走のあと引退しようとしている歌手。彼女にとって、28歳はもう若いとは言えない。かたや書き出したのち迷ったり旅に出たり模索し続けるライターにとって、31歳はまだ駆け出しのひよっこの延長で、発展の途上にある。
しかしながら、彼女がこの世からいなくなった今となってこれを読むと、彼女のその後に流れた30年以上の歳月の重さがのしかかってくる。
誰にも等しく時は流れ、誰もがその重さに喘ぐには違いないのに、彼女の人生の閉じ方はあまりにも潔すぎて、気の毒とか可哀想とかの同情の念を拒絶しているようでもある。
なんと決然とした星だったことか。
投稿元:
レビューを見る
後記から読みました。自分がその場にいた、自分がインタヴューしていた、そんな錯覚にとらわれる文句無しの秀作。
20160925再読。SONGSの宇多田ヒカルを見てまた読んでみた。切ない。
投稿元:
レビューを見る
ブログに感想書きました。
http://blog.livedoor.jp/victoria007/archives/33150470.html
投稿元:
レビューを見る
沢木耕太郎は、引退を前にした藤圭子にインタビューをしていた。1979年の秋、東京のバーで交わされた二人の会話は305ページに及ぶ。
火酒(ウォッカ)のせいか、藤圭子は聞き手の沢木に信頼を寄せ、次第にそれは好感へと変わり、心を開いて思いの丈を語っている。引退を決意したのは、1974年に行った喉の手術により、それまで出ていた声が出せなくなったためだと明かしている。自らの生い立ちや、両親のこと、芸能界の裏話など、内容は多岐にわたり、沢木の切り込みにも、時にはうまい比喩も交えながら切り返していて楽しめる。
しかし、何故か読後に感動がやってこない。沢木が採用した純粋な「インタビュー」という形式(地の文はなく、二人の会話だけからなっている)が、読む者に、二人の会話を盗み聞きしたように感じさせるからなのかもしれない。沢木が藤圭子を口説いているように感じられる場面もある。
しかし、一番の要因は、やはり、藤圭子が歌うことに喜びを感じられなくなっていることから来ている。自分で自分を追い詰める性格なのだろうか。語っているのは、あの輝いていた藤圭子ではもはやなく、安部純子でしかない。1969年に彗星のごとく現れた藤圭子は、1974年の喉の手術によりひとつの流星となって、すでにこの世から消えていたのだった。
やはり、藤圭子の魅力は、身体の芯から絞り出すような、あのドスの利いた掠れた歌声にしかない。デビューから手術までの5年の間のLPを改めて聴いてみた。藤圭子のベストアルバムは『歌いつがれて25年 藤圭子 演歌を歌う』であることを確認できた。戦後の演歌を渋谷公会堂で歌った1970年のライブ録音である。
30年以上もお蔵入りになっていたこの著書は、藤圭子の娘宇多田ヒカルに読んでもらいたいという思いもあって出版に至ったと後記にはある。私は宇多田ヒカルに、『歌いつがれて25年 藤圭子 演歌を歌う』もぜひ聴いてもらいたいと願わずにはいられない。「あなたのお母さんは、デビュー当時、こんなに光り輝く声で、歌を歌っていたのだよ」と。
投稿元:
レビューを見る
大阪へ向かう機内で読了(117/100)
宇多田ヒカル母としての知識しかなかったけど、 大人な男女二人(年下だけど、、)の二人の息づかいが聞こえてくるかの様な臨場感。
その場にいる様だ、、、。
投稿元:
レビューを見る
上梓されたのは知っていたが、藤圭子のことをよく知っている訳でもないので、読まないかな、と思っていた。が、書評でみて、すぐ取り寄せて読むことに。沢木耕太郎の実験的な作で、戸書きなしで会話だけで記されていること、インタビューを行った時期が、深夜特急の旅から帰り、執筆される間に書かれていること(この時期の作は熱いものが多い)、深夜特急の旅の書かれていないその後のことがちょっと出てくること、そんなことを知ったら読まざる負えない。実際、藤圭子を知らなくてもその人柄がよく出ていて、昨今の報道とは違う視点であり、読ませる力がこの作品にはある。あとがきにも書いてあるが、宇多田ヒカルに読ませたい。
投稿元:
レビューを見る
出してはならない一冊だった。同時に今こそ出されなければならない一冊だ。ノンフィクション文学の大家が30年前に書き上げてしまっていた彼の集大成である。
藤圭子が引退したのは30年以上前だから、とおの昔に「死んだも同然」の流行歌手だ。死んだはずの彼女は、皮肉な形で二度「生き返った」。最初は、娘の宇多田ヒカルがデビューを果たしあっという間にトップシンガーになってしまった時だ。戦後最大の思想家である吉本隆明が流行作家になってしまった娘にちなんで「ばななパパ」と呼ばれてしまった哀しい現実と相通じているが、娘が並外れた歌唱力で一世を風靡したとき、「彼女の母親は藤圭子という演歌歌手で、さらに祖母は浪花節士」だったみたいに娘の経歴紹介の中で一瞬だけ生き返った。けれども、日本人形のような美貌に似つかわぬ低いドスのきいた声で「新宿の女」や「圭子の夢は夜ひらく」を謳い、昭和世代に忘れられない姿を刻みつけた藤圭子の実相が真摯に語られることは無かった。無責任なゴシップ報道はあったかも知れないが、本人の口から心情が語られたことも、まともな書き手がきちんと後づけた伝記も存在しなかった。演歌ではなく「怨」歌だと揶揄された彼女の生き様を、真に知るものはいなかった。「怨」の仮面に隠された素顔を知らぬまま、私たちは彼女を死んだも同然の存在として忘れ去っていた。
私は沢木さんの作品を30年以上にわたり読み続けている。だが、結局のところ80年に『テロルの決算』の最終ページのエピソードを読み終えた瞬間の全身に鳥肌がたったあの感動を越える作品はなかった。『テロルの決算』の翌々年にかかれた『一瞬の夏』は、前作で沢木さんが確立した「私ルポルタージュ」というべき手法の期待されるべき第二作だった。それまでの客観を装い、無にしようとしても出来ようはずのないおのれを無にして対象を書くというルポの常道を突き破り、自らが積極的に対象に関わっていきその過程を書くという手法は斬新であった。しかし、『一瞬の夏』で、中心人物のボクサーがダウンして敗れた「一瞬」に、書き手の沢木さん自身がリングに飛び乗っているかのように「私」が対象に入り込みすぎている姿に私は落胆した。おそらくは、書き手自身も「私ルポルタージュ」の手法の限界を強く意識したのであろう、本書『流れ星ひとつ』の後記のなかで「当時の私は、日夜、ノンフィクションの『方法』について考えつづけていた」と吐露しているし、その後一作ごとに「方法」の試行錯誤を続けたとも書いている。
30年の間に幾つかの試行作、あるいは錯誤作を読んだ。
『檀』は、小説の体裁をとってはいるものの檀一雄の生涯を彼の未亡人へのインタビューを元に構成したもので、この無頼派作家の生き様がこの一冊をきっかけに私の中のどこかにかっちりと位置づけられた気がする。しかし、もしこれが檀という著名人の人生でなかったら、物語として成立しえただろうか。また、これってルポなの小説なの、こういう方法は「あり」なの。読み手の私同様、書き手の沢木さんも迷っていたのだろう。
『無名』は、市井の文字通り無名の人だった父親の人生を息子の沢木さんが後づけた秀作だ。だが、この一冊が作品とし��成り立っているのは親父は無名であっても書き手が有名な作家であるからに他ならない。
『凍』は、客観性を装いおのれを殺して書くオーソドックスなルポの手法で書かれていた。それなりに感銘を受けた。だが、沢木耕太郎がこれを書く意義があるのか。当然彼自身がそう思っていたのではなかろうか。
結局、出世作だった35年前の『テロルの決算』を越える作品は、「ない」と断言してしまいたい乱暴な気持ちになってしまう。
後記によると、この『流れ星ひとつ』は『テロルの決算』と『一瞬の夏』との間に書かれている。本来のタイトルは単に『インタビュー』とすべき、問いの台詞と応えの台詞だけで構成するという極めて斬新な手法である。単なる問いと応えの羅列の中で、「怨」という仮面を被ったイメージでだけ捉えられ、スキャンダルにまみれ、数限りない誤解にだけ包まれて世の中から姿を消した一人の女性の実像がありありと、手に取るように伝わる。だからこの一冊が世に出た今藤圭子は見事に生き返ったといえる。
そしてまた、「精神を病んで自殺した昔の有名人」というひとくくりの説明だけで再び葬られようとしている一人の人間の真実を、今こそあえて世に問うた書き手の英断に、私は35年ぶりの鳥肌をたてた。「私」をも対象をも丸裸にし世にさらしてしまうリスクは、私小説同様の限界である。30年以上本作が封印されていた理由もそこにある。
だがこれは間違いなく、この書き手の最高傑作にして、もう二度と書かれることのない「私ルポルタージュ」の金字塔である。
投稿元:
レビューを見る
一人の人間の魅力を本人の口から自然と引き出すのが本当のインタビューであって、聞き手の言わせたいことを言わせるように誘導するのはインタビューでもなんでもない。
インタビューの対象者を尊敬し、尊厳を傷つけないよう大事に大事に扱い、反論すべき時は反論し、引くべきところではスッと引く。
このインタビューのやり取りの会話だけで構成された野心的な本は、そんな本物のインタビューをその傍らで聴けるという、ものすごく贅沢でスリリングな一冊。
「藤圭子の本当」を描いた本が、藤圭子の自殺というショッキングな出来事があったからこそ出版できたというやり切れない思いを感じつつも、世に出たことに感謝をしたいようなこの本。
いつか、この本を読んだ、母と同じように危うさを孕んだ声の持ち主である宇多田ヒカルにインタビューをして欲しい。
投稿元:
レビューを見る
2013/10/31-11/2
なんともの悲しい話だろう。
30年以上封印していた「インタビュウ」から藤圭子が蘇る。まるでその場に同席しているかの臨場感、情感が伝わってくる。
編集後記自体もこの作品の一部だ。
投稿元:
レビューを見る
生々しい。。さすがは沢木さん。
痛々しい、でも綺麗だなと思った。
28歳、、私、なに考えてたかな。。
投稿元:
レビューを見る
純粋だからこその極端、極端だからこその光芒、光芒を強烈にはなつからこその消滅。まさに藤圭子という星が引退という手段で天上から大気圏に突入し流星となった夜の記録です。70年代の少年だった自分には、少年マガジンに連載されていた「巨人の星」で主人公の飛雄馬がキックの沢村忠、演歌の藤圭子とともにスター千一夜に出るというくだりがあって(まさに、梶原一騎的!)強烈に覚えているのですが、奇しくもその三人が一瞬の輝きで消えていくキャスティングであることに高度経済成長直後の擾乱を感じます。その後、宇多田ヒカルというスターを生みますが、今度は自死という形で流星のように地上に激突。まさに「流星ひとり」。著者が題名を「インタヴュー」から変更したことは、自らが発案した地の文のないインタヴューという手法より、インタヴューした客体に魅入られたというラブレターなのかもしれません。ホテルニューオータニ、ウオッカ・トニック、引退するポップスター、新進気鋭のノンフィクション作家、そして、グラスの杯毎に章立てられる構成、ノンフィクションというより恋愛小説。スペインのマラガのワインの話なんかしたら、絶対、女の子、沢木さんのこと好きになっちゃうよ。ズルいよ、沢木耕太郎。それを、わかっていたからこそ封印したこの作品を死後、出版するのもズルい気もする。でも亡くなった後、病気文脈で語られる藤圭子像に、ちょっと待った!言いたくなったのかも…
投稿元:
レビューを見る
インタヴューの会話が交互に続くのだけれど、藤圭子の語る部分だけが浮き上がってきて、まるで声が聞こえてくるように感じられた。純粋な人なのだなぁと思った。
投稿元:
レビューを見る
沢木さんのような剛柔併せ持った類まれな聞き手が、歌手として生きてきた藤圭子さんを手繰り寄せるようにしていくうちに、ありのままの女性・竹山純子さんとの対面を果たした作品といえるだろう。
そして30年前に新たな試みである構成すべてにト書のみのインタビュー形式なので、その場の情景は、火酒(ウォッカトニック)や夜景、インタビュー中に入り込んできたテーブルの上の虫を通じたものであって、二人の語り口や「…」の間のみを通じて歌手藤圭子を伝えていく。
言いたいことはたくさんあるのだけど、ありふれた言葉であるように思うので後ほどの宿題としたい。
藤圭子さんが自らの命を絶った後、娘の宇多田ヒカルさんが「彼女(彼女)はとても長い間、精神の病に苦しめられていました。」という事を沢木さんはショックを受け、その前の瑞々しく輝いている人間・藤圭子さんを知ってもらいたいと、このインタビューを発表したという。その思いは読んでいただければ、誰もが胸を打つものだと実感するものです。
読んでよかった作品の一つ。