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投稿者:monsieurbutter - この投稿者のレビュー一覧を見る
今までナアナアで済ませ、勘だのみの最たるものだった教育に対して、経済学的視点からブンセを試みるもの。一つ一つは浅いかもしれないが、積み重ねてナレッジを研磨していく意気込みが感じられる。
紙の本
今までにない切り口・視点で、教育を論じており、購入して読むだけの価値ある一冊!オススメです…
2003/05/11 12:42
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投稿者:@雄太郎 - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者も、経済学の視点から教育をとらえると問題となる部分もあるが、と断ったうえで、論を展開していますが、この切り口からの書物がなかったので、非常に興味をもって読みました。
かなり前半の部分で、「教育には強制力が伴う」という箇所があり、その中で、
〜厳密にいえば、憲法が国民に義務付けているのは、義務教育を「受けさせる」ことであって、「受ける」ことではない。教育を「受ける」ことと「受けさせる」こととは、実は大きく異なるのだが、ここではその問題に深入りせず、ともかく教育には強制力が伴っている点に注目しておこう。〜
、とあります。この中で、他の研究者の論文からの引用で、生徒が教師に注意され、「てめ〜に、そんなことを言われる筋合いはない!」という投げかけに、否、生徒は消費の主権者でなく、税の流れを考えれば生徒を注意する筋合いはあり。教師にも何のために税が投入され、誰のための教育かという問いに答えられなければならない。とあり、このあたりの流れを経済学からの視点をふまえ、押さえていく展開がこの本の真骨頂だと思います。
重ねて、著者は「経済学の視点から…」と断っていますので、別の側面から考えると異論のあるヒトもいると思いますが、このような視点からのロジック・展開は、面白いと思いました。
また、後の章で、これも興味深いのは、「教育は投資か消費か」という章です。大雑把にいうと、「子供に投資する」っていいまわしをしますが、これって投資なのかという点です。これは、私のこの数行だけで論じられませんので、興味があれば、読んでみると面白いと思います。実際のところ、投資者(親)に対するリターンなんて意外とないんじゃないでしょうか。経済学的な投資と消費の定義に添いつつ論が展開されていますが、経済学的に考えるのと、身に接する教育とは、その意味とか考え方が異なるので、目からウロコでした。
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知り合いの名前が載っている。自分も引用されるような専門家になりたい気もする。とかく感情論に訴えがちな教育を異学問の視点から論じたもの。
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経済学という視点で教育を論じた本。経済学をかじった人ならば、偏見なしにとても面白く読めるの。しかし、いきなり限界収益やら限界費用といった概念を登場させるのはいかがかと思う。多分、こういった概念の分からない教育者なんかが神聖な教育の現場に損得勘定の学問が口出しするななんぞと言ってくるんだろうなー。と心配してしまう。教育は消費か投資かと論ずる章では、それは定義次第なんだからきちんと定義してから論じなよ。っと突っ込みたくもなるけれども各論非常に面白い。大変参考になりました。
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小塩隆士の教育を経済学で考えるという意欲作。経済学はお金を扱うが、それは、それが効用を表すには、それが一番表しやすいかからである。教育は、崇高な理念も必要だろうが、他愛ない動機で人々は社会的選択し、動くものであるという、ことが前提にあるから経済学も成立余地があるのであだろうと思う。小塩は、経済学に対する偏見ついても、あるのが当然であるとする姿勢から、様々に考えている。教育は不確実なものであるという小塩自身の前提が示すように、悪戯な「経済学的」分析に終始しているわけではない。経済学部であれば、当然のモデルである新古典派成長理論モデルによる、教育と経済成長の関係の説明、また内政成長理論からの教育と経済成長の関係の説明が、それぞれされいるが、これが、経済学についての素人には、とても新鮮だった。前者では、教育は格差を広げるほどのものではないと結論され、後者では、教育は格差を格段と広げる成長路線となるという結論に至る。
ともあれ、教育をその範囲内で考えるにはあまりの複雑な辞退に入り込む。単純なモデルで踏まえてみるのも、興味深い結論となるということを、読者に促すものになっているように思う。
また教育バウチャーについて、小塩は、否定的である。おおよそ、経済学者は、バウチャーに賛成だろうと思っていたのだが、それが見事に覆されたと同時に、学問としての経済学の中に異論があって当然なのだろうという幅を教えてくれたのも大きな収穫だろうか。以下はその引用になる。
「以下の叙述は、バウチヤー制度に関する代表的な分析例である。エップル=ロマノ論文からヒントを得たものである。
いま、世の中には次の四つのタイプの子どもがいるとしよう。
タイプ?‥頭の出来がよく、親の所得も高い
タイプ?‥頭の出来はよいが、親の所得は低い
タイプ?‥頭の出来は悪いが、親の所得は高い
タイプ?‥頭の出来が悪く、親の所得も低い
あまりに露骨な想定なので、生理的に受け付けない読者もいらっしゃるだろうが、問題の所在を明確にするためなのでしばらく辛抱していただきたい。ついでに、もう一つきわどい想定を置いてみる。すなわち、公立校は授業料が無料であり、頭の出来に関係なく誰でも入学できるが、私立校は授業料が必要であり、親の所得が高くなければ入学できないが、入学試験があるので頭の出来がよい子どもだけが入学できるとする(裏口入学はないものとする)したがって、バウチャー制度が導入される前は、
公立校に通う子ども‥タイプ?、タイプ?、タイプ?
私立校に通う子ビも‥タイプ?
という組み合わせになっている公立校に通う三人の教育費用は、四人の親が税金で支払っている。
公立校に通う一人当たりの教育費用が年間一〇〇万円だとすると、親が支払う税金は、公立校の教育費用総額三〇〇万円を四人で割ることにより、一人当たり七五万円になる。政府はこの教育費負担を変更しないという条件の下で、バウチャー制度導入の是非を検討しているとする。ただし、話を簡単にするために、所得に応じてバウチャーの額を調整するといった仕組みは考えず、金額は一律であるとする。
一方、消費者の効用は、?授業料を支払った後の所得水準と、?その学校の教育成果という二つの要因で決定されると仮定してみよう。公立校も私立校も教える先生の素質には違いはないが、私立校は頭の出来がよい子どもしか適わないので、良好なピア・グループ効果(第4章参照)の発揮が期待できる。右に示したような通学パターンだと、公立校の場合、頭の出来の悪いタイプ?、タイプ?の子どもは、頭の出来のよいタイプ?の子どものよい影響を受けている。しかし、タイプ?の子どもは、あまりありがたいとは思っていないかもしれない。
バウチヤー制度導入で変わる通学パターン
それでは、ここにバウチャー制度を導入してみよう。ただし、公立校に通う場合は、これまでどおり授業料が全額免除になる。そして、公立校に通う学生の教育費用もこれまで同様、社会全体で面倒をみるとしよう。したがって、バウチャーを受け取って実際にそれが意味を持つようになるのは、私立校に通って授業料を減免される場合に限定される。
まず、バウチャー制度導入が通学パターンを変えることができるかどうかを考えてみよう。タイプ?の子どもは、もともと頭の出来もよく、親の所得も高いから、バウチャー制度の有無に関係なく、私立校に通う。タイプ?とタイプ?の子どもは頭の出来が悪いので、バウチャー制度が導入されても私立校の入学試験に合格できず、公立校に通い続ける。
タイプ?の子供はどうか。彼は、これまで親の所得が低かったために、頭の出来はよいのに私立校に入学できなかった。
バウチャー導入によって、彼は私立校に通えるようになるだろうか。二つのケースが考えられる。
第一は、バウチャーの額が低くて、彼はこれまで同様、公立校に通うしかないという場合である。このとき、公立校は、バウチャー制度導入前から通学している三人をそのまま抱えることになり政府に総額三〇〇万円の予算を要求する。したがって、政府にはバウチヤーを人々に配布するための資金がなくなり、制度そのものが運営できなくなる。
第二のケースは、タイプ?の子どもが私立校に通う場合である。このとき、公立校にはタイプ?とタイプ?の子どもしか通わなくなり、公立校の教育費用総額は二人分の二〇〇万円で済むことになる。したがって政府は、親たちから受け取った税金三〇〇万円のうち、その二〇〇万円を差し引いた残りの一〇〇万円をバウチャーのための資金として利用することができる。この第二のケースの場合、私立校に通うのはタイプ?とタイプ?の二人の子どもだから、彼らに手渡すバウチャーは一校当たり五〇万円になる。もちろん、タイプ?とタイプ?にも同じ額面のバウチヤーが配付されるが、彼らはこれまで同様、授業料を必要としない公立校に通うだけなので、そのバウチャーの価値は実質的にゼロになってしまう。
一様でないパワチヤー制度の導入効果
さて、このように考えてくると、バウチャー制度そのものの効果はそれほどたいしたものではないことがわかる。バウチャー制度は、タイプ?の子どもの行動を変化させただけだからである。しかし、さらに詳しく見てみると、バウチャー制度の効果は不公平な形で働いていることにも気づく。
?授業料を支払った後の所得水準と、?その学校の教育成果という、効用を決定す���二つの点に注目してそれを確認しよう (親が教育のために支払う税金は変化していないことに注意)。
まず、タイプ?の子どもについてはどうか。彼は、額面五〇万円のバウチャーを学校(私立校)に提出することによって、それだけの授業料が減免されることになるから、導入前よりハッピーになる。新しくタイプ?が入学してくるが、彼も頭の出来がいいので二人で勉強を競い合うという良好なピア・グループ効果が発揮される。
タイプ?の子どもも、バウチャー制度導入によってハッピーになる。彼の効用に対しては、互いに反対方向の力が働いている。まず、バウチャーを利用できるとしても私立校に通うには授業料を支払う必要があるので、授業料が無料だったこれまでに比べると、所得面では不利になっている。
しかし、私立校に通うようになると、ピア・グループ効果がプラスに働く。後者の効果が前者の効果を上回るからこそ彼は私立校に通うようになったのであり、彼の効用がバウチャー制度導入によって上昇したことは事後的に見れば明らかである。
一方、タイプ?とタイプ?の子どもはどうか。所得面では何の変化もない。親の納める税金はいままでと同じだし、授業料も無料のままだからである。しかし、いままで一緒に勉強していた、頭の出来のよかったタイプ?の子どもが私立校に移るわけだから、残された彼らから見るとピア・グループ効果がその分だけマイナスの方向に働くことになる。バウチャー制度導入後の学校を見ても、私立校は頭の出来のよい子どもだけを集め、公立校は出来の悪い子どもだけを集めるという、奇妙な役割分担ができあがってしまう。
以上の結果を要約しょう。ここで設定したような単純な、そして不愉快なモデルを前提とする限り、バウチャー制度は頭の出来のよい子どもに有利に働き、出来の悪い子どもには不利に働くというバイアスを持っている。さらに、頭のよい子どもの中で、親の所得が高い子どもほどそのメリットが大きくなるという可能性も否定できない。バウチャー制度は、すべての子どもたちを一様にハッピーにするわけではないのである。
もちろん、バウチャー制度を提唱する経済学者は、教育サービスの供給側である学校どうしがバウチャー収入を競って効率性を高めるという面に注目している。その効果は、ここでは一切分析されていない。したがって筆者は、バウチャー制度に対するお前の評価にはバイアスがかかっているぞという批判を甘んじて受け入れる。しかし、バウチャー制度の効果が、教育の需要側である消費者に対して一様には発揮されないという点は十分考慮しておくべきだと考える。まして、頭の出来・不出来は将来の所得格差に影響する。頭の出来のよい子どもに有利に働くという仕組みは、効率性の観点からすると是認されるが、公平性の観点からすると問題がないとはいえない。
3 選択の自由と拡大する格差
学校選択の自由は何をもたらすか
バウチャー制度導入の効果を議論する場合、学校選択の自由がもたらす効果が重要なポイントとなる。しかし、バウチャー制度を導入しなくても、学校選択の自由を認めることは簡単である。そのためこれまでの議論は、学校選択の自由という側面をあまり意識しないで、バウチャー制度導入の効果を考えてき���。そこで今度は、学校選択の自由そのものがもたらす効果について考えてみよう。ここでも結論を先に述べれば、バウチャー制度と同様に、その効果は人々に一様に働くわけではない。
最近では、義務教育の段階でも子どもの通う学校を選択できる地域が一部に出てきた。義務教育ではない高校段階でも、これまで住む地域によって厳密な学区制を敷き、学校選択を大きく制限してきた自治体が、消費者の選択を認める傾向を強めている。これによって学校間の競争が活発になり、学校にも個性が出てくるという効果が一応期待されているが、実際にはどうか。
教育行政サイドではさまざまな理想や目的があろうが、親の立場からすれば、「どの学校に通わせれば受験に有利か」、「有名校の合格率が高い学校はどこか」という基準、あるいは「学級崩壊やいじめがないのはどの学校か」、「ガラの悪い子どもが通う学校は避けたい」という基準で学校を選ぶことになる。「生きる力」とか「豊かな人間性」、「個性あふれる教育」といった抽象的な概念やうたい文句は、その際あまり相手にされない。考慮されるとしても、副次的なものであろう。教育に対してどんなに口当たりのよい理想論を展開する者も、いざ自分の子どもが通う学校を選ぽうとするときには、茶髪・金髪の子どもがタバコを吸いながら通うような、とんでもない学校はやはり避けたいと思うはずである。
経済学から見れば、競争はつねに是認される。学校どうしが供給するサービスの質を競いあうことは、消費者にとって大きなメリットになると期待されるからである。しかし、教育の成果は、第2章でも議論したように、教師の質や経験、学級規模といった教育の質によって規定されるわけではない。その学校に通う子どもの特性が大きく作用する。つまり、教育というサービスは、学校が一方的に供給し、子どもや親が一方的に需要して完結するといったものではなく、需要者自身がその生産に参加するという興味深い特徴を持っている。したがって、学校が互いに競争すれば子どもや親がみんな幸せになる、といった単純な話ではないのである。
実際、通学する子どもたちの能力が高ければ、教師は高度な内容の授業を行うことができるし、これまでもしばしば登場したように、子どもたちの間で良好なピア・グループ効果が発揮される。はじめから優秀な子どもが入ってくるわけだから、卒業して有名校に合格する確率も高くなろう。親としては、そうした学校に子どもをぜひ通わせたいと考える。
格差拡大のメカニズム
それでは、学校選択の自由は何をもたらすだろうか。第5章では、初期条件がその後の経済成長を大きく規定するという内生的成長理論の考え方を紹介した。それと同様に、学校選択においても、初期条件がかなり重要なポイントとなる。学校選択が認められる前に学校間格差がまったくない場合は、人々は自分の家からの距離といったことだけを基準にして学校を選択するから、学校選択が認められた後も格差は拡大しないだろう。
しかし、はじめから格差がまったく存在しないという状態はまず考えられない。実際、「あの学校は、けっこう学級崩壊が進んでいる」、「この学校は、有名校への合格率が高い」といった類の情報は、親の間で結構出回っているものである。親は、学校が必ずしも積極的に提供しない情報を最大限に活用して、子どもの通う学校を選ぶだろう。その場合、当初の格差がそれほど大きくなくても、少しでもいい学校に通わせようと思うのが親心だから、あるいは、そのように思う親ほど積極的に学校選択に望むから、学校間の格差は次第に拡大するものと推測される。「いい学校」 はますますよくなり、「悪い学校」 はますます悪くなる。それぞれの学校が供給する教育の質がそのように変化するのではない。通ってくる子どもの層が自動的に調整されていくのである。
この自律的ともいえる格差拡大メカニズムを、もう少し詳しく見ておこう。第一に、義務教育ではない高校レベルではどうか。公立高校は入学試験を実施し、点数の高い子どもから順に入学を許可する。評判のよい高校には受験生が殺到し、その中から優秀な者だけが選抜されるだろうから、ピア・グループ効果も発揮されて、そうした高校は質の高い卒業生を輩出し続けるだろう。一方、そうでない学校は低空飛行を続ける。
こうした傾向は、これまでもすでに全国各地で見られる。実際、中高一貫の私立進学校や大規模な予備校が存在しない地方都市では、県立高校の中で進学校とそうでない学校との役割分担がかなり明確になっている。筆者の勤める大学には県立のうち上位校の出身者が数多く入学してくるが、ゼミ生の話などを聞いても、公立の進学校では七時間授業も珍しくなく、三年生になると夏休みをすべて補習に充てる学校もあるそうだ。その一方で、当然ながら教育困難校や底辺校と呼ばれる高校もある。」
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違った方向から教育というものが見れます。私は受ける側でしかないので、へーそうなんだ、くらいでしたが、将来教育者を目指す人の中には、この本燃やしたくなる人もいるのかも知れません。
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ニューマンの大学論で、知識を獲得する目的は、人格、人生、社会のため(手段としての知識獲得)と、知識自体のため(目的としての知識獲得)の2つにふれた。何れも人は真理の探究に惹かれる存在だということを前提としている。そこから、この本での「消費としての教育」という教育を受けること自体が目的に結びつく。例えば、本人にとって知る・学ぶことの喜びや、親にとって子が有名校に通うことから得る満足感が挙げられる。
本書では、教育を本人/保護者にとっての投資/消費という視点で説明している。教育需要の類型と特徴を整理し、今後(今)の教育課題を提起しているが、これは理想論で終わらない教育と教育改革を求めているといえよう。
---------以下は、2009/8/27の記録---------------------------------------------
教職をとっていたので、単位を取るための教科書や参考書は読んでいた。
教育学とか教育法学といった学問はイデオロギー臭さが節々に出てくるのが好きではない。
この本は見事に無臭状態で、気持ちよく読みとおせた。
私は気になるページの端を折ることが多いが、小塩隆士氏著のこの本は上が盛り上がってしまった。
いつもの調子で抜き書きすると半分くらい筆写してしまいそうなので、
一部のキーワード書いて、今後につなげたい。
無責任な理想論を避けて教育の影に目を向ける
教育は、親・子にとって投資(将来の目的)・消費(その時点での家計の効用)
各人の能力格差を明らかにし、所得格差を拡大
本人への効果と、外部経済効果
人的資本論vsシグナリング理論
小学校高学年でドロップアウトし分数のできない大学生
不確実性 オプションバリュー
夢・勘違いが支える教育需要(第3章):供給者誘発重要
教育成果を検証 例、世田谷区
P.118 アメリカの調査では、生徒1人当たりの教員数が生徒の成績にプラスに与える例は15%に留まる
P.122 2001年の国研の調査でもそれは無相関
★しかし、生徒指導・学習習慣づくり・授業態度の「順調度」は相関あり
ピア・グループという「場」の効果
東大入学者の親は7割が上層ノンマニュアル層(刈谷氏の調査より)
もう少し教育経済学の本を読んでみようかな。
「大学進学行動の教育経済学的分析 ―ミクロデータによるマクロデータ分析結果の検討―」
http://daikei.p.u-tokyo.ac.jp/index.php?Publications
日本の教育経済学:実証分析の展望と課題
http://www.esri.go.jp/jp/archive/e_dis/e_dis070/e_dis069a.pdf
http://www.esri.go.jp/jp/archive/e_dis/e_discus.html
http://www.esri.go.jp/jp/archive/menu.html
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo7/shiryo/07051703/002.htm
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(「MARC」データベースより)
経済学だから見える真実! ゆとり教育や学力低下に揺れる日本の教育。もはや理想論を振りかざしている場合ではない。教育を経済学で考えると意外な事実が見えてくる。これまでになかった、目から鱗の教育論。
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この本は経済学の視点から教育を見たとき、どのように映り、今後どのように教育を実践していかなければならないかについて書かれた本だ。この本のメッセージは「脅威鵜を一面的に行ってはいけない」というものだった。全体の構成として、教育が経済学から見て他のサービスと何が違うか、また何が同じかについて書かれている。
まず「教育」(この本ではとりわけ学校教育に着目している)は経済学の視点から見て、他のサービスとは違い2つの特殊な点があるという。1つは「消費と投資両方で捉えられる」という点、そしてもう1つは「自己冷却効果」である。
1つ目について本文では「親」「子」を縦に、「投資」「消費」を横に取り4×4のマトリクスを示していた。親、子それぞれにおける投資としての教育、そして消費としての教育が存在するというのだ。「子供の消費としての教育」が今後増えていくと筆者は述べている。また「子供の消費としての教育」以外の3つ全てに教育が当てはまらない場合、深刻な「教育離れ」が起きるといい、現在も起きつつあるという(2003年時点)。
2つ目の「自己冷却効果」とは使えば使うほど需要が減っていくという意味である。人は何かしらの機関や自身の取り組みによって教育を受ける時、「その教育を受けることによって自分はメリットを得る」という不確実な理想を持つ。しかしその教育を受け続けることによってメリットを「得る人」「得ない人」がだんだんと分かってくる。メリットを得ることが分かる人は、さらに学びたいという需要が高まるが、メリットを得ない人の「その教育」に対する需要はどんどん下がっていく。これが自己冷却効果だ。この自己冷却効果によって「できる人はどんどんと学び」「できない人はだんだん離れていく」という現象が起きる。一般的に見れば、子供のころに受けていた教育の水準は将来の収入に反映されてくる。とすればこの冷却効果によって収入格差は広がる。つまり「教育は格差を広げる効果がある」と筆者は述べる。本文中では「義務教育を受けることによるメリット(この場合収益増加)」を簡略化したモデル式で表し、義務教育が決して格差を埋める作用が無いことを示している。
次に「教育」が他のサービスと同様に持っている特徴について述べている。1つは「Inputに対するOutputを期待する」という点、そしてもうひとつは「効率性と公平性を重視する」という点である。
1つ目に関しては、教育、とりわけ義務教育は税金によって運営されている。また大学も政府から補助金を得ている。そういう意味では、教育にコストをかけたことによるリターン(プラスの外部経済)が大きく期待される。ここでいうコストやリターンは全て「お金」で定義されている。国民の税金が投入されている以上、その結果国に対するリターンが期待される。よって、義務教育や学校教育を行う場合、そこにはある程度の強制力が働く。
2つ目に関して、経済学ではサービスやものを見るとき2つの重要な基準があるという。それが「効率性」と「公平性」である。現在経済学ではこれら2つを満たすものとして「バウチャー制度」などが人気であるという。しかし、バウチャー制度によって一時的に一部の地域で学校間での競争が���き、効率性と公平性を高めるかもしれないが、全体的、そして長期的に見てバウチャー制度は決してそれら両方の基準を満たすものではないと、簡単なモデルを使い本文で否定している。また学校選択制度で効率性をある程度上げることはできるかもしれないが、これも全体を俯瞰した時、また長期的に見たとき、基準を満たさない。世間では「機会の平等があればいい」という議論もあるが、そのためには(ここでは所得的に)ある人々が程度近いスタートラインに立っていなければただの綺麗事であるという。
この現状を打破するためには「階層ごとに教育を実施し、勉強ができない子供を底上げるすること」そして「所得を各家庭レベルで再分配し、スタートラインを合わせること」が必要であるという。2つ目の例としては、何を持って力を入れているというかはとりあえず別にして、教育に力を入れている家庭には多く、入れていない家庭には少なく所得を再分配する、というような仕組みである。
この本を読んだ感想は「自己冷却効果」や「投資や消費としての教育」という視点は今まで自分に無かったので、そこは読んでいてとても面白かった。教育が他のサービスと同様に持っている特徴について書かれている箇所も数式などを使い新しい視点から教育を切っている感じがして面白かったが、「ヤバい経済学」を先に読んだせいか、今1つインパクトが弱い感じがした。もっと思い切った条件設定とデータで教育を切って欲しいと思った。
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執筆が少し古い時期ですが、経済学の視点から教育問題を分析するとどういうふうに見ていくのか、という思考実験です。著者も自認するように実証的なデータをあまり使っていないし、設定条件も荒い のですが、一般的な教育の本しか読まない方には、まったく新しい視点から教育問題を考えるヒントとしてお勧めします。
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非常にわかりやすかった
経済学を教育に応用するということについて、経済学の知識がなくても理解できるよう細かい説明がなされていた。
教育は投資か消費か 不確実性と教育需要、教育成果について、教育格差など扱っているテーマも幅広い。
実証的というよりロジカルな印象をうけた。
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教育経済学における人的資本論とシグナリング理論について、入門的に学びたく本書をとった。なかなか切り込みのするどい論調であり、本書から多くの刺激を受けた。
教育学の専門家あまりにも殻に閉じこもっているし、また教育はどんな人でも論評しやすい身近なものである点から常に芯を捉えずに空回りしている。経済学を含め多くの領域と関連しあって教育に捉える必要があると強く感じた。
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経済学だから見える教育問題の真実! ―
http://www.nippyo.co.jp/book/2065.html
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やっと読み終わった。
ポイントが明確で、経済学的な視点を噛み砕いて説明してくれており、経済学に馴染みがない私でも経済学的な視点を理解して読み進めることができた。
効率性と公平性の視点。
教育は格差を広げる要素あり。
選択権を与えても格差を広げてしまう。
良いピアグループの形成の重要性大。
教育は提供者側の質というより、教育というサービスの受け手自身が質を決める特徴がある。