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供述によるとペレイラは… (白水Uブックス 海外小説の誘惑)
ファシズムの影が忍びよるポルトガル。リスボンの小新聞社の中年文芸主任が、ひと組みの若い男女との出会いによって思いもかけぬ運命の変転に見舞われる。1996年の再刊。【「TR...
供述によるとペレイラは… (白水Uブックス 海外小説の誘惑)
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商品説明
ファシズムの影が忍びよるポルトガル。リスボンの小新聞社の中年文芸主任が、ひと組みの若い男女との出会いによって思いもかけぬ運命の変転に見舞われる。1996年の再刊。【「TRC MARC」の商品解説】
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たましい
2019/08/02 02:53
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:K.ザムザ - この投稿者のレビュー一覧を見る
モンテイロ・ロッシの言動にやや腹を立てながら読み進めたが、最後のペレイラの行動に鳥肌が立った。これはたましいの在り方の物語だ。
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イタリア文学へのファーストステップ♪
2015/08/22 07:05
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:葵上 - この投稿者のレビュー一覧を見る
私にとってはイタリア文学事始め的な一冊です。
イタリア語は文法だけと思って学習しておりますが短編でとりつきやすい本なので読んでみました。
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ひとつの信仰告白として
2007/03/03 00:07
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:桃屋五郎左衛門 - この投稿者のレビュー一覧を見る
この作品の魅力についてはk.m(夏バテぎみ)さん、中村びわさん、お二人の書評に語りつくされている。そこでお二人とは、少し異なる角度から(そして少々個人的な関心から)書いてみようと思う。
須賀敦子という人は、その文章の中で自らの信仰について語ることは、ほとんどなかった。信仰の言葉は神に向けられるもので、読者に向けるものではないと自制していたのだと思う。ところがこの作品の訳者解説の中では主人公ペレイラの行動の背後にある信仰のあり方に対して深い共感を示す文章を書いている。
そのことに触れる前に簡単に(私なりの理解にもとに)物語の内容をまとめておこう。
人生も折り返し点を過ぎて、ふと死というものについて考えるようになった中年男の安穏とした日常が確たる理由もなく若い男女と関わりつづけることで次第に変化に富むものに変わりはじめる。その代償として時代の圧力が徐々にその強さを増しながら彼にのしかかっていく。
にもかかわらず、「これまで生きてきた人生への郷愁」と「これからの人生への深い思い」に捉われながら、主人公は「過去」とつきあうことをやめ、「未来」とつきあうことを選択する。彼がそのことでどうなるのかは、この作品が主人公ペレイラの供述調書という体裁をとっていることから理解される。
ペレイラは冴えない中年男で、ことさらにヒロイックに振舞うこともない。むしろ若い男女に引きずられるようにずるずると彼らの活動にコミットしていく。解説の中で訳者は、ペレイラたちの会話の中でも言及されるベルナノスの『カルメル会修道女の告白』における意志の強さとは無関係な信仰のあり方という視点を提示している。カルドーソ医師に倣うことも可能だったのに、そうはしなかったペレイラの場合と比較しているのが興味深い。
小説の中でベルナノスをはじめとするフランスのカソリック作家たちの動向が言及されるくだり(とくに神父との会話)を読めば、それがヴァティカンですら誤謬からまぬかれえなかった現代における、ごく普通の人間にとっての信仰の問題として扱われていることは明白だし、訳者もそうした文脈で取り上げていると思われる。
(ここに見られる訳者・須賀敦子の信仰の問題については、たとえば『地図のない道』でも感じたが、かつてここに投稿した書評ではあえてそれに触れなかった。)
ただし、こうした問いは単に宗教的な問題系にのみ属するものでもなくて、準拠すべき規準が見出しえないとき、人は何を規準として判断すべきなのかという問いに置き換えることも可能だろう。その問いに対するヒントは「私の同志は私だけです」というペレイラの言葉の中にある。この言葉は、言うまでもなく他者との関わりを喪失し、世界から見捨てられることを意味する“loneliness”ではなく、自覚的に選び取られた“solitude”であることを意味している。
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何の事件についての供述なのだろうか——というミステリーに引き摺られて読み進めていくと、捨て身の崇高な行為にハッとさせられる見事なラスト。バロックっぽくないタブッキのもうひとつの側面。
2002/05/21 23:40
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:中村びわ(JPIC読書アドバイザー) - この投稿者のレビュー一覧を見る
日記みたいな個人的なことを書いて恐縮だけれど、これを書き込むに当たって、すでに読了した『インド夜想曲』と『逆さまゲーム』という、タブッキらしいバロック的表現多用の迷宮じみた小説に寄せた自分のレビューを読み直してみた。
1年数ヶ月前に寄せたものなのに、こんなことを書いていたのか…と、半ば感心して半ば呆れた。まるで他人が書いた文章のように感じるのである。
素人の私がちょろちょろ書いている雑文ですらそうなのだから、作家というもの、そのときの内的コンディションの違いで、完成させた作品は随分異なる位相を見せるものなのだろうなと推察する。
敬愛する訳者・須賀敦子さんのあとがきによれば、「幻想的なバロックふうの魅惑にみちた作風ですでに安定した評価を得ていたイタリアの作家タブッキが、60年まえのポルトガル独裁政権下の時代を舞台に<これまでとは違った>小説を書いたことは、多くの読者を驚かせた」ということである。
イタリア本国で発刊された当時は、極右政党が選挙で票を伸ばした時期に当たる。それにしても、タブッキらしからぬ政治的色彩の濃い小説が熱い支持を受けたという事実に、須賀さんは驚いているのである。
小説は世のなかを写す鏡であるから、社会の大きなうねりに影響を受けたのだろうと言えば、それはそれで誤りではなさそうであるが、幻想的な作風から程遠いこの小説には、もっと能動的、且つ主体的な作家の意欲が感じられる。
だがしかし、それは決して「私も政治に参加するぞ」といった趣きのプロパガンダではない。政治というナマっぽい素材を使ってこそ表現可能な<高潔なる品性>というテーマに賭けたのではないかと私には思える。
隣国スペインは多くの識者・文化人の注目を集めた市民戦争の真っ最中。ポルトガルという国をタブッキが舞台にしたのは、彼がこの国の現代詩人ペソアの研究者として何回も足を運んだからには違いないが、身を賭して毅然として高潔な行為を選択するというラストシーンには、現代人が失いつつある品性に対する「サウダージ」というものが何となく感じられる。
何となくというのは、サウダージという有名なポルトガル語が、わかったようでわからないからだ。日本的に言えば<もののあはれ>的な郷愁というのが、私の精一杯の理解。
小難しそうなアプローチをしてしまったが、この小説は、文体が語りであるし、人物たちの言動を平易に書いて追っているので大変に読みやすい。
タイトルにもある<供述>という言葉に、読者はずっと引き摺られていくだろう。供述というからには、何かの事件の参考人か容疑者がペレイラという男性なわけで、彼が一体何をしでかしたのか、死体が出てくるのか、今は拘留されているのかなどと、いくつかのミステリーが頭のなかでうごめく。
おいしそうな何種類かのオムレツやレモネード、海草浴、いくつかの有名な世界文学など、小道具にも魅了される。この先は海が広がるだけ——ヨーロッパの果ての地ポルトガルのイメージがかもし出す雰囲気も捨て難い。
マストロヤンニ主演で撮られた映画も、ぜひ見たいものだ。
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「変わらなさ」を守っている僕ら
2002/08/12 18:35
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:k.m(夏バテぎみ) - この投稿者のレビュー一覧を見る
第1次世界大戦後、ポルトガルには暗殺、クーデター、インフレなどの様々な苦難が満ちていた。世界的にも苦難からの救済として、独裁政権が生まれていた。イタリアのムッソリーニ、ドイツのヒットラー、スペインのフランコ。ポルトガルでは経済学の教授であるサラザール博士が大蔵大臣として経済を立て直し首相に就任。その後36年に渡りその地位を維持し、独裁者となる。表面上はファシストでなくとも、教育や出版、言論には厳しく秘密警察も存在していたという…。この小説はまさにその時代に生きていたある新聞記者を描いている。大手をやめ、リスボンの小新聞社の文芸主任をつとめているペレイラ。
主人公のペレイラは変わらない日常を生きることにより、知識人としての国家への矛盾意識、体制的な社会への思いをどこかへ隠して来ていたのだろう。その「変わらなさ」だけが「安心」というわずかな支えとなって。
この小説には、主人公が一組の若い男女に出会って、それまでの「安心」に隠れていた「軋轢」を、心の中からじわじわと出していく過程が細やかに描かれている。あくまでも日常の繰り返しのなかに見え隠れしている微妙な「変化」をとおして。
それにしても再三登場する「国家」の抑圧。そこには「世間」という身近なつき合いの中まで浸透している、体制への忠誠心がある。そしてそれは、まったく「思考の停止」という状態でもあって、次々に共同体としての堕落につながっていった。人間本来の生き方や死に方などは認められず、ただ国家の一員としてのあり方だけが許されていた。個として思考し振る舞うことは時流への軋轢を生みし、命までねらわれる羽目になっていたのだから。
この恐ろしい「道のり」は未だなくならず、世界のどこかで繰り返されている。それでも必ず存在するのが、この小説の主人公のような葛藤と、その末の行動とが見せてくれる人間としての「自由な強さ」である。ただこの小説が共感出来るのは、英雄的な強さではなく、ごく身近に居そうな、弱くてしたたかな存在でもあるということ。だれしもが自由に素直に行動など出来るものではなく、むしろ常にどこか抑制を感じながら暮らしているのが現代であもること。そしていつの時代にも国家というものが、国民には気づかない内に、危険な方向にもいってしまう可能性をもつということ。