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内なる道徳律―人間存在の神秘
2011/11/30 11:21
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:コーチャン - この投稿者のレビュー一覧を見る
カントは、道徳的な価値を行為の結果にではなく、その動機に認める。それも、肉体的欲望、その他の自己保存や幸福を目指すさまざまな目論見など、人間の自然にもとづく経験的な動機は、真に道徳的な価値のある動機ではないという。人に優しくしようという思いさえも、「感情」という心のうちに自然に湧き上がるものであるかぎり、経験的なものにすぎず、そこに道徳的価値はない。
カントによれば、真に道徳的な価値をもつのは、理性の命令にしたがう行為である。そしてその命令とは、「~ならば、~せよ」という条件つきの命令(仮言命法)ではなく、どんな場合にも無条件で「~せよ」と命じる普遍的な命令(定言命法)というかたちをとる。「人格のうちにある人間性をいつも同時に目的としてあつかい、決して単に手段としてのみあつかわないように行為せよ」が、その具体的内容である。
理性の命令とは、自分自身に語りかける声、「良心」といってよいだろう。ここでは、自然法則ではなく良心にしたがい、自らの意志で行動を決定する人間のあり方が想定されている。
もし人間が経験的動機にのみもとづいて行動するのだとしたら、それは物や機械と変わらないだろう。人間が人間であるのは、自然法則以外の何かにしたがって行動できるからである。自分の欲望や社会からの圧力などあらゆる経験的要因が、私にある行動を妨げようとする。しかし、自分の理性すなわち良心は、それらに反発をし、その行動を選ばせる...これこそが人間の「自由」であり、カントは、自然法則や経験的要因に支配されずに理性の命令にしたがうことを、「意志の自律」と呼んだ。
しかし、経験的動機と理性の命令とを区別するのはむずかしい。たとえば、人はしばしば他人に親切にすることを道徳的義務と心得ているが、それにしたがうのは、単に社会慣習だからとか、「世間の人に認められたい」という自己中心的な欲求、すなわち経験的な動機からである。それを理性の命令に従った行為とどう区別できるのか。
われわれは、ある行為を理性的、あるいは経験的と割り切るのではなく、常にそこには、理性の要素と経験の要素とが混在していると考えるべきであろう。カント自身認めているように、純粋に理性的、道徳的な行為などありえない。
このことは同時に、人間が純粋に経験的な原理だけで行動することもありえないということを意味する。道徳的とはいえない人間の行動にも一抹の理性的要素はある。それは、極悪非道な人間の中に芽生えた良心かもしれない。あるいは安易な広い道を捨て、困難な狭い道を歩もうとする魂かもしれない。それは人間存在のあらゆる局面で顔をのぞかせ、私たちに語りかける。これこそが人間存在のもつ一つの神秘であり、カントが、「わが上なる星空」とともに「内なる道徳律」に対して畏敬の念をいだいたその所以であると、私は思う。
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カントは難解!!!
2008/01/07 19:25
4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:濱本 昇 - この投稿者のレビュー一覧を見る
カントは、難解である。カントの代表的著書に「純粋理性批判」がある(岩波文庫より上・中・下巻出版され、購入している)が、3度トライして、3度撃沈された。ニーチェの「ツァストラストラはかく語りき」は、学生時代に何度もチャレンジして、その都度撃沈されたが、30代半ばになった時に、ふと手に取って、読み進んだところ、面白くてたまらず、それから読書に没頭するようになった。しかし、カントは理解出来ない。本書は、「純粋理性批判」に比べ小冊子であるし、ひょっとすると読めるかも知れないと思って手にした。やっぱり難解であった。文脈を理解出来た所も、少しは有る。その部分は、事の真理を鋭く突いているなぁと感心したが、本書全体で何が述べられているかと問われると、答えられない。
理解出来た所を述べよう。「ところで我々は、最高善としての神の概念を、どこから得たのだろうか?ほかならぬ理念から得たのである、理性が道徳的完全性についてア・プリオリに構想し、自由意志の概念と不可分離的に結びつけたところの理念に求めたのである。」叙述されている事、そのまま理解出来る内容である。実は、私が本書でマークした部分は、これだけである。
恐らく、本小冊子は、「純粋理性批判」「実践理性批判」の前の著作で有ると思う。両書に続くであろうと思われる論述が有ったように感じた。
哲学書は、正直難しい。完読しても、意味不明な事も多い。本書もその中の一つになったが、哲学書を読み終えると、充実感は有る。
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全体的には良かったと思います。
2019/11/14 20:27
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投稿者:岩波文庫愛好家 - この投稿者のレビュー一覧を見る
カントですから、当然バリバリの哲学書です。無生物主語が生物述語へ繋がる比喩表現が満載です。よって多くの方は読み疲れすると思います。そういった方は訳者後記だけでも読んでみて下さい。割と判り易い感じになっています。
カントの言う道徳の最高原理や理性について深ーい理解を得られるのが本書です。徹底的に完璧な内容を述べています。カントってストイックだったのでしょうか。
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いろいろ考えさせられる本
2020/01/15 23:04
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投稿者:tom - この投稿者のレビュー一覧を見る
個人的な感想です。学問的に合っているか、間違っているかは、責任は持ちません。
カントの生きた時代は近代の黎明期。市民革命によって封建時代の身分制度から解き放たれた人が、どのように生きて行くべきかを考え抜いている様子が感じられる。定言命法「あなたの意志の格律が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」がまさきそれ。
ところで普遍的立法の原理とは何か。この言葉の裏に神を感じるのは自分だけであろうか。ドイツ人だから仕方がないと思うが、個人的には世界にはいろいろな神がいるのでキリスト教の神を持ち出される危惧を感じた。
個人的にはカントより市民社会の原理としては、スミスの道徳感情論に親近感が持てます。
カントの問題意識を理解して読めば、カントが何を言いたいのか朧げに見えた気がします。
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かなり難解。さすがカント…。取り敢えず、ここに書いてあることを実践するのは、わたしには確実に不可能ですな。
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今まで自分は道徳とは、人間が互いによりよく生きるための、欲望の最大多数の最大幸福のためだとおもいましたが、この本は真逆のことを主張しています。自分の意思の格率が道徳の普遍的法則となるように行動せよ。そのとき意思は経験的な感情から解放され自由になるといったようなことをカントはのべていました。よくよく自分を振り返ってみると、自分が自由を主張するとき、そこには大抵欲望が隠れていたとおもいます。自由とはなにかという自分なりの問題提起にカントは刺激を与えてくれたと思います。本御所である実践理性批判も読んでみたいというきもちになりました。
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本当にカントは偉大な哲学者だ。哲学者の見本だ。この本の中でカントの徹底した考える姿勢に驚かされた。我々は自由の理念を持つことができ、そして、それによって道徳的法則を持つことができる。しかし、その理念、すなわち人間のような理性的存在者が必然的に持つような理念、は人間自身には説明する事が不可能だ。どこまでが説明可能で、そしてどこまでが不可能なのか、カントはきっぱりと述べ、何度も何度も繰り返して言う。そうしてどこまでが人間の限界なのかを見極めながら、カントは自由の理念と道徳的法則がどうのように結びついているのかを明らかにする。訳者後記でも書かれているが、カントを読むことで哲学するとはどういうものなのか学べるだろう。次はドイツ語で頑張って読みたい。
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どうも息の長い論理展開はまだまだ苦手で、部分的な議論は理解できても全体を通した主張を論証まで正確に追っていくことまではできなかった。それでも、カントの議論が否定派がいうような理性的な生き方をする強い個人意外の存在をすべて否定するものではないということは理解できた。
もちろん、カントの理想は自由な意思を持った理性的存在者による目的の国の実現であることは否めないであろうし、説明できないことを説明してしまうというアクロバティックな論理を駆使しているという問題もないとはいえない。しかし、傾向性と理性によって認識された最高原理が矛盾せずに両立するとき、いかなる批判が可能なのか。
批判する側が容易にその論理に組み込まれてしまうというのは非常に恐ろしいことである。カントの理論は、他の理論を評価するさいの尺度として用いたほうがよほど建設的な気がしてしまう。
結局良くわかっていないので、再読するつもり。
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カント自身によるカント道徳論の入門であると言ってもよい。論述は短く、理路は明確である。カントの理性への全き信頼に基づいた理想的道徳論は、今日においても一つの有効な教えとなりうるし、一つのドイツ観念論の結実としてしばしば参照されるのである。
充実した注が、他の文献への導入ともなり親切である。
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我々はどのようなルールに従うべきか。
個人の選り好みやその時々の状況(カントの表現では「傾向」)を完全に排除し普遍性を追求しつつ、カントはこの問いに対する答えを導く方法を示した。
本書に書かれている順番を少し入れ替えてカントの推論を整理すると次のようになると思う。
人間の意志は自由である
⇒「自由な意志」にも従うべき法則(格律=マイルール)がある
⇒その法則の立法者は自分自身である
⇒その法則は普遍的な法則でなければならない
カントによれば、自由とは「存在者を外的に規定するような原因にかかわりなく作用」(p140)することができるということだという。すなわち「或る状態をみずから始める能力のこと」(p140 訳註二 ※『純粋理性批判』からの引用)
人間以外の動物はただ自然法則にのみ従って生きているが、人間は自然法則に縛られることなく思考したり行動したりすることができる。
かといって、「自由な意志」は完全なアナーキー状態ではない。まったき自分勝手が許されるか。否、「自由な意志」は「自分自身」という法則に従うのである。そしてその法則は自分に都合のよいものではなく、普遍的なものでなくてはならない。
以上のことが有名な
「君は、〔君が行為に際して従うべき〕君の格律が普遍的法則となることを、当の格律によって〔その格律と〕同時に欲しうるような格律に従ってのみ行為せよ」
という格言に表現されている。
自分が従うべきルールを自分で作るという、一見して循環論を孕んでいそうなこの問題を、カントは一人の人間は「悟性界」と「感性界」という二つの世界に属するものであるとして解決した。
すなわち、立法者としての自分(=悟性界に属する自分)と義務に従おうとする自分(=感性界の自分)の二つの人格が一人の人間の中に共存しているという。
また、カントは、自由である人間は、手段としてではなく一人一人が「目的」として扱われなければならないと論ずる(個々人の人格の尊重)。
「およそいかなる理性的存在者も、目的自体として存在する(略)すなわちあれこれの意思が任意に使用できるような単なる手段としてではなく、(略)いついかなる場合にも同時に目的と見なされねばならない」(p101)言い換えると「君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない」(p103)
(ちなみに、ここから自殺否認論が帰結する。)(p104)
カントの道徳論は理路整然としていて理解しやすい。「傾向」というノイズを排除し純粋に論理的妥当性、普遍性を追求しようとする態度は、自然科学にも通じるものがあるように思う。
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「理性は善意の宝石箱やぁ~」、とカントは言う。だが、親切は、ただの親切で、道徳的価値はないし、親切にしたいという欲求を満たしているだけだ、と。道徳的価値があるのは、「~すべし」という格律(マキシム)によって万人に普遍に共有される善意である。じゃあ、万人に価値があると善意はなにか? 人を奴隷のよう扱わないで、手段としてではなく目的としてみることである。あるいは、人間に無限の可能性をみて信じることだ。ただ、その話は、理性的存在者にだけ当てはまる。どこぞの白熱教室にいる人も理性的存在者ではないかもしれない皮肉。
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カントというひとはもっと固いひとだと思っていて、なかなか、その主たる著作に手が出せないでいた。ところが、それは大きな勘違いで、このひとは、「知る」ということにかけて、ほんとうに情熱をもっていたひとなのだと感じた。
彼の一番の関心は、「わかる」ということ。これはいったいどういうことなのか、そこに尽きる。なぜわかるのか、わかった状態というのは、いったいどうなっているのか。彼はひとつずつ、そして確かなものを思考する。これが、彼の批判。ほんとうにわかる、ということは、時間や空間、そのほかの条件すべてを超えて、すべての考える存在に当てはまらなければ、ほんとうにわかるということにはならない。そのように考えると、どうしたってわかるということがア・プリオリに可能でなければならない。
この道徳というものは、そんな彼の原理のひとつの応用実践といったらいいだろうか。考えるということ自体がひとつの具体的実践の形をとる瞬間。道徳に関して、人間の意志を切り離し、ひとつの形而上学を打ち立てようとしたした点からもうかがえるが、ほんとうの道徳が、人間の意志に左右されるようでは、ほんとうの意味での道徳ではない。彼の定言的命法は、ただ条件をつけていないのではなく、どんな時でもどんな場合にでもあてはまるものを考えていたら、条件の付けようがなかったのである。条件の付けようがないものは、人間の意志ではなく、理性のひとつの形なので、ひとに強い命令と拘束を与える。なので義務の形をとる。
思ったからと言ってそれを実行しないのは本来的に、人間の意志と、思うという行為とが別系統のものであるからである。ここで注意しなければならないのは、わかったと頭では理解しているけれど、なかなか実行できない、ということとは根本的に違うということである。理性が求めるのは、条件なしの普遍的な「わかる」であるから、わかった時点で、行動に移せないということはそもそもありえないことなのである。カントに言わせてみれば、頭ではわかっているんだけど、というのは、ほんとうにわかっているとは言えないのである。
この本が原論たるところは、ここにある。道徳というものに対して、誰にでも・いつ・どんな場合にでも、という原則に基づくべきである。そうでなければほんとうの道徳ではない。カントが推し進めるべきだったことは、誰にでもあてはまるということはいったいどういうことなのか、そのことではないかと思う。誰にでもあてはまるはずのことが、なぜ、この「わたし」が考えているのか、なぜ、今このわたしがわかるのか。どうして考えているのが、誰でもない、この自分なのか。誰にでもあてはまるということは、存在しないということに他ならない。そういうものを原則として打ち立てるという時点で、仮言命法になってしまうのではないか。
存在するということが、存在しないことを前提にしなければ存在しえない。たぶんカントも知っていたに違いない。だからこそ、物自体やア・プリオリという表現をせざるを得なかったのだと思う。